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改新の詔(かいしんのみことのり)

作成日:2020/7/3

改新の詔(かいしんのみことのり)

大化の改新において、 新たな施政方針を示すために発せられた詔。 難波長柄豊碕宮で発せられたとされる。

この詔は『日本書紀』に掲載されている。 従来はこれにより、公地公民制、租庸調の税制、 班田収授法などが確立したと考えられていた。 しかし、藤原京から出土した木簡により『日本書紀』に見える詔の内容は編者によって潤色されたものであることが明らかになっている。

西暦645年大化元年)の乙巳の変により蘇我本宗家を排除し、 新たに即位した孝徳天皇は、 翌西暦646年大化2年正月1日)に政治の方針を示した。 豪族連合の国家の仕組みを改め、 土地・人民の私有を廃止し、 天皇中心の中央集権国家を目指すものであった。 大きく4か条の主文からなり、 各主文ごとに副文(凡条)が附せられていた。

日本書紀』編纂に際し書き替えられたことが明白となり、 大化の改新の諸政策は後世の潤色であることが判明している。 だが、孝徳期から天武持統期にかけて大規模な改革が行われたことに違いはなく、 後の律令制へつながっていく王土王民を基本理念とした内容だったと考えられる。

参考1
参考2

原文

二年春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰。
二年春正月甲子(かっし)の(ついたち)、賀正の礼畢(おわ)りて、即ち改新の詔を宣ひて曰く

其一曰。罷昔在天皇等所立。子代之民。處々屯倉及別臣連。伴造。國造。村首所有部曲之民。處處田庄。仍賜食封大夫以上。各有差。降以布帛賜官人。百姓有差。又曰。大夫所使治民也。能盡其治則民賴之。故重其祿所以爲民也。
其の一に曰く、昔在の天皇等の立てたまへる子代(こしろ)の民①、処々の屯倉(みやけ)②、及び、別には臣・連・伴造・国造・村首(おびと)の所有る部曲(かきべ)の民③、処々の田荘(たどころ)④を罷(や)めよ。仍りて食封(じきふ)を大夫より以上に賜ふこと、各差有らむ。降りて布帛(きぬ)を以て、官人・百姓に賜ふこと、差有らむ。・

其二曰。初修京師。置畿內國司。郡司。關塞。斥候。防人。驛馬。傳馬。及造鈴契。定山河。凡京每坊置長一人。四坊置令一人。掌按檢戶口督察奸非。其坊令取坊內明廉强直堪時務者充。里坊長並取里坊百姓淸正强幹者充。若當里坊無人。聽於比里坊簡用。凡畿內東自名墾橫河以來。南自紀伊兄山以來。〈兄。此云制。〉西自赤石櫛淵以來。北自近江狹々波合坂山以來。爲畿內國。凡郡以四十里爲大郡。三十里以下四里以上爲中郡。三里爲小郡。其郡司並取國造性識淸廉堪時務者爲大領少領。强幹聰敏工書算者爲主政主帳。凡給驛馬。傅馬。皆依鈴傅苻剋數。凡諸國及關給鈴契。並長官執。無次官執。
其の二に曰く、初めて京師(みさと)を修め、畿内国司・郡司・関塞(せきそこ)⑤・斥候(うかみ)・防人(さきもり)・駅馬・伝馬を置き、鈴(すず)⑥契(しるし)⑦を造り、山河⑧を定めよ。・・・・凡そ畿内は、東は名墾(なばり)⑨の横河より以来、南は紀伊の兄山(せやま)⑩より以来、西は赤石の櫛淵(くしぶち)⑪より以来、北は近江の狭々波(ささなみ)の合坂山(おうさかやま)⑫より以来を畿内となす。・・・・凡そ駅馬・伝馬を給ふことは皆鈴、伝符の剋(きざみ)の数によれ。

其三曰。初造戶籍。計帳。班田收授之法。凡五十戶爲里。每里置長一人。掌按檢戶口。課殖農桑禁察非違。催駈賦役。若山谷阻險。地遠人稀之處。隨便量置。凡田長卅步。廣十二步爲段。十段爲町。段租稻二束二把。町租稻廿二束。
其の三に曰く、初めて戸籍・計帳・班田収授の法を造れ。凡そ五十戸を里となし、里毎に長一人を置く、・・・・もし山谷阻険にして、地遠く人稀なる処には、便に随ひて量りて置け。

其四曰。罷舊賦役而行田之調。凡絹絁絲綿並隨鄕土所出。田一町絹一丈。四町成疋。長四丈。廣二尺半。絁二丈。二町成疋。長廣同絹。布四丈。長廣同絹絁。一町成端。〈綿絲絇屯諸處不見。〉別收戶別之調。一戶貲布一丈二尺。凡調副物鹽贄。亦随鄕土所出。凡官馬者。中馬每一百戶輸一疋。若細馬每二百戶輸一疋。其買馬直者。一戶布一丈二尺。凡兵者。人身輸刀甲弓矢幡鼓。凡仕丁者。改舊每卅戶一人〈以一人充廝也。〉而每五十戶一人〈以一人充廝。〉以充諸司。以五十戶充仕丁一人之粮。一戶庸布一丈二尺。庸米五斗。凡釆女者。貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者〈從丁一人。從女二人。〉以一百戶充釆女一人之粮。庸布。庸米皆准仕丁。
其の四に曰く、旧の賦役(えつき)⑬を罷めて、田の調(みつき)を行へ。・・・・別に戸別の調を収(と)れ。・・・・凡その調の副物の塩と贄(にえ)とは、亦(また)郷土(くに)の出せるに随へ。

