聖徳太子(しょうとくたいし)

作成日:2020/6/30

聖徳太子
しょうとくたいし
生年 敏達天皇3年1月1日
(西暦574年2月7日)
没年 推古天皇30年2月22日
(西暦622年4月8日)
49歳没
時代 飛鳥時代
埋葬 磯長墓。叡福寺北古墳
諡号 聖徳太子
全名 厩戸
父親 用明天皇
母親 穴穂部間人皇女
妻  
     
     
     
 
聖徳太子または厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやとおう)。 飛鳥時代の皇族・政治家。 用明天皇の第2皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女

「聖徳太子」は、後世の尊称ないし諡号である。 本名については同時代史料には残っておらず、 『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)」とされている。 また『日本書紀』推古天皇紀では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)」とされている。 「豊聡耳」の名は、太子が聡明(そうめい)で訴訟裁定に優れた能力をもつことにちなみ、「上宮」の名は、その宮が父用明天皇の宮の南、上宮の地にあったことによる。

推古天皇のもと、蘇我馬子と協力して政治を行い、 推古11年(西暦603年)冠位十二階を、推古12年『十七条憲法』を定め、 豪族勢力を押えて中央集権的官僚国家建設の準備を整えた。 外交面では任那回復のための新羅征討が重大問題で、 また新羅問題を有利にし先進文化を輸入するため隋とも国交を開始し、推古15年に小野妹子を派遣した。

仏教を深く信仰し、これを弘通させることに努力し、 法隆寺四天王寺などを建立し、 仏典の注釈『三経義疏』を著わしたと伝えられる。墓は大阪府南河内郡太子町の磯長墓 (しながのはか)

