成務天皇(せいむてんのう)
作成日:2019/10/3
年表
- 西暦84年(景行天皇14年)
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- 西暦121年(景行天皇51年)
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(8月4日)稚足彦尊(のちの成務天皇)皇太子に立てられる。
- 佐伯部を定め日本武尊が連れ帰った蝦夷を諸国に送る。
- 西暦128年(景行天皇58年)
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- 西暦130年(景行天皇60年)
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(11月7日)景行天皇106歳で崩御。
『
日本書紀』景行天皇60年条に依れば、
享年を106歳としているが、
垂仁天皇37年の立太子年から計算すれば143歳となる。
なお、『
古事記』では享年137歳。
- 西暦131年(成務天皇元年)
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- 西暦132年(成務天皇2年)
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- 西暦133年(成務天皇3年)
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- 西暦134年(成務天皇4年)
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- 西暦135年(成務天皇5年)
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- (9月)前年の詔を実施。国郡・県邑それぞれに国造・稲置を置き、山河をもって国境とする。
- 西暦178年(成務天皇48年)
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- (8月)足仲彦尊(のちの仲哀天皇)31歳(『日本書紀』による)で皇太子に立てられる。
- 西暦190年(成務天皇60年)
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- (6月11日)成務天皇107歳で崩御。(『古事記』では95歳で乙卯年3月15日に崩じたとされる)。
- 西暦191年(成務天皇61年。空位年のため便宜上の表記)
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略歴
景行天皇の第四皇子、母は美濃出身の八坂入媛命(やさかいりひめのみこと)。
景行天皇46年に24歳で立太子。
父帝が崩御した翌年に即位。
即位5年、諸国に国造と稲城を置き山河で国境を定めた。
即位60年、崩御。
4世紀中ごろに在位した大王と推定されるが、定かではない。
名
- 稚足彦天皇(わかたらしひこのすめらみこと) - 『日本書紀』、和風諡号
- 稚足彦尊(わかたらしひこのみこと) - 『日本書紀』
- 若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと) - 『古事記』
漢風諡号である「成務天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。
事績
『日本書紀』によれば景行天皇51年8月4日に立太子、成務天皇元年正月に即位。
3年に武内宿禰を大臣とした。
即位5年9月、
諸国に令して、
行政区画として国郡(くにこおり)・県邑(あがた むら)を定め、
それぞれに造長(くにのみやつこ)・稲置(いなぎ)等を任命して、
山河を隔にして国県を分かち、
阡陌(南北東西の道)に随って邑里(むら)を定め、
地方行政機構の整備を図った。
ここにおいて、
人民は安住し、天下太平であったという。
これらは『古事記』にも大同小異で、
「建内宿禰を大臣として、大国・小国の国造を定めたまひ、また国々の堺、また大県小県の県主を定めたまひき」とある。
序文には崇神天皇の祭祀、
仁徳天皇の善政、
允恭天皇の氏姓改革に並ぶ偉業として扱われている。
『先代旧事本紀』の「国造本紀」に載せる国造の半数がその設置時期を成務朝と伝えていることも注目される。
即位48年、3月1日に兄・日本武尊の第二子である甥の足仲彦尊(のちの仲哀天皇)を皇太子に立てた。
即位60年6月に崩御。
親族
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祖父:垂仁天皇
祖母:日葉酢媛命
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父親:景行天皇
母親:八坂入媛命
- 妃:弟財郎女(おとたからのいらつめ。穂積氏の遠祖・建忍山垂根の女) - 『古事記』
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- 妃:吉備郎姫
『日本書紀』に后妃・皇子女の記載は無い。
宮
都は志賀高穴穂宮。現在の滋賀県大津市穴太。
『日本書紀』には都の記載は無いが、
先代の景行天皇の行宮がそのまま宮となったと推定される。
