天皇の諡号や追号は通常死後におくられるものであるが、後醍醐天皇は、生前自ら後醍醐の号を定めていた[235]。たとえば、輪王寺銅鋺延元元年付には「当今皇帝……後醍醐院自号焉」とあり、崩御3年前の延元元年/建武3年(1336年)時点で既に後醍醐の名が広く知られていた[235]。これを遺諡といい、白河天皇以後しばしば見られる。なお「後醍醐」は分類としては追号になる(追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。 20世紀時点での通説としては、後醍醐は延喜・天暦の治と称され天皇親政の時代とされた醍醐天皇・村上天皇の治世を理想としており、そのため醍醐に後を付けて後醍醐にしたのだとされていた[235]。一方、21世紀に入り、河内祥輔は、父の後宇多天皇も生前から追号を「後宇多」と定めていたことを指摘し、宇多天皇が子の醍醐天皇のために書き残した遺訓の『寛平御遺誡』にあやかって、『寛平御遺誡』の名声を通じて自身が後宇多の後継者であることを示したかったのではないか、という説を唱えている[236]。 崩御後、北朝では崇徳院・安徳天皇・顕徳院・順徳院などのように徳の字を入れて院号を奉る案もあった。平安期に入ってから「徳」の字を入れた漢風諡号を奉るのは、配流先などで崩御した天皇の鎮魂慰霊の場合に限られていたが、結局生前の意志を尊重して南朝と同様「後醍醐」とした。あるいは、その院号は治世中の年号(元徳)からとって「元徳院」だったともいう。
陵(みささぎ)は、
宮内庁により奈良県吉野郡吉野町大字吉野山字塔ノ尾の如意輪寺内にある塔尾陵(とうのおのみささぎ)に治定されている。
宮内庁上の形式は円丘。
通常天皇陵は南面しているが、
後醍醐天皇陵は北面している。
これは北の京都に帰りたいという後醍醐天皇の願いを表したものだという。
軍記物語『太平記』では、
後醍醐天皇は「玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」と遺言したとされている。
また明治22年(西暦1889年)に同町に建てられた吉野神宮に祀られている。
皇居では、 皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
後醍醐天皇が紫衣を許して官寺とした總持寺(神奈川県横浜市鶴見区)には、
後醍醐天皇の尊像、尊儀などを奉安する御霊殿がある。
この御霊殿は、
後醍醐天皇の600年遠忌を記念して、
昭和12年(西暦1937年)に建立された。
足利尊氏は後醍醐の菩提を弔うために天龍寺を造営している。
また足利義政は小槻雅久や吉田兼倶といった学者の意見に従い、
東山山荘(現慈照寺)の東求堂に後醍醐の位牌を安置して礼拝した。