年譜

聖徳太子系譜
敏達天皇3年(西暦574年) 聖徳太子:数え年1歳
1月1日(西暦574年2月7日)誕生
橘豊日皇子穴穂部間人皇女との間に生まれた。
橘豊日皇子は蘇我稲目の娘蘇我堅塩媛を母とし、 穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘・蘇我小姉君であり、 つまり厩戸皇子は蘇我氏と強い血縁関係にあった。
厩戸皇子の父母はいずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹であり、 厩戸皇子は異母のキョウダイ婚によって生まれた子供とされている。
厩戸皇子は、 幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されている。
敏達天皇14年(西暦585年) 聖徳太子:数え年12歳
8月15日(西暦585年9月14日?) 敏達天皇崩御
9月5日(西暦585年10月3日?) 父・橘豊日皇子が即位した(用明天皇)。
この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。
用明天皇2年(西暦587年) 聖徳太子:数え年14歳
4月9日(西暦587年5月21日) 用明天皇は崩御
皇位を巡って争いになり、 馬子は豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后・推古天皇)の詔を得て、 守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、 諸豪族、 諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こした。
厩戸皇子もこの軍に加わった。
討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めたが、 軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗した。
討伐軍は三度撃退された。
これを見た厩戸皇子は、 白膠の木を切って四天王の像をつくり、 戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。
討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮に射殺された。
軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落した。
8月2日(西暦587年9月9日?) 泊瀬部皇子が即位(崇峻天皇)。
戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけた(崇峻天皇)。
しかし政治の実権は馬子が持ち、 これに不満な崇峻天皇は馬子と対立した。
崇峻天皇5年(西暦592年) 聖徳太子:数え年19歳
11月3日(西暦592年12月12日?) 馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させた。
12月8日(西暦593年1月15日) 馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇
皇室史上初の女帝である。厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐した。
同年、厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立した。
四天王寺に施薬院、療病院、悲田院、敬田院の四箇院を設置した伝承がある。
推古天皇2年(西暦594年) 聖徳太子:数え年21歳
推古天皇2年(西暦594年)、仏教興隆の詔を発した。
推古天皇3年(西暦595年) 聖徳太子:数え年22歳
高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となった。
高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。
推古天皇5年(西暦597年) 聖徳太子:数え年24歳
吉士磐金(きしのいわかね)を新羅へ派遣し、翌年に新羅が孔雀を贈ってきた。
推古天皇8年(西暦600年) 聖徳太子:数え年27歳
新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる。
推古天皇9年(西暦601年) 聖徳太子:数え年28歳
斑鳩宮を造営した。
移り住んだのは、推古天皇13年(西暦605年)である。
推古天皇10年(西暦602年) 聖徳太子:数え年29歳
再び新羅征討の軍を起こした。
同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、 渡海準備中に来目皇子薨去した(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。
後任には異母弟・当麻皇子が任命されたが、 妻の死を理由に都へ引き揚げ、 結局、 遠征は中止となった。
この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、 渡海遠征自体は目的ではなかったという説もある。
また、 来目皇子の筑紫派遣後、 聖徳太子を中心とする上宮王家及びそれに近い氏族(秦氏や膳氏など)が九州各地に部民を設置して事実上の支配下に置いていったとする説もあり、 更に後世の大宰府の元になった筑紫大宰も元々は上宮王家が任じられていたとする見方もある。
書生を選び、来日した観勒に暦を学ばせる。
推古天皇11年(西暦603年) 聖徳太子:数え年30歳
12月5日() 冠位十二階を制定。
氏姓制ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われる。
推古天皇12年(西暦604年) 聖徳太子:数え年31歳
4月3日() 十七条憲法を制定した。「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」『日本書紀』
豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調している。
日本書紀』には十七条憲法の全文が引用されている。
上宮聖徳法王帝説』には、 乙丑の年(推古13年(西暦605年)の七月に「十七餘法」を立てたと記されている。
9月
朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定めた。
日本書紀では十七条憲法の直後の記事に「推古天皇十二年(604年)秋九月 改朝礼 因以詔之曰 凡出入宮門 以両手押地 両脚跪之 越梱則立行」とある。
日本書紀は、十七条憲法と共に、役人は宮門を出る時、宮門に入る時は土下座、四つんばいになるように命じられたとしている。
推古天皇13年(西暦605年) 聖徳太子:数え年32歳
諸王諸臣に、の着用を命じる。斑鳩宮へ移り住む。
推古天皇11年(西暦603年)に制定された冠位十二階を施行。
推古天皇15年(西暦607年) 聖徳太子:数え年34歳
推古天皇は「敬神の詔」を下された。
推古天皇は、聖徳太子の起草した「敬神の詔」を下され、 聖徳太子と蘇我馬子に命じて朝廷の役人を率いて神祇を祭らせたと、 「書記」の記事にある。
これは同年の遣隋使の出発に先立って行われた行事であった。
屯倉を各国に設置する。
高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る。
小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送った。
翌年、返礼の使者である裴世清が訪れた。
日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とある。
これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白す)とあり、 隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」としている。
この返書と裴世清の帰国のため、 妹子を、高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣した。
法隆寺と薬師像を造った。
推古天皇と聖徳太子が法隆寺と薬師像を造った。
『日本書紀』には天智天皇9年(西暦670年)に法隆寺が全焼したとの記事がある。
この記事をめぐり、 現存する法隆寺(西院伽藍)は聖徳太子の時代のものか、 天智天皇9年(西暦670年)以降の再建かについて長い論争があったが(法隆寺再建・非再建論争)、 若草伽藍の発掘調査により、 聖徳太子時代の伽藍は一度焼失し、 現存の西院伽藍は7世紀末頃の再建であることが定説となっている。
「夢殿」を中心とする東院伽藍は太子の営んだ斑鳩宮の旧地に建てられている。
推古天皇20年(西暦612年) 聖徳太子:数え年39歳
百済味摩之伎楽を伝え、少年たちに伎楽を習わせた。
 
