三皇時代は約6000年から4000年前のことであり、中国文明の初期の発展期であった。
三皇時代は、母系の氏族社会から父系の氏族社会への移行期であった。
たとえば、初期の女媧(じょか)は、しばしば三皇の1人とされた。
この伝説は、母系の部族の特徴を表している。
三皇五帝の時代にはすでに父系の部族同盟社会であったが、
それでも女性の社会的地位は高く、
嫘祖などの女性も文明の発展に大きく貢献した。
五帝時代の文明は三皇時代の文明の続きである。
女媧(じょか)と伏羲の時代の竜崇拝は、
炎帝と黄帝の時代にさらに発展した。
伝説によると、炎帝(最後の炎帝を指す)と黄帝は神農の子孫である。
炎帝は神農部族の指導者であり、さまざまな部族同盟の指導者である。
部族は密接な相続関係を持っている。
その後、黄帝は炎帝に代わって皇帝になり、5人の皇帝の頭になりました。
5人の皇帝の後、彼らは夏、商、周の時代になりました。
三皇については諸説あるが、以下のような5説がよく知られている。
1 | 天皇・地皇・人皇(泰皇) | 前漢・司馬遷『史記・秦始皇本紀』において皇帝という称号を定める文脈でこの三皇が挙げられており、 泰皇の「皇」と「帝」号を組み合わせて皇帝としたと伝えられている。 |
ただし、ここでは「三皇」という語でまとめられていない。 注釈である唐の司馬貞の『史記索隠』では泰皇=人皇としたり、 天皇・地皇・人皇を三皇としてその前に泰皇がいたとしたりする。 |
||
司馬貞が補った『史記・三皇本紀』(補三皇本紀または補史記という)では三皇を伏羲、女媧、神農とするが、 天皇・地皇・人皇という説も並記している。 | ||
2 | 伏羲・神農・女媧 |
『春秋緯運斗枢』(『風俗通』皇覇篇に引く)。 唐の司馬貞補『史記・三皇本紀』三皇本紀もこれを継承する。 |
3 | 伏羲・神農・燧人 | 『礼緯含文嘉』(『風俗通』皇覇篇に引く) |
4 | 伏羲・神農・祝融 | 後漢・班固『白虎通』号篇 |
5 | 伏羲・神農・黄帝 | 西晋・皇甫謐『帝王世紀』 |
最初に表れるのは天皇・地皇・人皇という天地人三才に由来する抽象的な存在であるが、
後には人類に文明をもたらした文化英雄が名を連ねる。
これらは前漢末から隆盛した神秘主義的な讖緯思想によって半獣半神の姿をした神として描かれている。
なお伏羲と神農に関しては早く『周易』繋辞下伝に卦を使って文明をもたらした聖人として黄帝・堯・舜に先行する存在として描かれているのであるが、
これを三皇に入れ、
三皇を歴史的な帝王として五帝の前に置くことが固定化するようになったのは魏、晋(西晋) 以後のことと考えられる。
誰をもって五帝となすかは下の表に示してあるように様々であり、
その話の内容に付いても様々な前後矛盾がある。
『史記・五帝本紀』に於いて五帝を一応歴史の範疇内に置いた司馬遷であるが、
司馬遷が『史記』の中であげている五帝は、
黄帝軒轅、
顓頊(せんぎょく)高陽、
帝嚳(高辛)、
帝堯放勲(陶唐氏)、
帝舜重華(有虞氏)である。
別説として伏羲や神農あるいは少昊を入れることもあるが一定はしていない。
伏羲 | 神農 | 太昊 |
太陽。 神農と同一視される。"> 炎帝 |
黄帝 | 少昊 | 顓頊 | 嚳 | 堯 | 舜 | 禹 | 湯 | 出 典 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 『大載礼記』・『史記』 | |||||||
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 『戦国策』・『易経』 | |||||||
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 『礼記』・『淮南子』 | |||||||
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 『世経』 | |||||||
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 『三統経』 | |||||||
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 『資治通鑑外記』 |
時代 | : | 旧石器時代 |
出生地 | : | 百越 |
別名 | : | 天霊、天霧 |
自号 | : | 元始天王、 |
中天皇君 | ||
民族 | : | 古越族 |
事績 | : | 干支歴法、 |
連山易 | ||
父親 | : | 盘古氏 |
子 | : | 地皇氏 |
天皇(てんこう)は、道教及び中国神話における神。
三皇または天地人三才である天皇・地皇・人皇の一つ。
日本では「天皇」と表記するが中国では「天皇氏」と呼ばれている。(中国神話の神であるので「天皇氏」が正しいと思うがなぜこうなった。地皇氏に答え?)
右側の「まとめ欄」は百度百科より作成。
トピックス:天皇は日本独自のものではなく中国が初出である。(百度百科)
北極星を神格化した北辰五至尊の一つである天皇大帝とは異なる。
天地創造の神である元始天王が、
太元聖母と気を通じることによって生まれたとされる。
『三才図会』の想像図では、
外観上ほぼ人間と同じ(髭を生やした顔)であるが、
体は鱗で覆われており(首と手首にはない)、
地皇は部分的に鳥の肉体を有し、
人皇に至ってはほぼ蛇として描かれていることからも、
三皇の中で最も人に近い姿として描かれている。
天皇氏、三皇之一、五龙之首、开天辟地后第一代天下君主。 | 三皇の一人である天帝、五龍の頭、「開天闢地」後の最初の君主。 |
古越族、姓望、名获、字文生。 | 古代越人、姓は王(望は王に変換?。望と王は発音が似ているから?)、名は許(あるいは徐)、字は文成(文生は文成?)。 |
别号天灵、防五、天雾、天尊、元始天王、中天皇君。 | 別名は天霊、防五、天霧、天尊、元始天王、中天皇君。 |
共有兄弟十二人(一说十三人)。 | 兄弟は12人(13人という説も) |
岁纪摄提、以木德王天下。 | 木徳を天下人とする摂政時代の年代記。 |
天皇氏继盘古氏以治、其治所在浙江良渚古城中的莫角山台址上。 | 天帝は潘谷一族を継承して統治し、その座は浙江省梁祝古城の秣桶山の台座にあった。 |
在位年代:2607 BC-2575 BC。 | 在位期間:紀元前2607年?紀元前2575年。 |
“天皇氏”的意思是:像太阳一样光辉灿烂的至高无上的首领。 | 天皇とは、太陽のように明るく輝く最高責任者を意味する言葉。 |
据宋 罗泌 《路史・前纪二・天皇纪》记载:“粤有天皇、是曰天灵、 望获 强尊(至高无上天尊)。” | 宋羅樹(羅石)『天帝二代記』によると、"越には天帝があり、天霊と呼ばれ、強い名誉を得ることが期待された(最高天帝)"とある。 |
在古籍中、越即粤、古代粤、越通用。 | 古文書では、越は粤を意味し、越がよく使われていた。 |
天皇氏是地皇氏之父、人皇氏之祖父。 | 天帝は地帝の父であり、人帝の祖父である。 |
