衣縫部(きぬぬいべ)は大化の改新以前に、衣服の裁縫を仕事として大和政権に仕えた職業部(品部)。
百済系、呉系、伽耶・加羅系渡来人を中心に衣縫部が編成され、
大和国・伊勢国に居住していたことが判明している。
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『日本書紀』巻第十によると、
西暦283年(応神天皇14年)、
百済王は「真毛津」(まけつ)という名前の縫衣工女(きぬぬいのおみな)を貢上し、
これが来目衣縫の祖となった。
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西暦306年(応神天皇37年)、
阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)らは呉に派遣され、
高麗(高句麗)の王の導きで呉織(くれはとり)、
穴織(あなはとり)とともに工女兄媛・弟媛らを獲得した。
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西暦310年(応神天皇41年)、
阿知使主らは筑紫に上陸し、宗像神社に兄媛を奉納した後、
武庫に辿り着いたが、
その地で応神天皇は崩御され、
大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に残りの3名を献上した。
彼女たちは、呉衣縫、蚊屋衣縫等の祖となった。
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上記と似たような話として、『日本書紀』巻第十四には、
西暦470年(雄略天皇14年)、
呉(華南)から身狭村主青(むさ の すぐり あお)らが漢織(あやはとり)、
呉織とともに衣縫の兄媛・弟媛らを連れ、
住吉津に停泊したとある、
兄媛を大神神社に奉納したあと、
残された弟媛が漢衣縫部とされ、
漢織・呉織の衣縫は後の飛鳥衣縫部、
伊勢衣縫の祖であると記されている。
以上のように、衣縫部は多くは、大陸から帰化(渡来)した者の子孫であるが、
『
新撰姓氏録』によると、
日本古来のものも存在している。
「左京神別」・「和泉神別」にはニギハヤヒを祖先とする、
物部氏(石上同祖)系統の衣縫造氏・無姓の衣縫氏が見られる。
衣縫造氏の本拠地とみられる大阪府藤井寺市惣社には、
飛鳥時代前期に創建された衣縫廃寺が存在していた。
『続日本紀』巻第三によると、彼らのうち、
衣縫造孔子(きぬぬい の みやつこ くじ)は大宝3年2月(703年)に「連」姓を与えられている。
律令制では、大蔵省管轄下の縫部司と、中務省管轄下の縫殿寮などが設けられて、裁縫を行ったとある。