乙巳の変(いっしのへん、いつしのへん、おっしのへん)

作成日:2020/6/28

乙巳の変(いっしのへん、いつしのへん、おっしのへん)とは、

飛鳥時代の皇極天皇4年6月12日(西暦645年7月10日)、 皇極天皇の皇居である飛鳥板蓋宮大極殿において、 中大兄皇子(後の天智天皇)・中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺した。
翌日には蘇我蝦夷が甘樫の丘にある自らの館に火をつけ自害した。
このことが蘇我本宗家の滅亡の発端になった。
この変を「乙巳の変」と呼ぶ。
その後、 中大兄皇子は体制を刷新して「大化の改新」と呼ばれる改革を断行した。

蘇我入鹿が殺害された事件を「大化の改新」と言う場合もあるが、 厳密にはクーデター「乙巳の変」に始まる一連の政治制度改革が「大化の改新」であり、 「乙巳の変」は「大化の改新」の第一段階である。

なお、 「乙巳の変」が勃発した西暦645年の干支が「乙巳」にあたるためこの名前がつけられた。

蘇我氏系譜

概要

乙巳の変とは、 中大兄皇子中臣鎌足らが蘇我入鹿を宮中にて暗殺し、 蘇我蝦夷を自害に追い込み、 蘇我氏(蘇我宗家)を滅ぼした飛鳥時代の政変のことである。

その後、中大兄皇子は体制を刷新して「大化の改新」と呼ばれる改革を断行した。

蘇我入鹿が殺害された事件を「大化の改新」と言う場合もあるが、 厳密にはクーデター「乙巳の変」に始まる一連の政治制度改革が「大化の改新」であり「乙巳の変」は「大化の改新」の第一段階である。

なお、 「乙巳の変」が勃発した西暦645年の干支が「乙巳」にあたるためこの名前がつけられた。

年譜

日本書紀の潤色について

20世紀中後期頃までは、 『日本書紀』の信憑性が評価され乙巳の変に始まる大化の改新が日本の律令制導入の画期だったと理解されていた。
西暦1967年12月、 藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出され「郡評論争」に決着が付けられたとともに、 『日本書紀』のこの部分は編纂に際し書き替えられていることが明確となったとされている。
詔が実践できていない矛盾や事実から、 これらを書紀の編纂者らによる潤色とする意見もあるが、 乙巳の変を機序とする大化の改新は後世の律令制に至る端緒であったことは間違いなく、 また大化年間だけにとどまらず以降の律令制完成までの一連の諸改革をいうとする解釈が近年は強い。
なお、 編年については日本書紀以外の史料による多面的な検討が必要となっている。

郡評論争
郡評論争(郡評論争)

日本古代史学上の論争である。 井上光貞が昭和26年(西暦1951年)に発表した説によって論争が始まった。 飛鳥時代は行政区画の名称として、 「」を用いていたのか「」を用いていたのかについての論争である。 『日本書紀』によると、 「大化の改新」の詔で「地方支配のために郡を置く」と書いてある。 『改新詔(大化の改新の詔)』は大化2年(西暦646年)1月1日に宣布された。 つまり、この日以降は(たとえそれまで「評」を用いていたとしても)「郡」を使用したはずである。 ところが、飛鳥時代の(『改新詔』宣布以降の)石碑や遺品には「評」は出てくるが、 「郡」が一つも出てこない。 この事実を踏まえて次のような説が出てきた。

昭和42年(1967年)に藤原宮跡から「己亥年上捄国阿波評□」と書かれた木簡が出土した。 「己亥年」とは文武天皇3年(699年)に当たり、『大宝令』施行の直前にも「阿波評」のように「評」が使われていたことが証明され15年以上続いた「郡評論争」は終結した。

これにより『日本書紀』改新の詔の「郡」という表記は『大宝令』に基づいた潤色であり、 本来は「評」だったこと、 『大宝令』施行に伴って「評」が「郡」に改められたことが判明し、 『日本書紀』の信憑性は格段に低くなった。

【注釈】
郡(ぐん)と評(ひょう/こおり)

