小窓
欽明天皇(きんめいてんのう)

作成日:2019/10/17

欽明天皇は、日本の第29代天皇。
この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した。

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第29代天皇 欽明天皇(きんめいてんのう)

[在位] 西暦539年12月30日?(宣化天皇4年12月5日) - 西暦571年5月24日?(欽明天皇32年4月15日)《紀》
[生没] 西暦509年?(継体天皇3年) - 西暦571年5月24日?(欽明天皇32年4月15日) 63歳没《紀》
[時代] 古墳時代
[先代] 宣化天皇   [次代] 敏達天皇
[和風諡号] 天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)- 《紀》
[] 名(諱)は伝わらず。
[父親] 継体天皇(嫡男)   [母親] 手白香皇女
[皇后] 石姫皇女
[皇居] 難波祝津宮、磯城島金刺宮
[陵所] 檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)

年表

天皇の系譜(第26代から第37代)
日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである。
西暦509年継体天皇3年)
のちに欽明天皇となる皇子が誕生。
西暦538年宣化天皇3年)
西暦539年宣化天皇4年)
3月15日(2月10日)宣化天皇73歳で崩御
12月30日(12月5日)
西暦540年欽明天皇元年)
2月8日(4月30日)石姫皇女欽明天皇皇后に立后
西暦552年欽明天皇13年)
(4月)欽明天皇の皇子・箭田珠勝大兄皇子薨去
百済の聖明王が釈迦仏の金銅像一体と、 幡蓋若干、経論若干巻を献上。 『日本書紀
西暦554年欽明天皇13年)
渟中倉太珠敷尊(のちの敏達天皇)立太子。
西暦562年欽明天皇23年)
任那の日本府が新羅によって滅亡。
西暦571年欽明天皇32年)
5月24日(4月15日)欽明天皇63歳で崩御
西暦572年敏達天皇元年)
4月30日(4月3日)敏達天皇
4月30日(4月3日)石姫皇女皇太后に立てられた。

漢風諡号の欽明天皇(きんめいてんのう)は、代々の天皇とともに淡海三船により名付けられたとされる。

親族

祖父:彦主人王   祖母:振媛
父親:継体天皇   母親:手白香皇女
皇后:石姫皇女。宣化天皇の皇女。
妃:稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ、『古事記』に小石比賣命。宣化天皇皇女。)
妃:日影皇女(ひかげのひめみこ、『古事記』になし。宣化天皇皇女)
妃:堅塩媛蘇我稲目宿禰の女。
妃:蘇我小姉君蘇我稲目宿禰女。
妃:糠子(ぬかこ。春日日抓臣の女)

事績

即位
継体天皇手白香皇女との間の息子である。
父親の継体天皇は第15代応神天皇から分かれ、 地方に土着した傍系の出自であった。
継体天皇大王位を継承するに際し、 先々代・仁賢天皇手白香皇女を皇后に迎え入れている。
継体天皇は即位までの妃との間に他に沢山の子がいたが、 嫡子は直系の手白香皇女との間の皇子であるこの広庭とされた。
宣化天皇の妃が身罷った時に、 先代安閑天皇の皇后であった春日山田皇女を中継ぎとして推薦したがこれは辞退され、 まだ若い広庭西暦539年宣化天皇4年12月5日)に即位した(欽明天皇)。
欽明は応神の男系血統と、 仁徳天皇以来の王朝の血統を継承したとされ、 現皇統へと続く祖となった。
なお、天皇が皇女を皇后とするという流れは、 欽明が即位するまでに天皇に立った庶兄の宣化天皇安閑天皇でも、 それぞれ継体天皇に続いて手白香皇女の姉妹を皇后に迎え入れ、 さらに欽明自身も石姫皇女を皇后に迎えており、 維持されている。
仁徳天皇を唯一の例外とするこの流れは、 聖武天皇妃の光明皇后冊立まで続いた。
なお、記録上の即位年の不整合から、 継体天皇から欽明の即位までになんらかの政変があったのではとする仮説がある(後述)。
大臣・大連
大伴金村物部尾輿大連とし、蘇我稲目宿禰大臣としたが、 直後の西暦540年欽明天皇元年)大伴金村は失脚する。 これにより物部氏蘇我氏の二極体制ができあがるが、 特に蘇我氏とは西暦541年(欽明天皇2年)に稲目の娘である堅塩媛や蘇我小姉君を妃とし、 敏達天皇崩御後、 彼女らの間にもうけた橘豊日皇子以降3人の弟・妹が、 母親がれっきとした皇族である、 甥の押坂彦人大兄皇子を差し置いて約40年大王(天皇)位につき、 蘇我氏の全盛期が築かれる(ただ、当時は親子よりも兄弟の継承が一般的であった)。
任那
百済の聖明王とは西暦541年より任那の復興について協議していたが、 戦況は百済側に不利であり、 西暦552年には平壌と漢城を放棄、 さらに西暦554年欽明天皇15年)に新羅との戦で、 聖明王が亡くなると新羅軍は勢いづき、 西暦562年任那を滅ぼしてしまう。 これに激怒した欽明天皇は西暦562年欽明天皇23年)に新羅に対して討伐軍を送るが、 敵の罠にかかってしまい退却する。 同年高句麗にも軍を送っている(『三国史記』では西暦554年に似た記述が存在する)。
なお、任那は一つの国ではなく十国が集まった連合であるという記載が『日本書紀』にある。
欽明天皇は、最後まで任那復興を夢見ながら亡くなったという。 第一皇子の箭田珠勝大兄皇子はすでに西暦552年に早世していたため、 西暦554年に立太子させた渟中倉太珠敷皇子(敏達天皇)が即位した。

