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周王朝(しゅう おうちょう)

作成日:2021/7/29

紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、古代中国の王朝。 国姓は姫。

当初は殷(商)の従属国だったが、 紀元前1046年に革命戦争(牧野の戦い)で殷を倒し周王朝を開いた。
紀元前771年洛邑遷都までを西周、 遷都から秦に滅ぼされるまでを東周(春秋戦国時代)と区分される。

儒教において西周は理想的な時代とされる。
周の歴史は儒教経典や『史記』などの歴史書に記されている。
中国文明は周代に確立したという学説もある。

西周・東周の両方を合わせると中国史上最も長く続いた王朝である。

夏王朝殷王朝周王朝をまとめて三代という場合がある。

年表 114-4543

紀元前1046年
紀元前1042
  • 西周第2代王・成王 即位(- 紀元前1021)。
  • 三監の乱(- 紀元前1039)発生。
  • 諸侯・魯伯禽の初代君主となる。

    西周第2代王・成王が即位した紀元前1042年に、 伯禽が魯の君主に任ぜられたとの記載がある。
    どちらも、 在位期間が紀元前1042年からなので、 成王が即位した年に伯禽を魯の君主に任じたとして矛盾はない。
    一方で、 魯の建国は紀元前1055年との記述がある。
紀元前1020年
紀元前995年
紀元前976年
紀元前922年
紀元前899年
紀元前891年
紀元前885年
紀元前877年
紀元前841年
  • 周の国人が蜂起し、 厲王に逃れた。 周定公召穆公による共和の体制となった。 一説に共伯和が国政を代行したという。
紀元前828年
  • 周の厲王で死去した。太子静が即位した。これが宣王である。ここに共和の政が終わった。
紀元前827年
  • 11代・宣王 即位(- 紀元前782年
  • 宣王は千畝を天子自ら耕す籍田の礼をおこなわなかった。(かく)の文公が諫めたが、王は聞き入れなかった。
紀元前823年
  • 獫狁が周を攻め、涇水(けいすい)の北岸に到達した。周の尹吉甫が反攻し、太原までいたった。
紀元前822年
  • 秦仲が周の宣王の命を受けて西戎を討伐したが、敗死した。宣王は秦仲の子の荘公を西垂大夫として兵7000人を与えて西戎を攻めさせ、これを撃破した。荘公は西犬丘に本拠を置いた。
紀元前806年
  • 周の宣王が庶弟の姫友を鄭(てい)に封じた。これが鄭の桓公である。
紀元前797年
  • 周の宣王が太原の戎を攻撃したが、勝利できなかった。
紀元前795年宣王33年。
紀元前792年
  • 宣王が条の戎と奔の戎を攻撃したが、敗れた。
紀元前789年
  • 宣王が姜氏の戎を攻撃して、千畝で敗れた。宣王は南国の兵を失ったことから、太原で民から兵を徴募した。
紀元前782年宣王46年。
  • 周朝(西周)第11代王・宣王逝去。
  • 姫宮涅。周朝の王位を継ぎ、周朝(西周)第12代王・幽王に即位。
  • 申后が后妃に立てられる。
  • 申后の子、姫宜臼が太子に立てられる。
紀元前781年
  • 12代・幽王 即位(- 紀元前771年)
  • 晋の太子仇がその一党を率いて殤叔を襲撃し、自ら晋侯として即位した
紀元前780年。幽王2年。
  • 周の伯士が幽王の命を受けて六済の戎を攻撃したが、敗死した。
  • 多くの深刻な自然災害が発生した。
    西周の都城鎬京で地震が発生した。
    「涇河、渭河、洛河の三川が枯渇し、岐山が崩壊した」の歴史的記録。
    記録官の伯陽甫は、亡国の凶兆であると書き残した。
    その後、幽王は叔父の鄭桓公を周王室の使徒(官名)に任命し、全国の土地と世帯の登録を担当した。
紀元前779年。幽王2年。幽王3年。
  • 幽王は褒国を攻め落とした。褒国は褒姒を差し出して降伏した。
紀元前778年。幽王4年。
  • 褒姒は幽王の子・伯服を出産した。
紀元前774年。幽王8年。
  • 周の幽王は申后と太子宜臼を廃位し、褒姒の子の伯服を太子に立てた。
  • 鄭の桓公が周の司徒に任じられた。
紀元前773年
  • 諸侯の多くが周に叛いた。
  • 桓公は、鄭を洛水の東に遷した。すると、(かく)と鄶(かい)の2国が10邑を桓公に献上してきた。
紀元前771年
  • 申侯と犬戎が周の都の鎬京を襲い、幽王と伯服は驪山の麓で殺害され、西周は滅亡した。
    申侯は宜臼を周王・平王として擁立した。
紀元前770年
紀元前769年
  • 鄭(てい)が鄶(かい)を滅ぼし、新鄭に遷都した。
紀元前767年
  • 鄭(てい)が東虢を滅ぼした。
紀元前762年
  • 秦の文公が汧水と渭水の合流地点に本拠を遷した。
紀元前760年
  • 曹の恵伯が死去し、子の曹君石甫が即位したが、弟の穆公に殺害された。
紀元前750年
  • 秦が兵を率いて戎を討ち、戎が敗走した。秦の文公は周の余民を収めてその地を領有し、岐山以東を周に献上した。
紀元前745年
  • 晋の昭侯が叔父の成師を曲沃に封じた。
紀元前743年
  • 鄭の荘公が母の武姜の要求に従って弟の段を京に封じた。
紀元前741年
  • 楚の蚡冒が死去し、弟の熊通が蚡冒の子を殺して自ら即位した。
紀元前739年
  • 晋の潘父が昭侯を殺害して、曲沃の桓叔を迎えようとした。桓叔は敗れて国都の翼に入ることができなかった。晋の大夫たちは孝侯を擁立した。
紀元前733年
  • 衛の桓公が弟の州吁を追放した。
紀元前724年
  • 曲沃の荘伯が翼を攻撃し、孝侯を殺害した。翼の人はその弟の鄂侯を立てた。
紀元前723年
  • 魯の恵公が死去し、太子の允が幼少だったため、庶兄の隠公が立って摂政した。
紀元前722年
  • 魯の隠公との安公が蔑で盟を交わした。
  • 鄭軍が共叔段を鄢で破った。共叔段は共に逃れ、公孫滑は衛に亡命した。
  • 紀軍が夷を攻撃した。
  • 魯と宋が宿で盟を交わした。
  • 衛軍が鄭を攻撃し、廩延を奪った。