「郡」も「評」も行政区画の名称である。
現在の住居表示でも「xx県yy」のように太字の部分に「郡」が使われている。

飛鳥時代にはこの「郡」という区画名称を使い始める前には「評」という名称が使用されていた。
これは遺跡から発掘された木簡や石碑などで確認されている。

出典:Yahoo知恵袋
【質問】
改新の詔の「己亥年十月上捄国阿波評松里□」の意味を教えてください。 wikiにこの続きとして「これの発掘により、郡評論争に決着がついた」あります。 題の木簡の意味、またそれにより郡評論争がいかになったのかを教えてほしいです。
【回答】
地名です。 詔ではなく、税の一つである「調」の記録です。
「699年10月に上挟国(現千葉県)阿波評(安房地方)の松里…」
日本書紀によると、 改新の詔で「地方支配のために郡を置く」と述べています。 ところが、飛鳥時代の石碑や遺品には「郡」が一つも出てきません。 代わりに「評」なら出てきます。
そこで、 「飛鳥時代の地方組織は、郡ではなく評だろう」 「郡は701年に定めた大宝律令で採用されたんだろう」 極端に言うと「日本書紀は嘘を書いてる」という説がありました。
この木簡は、昭和42年に藤原京跡で発掘されました。 律令発布のわずか2年前まで「評」が都で書かれていたとあって 「そりゃ評を廃止して郡に改めるには時間がかかるよ」 という郡支持派の言い訳は通じなくなったのです。

出典:Yahoo知恵袋
【質問】
郡評論争について具体的に教えてください。
【回答】
『日本書紀』には、 646年(大化2)の改新詔によって郡が地方行政区画として定められたとあります。
しかし、金石文、系図などの古代史料には、この時期の地方行政区画として評がみえ、 このことをめぐっていわゆる郡評論争がおこりました。 郡評論争は、律令制の地方行政組織がどのように形成されたかにとどまらず、 律令制度の出発点とされてきた「大化改新詔」の信頼性、 さらにはこの時期の地方行政区画をすべて郡とする『日本書紀』の史料としての性格の問題をも提起した点で、 戦後の日本古代史の論争のなかでももっとも重要なものの一つでした。
論争では、 郡評併用説、飛鳥浄御原令施行(689)によって評から郡へ移行したとする説、 大宝令施行(701)によるとする説が唱えられましたが、 近年藤原宮址から「己亥年十月上挟国阿波評松里」をはじめとする国評里を表記した木簡が多数出土し、 己亥年は699年で大宝令施行直前であることから、 7世紀後半の地方行政区画は評であって、 大宝令施行によって郡に移行したと考えられています。

