小窓
衣縫部(きぬぬいべ)

作成日:2023/7/29

衣縫部(きぬぬいべ)は大化の改新以前に、衣服の裁縫を仕事として大和政権に仕えた職業部(品部)。

百済系、呉系、伽耶・加羅系渡来人を中心に衣縫部が編成され、 大和国・伊勢国に居住していたことが判明している。
  1. 『日本書紀』巻第十によると、 西暦283年応神天皇14年)、 百済王は「真毛津」(まけつ)という名前の縫衣工女(きぬぬいのおみな)を貢上し、 これが来目衣縫の祖となった。
  2. 西暦306年応神天皇37年)、 阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)らは呉に派遣され、 高麗(高句麗)の王の導きで呉織(くれはとり)、 穴織(あなはとり)とともに工女兄媛・弟媛らを獲得した。
  3. 西暦310年応神天皇41年)、 阿知使主らは筑紫に上陸し、宗像神社に兄媛を奉納した後、 武庫に辿り着いたが、 その地で応神天皇崩御され、 大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に残りの3名を献上した。 彼女たちは、呉衣縫、蚊屋衣縫等の祖となった。
  4. 上記と似たような話として、『日本書紀』巻第十四には、 西暦470年雄略天皇14年)、 呉(華南)から身狭村主青(むさ の すぐり あお)らが漢織(あやはとり)、 呉織とともに衣縫の兄媛・弟媛らを連れ、 住吉津に停泊したとある、 兄媛を大神神社に奉納したあと、 残された弟媛が漢衣縫部とされ、 漢織・呉織の衣縫は後の飛鳥衣縫部、 伊勢衣縫の祖であると記されている。
以上のように、衣縫部は多くは、大陸から帰化(渡来)した者の子孫であるが、 『新撰姓氏録』によると、 日本古来のものも存在している。 「左京神別」・「和泉神別」にはニギハヤヒを祖先とする、 物部氏(石上同祖)系統の衣縫造氏・無姓の衣縫氏が見られる。 衣縫造氏の本拠地とみられる大阪府藤井寺市惣社には、 飛鳥時代前期に創建された衣縫廃寺が存在していた。 『続日本紀』巻第三によると、彼らのうち、 衣縫造孔子(きぬぬい の みやつこ くじ)は大宝3年2月(703年)に「連」姓を与えられている。 律令制では、大蔵省管轄下の縫部司と、中務省管轄下の縫殿寮などが設けられて、裁縫を行ったとある。