  • 五経』の一つである『春秋』の記述がこの年から始まる
紀元前721年
  • 魯の隠公が戎と潜で会合した。
  • 莒(きょ)軍が向に進攻し、向姜を連れ帰った。
  • 魯の無駭が軍を率いて極に進攻し、費庈父が極を滅ぼした。
  • 魯の隠公と戎が唐で盟を交わした。
  • 紀の子帛と莒(きょ)子が密で盟を交わした。
  • 鄭軍が衛を攻撃した。
紀元前720年
  • 周の王子狐が鄭に人質として入り、鄭の公子忽が周に人質として入った。
  • 斉の釐公と鄭の荘公が石門で会盟した。
紀元前719年
  • 莒(きょ)軍が杞を攻撃し、牟婁を奪った。
  • 衛の州吁が桓公を殺害し、自ら国君として立った。
  • 魯の隠公と宋の殤公が清で会合した。
  • 宋・陳・蔡・衛の連合軍が鄭を攻撃した。
  • 宋・陳・蔡・衛・魯の連合軍が鄭を攻撃した。
  • 衛の州吁と石厚が陳で捕らえられた。衛から右宰の丑が派遣されて、州吁は濮で殺害された。
  • 衛の公子晋が邢から迎えられ、国君として擁立された。これが衛の宣公である。
紀元前718年
  • 曲沃の荘伯が鄭や邢の軍とともに翼を攻撃し、周の桓王は尹氏や武氏を派遣して荘伯を助けさせた。翼の鄂侯は随に逃れた。
  • 鄭軍が衛の郊外に侵入した。
  • 衛軍が燕軍とともに鄭を攻撃した。鄭の曼伯と子元が燕軍を北制で破った。
  • 衛軍が郕に侵入した。
  • 鄭・郕の連合軍が宋を攻撃した。
  • 宋軍が鄭を攻撃し、長葛を包囲した。
紀元前717年
  • 斉の釐公と魯の隠公が艾で会盟した。
  • 翼の嘉父が鄂侯を随から迎えて鄂に送り込んだ。
  • 鄭軍が陳に侵入して戦果を得た。
  • 宋軍が鄭の長葛を奪った。
紀元前716年
  • 宋と鄭が講和し、宿で盟を交わした。
  • 魯がを攻撃した。
  • 周の桓王が凡伯を使節として魯に送ると、その帰路に楚丘で凡伯は戎に襲撃されて連れ去られた。
  • 陳と鄭が講和し、陳の公子他が鄭に赴いて盟を交わした。
  • 鄭の公子忽と陳の桓公の娘とのあいだに婚約が成立した。
紀元前715年
  • 宋の殤公と衛の宣公が垂で非公式に会合した。
  • 宋の殤公・斉の釐公・衛の宣公が瓦屋で会盟した。
  • 魯の隠公と莒(きょ)の大夫が浮来で会盟した。
紀元前714年
  • 斉の釐公と魯の隠公が防で会合した。
  • 北戎が鄭に侵入した。鄭軍がこれを撃退した。
紀元前713年
  • 斉の釐公・鄭の荘公・魯の隠公が中丘で会合し、鄧で盟を交わした。
  • 斉・鄭・魯の連合軍が宋を攻撃した。
  • 魯軍が宋軍を菅で破り、郜や防を奪った。
  • 宋と衛の連合軍が鄭に侵入した。
  • 宋・蔡・衛の連合軍が戴を攻撃した。鄭軍が戴を包囲して3カ国の兵を殲滅した。
  • 鄭軍が宋を攻撃した。
  • 斉・鄭軍の連合軍が郕に侵入した。
紀元前712年
  • 滕侯・薛侯が魯に参朝して席次を争った。
  • 鄭の荘公と魯の隠公が時来で会合した。
  • 鄭・斉・魯の連合軍が許を攻撃した。許の荘公は衛に亡命した。
  • 周の桓王が鄔・劉・蔿・&?の田土を鄭から召し上げ、代わりに蘇忿生の田土だった温・原・絺・樊・隰郕・欑茅・向・盟・州・陘・隤・懐を鄭に与えた。
  • 息が鄭を攻めて敗れた。
  • 鄭との軍が宋を攻めてこれを破った。
  • 魯の公子翬が隠公を寪氏の邸で殺害した。
紀元前711年
  • 魯の桓公が即位した。
  • 鄭の荘公と魯の桓公が垂で会合し、祊の田土と許の田土の交換について協議された。
  • 鄭の荘公と魯の桓公が越で会盟した
紀元前710年
  • 宋の華父督が孔父嘉を殺害してその妻を奪った。殤公の怒りを買ったため、殤公を殺害して公子馮を鄭から迎え、国君に立てた。
  • 蔡の桓侯と鄭の荘公が鄧で会合した。
  • 魯が杞を攻撃した。
  • 魯の桓公が戎と唐で盟を交わした。
  • 曲沃の武侯が翼を攻撃した。
紀元前709年
  • 曲沃の武侯が翼を攻撃し、晋の哀侯を捕らえた。
  • 斉の釐公と魯の桓公が嬴で会合した。
  • 斉の釐公と衛の宣公が蒲で約言した。
  • 魯の桓公と杞の武公が郕で会合した。
  • 魯の桓公が斉から文姜を妻に迎えた。
  • 芮伯万が母の芮姜に追放され、魏に入った。
紀元前708年
  • 曲沃の武侯が韓万に命じて晋の哀侯を殺させた。
  • 秦軍が芮に侵入して、敗れた。
  • 周と秦の軍が魏を包囲し、芮伯万を捕らえて凱旋した。
紀元前707年
  • 平王の孫の桓王は「繻葛の戦い」で一諸侯の鄭に敗れた事で諸侯に対する統制力を喪失した。
  • 陳で内乱が起こり、公子他が太子免を殺害した。桓公が死去し、陳公他が即位した。
  • 斉の釐公と鄭の荘公が紀におもむいた。
  • 蔡・衛・陳の軍が周の桓王に従って鄭を攻撃し、繻葛で会戦したが、王軍が敗れた。
  • 州の淳于公が曹に赴き、そのまま帰国しなかった。
紀元前706年
  • 楚の武王が随に侵入し、蔿章を派遣して和議を要求させた。随侯が季梁の進言を容れて統治を整えたので、楚軍は侵攻をとりやめた。
  • 魯の桓公と紀侯が成で会合した。
  • 北戎が斉を攻撃すると、斉の釐公は鄭に援軍を求めた。鄭の太子忽が斉を救援し、戎軍を破った。
  • 蔡の人が陳公他を殺害した。
紀元前705年
  • 盟と向は鄭に和議を求めていながら、鄭に叛いた。鄭・斉・衛の連合軍が盟と向を攻撃した。周の桓王は盟と向の民を郟に移させた。
  • 曲沃の武公は晋の小子侯を誘い出して殺害した。
紀元前704年
  • 楚の武王が随を攻撃し、速杞で会戦してこれを破った。
  • 周の桓王が虢仲に命じて哀侯の弟の晋侯緡を擁立させた。
紀元前703年
  • 紀の季姜が周の桓王に嫁いだ。
  • 鄧の南郊の鄾の人が楚の道朔と巴の使者を殺した。楚の鬬廉が軍を率いて巴軍とともに鄾を包囲し、鄧の援軍を撃破した。
  • 虢仲・芮伯・梁伯・荀侯・賈伯が曲沃を攻撃した。
  • 秦の寧公死去。
紀元前702年
  • 虢仲が詹父のことを周の桓王に讒言したが、詹父の主張が認められた。周軍がを攻撃し、虢公は虞に亡命した。