推古天皇21年(西暦613年) 聖徳太子:数え年40歳
掖上池、畝傍池、和珥池を作る。難波から飛鳥までの大道を築く。
日本最古の官道であり、現在の竹内街道とほぼ重なる。
推古天皇22年(西暦614年) 聖徳太子:数え年41歳
犬上御田鍬らを隋へ派遣する。最後の遣隋使となる。
推古天皇23年(西暦615年) 聖徳太子:数え年42歳
厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(西暦615年)までに三経義疏を著した。
推古天皇28年(西暦620年) 聖徳太子:数え年47歳
厩戸皇子は馬子と議して『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂した。
推古天皇30年(西暦622年) 聖徳太子:数え年49歳
2月21日() 厩戸皇子妃・膳大郎女が薨去
斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に薨去した。
2月22日() 厩戸皇子は薨御
その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は薨御した(日本書紀では、同29年2月5日(西暦621年))。
享年49歳。
(西暦年)
タイトル
詳細
(西暦年)
タイトル
詳細

系譜

兄弟姉妹(異母兄弟姉妹を含む)
妻子

刀自古郎女(とじこ の いらつめ)
刀自古郎女(とじこ の いらつめ、生没年不詳)は、 飛鳥時代の女性。聖徳太子の妃。父は蘇我馬子、母は物部氏の女と伝えられている。
また一説には第32代崇峻天皇の女御・河上娘の妹、もしくは同一とするものがある。

【系譜】
父:蘇我馬子
母:物部氏の女(太媛)
弟:蘇我蝦夷
姉:河上娘(崇峻天皇
妹:法提郎女(舒明天皇夫人、古人大兄皇子母)
子:山背大兄王・財王・日置王・片岡女王の三男一女

橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)
橘大郎女(たちばな の おおいらつめ、生没年不詳)は飛鳥時代の皇族。聖徳太子の妃。
位奈部橘王(いなべのたちばなのおおきみ)ともいう。父は尾張皇子(敏達天皇の皇子・母は推古天皇)。
子女は白髪部王・手嶋女王。

【天寿国曼荼羅繡帳】
聖徳太子が622年に薨去すると、橘大郎女は推古天皇に請うて天寿国曼荼羅繡帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう、天寿国繡帳とも言う)を采女に作らせた。
太子が死後に行ったと思われる天寿国の様子が描かれた刺繍(国宝)。
現存する日本最古の刺繍。
中宮寺に伝わっていたが大部分が失われて残片だけが現存している。

膳大郎女(かしわでのほききみのいらつめ)
膳部菩岐々美郎女(かしわで の ほききみのいらつめ、? - 推古天皇30年2月21日(622年4月7日))は、飛鳥時代の女性。
聖徳太子の妃。
膳大娘(女)・高橋妃などとも書かれる。

【出自】
6世紀から7世紀に伴造として活躍した豪族・膳氏の出身で、膳臣傾子(加多夫子とも、かしわでのおみかたぶこ)の娘。
妹は聖徳太子の弟・来目皇子の夫人・膳比里古郎女。

【経歴】
推古天皇6年(598年)聖徳太子の妃になる。
四男四女を生んだが、そのうちの舂米女王(つきしねのひめみこ)は異母兄・山背大兄王の妃になる。
聖徳太子は愛する膳部菩岐々美郎女に「死後は共に埋葬されよう」と言ったと伝わる。
推古天皇30年(622年)聖徳太子と共に病となり陰暦2月21日に死去。
翌2月22日に太子も死去する。
聖徳太子の墓所である磯長陵(しながりょう)に合葬された。

墓は、 宮内庁により大阪府南河内郡太子町の叡福寺境内にある磯長墓(しながのはか)に治定されている。

遺跡名は「叡福寺北古墳(えいふくじきたこふん)」で、円墳である。
『日本書紀』には「磯長陵」と見える。
母・穴穂部間人皇女膳部菩岐々美郎女 を合葬する三骨一廟である。
なお、 明治時代に内部調査した際の記録を基にした横穴式石室の復元模型が、 大阪府立近つ飛鳥博物館に存在する。

直径約55メートルの円墳。
墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。
西暦2002年に結界石の保存のため、 宮内庁書陵部によって整備され、 墳丘すそ部が3カ所発掘された。
西暦2002年11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。
墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている。