小窓
昭和天皇(しょうわてんのう)

作成日:2021/2/21

昭和天皇は、日本の第124代天皇。
60年余りの在位中に第二次世界大戦を挟み、 大日本帝国憲法下の「統治権の総攬者」としての天皇と日本国憲法下の「象徴天皇」の両方を経験した。

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第124代天皇 昭和天皇(しょうわてんのう)

[在位] 西暦1926年12月25日 - 西暦1989年1月7日
[生没] 西暦1901年4月29日 - 西暦1989年1月7日 87歳没
[時代] 近代・現代
[先代] 大正天皇   [次代] 明仁上皇
[陵所] 武蔵野陵(東京都八王子市長房町)
[追号] 昭和天皇 西暦1989年(平成元年)1月31日追号勅定
[] 裕仁(ひろひと)。西暦1901年(明治34年)5月5日命名
[御称号] 迪宮(みちのみや)。
[お印] 若竹(わかたけ)。
[父親] 大正天皇   [母親] 貞明皇后
[皇后] 香淳皇后(良子女王)
[皇居] 宮城・皇居

年譜

天皇の系譜(第119代から今上)
西暦1901年(明治34年)
西暦1904年(明治37年)
西暦1906年(明治39年)
西暦1908年(明治41年)
西暦1912年(大正元年)
西暦1913年(大正2年)
西暦1914年(大正3年)
西暦1915年(大正4年)
西暦1916年(大正5年)
西暦1918年(大正7年)
西暦1919年(大正8年)
西暦1920年(大正9年)
西暦1921年(大正10年)
西暦1923年(大正12年)
西暦1924年(大正13年)
西暦1925年(大正14年)
西暦1926年(大正15年)
西暦1927年(昭和2年)
西暦1928年(昭和3年)
西暦1929年(昭和4年)
西暦1931年(昭和6年)
西暦1932年(昭和7年)
西暦1933年(昭和8年)
西暦1935年(昭和10年)
西暦1936年(昭和11年)
西暦1937年(昭和12年)
西暦1938年(昭和13年)
西暦1939年(昭和14年)
西暦1940年(昭和15年)
西暦1941年(昭和16年)
西暦1942年(昭和17年)
西暦1943年(昭和18年)
西暦1945年(昭和20年)
西暦1946年(昭和21年)
西暦1947年(昭和22年)
西暦1950年(昭和25年)
西暦1952年(昭和27年)
西暦1958年(昭和33年)
西暦1959年(昭和34年)
西暦1962年(昭和37年)
西暦1969年(昭和4年)
西暦1971年(昭和46年)
西暦1975年(昭和50年)
西暦1976年(昭和51年)
西暦1981年(昭和56年)
西暦1983年(昭和58年)
西暦1986年(昭和61年)
西暦1987年(昭和62年)
西暦1988年(昭和63年)
昭和天皇は9月18日に大相撲9月場所を観戦予定だったが、 高熱が続くため急遽中止となった。
その翌9月19日の午後10時ごろ、 大量吐血により救急車が出動、 緊急輸血を行った。
その後も上部消化管からの断続的出血に伴う吐血・下血を繰り返し、 さらに胆道系炎症に閉塞性黄疸、尿毒症を併発。
マスコミ陣もこぞって「天皇陛下ご重体」と大きく報道し、 さらに日本各地では「自粛」の動きが広がった。
西暦1989年(昭和64年)
西暦1989年(平成元年)
西暦2014年(平成26年)

皇子女おうじじょ

香淳皇后(良子女王)との間に2男5女の7人の子女をもうけた。
うち2男4女が成人した。

続柄 称号 生年 没年 備  考
第1子(第1皇女子) 照宮てるのみや成子しげこ内親王 西暦1925年12月6日 西暦1961年7月23日 満35歳没
第2子(第2皇女子) 久宮ひさのみや祐子さちこ内親王 西暦1927年9月10日 西暦1928年3月8日 満0歳没
第3子(第3皇女子) 孝宮たかのみや和子かずこ内親王 西暦1929年9月30日 西暦1989年5月26日 満59歳没
第4子(第4皇女子) 順宮よりのみや厚子あつこ内親王 西暦1931年3月7日
第5子(第1皇男子) 継宮つぐのみや明仁あきひと親王 西暦1933年12月23日
第6子(第2皇男子) 義宮よしのみや正仁まさひと親王 西暦1935年11月28日
第7子(第5皇女子) 清宮すがのみや貴子たかこ内親王 西暦1939年3月2日


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