出典:Yahoo知恵袋
【質問】
日本史 の早稲田の過去問の問題です
改新の詔についての問題です
改新の詔のなかで用いられていない語句をすべてえらべ という問題で 答えに 評 とありました しかし評は大宝律令以前に使われてたもので用いられてると思ったのですが、 なぜこの場合用いられていないに評が入ってるのでしょうか?
【回答】
これは、日本の歴史の研究がどのように発展していったのかということ、 つまり研究史を理解していれば解ける問題です。 戦後間もない時期の日本史研究を大きく揺るがした「郡評論争」という大論争を経た問題です。 まず結論から言うと、 今では実際に使用されていた表記は「評」だとわかっていますが、 過去問の通り、 『日本書紀』のいわゆる改新の詔には「評」という言葉は一切使われていません。 全て「郡」と書かれています。 ですから、 昔の研究では大化改新で「評」ではなく「郡」という行政単位が置かれた、 と考えられていました。
ところがその一方で、『続日本紀』(しょくにほんぎ。『日本書紀』の続きから平安初期の桓武天皇の時代までを扱った歴史書)などの中の『大宝令』施行(大宝元年、701)以前の記述には、 「郡」ではなく「評」という表記が使われていました。 『大宝令』自体にも「評」という記述はなく、 「郡」という文字が使われています。 もし『続日本紀』などの「評」という表記が正しいのであれば、 大化改新で「郡」が置かれたと書く『日本書紀』改新の詔の記述には虚偽や誇張が含まれているということになります。 これは改新の詔だけの問題ではなく、ひいては『日本書紀』全体の問題にも波及します。
当時は、戦前の津田左右吉の研究のように、 『日本書紀』には編纂時の潤色が多分に含まれているという主張もありましたが、 一般的には国の公式歴史書である以上、 ある程度の潤色はあるだろうが、 神話時代や古い時期の記事はともかく、 大化改新以後など、 より新しい時代の記事は概ね信頼できるだろう、 というのが通説でした(津田左右吉は早稲田大学教授でしたが、戦前の軍国体制下の日本で『日本書紀』の信憑性に疑問を呈したことから、不敬罪に問われ、教授職を辞めさせられ裁判にかけられています)。
終戦後この状況に一石を投じたのが、 当時東大助教授だった井上光貞(井上馨・桂太郎の孫。のち東大教授)の、 昭和26年(1951)の東京大学史学会という学会での「大化改新詔の信憑性」と題した研究報告でした。 井上光貞は『日本書紀』改新の詔の「郡」という表記は編纂者による潤色であり、 従って『日本書紀』には潤色が多分に含まれており、 改新の詔に限らず『日本書紀』の記述を従来のように信頼することはできないと主張したわけです。 この時、司会を務めた東大教授坂本太郎との間で白熱した議論が繰り広げられ、 更に坂本太郎は翌年「大化改新詔の信憑性の問題について」と題した論文を発表し、 以後両者を中心に多くの古代史研究者も巻き込んだ、 15年以上にも亘る大論争へと発展しました。
これに決着をつけたのが、前の方の仰る木簡です。 昭和42年(1967)に藤原宮跡から次のような木簡が出土しました。
表「己亥年」
裏「上捄国阿波評」
「己亥年」とは文武天皇3年(699)に当たり、『大宝令』施行の直前の時期の木簡であることがわかります。 「上捄国」とは「上総国」のことであり、 「阿波評」とは後の「安房国安房郡」のことです。 安房国は当初上総国の一部でしたが、養老2年(718)に安房国として独立しました。
このように、『日本書紀』や『続日本紀』など後世の歴史書ではなく、 まさにその表記が使われていた当時の現場のものが出てきたわけです。 そしてそこには「評」という文字が使われていました。 これによって『日本書紀』改新の詔の「郡」という表記は『大宝令』に基づいた潤色であり、 本来は「評」だったこと、 『大宝令』施行に伴って「評」が「郡」に改められたことが判明し、 従って『日本書紀』の信憑性は格段に低くなったわけです。 更には大化改新はそもそも存在しなかったのではないかという説まで出てきました。 ところが今度は、 改新の詔に出てくる「五十戸」という行政単位(『飛鳥浄御原令』の施行ごろに「里(り)」と改称されたとされる)を書いた木簡が幾つも出てきました。 従って『日本書紀』改新の詔の「郡」という表記は嘘だが、「五十戸」という表記は本当である、 ということが明らかとなりました。 つまり大化改新はあるにはあったが、その実態はよく分からない、 という中途半端な状況になったわけです。 そして『日本書紀』には嘘と本当が激しく入り混じっていて、 どこまでが本当でどこからが嘘かを判断するのが非常に難しい状態になりました。
こうして郡評論争は事実上決着がつきましたが、 この問題は古代史研究だけでなく、 日本史全体の学界に大きな影響を及ぼしました。 それまでは「史料批判」という、 史料そのものの信憑性を調べるということはあまり一般的ではなかったからです。 古代史に限らず、日本史研究者たちの多くにとって、 史料に書かれていることは、一部潤色はあったかもしれないが、 概ね信頼できるだろうというのが一般的なスタンスでした。 それが、日本古代史の基本中の基本史料である『日本書紀』の信憑性が格段に低下したことで、 どんなに権威のある史料であっても、 まるで信頼できない場合もあるということを思い知らされたわけです。
というわけで、長くなりましたが、大化改新で置かれたのは実際には「評」だったが、 『日本書紀』の記事には「評」という表記は一切使われず、 『日本書紀』編纂当時の『大宝令』に基づいて「評」を全て「郡」に書き改めた、 というのがその過去問理解の鍵です。 早稲田を受けるような学生さんであれば、 郡評論争くらいは知っておいてほしい、 という問題でしょうか。
長くなってすみません。。。分かりにくかったですかね・・・(´・ω・`)