  • 秦が芮伯万を芮に帰国させた。
  • 虞叔が虞公を攻め、虞公は共池に亡命した。
  • 鄭・斉・衛の連合軍が魯に侵攻して郎で会戦した。
  • 曹の桓公死去。
紀元前701年
  • 斉・衛・鄭の大夫が悪曹で会盟した。
  • 楚の屈瑕が蒲騒で鄖軍を撃破し、貳・軫と盟を交わして凱旋した。
  • 鄭の荘公が死去し、祭仲は公子忽を国君に擁立した。宋の荘公が祭仲を誘い出して捕らえ、公子突を立てるよう祭仲に強要した。祭仲は公子突とともに帰国してこれを立てた。公子忽は衛に亡命した。
  • 宋の荘公・陳の利公・蔡叔(蔡の桓侯の弟)・魯の大夫の柔が折で会盟した。
  • 魯の桓公と宋の荘公が夫鍾で会合した。
  • 魯の桓公と宋の荘公が闞で会合した。
  • 鄭の荘公死去。
紀元前700年
  • 魯の桓公が杞侯・莒(きょ)子と曲池で会盟し、杞と莒(きょ)を講和させた。
  • 魯の桓公・宋の荘公・燕の大夫が穀丘で会盟した。
  • 魯の桓公と宋の荘公が虚で会合した。
  • 魯の桓公と宋の荘公が亀で会合した。
  • 魯の桓公と鄭の厲公が武父で会盟した。
  • 鄭軍が宋を攻撃した。魯軍は鄭について宋を攻めた。
  • 楚軍が絞を攻撃し、城下の盟を結ばせた。
  • 陳の利公死去。
  • 衛の宣公死去。
紀元前699年
  • 楚の屈瑕が羅を攻撃したが、羅と盧戎の連合軍に大敗を喫した。
  • 鄭の厲公・魯の桓公・紀侯が会合した。
  • 鄭・魯・紀の連合軍が斉・宋・衛・燕の連合軍と会戦し、斉・宋・衛・燕の軍は敗れた。
紀元前698年
  • 魯の桓公と鄭の厲公が曹で会合した。
  • 鄭の厲公の弟の公子語が魯に派遣されて盟を交わした。
  • 宋・斉・蔡・衛・陳の連合軍が鄭を攻撃した。
  • 斉の釐公死去。
  • 秦の出子死去。
  • 燕の宣侯死去。
紀元前697年
  • 夏四月己巳、斉國葬釐公、子の諸児(しょげい)が立って斉君(以降は襄公と表記)となった。
  • 鄭の厲公が祭仲を殺すよう雍糾に命じたが、かえって雍糾は祭仲に殺害され、厲公は蔡に亡命した。昭公が帰国して鄭の国君に立てられた。
  • 許の穆公が許に帰国して国君として立った。
  • 斉の襄公と魯の桓公が艾で会合した。
  • 鄭の厲公が櫟に入った。
  • 冬十一月、魯の桓公・宋の荘公・衛の恵公・陳の荘公が袲で会合した。
  • 斉の釐公死去。
  • 周の桓王死去。
紀元前696年
  • 魯の桓公・宋の荘公・蔡の桓侯・衛の恵公が曹で会合した。
  • 魯・宋・衛・陳・蔡の連合軍が鄭を攻撃した。
  • 衛の左公子洩と右公子職が公子黔牟を国君に擁立し、恵公が斉に亡命した。
紀元前695年
  • 斉の襄公・魯の桓公・紀侯が黄で会盟した。
  • 魯の桓公との安公が趡で会盟した。
  • 斉と魯の軍が奚で戦った。
  • 蔡の桓侯が死去し、弟の公子献舞が陳から帰国して国君に立てられた。
  • 魯・宋・衛の軍がを攻撃した。
  • 鄭の高渠弥が昭公を殺害して子亹を擁立した。
  • 蔡の桓侯死去。
  • 鄭の昭公死去。
紀元前694年
  • 斉の襄公と魯の桓公が濼で会合した。桓公と夫人の文姜は斉に赴いた。
  • 魯の桓公が斉で死去し、斉は公の車に同乗していた公子彭生を殺した。
  • 鄭の子亹と高渠弥(中国語版)が斉軍に殺され、祭仲が公子嬰を陳から迎えて鄭の国君に擁立した。
  • 周公黒肩が周の荘王を殺して王子克を擁立しようと図った。辛伯が荘王に報告し、周公黒肩を殺害した。王子克は燕に亡命した。
  • 魯の桓公死去。
紀元前693年
  • 魯の桓公の夫人の文姜が斉に逃れた。
  • 周の王姫が斉の襄公にとついだ。
  • 斉軍が紀の郱・鄑・郚を遷した。
  • 陳の荘公死去。
紀元前692年
  • 魯の公子慶父が軍を率いて余丘を攻撃した。
  • 斉の襄公と魯の桓公の夫人の文姜が禚で会合した。
  • 宋の荘公死去。
紀元前691年
  • 斉軍と魯の公子溺が衛を攻撃した。
  • 紀侯の弟の紀季が酅をもって斉に服属した。
  • 燕の桓侯死去。
紀元前690年
  • 斉の襄公・陳の宣公・鄭の子嬰が垂で会合した。
  • 紀侯は斉に服属せず、国を弟の紀季に譲った。
  • 楚の武王死去。
紀元前689年
  • 斉・魯・宋・陳・蔡の連合軍が衛の恵公を帰国させるために衛の黔牟を攻撃した。
紀元前688年
  • 周の子突が衛の黔牟を救援した。
  • 衛の恵公が入国し、黔牟を周に、甯跪を秦に追放し、左公子洩と右公子職を殺して復位した。
  • 楚軍が申を攻めた。
  • 楚軍が鄧を攻めた。
紀元前687年
  • 魯の桓公の夫人である文姜と斉の襄公が防で会合した。
  • 4月辛卯夜、流星雨があり、恒星が見えないほどの明るさであった。
  • 魯で洪水があり、麦が不作であった。
  • 文姜と斉の襄公が穀で会合した。
紀元前686年
  • 斉と魯の連合軍が郕を包囲し、郕は斉に降った。
  • 斉の公孫無知が襄公を殺害して斉侯として即位した。
  • 斉の管仲と召忽が公子糾(中国語版)を奉じて魯に亡命した。
  • 斉の襄公死去。
紀元前685年
  • 斉の雍廩が公孫無知を殺害した。
  • 魯の荘公が斉の大夫と既で盟を交わした。
  • 魯軍が斉を攻めて、公子糾を送り込もうとしたが、公子小白(桓公)が莒(きょ)から先に入国して斉侯として即位した。魯軍は斉軍と乾時で戦って敗れた。
  • 斉の鮑叔が魯に赴き、公子糾を殺すよう魯に要求した。魯は公子糾を生竇で殺した。鮑叔は管仲の身柄を魯から引き取ると、相とするよう桓公に推薦した。
  • 公子糾(中国語版)死去。
紀元前684年
  • 斉軍が魯に侵入した。魯軍は斉軍を長勺で撃退した。
  • 魯軍が宋に侵入した。
  • 宋が宿に遷都した。
  • 斉軍と宋軍が郎に宿営した。魯の公子偃が出撃して宋軍を乗丘で撃破すると、斉軍は撤退した。
  • 楚軍が蔡軍を莘で撃破した。蔡の哀侯が楚に連行された。
  • 斉軍が譚を滅ぼし、譚子は莒(きょ)に亡命した
紀元前683年
  • 宋軍が魯に侵入し、魯軍が宋軍を鄑で撃破した。
