西暦513年(
継体天皇7年9月)、
勾大兄皇子(後の
安閑天皇)の妃となった。
西暦534年4月4日(
安閑天皇元年3月6日)に、
安閑天皇の皇后に
立后された。
翌4月、伊甚国造稚子が後宮に乱入するというハプニングがあり、
その贖罪のため伊甚屯倉が献上された。
宣化天皇崩御後に即位前の
欽明天皇に登極(天子の位につく)を勧められたが辞退したとあり、
これは、初の女性天皇である
推古天皇以前の出来事である。
西暦539年12月30日(
宣化天皇5年12月5日)、
欽明天皇即位と同時に皇太后に立てられた。
没年は不明であるが、没後安閑天皇の妹の
神前皇女とともに、
安閑天皇の御陵の旧市高屋丘陵(現在は高屋築山古墳に治定)に合葬されたという。
しかし後年の『
延喜式』諸陵寮では安閑天皇陵(古市高屋丘陵)とは別に古市高屋墓を挙げる(現在は高屋八幡山古墳に治定)。
異母兄弟:
高橋大娘皇女・朝嬬皇女・
手白香皇女・樟氷皇女・
橘仲皇女・
武烈天皇・真稚皇女