小窓
前九年の役(ぜんくねんのえき)

作成日:2023/3/15

前九年の役(ぜんくねんのえき) 西暦1051年西暦1062年(12年間)

平安時代末期の東北地方、 陸奥国で起こった戦役で、 西暦1051年永承6年)の源頼義の奥州赴任から、 西暦1062年康平5年)の安倍氏滅亡まで12年間続いた、 陸奥国俘囚と源氏との間に起きた戦役である。

西暦1051年永承6年)~西暦1062年康平5年)の「前九年の役」と、 西暦1083年永保3年)~西暦1087年寛治元年)の「後三年の役」を合わせて、 「奥州十二年合戦(おうしゅうじゅうにねんかっせん)」と呼ぶことがある (『古事談』・『愚管抄』・『古今著聞集』などに記されている)。
各名称には9年、3年、12年と期間(年数)が記されているが、 全て間違っている。 これは後世、 史書からこの戦役に名称を与えた際の勘違いであろう。

有力豪族の安倍氏は、 陸奥国の奥六郡(岩手県北上川流域)に柵(城砦)を築き、 半独立的な勢力を形成していた。 『陸奥話記』によると、 最も勢力を広げた安倍頼時の代には、貢租(こうそ。年貢のこと。)を怠るようになった。 西暦1051年(永承6年)、 陸奥守・藤原登任(ふじわらのなりとう)が数千の兵を出して安倍氏の懲罰を試みたが、 安倍氏の圧倒的勝利に終わり、藤原登任は解任された。 朝廷は、武勇の誉れ高い武家の河内源氏・源頼義を着任させた。

源頼義の武力を恐れた安倍頼時は忠誠を誓う。 一時停戦となっていた「前九年の役」であったが、 西暦1056年天喜4年)に勃発した「阿久利川事件」により、 今度は源氏と安倍氏の戦いとなって再開した。

途中、安倍頼時の死亡もあったが、 安倍氏は安倍氏は源氏を苦しみ続けた。 しかし、西暦1062年(康平5年)9月17日、 ついに安倍氏の拠点である厨川柵(岩手県盛岡市天昌寺町)、嫗戸柵(盛岡市安倍館町)が陥落(厨川の戦い)し、 安倍氏は滅亡し、「前九年の役」は終わった。