五龙治在五方、天皇氏为“五龙”之首、后世子孙以“龙”为图腾。 | 五つの龍は五つの方角を支配し、皇帝は五つの龍の頭であり、後世の人々が图腾(トーテム。信仰の対象。)として使用するものである。 |
传说在统治天下三十六万年以后、天皇氏白日升仙、飞上三玄空天宫中。 | 伝説によると、36万年の間世界を支配してきた天帝は、昼間に不老不死となり、神秘的な3つの天空宮殿に飛び上がったと言われている。 |
传说伏羲等人是其后裔。 | 伝説によると、伏羲たちは彼の子孫であるという。 |
時代 | : | |
出生地 | : | 龍門山 |
別名 | : | (神農一族の) |
岳鑑、岳鏗 | ||
都城 | : | 良渚古城、 |
龍門山 | ||
民族 | : | 古越族 |
在位自 | : | 紀元前7884年 |
在位至 | : | 紀元前6084年 |
事績 | : | 三劫、 |
昼と夜、 | ||
太陽と月 | ||
祖父 | : | 盘古氏 |
父親 | : | 天皇氏 |
子 | : | 人皇氏 |
妻子 | : | 矩靈氏 |
遺跡 | : | 良渚遺跡 |
地皇(ちこう)は、道教及び中国神話における神。
三皇または天地人三才である天皇・地皇・人皇の一つであり、
また、
古代中国の伝説上の帝王ともされる。
天皇(てんこう)から生まれ、地皇は人皇(じんこう)を生んだとされる。
『三才図会』に描かれた想像図では、
顔は人だが頭頂部にとさかを有し(左右には髪が生えている)、
肩から胸にかけて羽毛を生やし、
両腕は鳥類の脚となっており、
人と鳥を掛け合わせた「鳥人」のような姿で描かれている。
(対して、人皇はほぼ蛇のような姿で描かれ、人としての外観がなされていない)
在中国远古神话时代、“皇”的原始意义是神祇、“氏”的原始意义也是神祇。 | 古代中国の神話では、「皇」の原義は神であり、「氏」の原義もまた神であった。 |
不过把氏加在皇的神祇后面、就是上古升斗小民们对法力无边的天神更加崇拜的一种尊称了。 | しかし、「皇」の神格に「氏」を加えることは、古代の昇天者が絶大な権力を持つ天神をさらに崇(あが)める称号である。 |
天地立、三皇为最、盖“三皇”称谓仅是一种传说、都是远古时期为人类做过特别重大贡献的部落群体和首领。 | 天地が立ち、三皇は最も重要な存在であり、三皇という名称は伝説に過ぎない |
時代 | : | |
出生地 | : | |
別名 | : | 恺胡洮 |
都城 | : | 良渚古城、 |
兩城鎮遺跡 | ||
民族 | : | 古越族 |
在位自 | : | 紀元前6084年 |
在位至 | : | 紀元前4724年 |
事績 | : | |
祖父 | : | 天皇氏 |
父親 | : | 地皇氏 |
子 | : | 提挺氏 |
孫 | : | 通姓氏 |
妻子 | : | |
遺跡 | : | 良渚古城遺跡、 |
兩城鎮遺跡 | ||
人皇(じんこう)は、道教及び中国神話における神。
天地人の三皇の一つである。
また、古代中国における伝説上の帝王。
人皇は地皇から生まれたとされる。
泰皇(たいこう)とも呼ばれるが、人皇と同一視するか否かは諸説存在する。
『三才図会』に描かれた想像図では、
胴体が蛇(天皇・地皇には腕が描かれている)で、
顔はたて髪のある人外(天皇・地皇は人の顔で描かれている)と、
三皇の中でも外観が人間とはかけ離れている。
『三才図会』では、
外観上、
一番人に似ているのは天皇だが、
体には鱗が描かれ、
一方、
地皇は、
頭にとさかを有し、
羽毛が一部にあり、
腕は鳥類の脚となっている。
日本においては、 神々が治めていたとされる神代に対して、 神武天皇以後の天皇を人皇(にんのう・じんのう)と称することがある。
本名 | : | 风伏羲(風伏羲) |
別名 | : | 青帝 |
姓 | : | 风(風) |
時代 | : | 旧石器時代中晩期 |
民族 | : | 華夏族 |
出生地 | : | 成紀 |
出生日 | : | 農暦三月十八日 |
父 | : | 燧人 |
作品 | : | 无字天書 |
字号 | : | 太昊 |
地位 | : | 太古正神 |
人文始祖 | ||
三皇之天皇 | ||
陵墓 | : | 河南淮阳太昊陵 |
伏羲(ふっき、ふくぎ)は、古代中国神話に登場する神または伝説上の帝王。
宓羲・庖犧(ほうぎ)・包犧・伏戯、伏義、伏儀などとも書かれる。
太皞(たいこう)と呼ばれることもある。
華胥(かしょ)氏の娘が雷沢(らいたく)の中に残されていた巨人の足跡を踏んで懐妊し、生まれたのが伏羲であるという。
三皇の一人に挙げられる事が多い。姓は風。
兄妹または夫婦と目される女媧(じょか)と共に、 蛇身人首の姿で描かれることがある。
事績として
本名 | : | 炎帝 |
別名 | : | 赤帝、 |
農皇、 | ||
神農大帝、 | ||
五穀神農大帝 | ||
姓 | : | |
時代 | : | 新石器時代 |
民族 | : | |
出生地 | : | 有争议 |
出生日 | : | |
父 | : | |
作品 | : | |
字号 | : | |
地位 | : | |
陵墓 | : | |
神農(しんのう)、炎帝神農(えんていしんのう)は、
古代中国の伝承に登場する三皇五帝の一人。
人々に医療と農耕の術を教えたという。
神農大帝と尊称されていて、医薬と農業を司る神とされている。
薬王大帝(やくおうたいてい)、五穀仙帝(ごこくせんてい)とも呼ばれている。
神農は医療と農耕の知識を古代の人々に広めた存在であると伝承されており、 その名は最古の本草書『神農本草経』(しんのうほんぞうきょう)の書名にも冠され残されている。
伝説によると神農は、
木材をつかって農具をつくり、
土地を耕作して五穀の種をまき、
農耕をすることを人々に伝えた。
また、薬となる植物の効用を知らせたとされる。
そのために薬草と毒草を見極めようと神農はまず赤い鞭(赭鞭)で百草(たくさんの植物)を払い、
それを嘗めて薬効や毒性の有無を検証した。
神農の体は頭部と四肢を除き玲瓏透明で、
内臓が外からはっきりと見えたという。
もし毒があれば内臓が黒くなるので、
そこから毒が影響を与える部位を見極めたという。
その後、
あまりに多くの毒草を服用したために、
体に毒素が溜まってしまい、
最終的には罌子(ケシ)を服用したとき亡くなったという。
四川省に伝わる民間伝承では「断腸草」という草を嘗めたのが最後で、
腸がちぎれて死んだともされる。
『淮南子』に、
「古代の人は、
(手当たり次第に)野草、水、木の実、ドブガイ・タニシなど貝類を摂ったので、
時に病気になったり毒に当ったりと多く苦しめられた。
このため神農は、
民衆に五穀を栽培することや適切な土地を判断すること(農耕)。
あらゆる植物を吟味して民衆に食用と毒草の違い、
飲用水の可否(医療)を教え、
民衆に知識を広めた。
まさにこのとき多くの植物をたべたので「神農は1日に70回も中毒した」とある。
本草学の始祖であるという伝説的な存在であることから、 本草学の書物には「神農」という名を含んだ書名の存在したことが見られるが、 その古い時代のものの多くは散逸して残存しているものは少ない。
