詳細は「殷周革命」を参照。易姓革命
周国の伝説上の始祖は后稷であり、
五帝の舜に仕えて、
農政に功績があったという。
古公亶父の時代に周の地に定住したとされる。
古公亶父には3人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と言った。
季歴に息子が誕生する際、
さまざまな瑞祥(吉兆。聖人が生まれる際に起こるとされる)が起こったため、
古公亶父は「わが子孫のうち最も栄えるのは季歴の子孫であろうか」と期待した。
その期待を察した太伯と虞仲は、
季歴に継承権を譲るため自発的に出奔した。
南方の僻地に赴いた太伯は句呉と号して国を興し、
その地の蛮族(荊蛮)は皆これに従った。
なお、
この南方の僻地は日本だったという伝説もある(太伯・虞仲#日本に関する伝承)。
季歴の息子姫昌(後の文王)が王位を継ぐと、
古公亶父の期待通り周国を繁栄させ、
ついには宗主国の殷から「西伯」の地位を賜るにいたる。
姫昌と同時代の殷の帝辛(紂王)は暴君だったため、
諸侯は姫昌に頼って革命を期待したが、
姫昌はあくまで帝辛(紂王)の臣下であり続けた。
姫昌の死後、
後を継いだ姫発(武王)は、
周公旦・太公望・召公奭ら名臣の補佐のもと、
亡き父姫昌を名目上の主導者として、
紀元前1046年に革命戦争(牧野の戦い)を起こす。
武王は殷の帝辛(紂王)に打ち克ち(克殷)、周王朝を創始した。
詳細は「成康の治」を参照
武王は建国後すぐに死去する。
後を継いだ成王(在位:前1042年 - 前1021年)は未だ幼少であり、
殷の残存勢力は侮れないものがあった。
ここで周公旦が摂政として政治を見ることになった(周公旦が即位したという説もある)。
心配されたとおり、
殷の遺民たちを治めさせていた武庚禄父と、
周公旦の兄弟であるが周公旦が政権を握ることに不満を持つ管叔鮮と蔡叔度が共謀して乱を起こす(三監の乱)。
周公旦は成王の命を受けてこれを鎮圧し、
その後7年して成王が成長した後に、
周公は一臣下に戻った。
成長した成王は周公旦・召公奭を左右に政務に取り組み、
東夷を討って勢威を明らかにした。
成王の後を継いだのが康王(在位:前1020年 - 前996年)である。
康王は召公奭と畢公高を左右にしてよく天下を治めた。
成王・康王の時代は天下泰平の黄金時代であり、
40年にわたり刑罰を用いることがなかったという(成康の治)。
その後は徐々に衰退する。 4代目の昭王(在位:前995年 - 前977年)は南方へ遠征を行ったが失敗し(後代の文献では遠征中に死亡したとされているが、同時代にその記述はない)、それ以降周は軍事的に攻勢から守勢に転じるようになった。 5代目の穆王(在位:前976年 - 前922年)以降、王は親征することが無くなり、盛んに祭祀王として祭祀儀礼を行うことで軍事的に弱まった王の権威を補っていくことになった。
6代共王(在位:前922年 - 前900年)、 7代懿王(在位:前899年 - 前892年)、 8代孝王(在位:前891年 - 前886年)、 そして9代目の夷王(在位:前885年 - 前878年)までの王は影が薄いが、 この時期に礼制が改められ、 王が臣下を職務に任命する冊命儀礼などを通じて臣下に対する周王室への求心力の維持を図り、 ひとまずの安定を得た。 しかし、夷王は紀侯(中国語版)靖公の讒言を信じて斉の哀公を釜茹での刑(烹)に処しており、 その諸侯に対する暴虐さ・暗愚さが次代の厲王らへと受け継がれていった。
10代厲王(在位:前877年 - 前841年)は、 周りに分け与えられるべき財を全て独占したために諸侯の間で不満が高まり、 最終的には大反乱が起き、 厲王は辺境に逃げ出した。 王が不在のあいだ、 周定公と召穆公の2人の大臣が合議制で「共に和して」政治を行った。 ちなみに、現代において英語の「republic」を「共和制」と訳すのは、 この故事を由来としている。 なお、実際は「共に和して」ではなく、 「共伯和」という名の人物(「共」を封地または諡号として「伯」の爵位を持つ「和」という名の人物)が執政したので、 それを略して「共和」と呼んだ、という説もある。
やがて大臣らは太子静(11代宣王、在位:前827-前782)を立てて輔政を行うと国勢は回復し、 宣王中興と呼ばれた。 しかし宣王も後半期には政治に倦むようになったために再び衰退する。 12代幽王(在位:前781年 - 前771年)の時代、 申から迎えていた皇后を廃し褒?を皇后としたため、 申侯の怒りを買い、 申は犬戎を伴い王都へと攻め込んだ。 幽王は殺され、褒?の子の伯服(中国語版)(伯盤)も殺されてしまう。(申侯の乱)。 そこで、次代として携王(在位:前770年 - 前750年)が即位した。 これに反対する諸侯は、 東の洛邑(王城・成周)(現在の河南省洛陽市付近)へ王子宜臼を擁して移り、 王子を平王(在位:前771年 - 前720年)として立てて対立した。 周は東西に分かれて争った結果、東の平王が打ち勝ち、 ここから周は東周と呼ばれ、 時代区分では春秋時代に移行する。