  • 宋で洪水が発生した。
  • 周の王女の共姫が斉の桓公にとついだ。
紀元前682年
  • 宋の南宮万が湣公を蒙沢で殺害し、さらに仇牧や太宰の華父督を殺して、宋子游を擁立した。宋の公子たちは蕭に逃れ、公子禦説は亳に逃れた。南宮牛と猛獲が軍を率いて亳を包囲した。
  • 宋の蕭叔大心と戴・武・宣・穆・荘の族たちが曹軍とともに南宮万を攻撃し、南宮牛を軍中で殺し、宋子游を宋の国都で殺して、公子禦説(桓公)を国君に擁立した。猛獲は衛に逃れ、南宮万は陳に逃れた。
  • 猛獲と南宮万の身柄がそれぞれ宋に引き渡され、殺害された。
  • 周の荘王死去。
  • 宋子游死去。
  • 南宮万(中国語版)死去。
紀元前681年
  • 斉の桓公と宋・陳・蔡・の大夫たちが北杏で会合した。
  • 斉軍が遂を滅ぼした。
  • 斉の桓公と魯の荘公が柯で会盟した。
紀元前680年
  • 斉・陳・曹の連合軍が宋を攻撃した。
  • 単伯が諸侯の連合軍に合流してともに宋を攻撃した。
  • 楚が蔡に攻め入った。
  • 櫟に逃れていた鄭の厲公が鄭に侵入して傅瑕を捕らえた。傅瑕が厲公を国君として迎えることを約束したため、厲公は傅瑕を釈放した。傅瑕は子嬰とその二子を殺害して厲公を迎え入れた。
  • 単伯・斉の桓公・宋の桓公・衛の恵公・鄭の厲公が鄄で会合した。
  • 鄭の子嬰死去。
  • 原繁(中国語版)死去。
紀元前679年
  • 斉の桓公・宋の桓公・陳の宣公・衛の恵公・鄭の厲公が鄄で会合した。
  • 斉・宋・の連合軍が郳を攻撃した。
  • 鄭軍が宋に侵入した。
  • 晋侯緡死去。
紀元前678年
  • 斉・宋・衛の連合軍が鄭を攻撃した。
  • 楚が鄭を攻撃し、櫟に達した。
  • 斉の桓公・魯の荘公・宋の桓公・陳の宣公・衛の恵公・鄭の厲公・許の穆公・滕の文公らが幽で同盟した。
  • 曲沃の武公が晋侯として冊命された。
  • 楚軍が鄧を攻め滅ぼした。
  • 秦の武公死去。
  • の安公死去。
紀元前677年
  • 斉の人が鄭の詹を捕らえた。
  • 遂の因氏・頜氏・工婁氏・須遂氏が斉の兵士をもてなし酔わせて皆殺しにした。
  • 鄭の詹が斉から逃れて魯に亡命した。
  • 周の釐王死去。
  • 晋の武公死去。
紀元前676年
  • 陳嬀(中国語版)が周の恵王にとついだ。
  • 戎が魯に侵入した。魯軍は済西で戎を撃退した。
  • 秦の徳公死去。
紀元前675年
  • 周の蔿国・辺伯・石速・詹父・子禽祝跪の5大夫が反乱を起こし、蘇氏を頼った。
  • 5大夫が王子頽(中国語版)を擁して恵王を討ったが敗れ、温に逃亡した。蘇子は王子頽を奉じて衛に逃れた。衛軍と燕軍が周を攻撃し、王子頽が周王に立てられた。
  • 斉・宋・陳の連合軍が魯の西郊を攻撃した。
  • 蔡の哀侯死去。
紀元前674年
  • 鄭の厲公は周王室の内紛を調停しようとしたが成功しなかった。
  • 斉で大火災があった。
  • 鄭の厲公は周の恵王とともに鄭に帰り、櫟にとどまった。
  • 周の恵王と鄭の厲公は鄔に攻め入り、成周に攻め入った。
  • 斉軍が戎を攻撃した。
紀元前673年
  • 鄭の厲公と虢公丑(中国語版)が弭で約言し、王子頽(中国語版)のいる王城を攻めた。鄭の厲公は恵王を擁して圉門から攻め入り、虢公丑は北門から攻め入って王子頽と5大夫を殺した。
  • 周の恵王が虢に巡幸した。虢公丑が玤に王宮を築いたので、恵王は虢公に酒泉を与えた。恵王は虢から帰国した。
  • 鄭の厲公死去。
  • 文姜死去。
  • 杞の共公死去。
紀元前672年
  • 陳の人が太子禦寇(中国語版)を殺した。陳完と顓孫が斉に亡命した。
  • 魯の荘公が斉の高傒と防で会盟した。
  • 楚の荘敖が弟の熊惲を殺そうとして失敗し、熊惲は随に亡命した。熊惲は随の国人の助けを借りて、堵敖を襲って殺害した。
  • 楚の荘敖死去。
紀元前671年
  • 斉の桓公と魯の荘公が穀で会合した。
  • 斉の桓公と魯の荘公が扈で会盟した。
  • 晋の士蔿が公子たちと謀って、富子を誣告し粛清した。
  • 曹の荘公死去。
紀元前670年
  • 魯の荘公が斉に赴き、哀姜を夫人に迎えた。
  • 戎が曹に侵攻した。
  • 曹の曹羈が陳に亡命した。
  • 公子夷(後の釐公)が曹に帰った。
  • 晋の士蔿が公子たちと謀って、游氏の二子を殺させた。
紀元前669年
  • 晋の士蔿が公子たちを使嗾して游氏の一族を皆殺しにし、聚に築城して公子たちを住まわせた。
  • 晋の献公が聚を包囲して、公子たちを皆殺しにした。
  • エサルハドン死去。
  • 衛の恵公死去。
紀元前668年
  • 晋の士蔿が大司空となった。
  • 士蔿が絳に築城した。
  • 斉・魯・宋の連合軍が徐を攻撃した。
  • 虢軍が晋に2度侵攻した。
紀元前667年
  • 斉の桓公・魯の荘公・宋の桓公・陳の宣公・鄭の文公が幽で同盟した。
  • 周の恵王が召伯廖を斉に派遣して衛を攻撃するよう依頼した。
  • 斉の桓公と魯の荘公が城濮で会見した。
紀元前666年
  • 斉軍が衛を攻撃し、衛軍を撃破した。
  • 晋の献公は驪姫の意を受けた梁五と東関五の進言に従い、太子申生を曲沃に、重耳を蒲城に、夷吾を屈に移させた。
  • 楚の令尹子元(中国語版)が鄭を攻撃し、桔柣門に侵入した。斉と宋の軍が鄭を救援したため、楚軍は夜間に逃走した。
  • 魯が郿に築城した。
  • 魯で飢饉が発生し、臧文仲(中国語版)が斉に食糧の援助を求めた。
  • の憲公死去。
紀元前665年
  • 鄭軍が許に侵攻した。
  • 周の樊皮(中国語版)が恵王に叛いた。
  • 紀叔姫死去。
紀元前664年
  • 周の恵王が虢公に命じて樊皮(中国語版)を討たせた。虢公は樊に入り、樊皮を捕らえて、王都に凱旋した。
  • 楚の申公鬬班(中国語版)が令尹子元(中国語版)を殺害し、鬬㝅於菟が令尹となった。
  • 斉軍が鄣を降した。
  • 斉の桓公と魯の荘公が魯済で会合し、燕を悩ませていた山戎を攻める相談をした。
  • ネコ1世死去。
  • 楚の子元(中国語版)死去。