『周易』繋辞伝下に、
とある。
神農の時代に物々交換などの交易をする市場や店がはじめて出来た、 とする伝説も『潜夫論』にあり、 『十八史略』などでも「人をして日中に市をなさしめ交易して退く」とある。
漢代に五行説が流行するとともに南の方角を示す炎帝と神農とが同一視されるようになり、 古代中国の帝として歴史書などに記されている。
神農は初代炎帝ともされる。
初代炎帝は、
古代中国の王で、
姓は姜。
120歳まで生き、
長沙に葬られたといわれている。
もしくは陳に置いていた都を魯に移し、
140年間在位したとも伝えられている。
『帝王世紀』には五弦の琴を発明し、
また伏羲の作った八卦を2段に重ね、
さらに研究して8x8の六十四の卦を作ったとある。
神農の末裔たち炎帝神農氏は黄帝との衝突ののち合併・融合した。
この子孫が後の漢族とみなされている。
西晋代に至ると西周以前に漢水流域に居住していた農耕部族の歴山氏と同一視されるようになった。
伝説では炎帝と黄帝は異母兄弟であり、
『国語』には、
炎帝は少典氏が娶った有蟜氏の子で、
共に関中を流れる姜水で生まれた炎帝が姜姓を、
姫水で生まれた黄帝が姫姓を名乗ったとある。
また『帝王世紀』には、
神農は、
母が華陽に遊覧の際、
龍の首が現れ、
感応して妊娠し姜水で産まれ、
体は人間だが頭は牛の姿であった。
火の徳(木の次は火であること、南方に在位すること、夏を治めること)を持っていたので炎帝とも呼ぶ。とある。
炎帝神農氏は8代、
都を陳(ちん)に置き、
530年間(『十八史略』では520年間)続き、
炎帝の号を7代にわたって使用したと伝えられている。
その後、黄帝の治世がつづいたということになっている。
No. | 『帝王世紀』 | 『史記・三皇本紀』 | 『十八史略』 |
---|---|---|---|
1 | 神農 | 神農 | 神農 |
2 | 帝臨魁 | 帝臨魁 | 帝承 |
3 | 帝承 | 帝承 | 帝臨 |
4 | 帝明 | 帝明 | 帝則 |
5 | 帝直 | 帝直 | 帝百 |
6 | 帝来 | 帝嫠 | 帝来 |
7 | 帝哀 | 帝哀 | 帝襄 |
8 | 帝楡罔 | 帝楡罔 | 帝楡 |
神話伝説に登場する神のなかにも、炎帝神農氏の子孫・末裔であると語られる存在が多くいる。
中国国民党の政治家で中国古代史に深い造詣があった呉国楨(西暦1903 - 西暦1984年)は、 その論文の中で炎帝の「炎」と、 彼の伝えたと信じられている焼畑農業の炎との関係を論じている。
本名 | : | 女娲 |
別名 | : | 女希氏、 |
有蟜氏、 | ||
风里希、 | ||
风里牺、 | ||
娲皇 | ||
姓 | : | |
時代 | : | |
民族 | : | 華夏族 |
父 | : | |
地位 | : | 創世神、 |
大地之母、 | ||
陰皇 | ||
陵墓 | : | |
女媧(じょか)は、古代中国神話に登場する人類を創造したとされる女神。
三皇の一人に挙げる説がある。
姓は風。伏羲とは兄妹または夫婦とされている。
女媧は、
姿は蛇身人首であると描写される文献が残されており、
漢の時代の画像などをはじめそのように描かれている。
笙簧(しょうこう)という楽器の発明者であるともされる。
『説文解字』での解説をはじめ、女神であるとされるのが一般的である。
『世本』「氏姓篇」のように性別を男としている例(「弟」と示されており、「女」という氏族であることから「女皇」と称されたという)も見られ、
伏羲の配偶者・女神として描かれる文献が確認される時代が新しいものであった点から、
「性別は本来は男であった」とされる説が中国などの学者間でも強く存在していた。
一方、 考古学方面での墳墓の壁画や石棺・帛画などの発見や人類学方面での伝承の採集により、 女媧は女神として存在していたという説が主流となるに至っている。
人間をつくった存在であるとされており、
女媧が泥をこねてつくったものが人類のはじまりだと語られている。
後漢時代に編された『風俗通義』によると、
つくりはじめの頃に黄土をこねてていねいにつくった人間がのちの時代の貴人であり、
やがて数を増やすため縄で泥を跳ね上げた飛沫から産まれた人間が凡庸な人であるとされている。
『楚辞(天問)』にも「女媧以前に人間は無かったが女媧は誰がつくったのか」という意味のことが記されており、
人間を創造した存在であるとされていた。
また、
『淮南子(巻十七説林訓)』には70回生き返るともあり、
農業神としての性格をも持つ。
伏羲と共に現在の人類を生みだした存在であると語る神話伝説も中国大陸には口承などのかたちで残されている。
大昔に天下に大洪水が起きるが、
ヒョウタンなどで造られた舟によって兄妹が生き残り、
人類のはじめになったというもので、
この兄妹として伏羲・女媧があてられる。
このような伝説は苗族やチワン族などにも残されている。
聞一多は、伏羲・女媧という名は葫蘆(ヒョウタン)を意味する言葉から出来たものであり、 ヒョウタンがその素材として使われていたことから「笙簧(しょうこう)」の発明者であるという要素も導き出されたのではないかと推論仮説している。
『淮南子(覧冥訓)』には、女媧が天下を補修した説話を載せている。
古の時、
天を支える四極の柱が傾いて、
世界が裂けた。
天は上空からズレてしまい、
大地は割れ、
すべてを載せたままでいられなくなった。
火災や洪水が止まず、
猛獣どもが人を襲い食う破滅的な状態となった。
女媧は、
五色の石を錬(ね)りそれをつかって天を補修し(錬石補天)、
大亀の足で四柱に代え、
黒竜の体で土地を修復し、
芦草の灰で洪水を抑えたとある。
武梁祠などの石室に画像が描かれている(武氏墓群石刻)。
下半身が蛇体となった姿をしており、
女媧と伏羲とがからみあった形状で描かれる。
清の時代には瞿中溶によって『漢武梁祠画像考』が編まれている。
道教に取り込まれてのち仏教の神仏習合の理論の上では、
阿弥陀如来によって遣わされ、
出現したばかりの地上の世界を造った中国の伝説上の存在として伏羲と共に説かれた。
日本でも仏教側の立場から編まれた神道論集の一つである『諸神本懐集』(14世紀)では女媧の本地は宝吉祥菩薩(勢至菩薩・月天子)であるとの唐の時代の説が収録されている。
女媧と伏羲の組み合わせが地上のはじめの男女であるという定義は中国の民間宗教にも広く用いられており、 『龍華経』でも人間たちの祖先としてつくりだされた世のはじまりの陰陽一対の存在の名として張女媧と李伏羲という名が記されている。
日本における文献への登場例は、 『続日本紀』(巻3)慶雲3年(西暦706年)11月3日条に、 文武天皇が新羅国王に対し、 「漸無練石之才」と女媧による錬石補天を引用した文書を送っていることから、 少なくとも律令時代には認識されていたことがわかる。
道教に組み込まれた上での女媧・伏羲についての信仰が日本に渡来した時期に関しては、
早い時期で紀元前1世紀(弥生時代中期)説がある。
鳥取市の歴史研究家の小坂博之の考察によれば、
