履中天皇2年(401年)、国政に参加する。
安康天皇3年(456年)、
眉輪王が安康天皇を殺した時、
眉輪王と同時に疑いをかけられた坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)を屋敷にかくまう。
しかし、雄略天皇に屋敷を包囲され、
娘の韓媛(からひめ)と「葛城宅七区(葛城の屯倉(みやけ)7ヶ所か)」を差出して許しを乞うたが、
認められず焼き殺される(『日本書紀』)。
『古事記』では、坂合黒彦皇子は逃げこむ前に討たれ、差出した屯倉も5ヶ所になる。
また、焼き殺されたのではなく
眉輪王を殺して自害したことになっている。
奈良県御所市にある5世紀前半の豪族居館遺跡である極楽寺ヒビキ遺跡では、
焼けた建物や塀が確認されており、
円
大臣(葛城氏)の館跡であるとする研究結果が存在する。