飛鳥時代の皇族。
『
古事記』では八田王。
欽明天皇の第一皇子で、
母は
宣化天皇の皇女・
石姫皇女。
敏達天皇の同母兄。
「大兄」の称号を有するところから、
欽明天皇の皇嗣であったと思われる。
しかし、政治的事績は何も伝わっておらず、
『
日本書紀』巻十九、
欽明天皇13年4月(
西暦552年)に
箭田珠勝皇子薨(みう)せぬ
とあるだけで、死因などは不明である。
欽明天皇は
任那復興のために朝鮮半島に軍を派遣しており、
その甲斐もなく、
西暦562年(
欽明天皇23年)には
任那の日本府が
新羅によって滅亡させられている。
そのことと何か関係があるのだろうとも想像される。
皇子の
薨去した年に
百済の聖明王が釈迦仏の金銅像一体と、
幡蓋若干、経論若干巻を献上したと『書紀』にはあり、
蘇我稲目が向原の家を浄めはらって寺として仏像を崇めたところ、
(『元興寺縁起』によると1年後に)「疫病」が大流行し、
夭折するものが数多く出て、
治療することが叶わなかったために、
物部尾輿と
中臣鎌子が天皇の承諾を得て、
向原寺に放火して伽藍を灰燼と化し、
仏像を難波の堀江に流して廃棄している。
皇子が八田皇女の矢田部を継承していたとする説もある。