紀元前663年
  • 斉の桓公が魯に戎人の捕虜を贈った。
  • 薛伯(中国語版)死去。
紀元前662年
  • 魯が管仲のために小穀を築城した。
  • 斉の桓公と宋の桓公が梁丘で会合した。
  • 魯の後継に慶父を推していた叔牙が季友に迫られて自殺した。魯の荘公が死去すると、季友の推す子斑が国君に立てられたが、慶父に殺害された。季友は陳に亡命し、閔公が擁立された。
  • 魯の荘公死去。
紀元前661年
  • 狄が邢を攻撃した。斉軍が邢を救援した。
  • 斉の桓公と魯の閔公が落姑で会盟した。魯の季友が帰国した。
  • 晋の献公が二軍を作り、公自らが上軍を率い、太子申生に下軍を率いさせた。趙夙を御戎とし、畢万を右として、耿・霍・魏を滅ぼした。帰国すると、太子申生に命じて曲沃に築城させた。趙夙に耿を、畢万に魏を与えて、大夫とした。
紀元前660年 (特記がない限り『春秋左氏伝』閔公2年の記述にもとづく。)
  • 犬戎を渭汭で破った。の舟之僑が晋に亡命した。
  • 魯の慶父閔公を殺害した。慶父は莒(きょ)に、哀姜に亡命した。
  • 斉の高子が魯に赴いて盟を交わした。
  • 狄が衛を攻撃し、熒沢で衛軍を破り、衛を滅ぼした。懿公は殺害された。斉の桓公は曹に衛の遺民を集めて戴公を擁立させた。
  • 鄭の高克が陳に亡命した
  • 晋の献公が太子申生(中国語版)に東山皋落氏を攻めさせた。
  • 魯の閔公死去。
  • 秦の成公死去。
  • 衛の懿公死去。
  • 衛の戴公死去。
紀元前659年
  • 斉・宋・曹の連合軍が聶北に宿営し、邢を救援した。
  • 邢が夷儀に国を遷し、斉・宋・曹の連合軍が邢のために築城した。
  • 楚が鄭を攻撃した。
  • 斉の桓公・魯の僖公・宋の桓公、鄭の文公・曹の昭公・人が檉で盟を交わした。
  • 魯軍が軍を偃で撃破した。
  • 魯の季友が軍を率いて莒軍を酈で破り、莒拏を捕らえた。
  • 魯の哀姜死去。
紀元前658年
  • 諸侯が衛のために楚丘に築城した。
  • 晋の里克と荀息が虞に道を借りて虢を攻撃し、下陽を滅ぼした。
  • 斉の桓公・宋の桓公・江人・黄人が貫で会盟した。
  • 虢が桑田で戎を破った。
  • 楚軍が鄭に侵攻し、楚の鬬章(中国語版)が鄭の聃伯を捕らえた。
  • 燕の荘公死去。
紀元前657年
  • 徐が舒を奪った。
  • 斉の桓公・宋の桓公・江人・黄人が陽穀で会合し、楚を攻撃する相談をした。
  • 魯の季友が斉に赴き、盟を交わした。
  • 楚軍が鄭を攻撃した。
  • 斉の桓公が蔡姫を国に帰した。離婚の手続きがおこなわれないうちに、蔡の人は彼女を再婚させた。
紀元前656年
  • 斉・魯・宋・陳・衛・鄭・許・曹の連合軍が蔡に侵攻した。蔡が敗れると、諸侯はさらに楚を攻撃した。
  • 楚の成王が屈完(中国語版)を派遣して諸侯と盟を交わさせた。
  • 斉を中心とする諸侯の軍が陳を攻撃し、轅濤塗を捕らえた。
  • 晋の献公の夫人の驪姫が奚斉を太子に立てようと太子申生を讒言した。申生は新城に逃れて自殺した。驪姫がさらに二公子を讒言したため、重耳は蒲に逃れ、夷吾は屈に逃れた(驪姫の乱)。
  • 許の穆侯死去。
  • 申生死去。
紀元前655年
  • 晋の献公が勃鞮を派遣して蒲を攻撃させた。重耳は翟に逃れた。
  • 斉の桓公・魯の僖公・宋の桓公・陳の宣公・衛の文公・鄭の文公・許の僖公・曹の昭公・周の世子鄭が首止で会合した。諸侯は首止で盟を交わしたが、鄭の文公は盟に参加せずに逃げ帰った。
  • 楚の鬬㝅於菟が軍を率いて弦を滅ぼし、弦子は黄に亡命した。
  • 晋軍が虞に道を借りて虢を攻撃した。虞公は宮之奇の諫言を聞き入れなかった。
  • 晋が虢を滅ぼし、虢公丑が王都に逃れた。
  • 晋軍が虢からの帰途に虞を襲撃し、虞公と井伯を捕らえた。
紀元前654年
  • 晋の献公が賈華を派遣して屈を攻撃させた。夷吾は狄に逃れようとしたが、郤芮の助言に従って梁に逃れた。
  • 斉・魯・宋・陳・衛・曹の連合軍が鄭を攻撃し、新密を包囲した。
  • 楚軍が鄭を救うため許を包囲した。斉を中心とする諸侯の連合軍は許を救援して、帰還した。
  • 許の僖公が捕縛されて楚の成王に武城で面会した。成王は逢伯の進言を容れて、僖公の縛めを解き、帰国させた。
紀元前653年
  • 斉軍が鄭を攻撃した。鄭は申侯を殺して斉に陳謝した。
  • 斉の桓公・魯の僖公・宋の桓公・陳の世子款・鄭の太子華(中国語版)が甯母で会盟した。
  • 晋の里克が軍を率いて狄を攻撃し、采桑でこれを破った。
  • 曹の昭公死去。
  • 周の恵王死去。
紀元前652年
  • 斉の桓公・魯の僖公・宋の桓公・衛の文公・許の僖公・曹の共公・陳の世子款が洮で会盟した。
  • 狄が晋を攻撃した。
紀元前651年
  • 周の宰孔・斉の桓公・魯の僖公・宋の桓公・衛の文公・鄭の文公・許の僖公・曹の共公が葵丘で会盟した。
  • 晋の献公が死去し、里克と丕鄭が重耳を迎えようとして乱を起こした。里克は献公の子の奚斉を殺した。荀息が卓子を国君に迎えた。里克が卓子を殺すと、荀息は殉死した。
  • 斉の桓公が晋の乱を収拾するべく諸侯の軍を率いて晋を攻撃し、高梁まで進軍して帰還した。
  • 晋の夷吾が郤芮の助言に従って秦に黄河西岸の5城の割譲を約束し、帰国の援助を得た。斉の隰朋(中国語版)が軍を率いて秦軍と合流し、夷吾を晋に帰国させた。夷吾は国君として即位した。これが晋の恵公である。
  • 宋の襄公が即位し、庶兄の目夷(中国語版)を左師として国政を委ねた。
  • 宋の桓公死去。
  • 晋の献公死去。
  • 驪姫死去。
  • 奚斉死去。
  • 卓子死去。
  • 荀息死去。
紀元前650年
  • 狄が温を滅ぼした。温の蘇子は衛に亡命した。
  • 晋の恵公が即位し、里克を殺害した。
  • 斉と許が北戎を攻撃した。
  • 晋の丕鄭が秦から帰国し、呂甥・郤称・郤芮を秦に誘った。郤芮が丕鄭・祁挙および七輿大夫を殺害した。
  • 里克死去。
  • 丕鄭死去。
紀元前649年
