武内宿禰(たけしうちのすくね/たけうちのすくね/たけのうちのすくね)
武内宿禰(景行天皇14年 - 没年不詳)は、記紀に伝わる古代日本の人物。
生年の景行天皇14年は、『日本書紀』成務天皇3年正月己卯(7日)条に成務天皇と同日の生まれと記載されることによる。
『
日本書紀』では「武内宿禰」、
『
古事記』では「建内宿禰」、
他文献では「建内足尼」とも表記される。
「宿禰」は尊称で、名称は「勇猛な、内廷の宿禰」の意とされる。
景行・
成務・
仲哀・
応神・
仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である。
紀氏・巨勢氏・平群氏・
葛城氏・
蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされる。
子には、
羽田矢代、許勢小柄、蘇我石川、平群木菟、紀角、久米能摩伊刀比売、怒能伊呂比売、
葛城襲津彦、若子宿禰
がいる。
『日本書紀』景行天皇紀[原 1]では、屋主忍男武雄心命と、菟道彦(紀直遠祖)の女の影媛との間に生まれたとする[2]。孝元天皇紀[原 2]では、孝元天皇(第8代)皇子の彦太忍信命を武内宿禰の祖父とすることから、武内宿禰は孝元天皇三世孫にあたる。なお、応神天皇紀[原 3]では弟(母は不明)として甘美内宿禰の名が見える。
『古事記』[原 4]では、孝元天皇皇子の比古布都押之信命(彦太忍信命)と、宇豆比古(木国造)の妹の山下影日売との間に生まれたのが建内宿禰(武内宿禰)であるとし、孝元天皇皇孫にあてる[2]。同書においては、異母兄弟(長幼不詳)として味師内宿禰(甘美内宿禰)の名が見える。
子に関して、『日本書紀』[原 5]では平群木菟宿禰のみ親子関係が明示されている。一方『古事記』では、次の7男2女と後裔27氏を掲載する[2](括弧内は日本書紀の名称で、日本書紀にて記述がない場合はなしと表示)。
- 波多八代宿禰(はたのやしろのすくね、羽田矢代宿禰) - 波多臣・林臣・波美臣・星川臣・淡海臣・長谷部君の祖。
- 許勢小柄宿禰(こせのおからのすくね、なし) - 許勢臣(巨勢臣)・雀部臣・軽部臣の祖。
- 蘇賀石河宿禰(そがのいしかわのすくね、石川宿禰) - 蘇我臣・川辺臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣の祖。
- 平群都久宿禰(へぐりのつくのすくね、平群木菟宿禰) - 平群臣・佐和良臣・馬御?連の祖。
- 木角宿禰(きのつののすくね、紀角宿禰) - 木臣(紀臣)・都奴臣・坂本臣の祖。
- 久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ、なし)
- 怒能伊呂比売(ののいろひめ、なし)
- 葛城長江曾都毘古(かずらきのながえのそつびこ、葛城襲津彦) - 玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣の祖。
- 若子宿禰(わくごのすくね、なし) - 江野財臣の祖。
なお武内宿禰の系譜に関しては、
武内宿禰が後世(7世紀後半頃か)に創出された人物と見られることや、
稲荷山古墳出土鉄剣によれば人物称号は「ヒコ → スクネ → ワケ」と変遷するべきで襲津彦の位置が不自然であることから、
原系譜では武内宿禰の位置には
葛城襲津彦があったとする説がある。