詳細は「春秋戦国時代」、「春秋時代」、および「戦国時代 (中国)」を参照 春秋時代の周は、往時と比するべくもない程まで没落した。平王の孫である桓王は王権の再強化を図ったが、繻葛の戦い(中国語版)(前707年)で一諸侯に過ぎない鄭に敗れた事で諸侯に対する統制力を喪失した。 さらに、王室内で幾度も王位継承争いが発生したために周王室の力は弱体化し[11]、洛邑(王城・成周)周辺のみを支配する小国となっていった。現代の湖北省随州市付近にあった曽(中国語版)の春秋時代の侯の墓に納められていた青銅器の銘文には、「周室既卑(しゅうしつすでにひくく)」と書かれている[12]。それでも権威だけは保持しており、諸侯たちはその権威を利用して諸侯の間の主導権を握ろうとした(春秋五覇)。周王室側も覇者をはじめとする諸侯に対して、西周以来の伝統と権威を強調することで祭祀を主催する立場の維持を図った[13]。 しかし、その権威も春秋時代後半からは低下していった。例えば春秋時代の秦の景公の墓の出土品の銘文では秦の君主を本来周王の称号であったはずの「天子」と称している[14]。また孔子の登場以降、西周の時代を理想化した礼制の整備が儒家や諸侯によって行われていくが、それらに対して周王室は全く主導権を発揮しておらず[15]、祭祀を主催する立場すら失っていた。 戦国時代初期の情勢 戦国時代に入ると、かつての覇者・晋や太公望の子孫である斉(姜斉)といった周王室と歴史的に結びつきが強い諸侯が滅び、周王の権威や存在意義はますます低下していった。魏の惠王は「夏王」・「天子」を称し、周王朝に取って代わる意思を示すほどであった[16]。東周23代目の王顕王は秦に対して春秋時代に覇者に対して行っていた儀礼を行うことで、秦の保護を受けようとしたが、既に春秋時代に天子を称していた秦の恵文王は王を称し、後には七雄の諸侯のみならず小国の宋や北辺の中山国の君主までもが王を称するようになった。秦の昭襄王と田斉の?王に至っては一時「西帝」「東帝」と帝号を称した[17]。
周王室の力は上述のように衰微し、影響力はわずかに王畿(現在の洛陽附近)に限定されていた。 ただでさえ衰えていた周王室であるが、 末期には貞定王の末子掲(桓公)を始祖とする西周公(武公)とそこから分裂した東周君(昭文君)の勢力によって分裂していた。 周王朝最後の王である赧王は西周の武公を頼って西周(河南)に遷都し、 元の成周は東周君が支配した。 周王室の領土は東西に分裂し、狭い範囲で互いに争い合う有様であった。
赧王の在位は59年に及んだが紀元前256年、 西周は諸侯と通じて韓と交戦中の秦軍を妨害したため秦の将軍楊摎の攻撃を受けた。 西周の文公(武公の子)は秦へおもむき謝罪しその領土を秦に献上した。 このため赧王は秦の保護下に入ったがまもなく崩御し、 程なくして西周の文公も死去した。 西周の文公が死去すると、 その民は堰を切ったように東周へ逃亡し、 秦は九鼎と周王室の宝物を接収し、 文公の子を移した。 こうして、秦が王畿(現在の洛陽附近)を占拠したことで、 西周と周王室本家は滅亡することとなった。
その後も昭文君の東周は7年間存続したが、紀元前249年、秦の呂不韋によって攻め滅ぼされた。『史記』の秦本紀では昭文君は謀殺されたと伝えられているが、東周君に土地を与えて周の祭祀を続けさせたとも書かれており、この場合昭文君の子が封じられたと考えられる[20]。
秦の始皇帝の死後、すなわち楚漢戦争期には、各地で戦国諸侯の王族が再び擁立されたが、周の末裔を擁立して周王室を復興しようという動きはなかった[21]。
前漢の武帝以降、儒学が尊重されるようになると、周王室の子孫も尊重されるようになり、姫嘉(中国語版)という人物が周子南君(中国語版)に封じられた。姫嘉の子孫は元帝の時代には周承休侯へ昇格され、平帝の時には鄭公に、後漢の光武帝の時代には衛公に封じられている[22]。
『史記・三世表』には、周建国当時の有力な諸侯として以下の11国が記される(記載順)。
参考(地図)歴代君主
No. | 諡号 | 姓・諱 | 在位 | 備 考 | |
---|---|---|---|---|---|
自 | 至 | ||||
1 | 后稷 | 姫・弃(棄) | 不詳 | 不詳 | |
2 | 不窋 | 不詳 | 不詳 | ||
3 | 鞠 | 不詳 | 不詳 | ||
4 | 公劉 | 不詳 | 不詳 | ||
5 | 慶節 | 姜・ | 不詳 | 不詳 | |
6 | 皇僕 | 姜・ | 不詳 | 不詳 | |
7 | 差弗 | 姜・ | 不詳 | 不詳 | |
8 | 毀隃 | 不詳 | 不詳 | ||
9 | 公非 | 不詳 | 不詳 | ||
10 | 高圉 | 不詳 | 不詳 | ||