  • 揚・拒・泉・皋・伊・雒の戎が連合して周を攻撃し、王城に侵入してその東門を焼いた。諸戎の侵攻は王子帯の招いたものであった。秦と晋が戎を討ち、周を救援した。
  • 晋の恵公が周と戎を講和させた。
  • 楚軍が黄を攻撃した。
紀元前648年
  • 楚軍が黄を滅ぼした。
  • 周の襄王が王子帯を討ち、王子帯は斉に亡命した
  • 斉の桓公が管仲を派遣して周と戎を講和させ、さらに隰朋(中国語版)を派遣して晋と戎を講和させた。管仲は下卿の礼を受けて帰国した。
  • 陳の宣公死去。
紀元前647年
  • 狄が衛に侵攻した。
  • 斉の桓公・魯の僖公・宋の襄公・陳の穆公・衛の文公・鄭の文公・許の僖公・曹の共公らが鹹で会合した。
  • 晋で飢饉が起こったため、秦に食糧の援助を求めた。秦の穆公はこれに応じて晋に食糧を輸送させた。
紀元前646年
  • 諸侯が縁陵に築城し、杞をこの地に遷した。
  • 沙鹿で山崩れが起こった。
  • 狄が鄭に進入した。
  • 秦で飢饉が起こり、晋に食糧の援助を求めたが、晋の恵公はこれに応じなかった。
  • 蔡の穆侯死去。
紀元前645年
  • 楚軍が徐を攻撃した。
  • 斉の桓公・魯の僖公・宋の襄公・陳の穆公・衛の文公・鄭の文公・許の僖公・曹の共公らが牡丘で会盟し、匡に宿営した。諸侯の連合軍が徐を救援した。
  • 斉と曹の軍が厲を攻撃した。
  • 宋軍が曹を攻撃した。
  • 楚軍が婁林で徐軍を撃破した。
  • 晋と秦の軍が韓で戦い、晋の恵公が捕らえられた(韓原の戦い)。
  • 管仲死去。
紀元前644年
  • 宋に隕石5個が落下した。
  • 斉軍が厲を攻撃したが、攻略できず、徐を救援して帰国した。
  • 狄が晋に侵入して、狐・厨・受鐸・渉汾を奪い、昆都に達した。
  • 斉の桓公・魯の僖公・宋の襄公・陳の穆公・衛の文公・鄭の文公・許の僖公・曹の共公らが淮で会合し、鄫に築城した。
  • 季友死去。
  • 公孫茲(中国語版)死去。
  • 太子華(中国語版)死去。
紀元前643年
  • 斉が徐のために英氏を攻撃した。
  • 晋の太子圉が人質となるため秦に赴いた。
  • 魯が項を滅ぼした。
  • 斉の桓公が死去すると、易牙が豎刁とともに大夫たちを殺し、公子無詭を擁立した。太子昭(後の孝公)は宋に亡命した。
  • 斉の桓公死去。
紀元前642年
  • 宋・曹・衛・の連合軍が斉を攻撃した。 斉の人が斉侯無詭を殺害し、 5人の公子が斉侯の座を争った。 宋軍が4公子の軍を甗で破り、孝公が即位した。
  • 邢と狄の軍が衛を攻撃し、菟圃を包囲した。
  • 斉侯無詭死去。
紀元前641年
  • 宋が滕(とう)(1488)の宣公を捕らえた。
  • 宋の襄公は鄫子(鄫の君主)を次睢の社で犠牲に捧げるようの文公に命じた。
  • 宋軍が曹を包囲した。
  • 衛軍が邢を攻撃した。
  • 陳・蔡・楚・鄭の大夫が斉で盟を交わした。
  • 秦が梁を滅ぼした。
紀元前640年
  • 滑が鄭から離反して衛に服属したため、鄭の公子士と洩堵寇が軍を率いて滑に攻め入った。
  • 斉と狄が邢で盟を交わした。
  • 随が漢水以東の諸侯とともに楚から離反した。楚の鬬㝅於菟が軍を率いて随を攻撃した。
紀元前639年
  • 狄が衛に侵攻した。
  • 宋・斉・楚の大夫が鹿上で盟を交わした。
  • 宋・楚・陳・蔡・鄭・許・曹の諸侯が盂で会合した。楚が宋の襄公を捕らえ、宋に侵攻した。
  • 諸侯が薄に会合して盟を交わし、宋の襄公を釈放した。
紀元前638年
  • 魯がを攻撃し、須句を奪った。
  • 鄭の文公が楚に赴くと、宋・衛・許・滕が鄭を攻撃した。
  • 秦と晋が陸渾の戎を伊川に移した。
  • 秦に人質となっていた晋の太子圉が母国に逃げ帰った。
  • 周の王子帯が斉から呼び戻された。
  • 魯との軍が升陘で戦い、魯軍が敗れた。
  • 楚軍が宋を攻撃して、鄭を救援した。宋の襄公は泓水で楚軍が渡河し終わるのを待って攻撃をしかけて大敗を喫した(泓水の戦い、宋襄の仁)。
  • 楚の成王が柯沢で鄭の文公の夫人たちと面会すると、戦場で切り取った耳を夫人たちに見せた。
紀元前637年
  • 斉軍が宋を攻撃し、緡を包囲した。
  • 楚の成得臣が軍を率いて陳を攻撃し、焦・夷を占領し、頓に築城して凱旋した。
  • 晋の恵公が死去し、懐公が即位した。懐公は狐突を殺害した。
  • 宋の襄公死去。
  • 晋の恵公死去。
  • 杞の成公死去。
  • 狐突死去。
紀元前636年
  • 秦の穆公が晋の公子重耳の帰国を援助した。重耳は曲沃に入り、高梁で懐公を殺害した。重耳は晋侯として即位した。(晋の文公)
  • 周の襄王が狄に依頼して鄭を攻めさせた。
  • 鄭の文公が子臧(中国語版)を殺害させた。
  • 宋が楚と講和し、宋の成公は楚に赴いた。
  • 晋の懐公死去。
紀元前635年
  • 衛が邢を攻め滅ぼした。
  • 晋の文公が周の王子帯を捕らえて殺害し、襄王の帰国を援助した。
  • 秦と晋が鄀を攻撃した。楚の鬬克と屈禦寇(中国語版)が申と息の軍を率いて商密を守った。
  • 楚の成得臣が陳を包囲し、頓子を頓に送り込んだ。
  • 晋の文公が原を包囲したが、原が屈しなかったので撤退した。1舎退くと原は降伏した。
  • 衛の仲介で魯と莒が講和し、洮で盟を交わした。
  • 衛の文公死去。
紀元前634年
  • 魯の僖公・莒の茲平公・衛の甯遫(甯荘子)が向で盟を交わした。
  • 斉軍が魯の北辺を侵犯した。
  • 衛軍が斉を攻撃した。
  • 楚の成得臣と鬬宜申(中国語版)が軍を率いて夔を滅ぼした。
  • 宋が楚から離反して晋についたため、楚の成得臣と鬬宜申は軍を率いて宋に侵攻し、緡を包囲した。
  • 魯は楚の援軍を得て斉に侵攻し、穀を占領した。
紀元前633年
  • 魯の東門襄仲(中国語版)(公子遂)が軍を率いて杞に侵攻した。
  • 楚・陳・蔡・鄭・許の連合軍が宋を包囲した。
  • 斉の孝公死去。
紀元前632年
  • 晋軍が曹に侵攻した。
  • 晋軍が衛を攻撃して五鹿を占領した。
  • 晋の文公と斉の昭公が斂盂で盟を交わした。