即位年をめぐる議論

前述通り『日本書紀』によれば、 欽明天皇は庶兄・宣化天皇崩御した後即位したとされているが、 同書の紀年には幾つかの矛盾が見られ、 それを解決するための議論がいくつか提示されてきた。

まず、平子鐸嶺は父の継体天皇の没年を『古事記』の西暦527年丁未年4月9日)とし、 その後2年ずつ安閑宣化が在位して、 『日本書紀』での継体天皇の没年(継体天皇廿五年春二月丁未)にあたる西暦531年に欽明天皇が即位したと主張した。
これにたいして喜田貞吉は欽明の即位年は西暦531年という点では同意するが、 彼の即位を認めなかった勢力が3年後の西暦534年安閑を擁立、 彼は1年で崩御したが、 続いて宣化を擁立する等欽明朝と安閑宣化朝は一時並立し、 宣化崩御により解消されたと主張した。
林屋辰三郎も大筋では喜田説に同意するが、継体天皇は暗殺されたと主張した。

また、水野祐 (歴史学者)・白崎昭一郎は継体天皇の没年については平子説に同意するが、 水野はその後は安閑が8年間在位し、 西暦535年に欽明が即位、 宣化は架空の人物と見なし、 白崎は安閑の在位は4年でその後はさらに4年宣化・欽明両朝が並立したとみなした。

これに対して黒岩重吾は『日本書紀』継体天皇廿五年での『百済本記』引用「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」天皇および太子、 皇子が同時に死んだという記述等を根拠にそれぞれ実際には即位していない安閑・宣化は暗殺・軟禁され、 大伴金村任那4県を賄賂と引き換えに割譲したことではなく、 彼ら庶兄を推したために後継者争いに敗れて失脚したと主張した。

これらのうち、 並立説については史料的根拠に乏しい事等を理由に反対する意見もあるが、 もし『日本書紀』・水野説以外のいずれかが正しければ、 欽明天皇は現在の皇室から少なくとも遡れる継体天皇以降の歴代天皇では昭和天皇明治天皇に次いで長く在位したことになる。
しかし、いずれも推測の域を出ないのが現状である。

皇居

都は磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや、現在の奈良県桜井市金屋・外山)。『古事記』に「師木島大宮」とある。

西暦2010年6月3日に奈良県立橿原考古学研究所が桜井市にある脇本遺跡にて大型建物跡などが出土したと発表。 6世紀後半から7世紀にかけてのものであるため、 欽明天皇の宮殿ではないかと推測されている。

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、 宮内庁により奈良県高市郡明日香村大字平田にある檜隈坂合陵(桧隈坂合陵:ひのくまのさかあいのみささぎ)に治定されている。 宮内庁上の形式は前方後円。 遺跡名は「梅山古墳(平田梅山古墳)」で、墳丘長140メートルの前方後円墳である。

古事記』には記載なし。 『日本書紀』『延喜式』には「檜隈坂合陵」とある。 比定には、橿原市の見瀬丸山古墳(五条野丸山古墳)とする説もある。 なお、檜隈坂合陵には後に西暦612年推古天皇20年)に堅塩媛が改葬されている。

また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。


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広庭(ひろにわ)

のちの欽明天皇

笠縫皇女(かさぬいのひめみこ)『日本書紀』
狹田毛皇女/狭田毛皇女(さたけのひめみこ)『日本書紀』
笠縫王(かさぬいのみこ, かさぬひのみこ)『古事記』

父:欽明天皇
母:石姫皇女(いしひめのひめみこ)