鳥取県国府町所在の今木神社が所有する線刻された石に描かれた胴が長い人絵が女媧・伏羲に当たるとしている(石の大きさは、直径75センチ、短径63センチ)。
調査によれば、「鳥」「虎」と読める漢字も刻まれており、
その書体から中国山東省に残る「魯孝王刻石」(紀元前56年成立)にある「鳳」の中にある鳥が最も酷似し、
隷書体の中でも古い時代にある古隷の書体と考えられている。
『淮南子』(前2世紀成立)では、
「鳥」は無道・殺りくの神を表し、
「虎」は兵戦の神を表している。
このことから、
「天地再生・人類創造の神である伏羲と女媧に祈り、
兵戦の神(虎)と無道・殺りくの神(鳥)を遠ざけ、災厄の除去を願ったもの」と解釈されている。
(しかし、この神の性格が兵戦の神(虎)と無道・殺りくの神(鳥)である可能性も考えられる)。
刻石自体が亀甲と形状が類似することから、
甲を用いた占いと共通し、
『淮南子』の知識を有したシャーマンか王が用いたと考えられている。
本名 | : | 燧人氏 |
号 | : | 燧皇、天皇 |
姓 | : | |
時代 | : | 旧石器時代 |
民族 | : | 華夏族 |
出生地 | : | 燧明國(今河南商丘) |
父 | : | |
子 | : | 伏羲、女媧 |
地位 | : | 中華始祖、 |
三皇之首 | ||
事績 | : | 钻木取火 |
妻子 | : | 弇兹氏 |
遺跡 | : | 黎丘遺跡 |
陵墓 | : | 商丘燧皇陵 |
中国古代の伝説上の皇帝。三皇の一人。
天皇とされることもある。
火食することを発明したという。
古国時代の伝説上の帝王であり燧明国の君主とされる。
後有巣氏と黒衣氏の祖で、
妻は華胥氏出身、
尊称として燧皇と呼ばれたともされる。
また燧人氏は元々、
旧石器時代の河套周辺の母系制氏族であったとされ、
狩猟生活を営んでいたとされる。
諱は允婼、
子は伏羲であり、
伏羲を含め後に78の帝が炎帝神農氏以前に立ったともされる。
燧(すい。ひうち。)とは火をつける道具である。
人々が動植物を生のまま食して病気に悩まされていたとき、
燧人が木をこすって火をとり、
食物を料理することを教えたという。
燧人神話の原型は古いが、三皇伝説となったのは戦国時代以後であろう。
本名 | : | |
別名 | : | 赤帝 |
姓 | : | |
時代 | : | |
民族 | : | |
出生地 | : | |
父 | : | |
子 | : | |
地位 | : | |
事績 | : | |
妻子 | : | |
遺跡 | : | |
陵墓 | : |
祝融(しゅくゆう)は、中国神話の火の神。
炎帝の子孫とされ、火を司る。
そのため火災にあう事を「祝融に遇う」と言う場合がある。
女媧(じょか)が破損した天を補修し、 地上に平和をもたらしたあと、 江水に降って来たとされる。
『山海経』の「海外南経」によると、祝融は南の神であり、その姿は獣身人面であるという。
『史記・三皇本紀』によると、祝融は共工と戦ってこれに勝ったが、その際に共工は不周山に頭を激突させたという。
『墨子』の「非攻(下)」によると、
天帝の命令を受けた祝融が、
商の成湯が夏王朝を滅ぼす際に夏の都城に火を降らせたという。
また、『山海経』の「海内経」によると、天帝に許可を得ずに洪水を防いだ鯀を、天帝の命令を受けた祝融が殺したという。
『史記』では五帝時代の官名とされる。
小説『通俗二十一史』では登場人物の一人であり、
人皇によって諸侯に封じられており、
女皇(女媧(じょか))によって康回(共工)討伐のために召し出され、
その任を果たしている。
また、小説『三国志演義』の登場人物、祝融夫人・帯来洞主(たいらいどうしゅ)姉弟は、祝融の末裔と言及されている。
西暦2021年に火星に到達した中華人民共和国の火星探査機である天問1号の地上探査車は、祝融にちなんで祝融号と命名された。
中国名 | : | 軒轅黄帝(轩辕黄帝 ) |
姓・名 | : | 公孫・軒轅(けんえん) |
別名 | : | 轩辕氏 |
有熊氏 | ||
帝鸿氏 | ||
父 | : | 少典 |
配偶者 | : | 嫘祖 |
在 | : | 紀元前年 |
漢代に司馬遷によって著された歴史書『史記』や『国語・晋語』によると、
少典の子、姫水のほとりに生まれたことに因んで姓は姫姓、氏は軒轅氏、または帝鴻氏とも呼ばれ、
『山海経』に登場する怪神帝鴻と同一のものとする説もある。
蚩尤を討って諸侯の人望を集め、神農氏に代わって帝となった。『史記』はその治世を、従わない者を次々に討ち、道を開いて、後世の春秋戦国時代に中国とされる領域をすみずみまで統治した開国の帝王の時代として描く。少昊・昌意の父。
彼以降の4人の五帝と、夏・殷・周・秦の始祖を初め数多くの諸侯が黄帝の子孫であるとされる。
おそらくは、
中国に都市国家群が形成され、
それぞれの君主が諸侯となっていく過程で、擬制的な血縁関係を結んでいった諸侯たちの始祖として黄帝像が仮託されたのであろうと考えられている。
さらに後世になると、
中国の多くの姓氏が始祖を三代の帝王や諸侯としたので、
現在も多くの漢民族は黄帝を先祖に仰いでいる。
また、
清代末期に革命派が、
黄帝が即位した年を紀元とする黄帝紀元と称する暦を用いて清朝への対抗意識を示したことはよく知られている。
だが、辛亥革命後に至り革命支持者を中心に黄帝の存在を否定する主張が高まった。
これに並行して日本でも同様の議論が起こり、
白鳥庫吉・市村瓚次郎・飯島忠夫らが黄帝の実在性を否定する論文を著している。
その一方で黄帝は中国医学の始祖として、現在でも尊崇を集めている。
漢の時代では、著者不明の医学書は、黄帝のものとして権威を付けるのが流行した。
現存する中国最古の医学書『黄帝内経素問』、
『黄帝内経霊枢』も黄帝の著作とされている。
本来は雷神であり、 「軒轅」が龍蛇形の星座を指す場合があり、 『山海経』に登場する(黄帝の子孫が住む)軒轅国の住民が人面蛇身であり、 伝説において龍との関係が深いことから黄帝は龍蛇形の神だったと考えられている。
前述の『黄帝内経素問』、『黄帝内経霊枢』は黄帝の著作と信じられ、
これは東洋医学の始まりとなった(書については黄帝内経参照)。
中国鍼灸各家学説を執筆した魏稼は、
黄帝の師は、
岐伯である事から、
中国最古の医学流派を岐伯黄帝派と名づけた。
この学派の創始者は岐伯で、
中心人物であり、
黄皇が岐伯、伯高、小兪を訪ねて鍼道が誕生したと晋の皇甫謐『甲乙経』に記載がある。
これらが、漢方およびはり灸らの中国原初とみなされた。
なお、
日本のユンケル黄帝液は、
東洋医学発祥を記してこの黄帝から名付けられている。
ある時、黄帝は石のナイフを持って狩猟に出かけた。
その時突然、虎が下草から飛び出してきて、黄帝は桑の木に駆け上がった。
虎は気長な動物であるから、
木の下に座り込み、
次にどうするか様子を見た。
黄帝は桑の木がしなやかな事に気付き、石のナイフで桑の枝を切り弓を作った。
葡萄の蔦が木の上まで伸びていたので、石のナイフで切り弦を作った。
次にまっすぐに伸びた竹を見つけ、竹を切り矢を作った。
