『日本書紀』によると、稚媛は当初、吉備上道臣田狭の妻であり、
田狭との間に兄君と弟君の二人の息子を儲けていた。
ところが、田狭が妻の美しさを友人たちに自慢して語るのを雄略天皇が耳にしたため、
田狭が
任那の長官として朝鮮半島に派遣されている任期中に、
天皇は稚媛を妃にしてしまった。
このため、田狭は
新羅と組んで叛乱を起こし、
新羅征伐と、
百済に「手末才伎(たなすえ の てひと)」を求めてやってきた次男の弟君をそそのかして味方につけようとした。
弟君はこれが原因で妻の樟媛によって暗殺され、
寝室に埋められて死体を隠匿されてしまった、と伝えられている。
そうこうしている間に、稚媛は雄略天皇の二人の皇子を生み、
このうち末の
星川稚宮皇子を皇位につけることを願うようになった。
しかし、白髪皇子(しらか の みこ、のちの清寧天皇)が立太子されてしまった。
雄略天皇は遺詔の際にも、
星川稚宮皇子は悪いことや道理に反したことばかりして、
兄弟の道におとっている。
子供のことは父親が一番よく知っている。
たとえ、
星川稚宮皇子が志を得てともに国家を治めたとしても、
辱めを臣や連らにあまねくし、
庶民につらくあたり害を与えることだろう。
悪い子孫は国民にはばかられ、
よき子孫は大業を負担するのに堪えられるものだ。
と言い残している。
しかし、それでも稚媛は諦めきれず、
天下之位(たかみくら)登(し)らむとならば、先づ大蔵の官(つかさ)を取れ
と
星川稚宮皇子に言った。
星川稚宮皇子の兄である磐城皇子は、
「皇太子は私の弟だけれども、
どうやって欺くことができようか(いや、できまい)。
やるべきではない。
と忠告したのだが、
星川稚宮皇子は聞かずに、母親の言う通りにして、
大蔵の役所を占拠し、外門をとざし閉めて敵に備え、
官物を自由に扱った(略奪をした)。
大伴室屋大連(おおとも の むろや おおむらじ)は天皇の遺詔に従い、
東漢掬直(やまとのあや の つか の あたい)に言って、
大蔵を取り囲んで放火し、
星川稚宮皇子を焼き殺してしまった。
このときに稚媛ももう一人の息子である兄君ともども焼死してしまった、
と伝えられている。政略に翻弄された悲劇の人生であった。
この時、稚媛の一族である吉備上道臣たちは水軍40艘で来援しようとしたのだが、
稚媛たちが火あぶりにあって殺されたと聞いて引き返してしまった。
即位前の清寧天皇は、吉備氏の治めていた山部を没収した。
以上が巻第十四、巻第十五に収められている物語である。
この叛乱は『書紀』の年代を信じるのならば、西暦479年に起こった、と推定される。
吉備上道田狭(きびのかみつみちのおみのたさ) 生没年不詳
吉備上道国出身の豪族で、上道国造。姓は臣。田狭臣とも。
上道臣は、吉備国上道郡一帯を支配した上道国造を務めた豪族で、
孝霊天皇の皇子・稚武彦命を祖先とする、と伝えられている。
鉄・塩・瀬戸内の海上交通を牛耳り、
大王と姻戚関係を結び、
内外の軍事行動に深く関与することで、
王権中枢に参画したようである。
『日本書紀』巻第十には、応神天皇の妃として、
御友別命の妹である兄媛の名前がある。
造山古墳(岡山市新庄下)・作山古墳(総社市三須)・両宮山古墳(赤磐市穂崎・和田)など、
天皇陵に匹敵する巨大古墳は、
上道臣や下道臣(下道国造)その首長の権力の現れである。
『日本書紀』によると、田狭は宮殿のかたわらで、
朋友に盛んに自身の妻、稚媛(わかひめ)の美貌を褒め称えた、という。