  • 楚や魯が衛に救援の軍を送った。
  • 魯で衛への援軍に派遣された公子買(中国語版)が処刑された。
  • 宋が楚軍に包囲され、晋に救援を求めた。
  • 晋は曹の共公を捕らえ、曹と衛の田土の一部を宋に与えた。
  • 晋軍が城濮で楚軍を撃破した(城濮の戦い)。
  • 衛の成公が楚に亡命した。
  • 晋の文公・魯の僖公・斉の昭公・宋の成公・蔡の荘侯・鄭の文公らが践土で盟を交わした。
  • 晋の文公は衛の成公の帰国を認め、宛濮で盟を交わした。
  • 衛の元咺が晋に亡命した。
  • 晋の文公・魯の僖公・斉の昭公・宋の成公・蔡の荘侯・鄭の文公・陳の共公らが温で会合した。
  • 晋で衛の成公と元咺とのあいだに訴訟が起こり、成公は敗訴して逮捕され、元咺は帰国した。
  • 晋を中心とする諸侯の軍が許を包囲した。
  • 晋が曹の共公を復帰させた。
  • 郤縠(中国語版)死去。
  • 成得臣死去。
  • 陳の穆公死去。
  • 叔武(中国語版)死去。
紀元前631年
  • 周の王子虎(中国語版)・晋の狐偃・魯の僖公・宋の公孫固(中国語版)・斉の国帰父(中国語版)・陳の轅濤塗・秦の小子憖(中国語版)らが翟泉で盟を交わした。
紀元前630年
  • 狄が斉に侵入した。
  • 衛の成公が釈放されて帰国した。
  • 晋と秦が連合して鄭を包囲した。鄭の石甲父と侯宣多が公子蘭を迎えて太子に立て、晋に和議を申し入れると、晋はこれを受諾した。
紀元前629年
  • 魯が曹から済西の田土を割譲された。
  • 晋が上下2軍を新設して5軍体制に改めた。
  • 晋の趙衰が卿となった。
  • 狄が衛を包囲し、衛は帝丘に遷都した。
  • 鄭の公子瑕(中国語版)が楚に亡命した。
紀元前628年
  • 楚の鬬章が晋に赴いて講和を申し出ると、晋の陽処父(中国語版)が答礼に楚へ赴いた。
  • 衛軍が狄の内乱に乗じて狄に侵攻した。狄が講和を申し出ると、衛は狄と盟を交わした。
  • 秦軍が鄭を攻撃するために進発した。
  • 鄭の文公死去。
  • 晋の文公死去。
紀元前627年
  • 秦軍が滑を滅ぼした。
  • 晋と姜戎が連合して秦軍を殽で撃破した。
  • 狄が斉に侵入した。
  • 魯軍が侵攻して、訾婁を奪った。
  • 晋・陳・鄭が連合して許に侵攻した。
  • 楚の令尹の鬬勃(中国語版)が陳と蔡に侵攻してこれを降した。
  • 楚の鬬勃が公子瑕を送るために鄭に侵攻したが、公子瑕は桔柣門で鄭人に殺された。
  • 晋の陽処父(中国語版)が蔡に侵攻したので、楚の鬬勃は蔡の救援に赴き、晋軍と泜水を挟んで対峙した。両軍は戦わずに退却したが、鬬勃は賄賂を受けて戦闘を避けたと中傷され、処刑された。
  • 魯の僖公死去。
紀元前626年
  • 晋の先且居(中国語版)・胥臣(中国語版)が軍を率いて衛に侵攻した。晋軍は戚を包囲し、占領した。
  • 楚の太子商臣が挙兵して成王を包囲し、王を自殺させた。
  • 楚の成王死去。
紀元前625年
  • 秦の孟明視(中国語版)が軍を率いて晋に侵攻したが、先且居(中国語版)の率いる晋の中軍と彭衙で会戦して敗退した。
  • 魯の文公が晋に赴いて陽処父(中国語版)と盟を交わした。
  • 晋の士縠(中国語版)・魯の公孫敖(中国語版)(孟穆伯)・宋の成公・陳の共公・鄭の穆公が垂隴で盟を交わした。
  • 晋の先且居・宋の公子成・陳の轅選(中国語版)・鄭の公子帰生(中国語版)が連合して秦に侵攻し、汪と彭衙を占領した
紀元前624年
  • 晋・魯・宋・陳・衛・鄭が連合して沈に侵攻し、大勝をおさめた。
  • 秦軍が晋に侵攻して、王官と郊を占領した。
  • 楚軍が江を包囲したため、晋の先僕が楚に侵攻して江を救援しようとした。
  • 魯の文公が晋に赴き、晋の襄公と盟を交わした。
  • 釈迦誕生。(南伝説による)
  • 王叔の文公死去。
紀元前623年
  • 晋が孔達を釈放し、衛に帰国させた。
  • 晋軍が秦に侵攻し、邧と新城を包囲した。
  • 楚軍が江を滅ぼした。
  • 成風死去。(中国語版)
紀元前622年
  • 秦軍が鄀に侵攻した。
  • 楚軍が六を滅ぼした。
  • 許の僖公死去。
  • 晋の政治家・趙衰死去。(趙成子)
  • 欒枝死去。(欒貞子)
  • 先且居死去。(霍伯)
  • 胥臣死去。(臼季)
紀元前621年
  • 晋の五軍のうち二軍を廃止した。狐射姑を中軍の将とし、趙盾を中軍の佐としたが、陽処父が両者の地位を入れ替えた。
  • 晋の趙盾が執政をはじめた。
  • 晋の襄公が死去したため、趙盾は公子雍を国君に迎えようとした。
  • 晋の狐射姑がその弟の狐鞫居に命じて陽処父を殺害させた。狐鞫居は殺され、狐射姑は狄に亡命した。
  • 晋の襄公死去。
  • 秦の穆公死去。
紀元前620年
  • 魯が侵攻し、須句を奪った。
  • 宋の成公が死去し、昭公が即位すると、公族たちを粛清しようとした。穆・襄の族たちは、国人を率いて昭公を攻撃し、公孫固や公孫鄭を公宮で殺害した。
  • 秦が晋の公子雍の帰国を援助した。晋の趙盾や大夫たちは穆嬴を恐れて太子夷皋を即位させた。趙盾は秦軍を令狐で撃破した。先蔑や士会は秦に亡命した。
  • 晋の趙盾・斉の昭公・宋の昭公・衛の成公・陳の共公・鄭の穆公らが扈で会合して盟を交わした。
  • 宋の成公死去。
紀元前619年
  • 晋の霊公は解揚を派遣して匡・戚の田地を衛に返還し、公婿池の封土となっていた申から虎牢までの地を鄭に返還した。
  • 秦軍が晋に侵攻して、武城を奪った。
  • 晋の趙孟と魯の襄仲が衡雍で会合して盟を交わした。
  • 宋の襄夫人が戴氏の族を動員して、孔叔や公孫鍾離や公子卬らを殺害した。司城の蕩意諸は魯に亡命した。
  • 晋で箕鄭父・先都・士縠・梁益耳・蒯得らが反乱を起こした。
  • 周の襄王死去。
紀元前618年
  • 晋で先克が反乱軍に殺害された。反乱側の先都と梁益耳も殺された。
  • 晋で反乱が鎮圧され、箕鄭父・士縠・蒯得は殺された。
  • 楚軍が狼淵に進出して鄭を攻撃した。鄭は楚に屈服した。