弓矢を使って、虎の目を射ぬき、虎は逃げ去り黄帝は脱出した。
河南省鄭州市は黄帝の故郷とされており、
市内には黄帝をたたえる公園「黄帝故里」が整備されている。
黄帝故里では、
中国のほぼ全ての姓氏を黄帝の直系の子孫と捉え、
建築物で表現するなど大掛かりな施設となっている。
毎年4月18日には参拝祭典が行われており、
西暦2018年の例では40以上の国や地域から約1万人の華人や華僑のほか、
同姓の血縁組織、
同郷会などの代表が出席して式典が行われた。
本名 | : | 嫘 |
別名 | : | 嫘祖 |
: | 累祖 | |
: | 先蚕娘娘 | |
民族 | : | 華夏西陵氏 |
出生地 | : | 西陵 |
配偶者 | : | 黄帝軒轅氏 |
子 | : | 玄囂 |
昌意 | ||
実績 | : | 養蚕技術発見 |
絹を紡ぐ技術 | ||
葉っぱを食べ続けた数日後、
蚕は糸を吐き出し、
自分を包み込み、
嫘祖が最初に見つけた「果実」の形になりました。
嫘祖はその「果実」を「繭」と名付けました。
そして、
嫘祖は繭を偶然にお湯に入れたところ、
繭から多くの糸が引き出せることを発見しました。
その糸は手触りが柔らかく、
引っ張ってもすぐには切れませんでした。
手先が器用な嫘祖は、
その糸を織りなした絹の服を羽織ってみると、
軽くて暖かく感じました。
白だけの織物ではつまらないので、
嫘祖は様々な植物の染料を使って絹を染めました。
蚕とは違い、
嫘祖は包み隠さず、
蚕の飼育、
繭の糸取り、
絹の染織などの技術を周りの人たちに広めました。
それ以来、
獣の皮と木の葉を衣にする時代が終わり、
服飾の歴史が始まりました。
「西陵氏の嫘祖が絹を発明した!」この話はまもなく神州の大地に広がり、
他の部族からの縁談が続々ときましたが、
嫘祖はすべて断りました。
そんなある日、
中原部族の首領・軒轅が西陵にやってきました。
二人はお互い一目惚れをし、
すぐさま恋に落ちて、
結婚しました。
やがて、
軒轅は神州の大地を統一し、
黄帝になりました。
嫘祖は黄帝の許可を元に、
栽桑(さいそう)、養蚕、繰糸と染織の技術を神州の大地に広めました。
そのため、
嫘祖は後世に中国の服飾文化を創った第一人者と呼ばれ、
「先蚕(せんさん)」いわゆる蚕の神として祀られるようになりました。
嫘祖の故郷・西陵(今の四川省綿陽市塩亭県一帯)などの地では、
今も「先蚕壇」「先蚕祠」などの古跡が残されており、
「嫘祖文化祭」などの行事が行われています。
司馬遷の『史記・五帝本紀』には、 ”黄帝は軒轅の丘に住み、西陵の娘を娶り嫘祖となした。嫘祖は黄帝の正妃で二人の子を産みその後は両者とも天下を治めた。その一人を玄嚣と言い青陽と為し青陽に降り江水に住んだ。二人目は昌意と言い、降って若水に住んだ。”とあります。
嫘祖は山海経の海内経にも記載が見られており、
”黄帝の妻である雷祖(嫘祖とも。)は昌意を生んだ。
昌意は自ら天に上り降り、
若水に到り住み、
韓流を生んだ。
韓流は長い頭を持っており、
小さな耳、
人面で豚の長い口、
麒麟の体、
ぐるりと丸い二本の足、
子豚の蹄で淖子族の阿女を妻として娶り帝顓頊(せんぎょく)を生んだ。”とあります。
神話中では嫘祖は養蚕と絹による縫製の創造者となっています。
北周以降には”先蚕”いわゆる蚕神として祀られるようになりました。
嫘祖が絹糸を創り出す物語が以下のように伝わっています。
嫘祖の夫は黄帝と言い、
農業や文化を発展させた伝説的な帝であると言われています。
黄帝の時代は新石器時代の終わりであり、
黄帝が鉄の冶金技術を発展させたことにより石器時代は終わりを迎えました。
黄帝は国の体制も整備し、
その位を衣冠により表す制度を作り出しました。
しかし、
その衣冠自体を作る時に、
黄帝は三人に仕事を振り分けました。
胡巢には冕(冠)を作ることを命じ、
伯余には衣服を作ることを命じ、
于則には履(靴)を作ることを命じました。
そして、
妻の嫘祖にはそれらの原料を提供することを命じました。
嫘祖は婦女と共に山中へ入り樹皮を剥ぎ網を作り、
猟で獲れた各種野獣の皮を張り付けて加工しました。
程なくして各部落首領が着る衣服と靴、
そして帽子が完成し皆着用しました。
しかし、
その衣服の出来に納得は行っておらず、
嫘祖はその他にも様々な方法を考えて食事も喉を通りませんでした。
ある日、
数名の女官たちが相談して嫘祖のために山で果物を摘んで来ようとしました。
彼女たちは山へ行き野生の果物を見つけては味見していました。
しかし、
渋い者や酸っぱいものばかりで甘く美味しい果物は見つかりませんでした。
ちょうど空は暗くなるころでした。
そのとき一人が桑林の中で白い小さな果実を一杯に実らせている木を見つけました。
そして彼女たちはその実を採ろうと木に近寄り一心に摘みました。
空は暗くなり、
野獣たちが出てくるのを恐れて摘み取った後に急いで山を下り宮殿へと帰りました。
帰った後、
早速その白い果実を食べてみるとその果実の周りには細い糸で覆われており、
それはいくらかんでも噛み切れませんでした。
そこに嫘祖がやってきて何をしているのかと聞くと、
女官たちはその白い果実を見せてその日の出来事を説明しました。
その後、
嫘祖が木の棒を使ってその糸をほぐしてみるとその強度と光沢に驚きました。
木に纏わりついているその糸を見て嫘祖は閃き、
その木はどんな木でどこにあるのかを尋ねました。
そして、女官たちに言いました。
”この果実は食べれませんが、あなたたちは黄帝陛下に多大な貢献をしました。”
この件以降、嫘祖の憂いは日増しに軽減し、
食事をとるようになり、
やがて全快しました。
そして自ら山へと行きこの白い物体を探し出し、
それが蛹であることを知りました。
その幼虫は口から細い糸を吐き出しており、
その糸を自らの体に巻き付けていたのです。
嫘祖は宮殿に戻ると黄帝にこのことを報告し、
山中の桑林を保護するように頼み、
黄帝も同意しました。
これ以降、
嫘祖の管理の下で養蚕が始まったと言います。
この伝説より嫘祖は、”先蚕娘娘”と尊称されました。
中国名 | : | 太昊 |
別名 | : | 包牺氏、大昊、太皞、大皥、 |
青帝、伏羲、天皇氏 | ||
職位 | : | 東方天帝/人文始祖 |
遺蹟 | : | 山東大汶口文化 |
河南仰韶文化 | ||
祖父母 | : | 有巢氏、缁衣氏 |
父母 | : | 燧人氏、华胥氏 |
関連文化 | : | 羲皇故里遺蹟、宛丘古城遺蹟 |
妹妹 | : | 女娲氏 |
娘 | : | 宓妃、女登 |
女壻 | : | 河伯、少典 |
外孫 | : | 炎帝神农一世 |
地位 | : | 开天辟地后首位中国君主 |
(開天闢地後首位中國君主) | ||
在位 | : | 紀元前4354年 - 紀元前4239年 |
中国、伝説上の帝王、伏羲(ふっき)をいう。
八卦をつくったとされ、東方の神、春の神として祭られる。