①皇族の直轄民
②皇族の直轄領
③豪族の私有民
④豪族の私有地
⑤関所
駅鈴-駅馬・伝馬を使用するための証明となる
⑦兵を動かす時に関所でみせる木札
⑧国・郡(701年大宝律令までは「評」:こおり と表記)の境界
⑨三重県名張市
⑩和歌山県伊都郡
⑪兵庫県明石市
⑫滋賀県逢坂山
⑬租・労働
その一
皇族・豪族がもっていた土地・人民をすべて国のものとする。(公地公民制)豪族に食封(じきふ)を支給する。
その二
京師、畿内・国・郡・里という地方をおさめる組織をつくった。中央集権的国家を目指した。(国郡里制-朝廷から国司の派遣,地方の豪族を郡司に,村の有力者は里長)
その三
戸籍・計帳をつくって民に田を与え,班田収授法を行う。(6歳になると口分田として土地が与えられ,死ねば国に返す。口分田には税が課せられた。)
その
新しい税の制度を実施する。(田の調(畿外)-田の面積に応じて徴収,戸別の調(畿内)-戸数に応じて徴収,大化以前からあったのは官馬,仕丁,庸布,庸米,采女:うねめ)(租-米,庸-労働の代わりに布,調-各地の特産物 を納める)

二年、春正月、きのえねの、みかどをがみこと終りて、すなはち新、あらためんとのたまうて、みことのりしてのたまはく、 其一に云、むかしの天皇等の、たてたまへる子代のおほんたから、處々のみやけ、およびことには臣、連、伴造、くにのみやつこ、村首のたもてる部曲のおほんたから、處々の田庄をやめ給。よつて食封たまふこと、大夫以上おの??しなくだりあり。布帛をもて、官人おほんたからに賜ふこと差あり。又云、大夫治民をつかへるなり。よく、そのまつりごとを、つくすときは、すなはち、民たのめり。故、そのたまものをおもくすることは、民のためにするゆゑなり。その上にいはく、はじめてみさとをつくります。畿?の國司、郡司、關塞、斥候、防人、驛馬、傳馬を置き、および鈴契を造、山河を定めよ。凡そみさとにはまちごとに長人を置け、よつのまちにうなかし一人おきて、?口をかんがへおさめ、かたましくあしきをただし、あきらむることをつかさどらせよ。その坊の令には坊のうちにいさぎよくこはくただしくて、時のまつりことにたへたるものを、とりてあてよ。里坊の長にはならびに、里坊のおほんたからの、いさぎよくただしくいさをしき者をとりてあてよ。もし其さとまちに人なくば、並びの里まちに、えらび用ることをゆるす。およそ畿?はひがしは名墾の橫川よりこなた、南はきのくに兄山よりこなた、西はあかしのくしふちよりこなた、北はあふみの狹々波のあふさか山よりこなたを、畿?國とせよ。およそ郡は四十里をもて大郡とせよ。三十里以下の四里以上を中郡とし、三里を小郡とせよ。そのこほりのつかさには、ならびに國造のひととなり、たましひいさぎよくして、時のまつりごとに堪たるものをとりて、おほみやつこ、すけのみやつことせよ。こはくいさをしくさとくて、てかき、かづしるにたくみなるものを主政主帳とせよ。およそ驛馬傳馬をたまふこと、みな鈴、傳のしるしのきざみの數によれり。およそくに??、及關に鈴契をたまはゞ、ならびに長官はとれ、無ば次官とれ。その三に云はしめて?籍斗帳班田、ををさめさづくるの法をつくる。すべて五十?を里とす。里ことに長一人をおきて、?口をかんがへをさめ、なりはひくわをおほせうう、のりにたがへるをいましめ、みつぎうながすことをつかさどらしめよ。およそ田長三十?、ひろさ十二?を段とせよ。十段を町とせよ。きだごとに租稻二束二把町ごとにたちから二十二束。もし山谷さかしく、ところ遠く人まれなる處には、たまりのまゝにはからひて置け。その四にいはく、舊のみつぎをやめて田のみつぎをおこはへ。およそかとり、ふときぬ、いとわたは、ならびに鄕土の出せるまに??、田一町に、かとり、一丈、四町にて疋なる長四丈ひろさ二尺半、ふとぬのは二丈、二町にてむらをなす、たけひろかとりにおなじ。ぬのは四丈、長はかとりふとぬのにおなじ。一町にて端をなす。〈いとわた?屯はもろもろのところにみえず〉別に?別の調をとれ。一?に、みな、ぬの一丈二尺。およそ調の副物鹽贄また鄕土より出せるまに??。およそ官長は中馬は一百?ごとに一疋いたせ。もし細馬は二百?ごとに一疋いたせ。その馬かはんあたひは、一?に布一丈二尺。およそ兵は人身にたち、よろひ、ゆみ、や、はたつづみをいたせ。およそ仕丁は舊の三十?ごとに一人と、云しをあらためて、〈一人をもつて廝にあつ〉五十?をもて仕丁一人がかてにあてよ。一?に庸布一丈二尺、庸米五斗。およそ采女は、こほりのみやつこより上つかたの、いろねいろと、および子女の形容きら??しきものをたてまつれ。〈縱丁一人縱女一人〉一百?をもてうねめ一人か粮にあてよ。ちからしろのぬの、庸米、みなつかへよほろになぞらへ。

大意