11 | 亜圉 | 不詳 | 不詳 | ||
12 | 公叔祖類 | 不詳 | 不詳 | ||
13 | 古公亶父 | 不詳 | 不詳 | ||
14 | 季歴 | 不詳 | 不詳 | ||
15 | 文王 | 紀元前1051年 | 紀元前1051年 |
No. | 諡号 | 姓・諱 | 在位 | 備 考 | |
---|---|---|---|---|---|
自 | 至 | ||||
1 | 武王 | 姜・発 | 紀元前1046年 | 紀元前1043年 | |
2 | 成王 | 姜・瑕 | 紀元前1042年 | 紀元前1021年 | |
3 | 康王 | 姜・釗 | 紀元前1020年 | 紀元前996年 | |
4 | 昭王 | 姜・瑕 | 紀元前995年 | 紀元前977年 | |
5 | 穆王 | 姜・満 | 紀元前976年 | 紀元前922年 | |
6 | 共王 | 姜・繄扈 | 紀元前922年 | 紀元前900年 | |
7 | 懿王 | 姜・囏 | 紀元前899年 | 紀元前892年 | |
8 | 孝王 | 姜・辟方 | 紀元前891年 | 紀元前886年 | |
9 | 夷王 | 姜・燮 | 紀元前885年 | 紀元前878年 | |
10 | 厲王 | 姜・胡 | 紀元前877年 | 紀元前841年 | |
・共和 | 紀元前841年 | 紀元前828年 | |||
11 | 宣王 | 姜・静 | 紀元前828年 | 紀元前782年 | |
12 | 幽王 | 姜・宮涅 | 紀元前781年 | 紀元前771年 | |
・携王 | 姜・余臣 | 紀元前770年 | 紀元前750年 |
No. | 諡号 | 姓・諱 | 在位 | 備 考 | |
---|---|---|---|---|---|
自 | 至 | ||||
13(1) | 平王 | 姫・宜臼 | 紀元前771年 | 紀元前720年 | |
14(2) | 桓王 | 姫・林 | 紀元前719年 | 紀元前697年 | |
15(3) | 荘王 | 姫・佗 | 紀元前696年 | 紀元前682年 | |
16(4) | 釐王 | 姫・胡斉 | 紀元前681年 | 紀元前677年 | |
17(5) | 恵王 | 姫・閬 | 紀元前676年 | 紀元前675年 |
惠王は一度 弭叔頽に王位を 奪われた。 |
・弭叔頽 | 紀元前675年 | 紀元前673年 | |||
恵王 | 姫・閬 | 紀元前673年 | 紀元前652年 | ||
18(6) | 襄王 | 姫・鄭 | 紀元前652年 | 紀元前619年 | |
19(7) | 頃王 | 姫・壬臣 | 紀元前619年 | 紀元前613年 | |
20(8) | 匡王 | 姫・班 | 紀元前613年 | 紀元前607年 | |
21(9) | 定王 | 姫・瑜 | 紀元前607年 | 紀元前586年 | |
22(10) | 簡王 | 姫・夷 | 紀元前586年 | 紀元前572年 | |
23(11) | 霊王 | 姫・泄心 | 紀元前572年 | 紀元前545年 | |
24(12) | 景王 | 姫・貴 | 紀元前545年 | 紀元前520年 | |
25(13) | 悼王 | 姫・猛 | 紀元前520年 | 紀元前520年 | |
26(14) | 敬王 | 姫・匄 | 紀元前520年 | 紀元前476年 | |
27(15) | 元王 | 姫・仁 | 紀元前476年 | 紀元前469年 | |
28(16) | 貞定王 | 姫・介 | 紀元前468年 | 紀元前441年 | |
29(17) | 哀王 | 姫・去疾 | 紀元前441年 | 紀元前441年 | |
30(18) | 思王 | 姫・叔襲 | 紀元前441年 | 紀元前441年 | |
31(19) | 考王 | 姫・嵬 | 紀元前440年 | 紀元前426年 | |
32(20) | 威烈王 | 姫・午 | 紀元前425年 | 紀元前402年 | |
33(21) | 安王 | 姫・驕 | 紀元前402年 | 紀元前376年 | |
34(22) | 烈王 | 姫・喜 | 紀元前375年 | 紀元前369年 | |
35(23) | 顕王 | 姫・扁 | 紀元前368年 | 紀元前321年 | |
36(24) | 慎靚王 | 姫・定 | 紀元前320年 | 紀元前315年 | |
37(25) | 赧王 | 姫・延 | 紀元前314年 | 紀元前256年 |
No. | 名前 | 始期 | 終期 |
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1 | |||
2 | |||
3 | |||
4 | |||
5 | |||
6 | |||
7 | |||
8 | |||
9 | |||
10 | |||
11 | |||
12 | |||
13 | |||
14 | |||
15 |