【Wikipdia】太昊(たいこう)は、古代の黄河流域にあった部族連合と巴(中国語版)の伝説上の祖先。大皞、太皞、太皓とも。春を司る神とされ、『礼記』『淮南子』『呂氏春秋』では五帝の一人とされる。 風姓(中国語版)で、陳の地に居住した。龍をトーテムとして用いたことから、それを正式な名前とした。春秋時代の済水流域にあった任(中国語版)、宿などの諸侯国はいずれも太昊の子孫とされる。 紀元前639年の時点で、任や宿の他に須句(中国語版)や顓臾(中国語版)でも太昊が祀られていた。『春秋左氏伝』によると、紀元前525年に郯子が魯を訪れた際に古代の帝王を列挙した。大皞氏は龍師で、少皞氏の前、共工氏の後とされる。 漢の劉歆は太昊は伏羲であるという説を唱えたが、一部の学者は、これは太昊が属する伏羲氏(庖犠氏)の先祖としての伏羲と取り違えたもので太昊は伏羲ではないとしている。
太昊(公元前4354 - 公元前4239年在位)、是東夷部族與華夏部族的祖先和首領、是東方祖神、也是東方天帝青帝。亦作大嗥、太皞、大皥、以木德王、是為春皇。漢朝後有時與楚帛書創世神伏羲氏合併。 | 太昊(在位:紀元前4354年 - 紀元前4239年)は、東夷・華夏族の祖先・指導者であり、東方の祖神、東方天帝・青帝である。大嗥、太皞、大皥とも呼ばれ、木德王、春皇とも呼ばれた。 漢代以降、創世神である伏羲の朱子学(楚帛書??)と統合されることもあった。 |
太昊在位115年、據説定都於汶上(今山東濟寧)、後遷都宛丘(今河南淮陽)。死後葬於淮陽太昊陵。最早見於文字記載的是春秋戰國前期的主要文獻《左傳・昭公十七年》“陳、太皞之虛也。” | 太虚は115年間在位し、汶上(現在の山東省済寧市)に都を置き、後に宛丘(現在の河南省淮陽市)に遷都した。 死後、淮陽の太昊陵に葬られた。この名称の最古の記録は、春秋戦国時代初期から主要なテキストである『左傳-昭公十七年』"陳、太虚 "に見られる。 |
中國神話中的太陽神就是伏羲、皇甫謐《帝王世紀》雲:太昊帝包犧氏……繼天而生、首德、於木、為百王帝。帝出於震、未有年固。故位在東方。主春、像日之明、世稱太昊。 | 中国の神話では、太陽神は伏羲であり、黄帝内経の『帝王世紀』には、「太昊帝包犧氏・・・天の後に生まれ、一徳、木の中に、百王の皇帝として生まれた」と書かれている。天皇は地震で出てきた、無年固め。したがって、彼は東にいる。太陽の明るさのように春を司ることから、太昊と呼ばれるようになった。 |
一説青帝太昊伏羲氏即為天皇氏、為開天闢地後首位中國君主。 | 一説に、青帝・太昊・伏羲は天皇であり、中国初の君主として天を開き、地を創造したと言われている。 |
少昊(しょうこう)は、中国古代の五帝の一人。姓は己。
氏は金天氏(鳳鳥氏、青陽氏、窮桑氏、雲陽氏とも称される)。
名は摯(し。鷙・質とも作る)、または玄囂。
号は「昊」(「皞」・「皓」・「顥」とも作る)、「少昊」(少昊とは太昊の徳行を継承したことによる命名)。
少昊、華夏人文始祖、遠古時期部落聯盟首領稱號、黄帝的長子、母為嫘祖(一説女节(女節))。 少昊、亦作“少暤”、名“挚(摯)”、又作“質”、號“金天氏”、“窮桑氏”或“朱宣氏”、生於窮桑、和太昊伏羲一樣同為上古時期東夷族的祖先和首領、因修太昊之法、故稱之為少昊、姬姓、一説為嬴姓、名玄囂。 | 少昊は華夏人の始祖、遠い古い時代に部落連盟の首領をこのように呼んだ、黄帝の長子、母は嫘祖(一説には女节(女節))。少昊は“少暤”ともいい、名を“挚(摯)”、または“質”、号を“金天氏”、“窮桑氏”或“朱宣氏”、生於窮桑???、太昊伏羲と同様に東夷族の祖先で首領であった、太昊の法を修めたので少昊と呼ばれた、姓は姬、一説には嬴。名は玄囂。 |
黄帝の子(『路史』では孫とされる)。母は嫘祖。
西海のほとりにあったと伝わる窮桑(きゅうそう。現在の山東省 曲阜市)で生まれる。
『史記・五帝本紀』には、蟜極(きょうきょく)の父・嚳の祖父にあたると記されている。
五行の上では金徳・西方・白色を示すとされ、金天氏・白帝という称はそれに由来する。
東海の青陽に国をたて、のちに都を曲阜に置いたとされる。
『春秋左氏伝』昭公十七年の項には、
暦を作成し、
官名を玄鳥氏、伯趙氏、青鳥氏、丹鳥氏など、
鳥類の名で呼んだことが記載されている。
『神異経』では、 四凶のひとつである窮奇(きゅうき)は少昊の子孫であるとしている。
『三国史記』によれば、 新羅の武将金庾信は金官加羅国の王家の子孫であり、 その始祖・首露王は少昊の子孫にあたるという。
窮桑は高さ1万丈にもおよぶ桑の大木で、
赤い葉をもち、
1万年に一度長寿の効果のある果実をつけるとされる。
江水のほとりにたっていたと伝説には記されている。
仙女 皇娥の仕事は天宮で暮らす人々が使う織物を織る事であったが、 あるとき仕事を休み天の川をいかだで下り、 神木窮桑の木の下にたどり着き、 そこで後の黄帝と出会い、 少昊を生んだとされる。
雲陽に葬られたという記述から、
山東省曲阜市には少昊の陵墓であると考えられる丘陵があり「少昊陵」と称されている。
清の時代の乾隆3年(西暦1738年)に位置を移し現在のかたちに整備された。
中国ピラミッドと呼ばれる形状の陵墓のひとつである。
顓頊は、
『史記』に記される帝王。
高陽に都して高陽氏と称したと言われている。
五帝の一人で、黄帝の後を継いで帝位に就いた。在位78年と言われている。
父は昌意、母は蜀山氏の女の昌僕である。
昌意は黄帝の子なので顓頊は黄帝の孫となる。
子に窮蝉(舜の六世の祖)、五世の孫(『漢書』律暦志による。『史記・夏本紀』では子)に鯀(禹の父)がいる。
帝位を嚳に譲る。末裔に女脩、
その孫に大費がおり、
中国を統一した秦、
戦国時代の趙はこの子孫と伝えられる。
また『史記・楚世家』では、春秋戦国時代の楚の祖先は顓頊であるとする。
『史記・五帝本紀』
顓頊は、 人々が神と関わる事を厭い、 孫の重と黎に命じて天へ通ずる道を閉ざさせ、 神と人との別を設けさせたという。
『三国史記』高句麗本紀第六や百済本紀第六によると、 高句麗王は、 自分たちは黄帝の孫の高陽氏、 黄帝の曾孫の高辛氏の子孫であると称していた。
『史記・五帝本紀』によれば、嚳の父は蟜極である。
蟜極の父は、
黄帝の子である玄囂(少昊)なので、
嚳は黄帝の曾孫となる。
また、
嚳が生まれながらにして自分の名を言うことができ、
聡明であったと記す。
また嚳の徳の高さと世がよく治まった様子を様々な言葉で称える。
娵訾氏の娘常宜をめとって子に摯をもうけ、
陳鋒氏の娘慶都をめとって放勲(堯)をもうけた。
彼らは嚳の死後に順に立って帝になった。
『三国史記』高句麗本紀第六や『三国史記』百済本紀第六によると、 高句麗王は、 自分たちは黄帝の孫の高陽氏、 黄帝の曾孫の高辛氏の子孫であると称していた。
簡体字 | : | 尧 |
姓・名 | : | 伊祁・放勲 |
別名 | : | 陶唐氏 |
諡号 | : | 尧 |
父親 | : | 嚳 |
子・男 | : | 丹朱 |
子・女 | : | 娥皇女英 |
女婿 | : | 舜 |
外孫 | : | 商均 |
堯は、中国神話に登場する君主。
姓は伊祁(いき)、名は放勲(ほうくん)。
陶、次いで唐に封じられたので陶唐氏ともいう。
儒家により神聖視され、聖人と崇(あが)められた。
本来は古代中国の太陽神だったと考えられている。