諸説

軽皇子首謀者説
遠山美都男は中臣鎌足中大兄皇子はクーデターグループの一部にすぎず、 軽皇子が変の首謀者だと推測している。
変後の孝徳政権の中枢をしめた蘇我石川麻呂と阿倍内麻呂が、 軽皇子の本拠地であった難波周辺に勢力基盤を持つか何らかの縁があったこと、 また変後に難波に遷都(難波長柄豊崎宮)したことなどを理由としている。
半島諸国モデル説
蘇我入鹿が山背大兄王を滅ぼし権力集中を図ったのは、 高句麗における淵蓋蘇文のクーデターを意識しており、 乙巳の変は新羅における金庾信(『三国史記』によれば、黄帝の子の少昊金天氏の子孫])らによる毗曇の内乱鎮圧後の王族中心体制の元での女王推戴と類似していたが故に諸臣に受け入れられやすかったとする吉田孝の見解がある。
更に同時期に百済でも太子の地位を巡る内乱があり、 その結果排除された王子・豊璋が倭国への人質とされ、 百済の後継者候補が人質名目で放逐されて倭国の宮廷に現れた衝撃が倭国の国内政治にも影響を与えたとする鈴木靖民の見解もある。
反動クーデター説
西暦2005年から始まった発掘の結果、 飛鳥甘樫丘で蘇我入鹿の邸宅が、 「谷の宮門(はざまのみかど)」の谷の宮門で兵舎と武器庫の存在が確認された。
また蘇我蝦夷の邸宅の位置や蘇我氏が建立した飛鳥寺の位置から、 蘇我氏は飛鳥板蓋宮を取り囲むように防衛施設を置き外敵から都を守ろうとしたのではないかという説が出されている。

西暦618年に成立した唐が朝鮮半島に影響力を及ぼし、 倭国も唐の脅威にさらされているという危機感を蘇我氏は持っていた。
そのため従来の百済一辺倒の外交を改め各国と協調外交を考えていた。
それに対し、 従来の「百済重視」の外交路線をとる中臣鎌足中大兄皇子ら保守派が「開明派」の蘇我氏を倒したと言うものである。
蘇我氏打倒後に保守派は百済重視の外交を推し進め、 白村江の戦いでそれが破綻する。
いわゆる「大化の改新」はその後に行われたと考えられる。
皇極王権否定説
乙巳の変はこれまでの大王(天皇)の終身性を否定し、 皇極天皇による譲位を引き起こした。
その意義について佐藤長門は乙巳の変は蘇我氏のみならず、 蘇我氏にそれだけの権力を与えてきた皇極天皇の王権そのものに対する異議申し立てであり、 実質上の「王殺し」に匹敵するものであったとする。
ただし、 首謀者の中大兄皇子は皇極天皇の実子であり実際には大臣蘇我氏を討つことで異議申し立てを行い、 皇極天皇は殺害される代わりに強制的に退位を選ばざるを得ない状況に追い込まれた。

ところが、 次代の孝徳天皇(軽皇子)の皇太子となった中大兄皇子は最終的には天皇と決別してしまった。
孝徳天皇の王権を否定したことで後継者としての正統性を喪失した中大兄皇子は、 自己の皇位継承者としての正統性を確保する必要に迫られて乙巳の変において否定した筈の皇極天皇の重祚(斉明天皇)に踏み切った。
だが、 排除した筈の大王(天皇)の復帰には内外から激しい反発を受け、 重祚した天皇による失政もあり、 重祚を進めた中大兄皇子の威信も傷つけられた。
斉明天皇崩御後に群臣の支持を得られなかった中大兄皇子百済救援を優先させるとともに群臣の信頼を回復させるための時間が必要であったため、 自身の即位を遅らせたというのである。
比肩(ひけん)

同等の、匹敵する、相当するなどの意味のある熟語。