『古事記』に「若帯日子天皇、近つ淡海の志賀の志賀高穴穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき」とある。
「若帯部」が美濃国にあったことが、大宝2年(702年)の戸籍にみえる。
成務天皇を架空と見る立場からは、
天智天皇の近江宮のモデルを過去に投影した創作とする。
陵・霊廟
陵(みささぎ)の名は狭城盾列池後陵。
宮内庁により奈良県奈良市山陵町にある遺跡名「佐紀石塚山古墳」に治定されている。
墳丘長218メートルの前方後円墳である。
宮内庁上の形式は前方後円。
『日本書紀』には「狭城盾列陵」、
『古事記』には「沙紀之多他那美(たたなみ)」、
『扶桑略記』には「池後山陵」、
『百練抄』には「盾列山陵」とある。
『延喜式(諸陵寮)』には「兆域東西一町、南北三町、守戸五烟」と見える。
成務天皇の古墳は畿内ではないという有力学説も過去にはあった。
成務天皇の宮が畿内に無いためであり、
非実在説も宮が畿内に無いことを根拠のひとつとしている。
『扶桑略記』によれば、
康平6年(1063年)3月興福寺の僧静範らが山陵を発掘して宝器を領得し、
5月山陵使が遣わされて宝器は返納され、
事件に座した17人は伊豆国その他に配流された。
他にも勾玉などが盗掘される被害を受けている。
平安初期の承和のころには、
すでに神功皇后陵とされていた。
これは陵号のうち「後」の文字を「シリ」と読むことを忌み、
「カミ」といって、
神功皇后陵陵号とまぎれたものかという(和田英松)。
のちに陵の所在を失ったが、
元禄以後、
多くの説が成務陵に現在の地を推し、
幕末の修陵のときおおいに修治が加えられ、
竣工に際しては慶応元年、広橋右衛門督が遣わされ、
奉幣が行なわれた。
また皇居では、
皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
伝承
※ 史料は、特記のない限り『日本書紀』に拠る
- 立太子
先帝の景行天皇が1月7日に宴会を開いたとき、
稚足彦尊(のちの成務天皇)と武内宿禰の姿が見当たらなかった。
後日、
なぜ宴会に来なかったかを聞かれた稚足彦尊らは「皆が国のことを忘れて楽しむときだからこそ、反逆の機会を伺う輩に備えて門を守っていたのだ」と答えた。
大いに納得した先帝は稚足彦尊を太子とした。
考証
- 実在性
成務天皇の在位60年の内即位6年から60年までの事績は、
仲哀天皇を皇太子に任命したことと、
崩御の2項目のみとなっている。
この内、
地方行政区画の整理は、
実在性の高い欽明天皇から推古天皇にかけての地方行政区画と類似しており、
国造と県主の2段階に整理したのは成務天皇の治世よりも後のこととなる。
また、
甥の仲哀天皇の立太子は、
実在性の低い仲哀天皇ならびにその父の日本武尊と妻の神功皇后を史実及び実在人物として伝えるために記されたものとする見解がある。
このため、
成務天皇の実在性は乏しいとする説も存在する。
成務天皇の在位についても、
実在性には疑いが持たれている。
『日本書紀』に在位60年と伝わるが、
これだと『日本書紀』の記述のみでも日本武尊の子である仲哀天皇が日本武尊の死後36年後に産まれたことになってしまう。
さらに成務天皇の事績は即位6年から先は48年に31歳の仲哀天皇を皇太子に任命した記事しか無いが、
これは日本武尊の死が成務天皇即位より20年前にあたるため、
仲哀天皇の年齢が一致しなくなり、
明らかに矛盾している。
さらに、「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、
ずっと下がって7世紀前半に在位したことの確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号を持つことから、
タラシヒコの称号は7世紀前半のものであって、
12代、13代、14代の称号は後世の造作ということになる。
また、
成務天皇の名である「ワカタラシヒコ」(稚足彦、若帯日子)は、
これと全く同じ別名を持つ皇族男子が『日本書紀』『古事記』のいずれでも、
何人か存在しているため、
実名を元にした物ではなく、
抽象的な普通名詞と言う事になり、
固有名詞とは考えにくい。
このため、成務天皇の実在性には疑問が出されている。
弟財郎女(おとたからのいらつめ) 生没年不詳
成務天皇の妃。
父は建忍山垂根(穂積氏の遠祖)で、母は未詳。
和訶奴気王(わかぬけのみこ)の母。
穂積氏の遠祖。
『日本書紀』に記載はないが、
『古事記』には、
成務天皇との間に和謌奴気王を儲けたと記される。
和謌奴気王(わかぬけのみこ)
『古事記』に登場する人物名。『日本書紀』に対応する人物名は見られない。
父親は成務天皇、母親は弟財郎女(おとたからのいらつめ)。
弟財郎女は穂積臣等の祖の建忍山垂根(タケオシヤマタリネ)の娘。
具体的な活躍の記述はない。
成務天皇の唯一の皇子ではあるものの天皇にはなっていない。
幼くしてなくなったのかもしれない。
次の仲哀天皇(14代)はヤマトタケルの子供で和訶奴気王から見るとイトコ。
ワカは日本人が「若い」=「エネルギーに満ちた状態」をイメージすることから、
強いエネルギーを持っているって意味。
「ヌ」は泥や沼。「ケ」は食料。
泥池で育てる稲の穀物霊の名前だと考えられる。
稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)
成務天皇の諱(いみな)。
景行天皇の皇子。母は皇后(後)・八坂入媛命(やさかいりびめのみこと)。