『史記・五帝本紀』によれば、?の次子として生まれ、?の後を継いだ兄の死後帝となった[2]。「その仁は天のごとく、その知は神のごとく」などと最大級の賛辞で描かれる[3]。黄色い冠で純衣をまとい、白馬にひかせた赤い車に乗った[4]。 羲氏の羲仲と羲叔、和氏の和仲と和叔に命じ、天文を観察して暦を作らせた。一年を366日とし、3年に1度閏月をおいた[5]。 堯は大洪水を憂え、臣下の四岳に誰に治めさせるかを問うた。みなが鯀を推薦した。堯は「鯀は(帝の)命に背き、一族を損なっている」と反対したが、四岳は試しに使い、だめなら止めればよいと言った。そこで鯀を用いたが、9年たっても成果がなかった[6]。 『十八史略』によれば平陽に都したとし、質素な生活を送っていたとしている。 別の書物での堯の伝説として、?(?の字は羽の下に廾)を挙げる。その頃の太陽は全部で十個あり、交代で地上を照らしていたのだが、ある時に十個が一度に地上を照らすようになったために地上は灼熱地獄となった。堯は弓の名人である?に何とかして来いと命令すると、?は九個の太陽を打ち落として帰ってきて、救われた民衆は堯を褒め称え帝に迎えたという。この時太陽の中には三本足の烏がいて(八咫烏)、黒点を謂わんとするものであるという。
堯には丹朱と言う息子がいたが、臣下から推薦者を挙げさせた。放斉は丹朱を挙げ、驩兜は共工を挙げたが、堯は二人とも退けた。みなが虞舜(舜)を跡継ぎに挙げ、性質がよくない父と母、弟に囲まれながら、彼らが悪に陥らないよう導いていると言った。堯は興味を示し、二人の娘を嫁した[7]。 それから民と官吏を3年間治めさせたところ、功績が著しかったため、舜に譲位することにした。舜は固辞したが、強いて天子の政を行なわせた。舜の願いにより、驩兜・共工・鯀・三苗を四方に流した。20年後に完全に政治を引退し、8年経った頃に死んだ。天下の百姓は父母を失ったように悲しみ、3年間音楽を奏でなかった。3年の喪があけてから、舜は丹朱を天子に擁立しようとしたが、諸侯も民も舜のもとに来て政治を求めたので、やむなく舜が即位した。 なお、堯舜の批判をした韓非は韓非子にて、この禅譲に対して、「堯が天下の王だった時は、質素な宮廷で、粗末な食事を食べ、貧しい衣服を着ていた。今の世の門番が貧しいとはいえ、これよりはましである。これらのことから言えば、かの古の時代の天下譲るということは、門番の貧しい生活を捨てたり、奴隷の労役から離れるということだ。だから天下を譲るといっても、たいしたことではない」と評している[9]。
舜と共に聖天子として崇められ、堯舜と並び称される。
堯舜伝説は春秋時代末には既に形作られていたようで、
中国人民日報は西暦2000年に山西省で堯舜時代の遺跡が見つかったと発表している。
また西暦1993年に郭店一号楚墓から発見された竹簡には堯や舜の事跡が記録されており、 注目されている。
唐代の歴史家の劉知幾は、 その著書『史通』で、 堯舜伝説を否定する以下の内容のことを書き残している。
堯の御世も数十年、平和に治まっていた。
堯はあまりの平和さに、
天下が本当に治まっているか、
自分が天子で民は満足しているか、
かえって不安になった。
そこで、目立たぬように変装して家を出て自分の耳目で確かめようとした。
ふと気がつくと子供たちが、堯を賛美する歌を歌っていた。
これを聴いた堯は、
子供たちは大人に歌わされているのではないかと疑って真に受けず、
立ち去った。
ふと傍らに目をやると、
老百姓が腹を叩き、
地を踏み鳴らしながら(鼓腹撃壌)楽しげに歌っている。
原文 | 書き下し文 | 現代語訳 |
---|---|---|
日出而作 | 日出でて作(な)し | 日の出と共に働きに出て |
日入而息 | 日入りて息(いこ)ふ | 日の入と共に休みに帰る |
鑿井而飲 | 井を鑿ちて飲み | 水を飲みたければ井戸を掘って飲み |
耕田而食 | 田を耕して食らふ。 | 飯を食いたければ田畑を耕して食う |
帝力何有於我哉 | 帝力何ぞ我に有らんや。 | 帝の力がどうして私に関わりがあるというのだろうか |
姓 | : | 姬、 |
姚(嬀姓始祖) | ||
名 | : | 重华(重華) |
別名 | : | 虞舜 |
出生地 | : | 诸冯 |
父親 | : | 瞽叟 |
母親 | : | 握登 |
正妻 | : | 娥皇、女英 |
(姉妹) | ||
子女 | : | 商均 |
舜は、中国神話に登場する君主。五帝の一人。
姓は姚(よう)、名は重華(ちょうか)、虞氏(ぐし)または有虞氏(ゆうぐし)と称した。
子孫は嬀水(きすい)のほとりに住み嬀(き)を姓とした。
儒家により神聖視され、堯(ぎょう)と並んで堯舜と呼ばれて聖人と崇められた。
また、二十四孝として数えられている。
瞽叟の子。商均の父。
舜は顓頊(せんぎょく)の6代子孫とされる。
母を早くに亡くして、
継母と連子と父親と暮らしていたが、
父親達は連子に後を継がせるために隙あらば舜を殺そうと狙っていた。
舜はそんな父親に対しても孝を尽くしたので、
名声が高まり堯の元にもうわさが届いた。
堯は舜の人格を見極めるために、娘の娥皇と女英の2人を舜に降嫁させた。
舜の影響によりこの娘達も非常に篤実となり、
また舜の周りには自然と人が集まり、
舜が居る所は3年で都会になるほどだった。
そんな中で舜の家族達は相変わらず舜を殺そうとしており、
舜に屋根の修理を言いつけた後に下で火をたいて舜を焼き殺そうとした。
舜は2つの傘を鳥の羽のようにして逃れた。
それでも諦めずに井戸さらいを言いつけ、
その上から土を放り込んで生き埋めにしようとした。
舜は横穴を掘って脱出した。
この様な事をされていながら舜は相変わらず父に対して孝を尽くしていた。
この事で舜が気に入った堯は舜を登用し、
天下を摂政させた。
そうすると朝廷から悪人を追い出して百官が良く治まった。
それから20年後、堯は舜に禅譲した。
帝位についた舜は洪水を治めるために禹を採用し、
禹はこれに成功するなど上手く世の中を治め、
その後39年間、
帝位にあって最後は禹に禅譲して死去した。
なお、舜の子孫は周代に虞に封ぜられている。
南風歌という歌を作ったと言われている。
陳の陳氏の祖とされ、陳からわかれた田斉の祖でもある。
ちなみに白川静は舜は元々帝嚳の事であって殷の始祖とされていたという説を挙げている。
また、舜は本来古代中国の農耕神(元の起源は水神)だったという説もある。
周王朝の先祖である后稷は、 元々は奔という名前であったが、 帝舜が、 彼に后稷という名を与えた。
都城 | : | 冀 |
姓 | : | 姒 |
氏 | : | 夏后氏 |
名 | : | 文命 |
別称 | : | 大禹、夏禹、戎禹 |
諡号 | : | 禹 |
生誕地 | : | 石泉(四川省绵阳北川) |
父親 | : | 鯀 |
母親 | : | 有莘氏女・女志 |
母 | : | 有莘氏女・嬉 |
子 | : | 姒启 |
禹(う)は、中国古代の伝説的な帝で、夏王朝の創始者。
名は文命(ぶんめい)、
諡号は禹、
別称は大禹、夏禹、戎禹ともいい、姓は姒(じ)。
姓・諱を合わせ姒文命(じぶんめい)ともいう。
夏王朝創始後、氏を夏后とした。
かつて中国は禹州あるいは禹城と呼ばれ、 禹は中国の古代神話あるいは伝説上の人物として知られる。
禹の父は鯀という。
『漢書』律暦志によれば、
鯀の五世の祖は五帝の一人である帝顓頊であり、
禹は黄帝の雲孫(八世の孫)にあたる(禹は舜の族父)。
また、
禹の父である鯀の、
その父は帝顓頊であるという説もある。
従ってこの場合、
禹は帝顓頊の孫にあたる。
さらに、帝顓頊は同じく五帝の一人の黄帝の孫であるという説もある。
この場合禹は黄帝の玄孫(四世の孫)にあたる(禹は舜の族高祖父、堯の同輩、堯は舜の族高祖父)。
塗山(とざん)氏の女を娶り、啓という子をなした。
禹は卓越した政治能力を持っていたが、
それでいて自らを誇ることはなかったという人徳を持ち、
人々に尊敬される人物であった。
また、
禹は本来、
父の鯀と同一神であり、
龍蛇の姿をした神だったという説もある。
帝堯の時代に、
禹は治水事業に失敗した父の後を継ぎ、
舜に推挙される形で、
黄河の治水にあたった。
父の鯀は堤防を固定し、
高地を削って低地を埋める「湮(いん)」と呼ばれる方法を用いた。
しかし、鯀は9年経っても成果を上げることができなかった。
子の禹は放水路を作って排水を行う「導」と「疏」と呼ばれる方法を用いて黄河の治水に成功したという。
『列子』楊朱第七によれば、
このとき仕事に打ち込みすぎ、
身体が半身不随になり、
手足はひび・あかぎれだらけになったという。
しかしこの伝説は、
元来存在した「禹は偏枯なり」という描写を後世に合理的に解釈した結果生まれた物語だとされる。
『荘子』盗跖篇巻第二十九には「堯は不慈、舜は不孝、禹は偏枯」とあり、
『荀子』巻第三非相篇第五には「禹は跳び、湯は偏し」とある。
白川静は『山海経』にみえる魚に「偏枯」という表現が使われていることから、
禹は当初は魚の姿をした神格だったという仮説を立てた。
そしてこの「偏枯」という特徴を真似たとされる歩行方法が禹歩であり、
半身不随でよろめくように、
または片脚で跳ぶように歩く身体技法のことを言う。
禹歩は道教や中国の民間信仰の儀式において巫者が実践したやり方であり、
これによって雨を降らすことができるとか岩を動かすことができるとか伝えられている。
日本の呪術的な身体技法である反閇(へんばい)も『下学集』などの中世の辞書では禹歩と同一視されているが、
必ずしも同じであったわけではないらしい。
『太平広記』の中に記載する「神(瑶姫)は禹に鬼神を召喚する本を贈る」。
『山海経広注』に記されている禹による無支祁(孫悟空の原型)との交戦の描写には具体的な竜としては応竜が禹に加勢しており、 最後に捕らえられた。
その後も禹は、 人々の生活をおびやかしていた稀世の悪獸相柳を退治し、 人々にその偉業を称えられた。
禹は舜から帝位の禅譲を受けて夏王朝を開いた。
禹は即位後しばらくの間、
武器の生産を取り止め、
田畑では収穫量に目を光らせ農民を苦しませず、
宮殿の大増築は当面先送りし、
関所や市場にかかる諸税を免除し、
地方に都市を造り、
煩雑な制度を廃止して行政を簡略化した。
その結果、
中国の内はもとより、
外までも朝貢を求めてくるようになった。
さらに禹は河を意図的に導くなどしてさまざまな河川を整備し、
周辺の土地を耕して草木を育成し、
中央と東西南北の違いを旗によって人々に示し、
古のやり方も踏襲し全国を分けて九州を置いた。
禹は倹約政策を取り、自ら率先して行動した。
『竹書紀年』によれば、
45年間帝であったとする。
また、今本竹書紀年によれば、8年間帝であったという。
さらに、『史記』によれば、10年間帝であったという。
浙江省紹興市の会稽山に大禹陵がある。
中国が西暦1996年から西暦1999年にかけて実施した「夏商周年表プロジェクト」に依れば、
禹の夏王朝創始は紀元前2071年、
王朝滅亡は紀元前1598年であったとされる。
ただし同プロジェクトは、
4千年前の年代確定には数年の誤差は避けがたいため、
切りのよい数字を取って夏は紀元前2070年から紀元前1600年まで、
と定めた。
禹王伝説の時代に最古の王朝国家が存在したとみられるものの、
禹の実在は未だ証明されていない。
中国では治水の英雄・開拓の英雄とされており教科書にも掲載される存在である。
浙江省紹興市越城区稽山街道の大禹陵禹跡館には鋤(すき)を持つ禹を刻んだ「大禹治水」のレリーフがある。
西遊記で孫悟空が使用する如意棒はもとは禹が江海の深さを計るのに使用した重りだという。
禹王信仰は日本にもみられる。
禹を祀る廟や祠あるいは禹の像や名(大禹、神禹、夏禹、文命)を刻んだ石碑や墓碑を総称して「禹王遺跡」という。
日本では神奈川県開成町在住の郷土史家・大脇良夫が全国調査したところ、
禹に関連する碑や像が、
水害が多い地区を中心に107カ所見つかった。
大脇らは西暦2010年以降「禹王サミット」を開催し、
西暦2013年「治水神・禹王研究会」を発足させた。
西暦2019年3月末までに日本には133件あることが判明している。
沖縄県には、以下の13件の禹王遺跡が確認されている。[16]
群馬県沼田市にも禹王碑が存在する。
「禹」の字は、古代文字の「九」と「虫」とを合わせた文字である。
「九」は、伸ばした手の象形。
「虫」は、
もともと蛇や竜などの爬虫類の意味で、
雄の竜の象形。
即ち、
「九」と「虫」とを合わせた「禹」は、
雄の竜を掴むの象形で、
洪水と治水の神話の神と伝えられる「伏羲と女媧(じょか)」を意味する。
大きな「禹」の紋が背に縫い付けられた法被が、
慶長宗論、
慶長法難で知られる法華宗不受不施派の僧・日経の故郷(現在の茂原市)に遺っている。
その法被を着る祭には、黒戸の獅子舞がある。
簡体字 | : | 汤 |
名 | : | 子履 |
王朝 | : | 商朝 |
都城 | : | 冀 |
在位自 | : | 紀元前1600年 |
在位至 | : | 紀元前1587年 |
生年 | : | 紀元前17世紀 |
没年 | : | 紀元前1587年 |
墓所 | : | 湯陵 |
都城 | : | 冀 |
天乙(紀元前1600年頃)は、
古代中国の殷王朝の初代王。
名は履。姓・諱を合わせ、子履(しり)ともいう。
殷墟出土の甲骨文占卜には、大乙、名は唐、成と見える。
湯王(湯)、太乙、成湯、成唐とも呼ばれる。
それまでの勢力を制圧し中原の覇権を得て、亳に王都を築営した。
天乙は夏の最後の桀を追放し夏を滅ぼした。
桀は暴虐な政治を行い、人心は夏から離れていた。
夏の臣であった天乙は伊尹の補佐を受け桀を攻め、これを滅ぼした(鳴条の戦い)。
書経には桀を滅ぼす時に諸侯に向けて演説したとされる『湯誓』がある。
天乙は夏の禹、周の文王、武王と並び聖王として後世に崇められている。
徳は高く鳥や獣にまで及ぶと言われた 。
湯王が夏を滅ぼしたのち七年間も大日照りが続き洛川は枯れてしまった。
そこで湯王は桑林まで出かけて神を祀り爪と髪を切り、
みずからを犠牲として捧げる心で上帝に祈願した。
するとたちまちのうちに大雨が降り国中が潤ったのであった。