  • 晋の趙盾・魯の公子遂・宋の華耦・衛の孔達らが会合して鄭を救援しようとしたが、間に合わなかった。
  • 楚軍が陳の壺丘を攻略した。
  • 楚の公子朱が陳を攻撃し、陳軍はこれに敗れた。陳は楚に屈服した。
  • 先克死去。(中国語版)
  • 先都死去。(中国語版)
  • 梁益耳死去。(中国語版)
  • 箕鄭父死去。(中国語版)
  • 《死去》士縠死去(中国語版)。蒯得。
紀元前617年
  • 晋が秦に侵攻し、少梁を奪った。
  • 秦が晋に侵攻し、北徴を奪った。
  • 楚の穆王が鬬宜申と仲帰を誅殺した。
  • 魯の文公が女栗で蘇子と盟を交わした。
  • 狄が宋に侵攻した。
  • 楚の穆王・陳の共公・鄭の穆公・蔡の荘侯が厥貉に宿営して宋に侵攻しようとした。宋の昭公は楚に屈服した。
  • 《死去》臧孫辰。
紀元前616年
  • 楚軍が麇に侵攻し、成大心が麇軍を防渚で撃破した。潘崇が再び麇に侵攻し、鍚穴に達した。
  • 鄋瞞(長狄の一支族の国)軍が斉に侵攻し、ついで魯に侵攻した。魯の叔孫得臣が鹹で鄋瞞軍を撃破した。
紀元前615年
  • 郕の太子朱儒が魯に亡命した。
  • 楚の成嘉が令尹となった。舒の諸国が楚から離反すると、成嘉は舒子平と一族を捕らえ、巣を包囲した。
  • 秦軍が晋に侵攻し、羈馬を占領した。両軍は河曲で会戦し、秦軍は退却した。
  • 秦軍が晋に侵攻し、瑕を攻撃した。
紀元前614年
  • 晋の詹嘉が瑕に駐屯し、桃林の塞を守備した。
  • 士会が秦から晋に帰国した。
  • が繹に遷都した。
  • 狄が衛に侵攻した。
  • 《死去》陳の共公。の文公。楚の穆王
紀元前613年
  • 軍が魯の南郊に侵攻した。魯の叔彭生が軍を率いて侵攻した。
  • 晋の趙盾・魯の文公・宋の昭公・陳の霊公・衛の成公・鄭の穆公・許の昭公・曹の文公が新城で同盟を結んだ。
  • 斉の昭公が死去して斉君舎が即位したが、公子商人(懿公)が斉君舎を殺して自ら即位した。
  • 晋の趙盾が周の周公閲と王孫蘇の争いを調停した。
  • 楚の成嘉(子孔)と潘崇が舒蓼に侵攻した。都の郢の留守をつとめていた公子燮と鬬克(子儀)が反乱を起こしたが敗死した。
  • 宋の高哀が魯に亡命した。
  • 単伯が魯の意を受けて、子叔姫の身柄を引き渡すよう斉に求めたが、斉は単伯を捕らえ、子叔姫をも捕らえた。
  • 《死去》周の頃王。斉の昭公。
紀元前612年
  • 宋の華耦が魯を訪れて盟を交わした。
  • 晋の郤缺が軍を率いて蔡に侵攻した。
  • 斉軍が魯の西郊に侵攻した。
  • 晋の霊公・宋の昭公・衛の成公・蔡の荘侯・鄭の穆公・許の昭公・曹の文公が扈で盟を交わした。
  • 斉軍が曹に侵攻した。
  • 《死去》蔡の荘侯。
紀元前611年
  • 斉の懿公と魯の季孫行父が陽穀で会合したが、懿公は盟を拒否した。
  • 斉の懿公と魯の公子遂が郪丘で盟を交わした。
  • 楚軍が庸に侵攻し、これを滅亡させた。
  • 宋の襄夫人が帥甸の官を動員して昭公を攻め殺させた。
  • 《死去》声姜(魯の僖公の夫人)。宋の昭公。
紀元前610年
  • 晋の荀林父・衛の孔達・陳の公孫寧・鄭の石楚が軍を率いて宋を攻撃し、昭公殺害の罪をとがめた。
  • 斉が魯の北郊に侵攻し、両国は穀で盟を交わした。
  • 晋の霊公が黄父で閲兵をおこない、扈に諸侯を召集した。
  • 周の甘歜が邥垂で戎を撃破した。
  • 鄭の太子夷と石楚が晋への人質として送られた。
紀元前609年
  • 斉の懿公が殺害され、恵公が衛から迎えられて即位した。
  • 莒の太子僕が紀公を殺害し、魯に亡命した。魯の季孫行父は太子僕を追放した。
  • 宋で武氏の族が反乱を起こしたが鎮圧され、武氏と穆氏は追放された。
  • 《死去》魯の文公。斉の懿公。秦の康公。
紀元前608年
  • 晋が胥甲を衛に追放した。
  • 斉の恵公と魯の宣公が平州で会合した。
  • 魯が済西の田地を斉に割譲した。
  • 楚軍が陳に侵入し、次いで宋を侵した。晋の趙盾が軍を率いて陳と宋を救援した。
  • 宋・陳・衛・曹の軍が晋軍と棐林で合流し、鄭を攻撃した。
  • 晋の趙穿が軍を率いて崇に侵攻した。
紀元前607年
  • 宋の華元率いる軍と鄭の子家(公子帰生)率いる軍とが大棘で会戦し、宋軍が敗れて華元が捕らえられた。
  • 秦軍が晋に侵入し、焦を包囲した。趙盾が焦を救援した。
  • 晋の趙盾が宋・衛・陳の諸侯の軍を率いて鄭に侵攻した。
  • 晋の趙穿が霊公を殺害した。太史の董狐は「趙盾、その君を弑す」と記録した。
  • 《死去》周の匡王。晋の霊公。
紀元前606年
  • 楚の荘王が陸渾の戎を攻めて洛水に達し、周の九鼎の軽重を問うた。
  • 楚軍が鄭に侵攻した。
  • 赤狄が斉に侵攻した。
  • 宋軍が曹を包囲した。
  • 《死去》鄭の穆公。
紀元前605年
  • 斉と魯が莒と郯のあいだの講和を仲介しようとした。莒が講和を拒否したため、魯が莒を攻め、向を奪った。
  • 鄭の子公(公子宋)と子家(公子帰生)が霊公を殺害した。
  • 赤狄が斉に侵攻した。
  • 楚で若敖氏の反乱が起こった。荘王は皋滸で会戦して若敖氏を滅ぼした。
  • 《死去》鄭の霊公。
紀元前604年
  • 斉の高固が魯の叔姫を妻に迎えた。
  • 楚軍が鄭に侵攻した。晋の荀林父は鄭を救援し、陳に侵攻した。
  • 《死去》魯の叔孫得臣。秦の共公。
紀元前603年
  • 晋の趙盾と衛の孫免の連合軍が陳に侵攻した。
  • 周の定王が子服を斉に派遣して后を求めさせた。
  • 赤狄が晋に侵攻し、懐と邢丘を包囲した。
  • 楚軍が鄭に侵攻し、厲で和議を結んで凱旋した。
紀元前602年
  • 衛の成公が孫良夫を魯に派遣して盟を交わさせた。
  • 斉と魯の連合軍が莱を攻撃した。
  • 晋の成公・魯の宣公・宋の文公・衛の成公・鄭の襄公・曹の文公が黒壌で会合した。
紀元前601年
  • 晋と白狄の連合軍が秦を攻撃した。
  • 楚が舒蓼を滅ぼした。
  • 楚軍が陳を攻撃した。
  • 《死去》魯の東門襄仲(公子遂)。魯の敬嬴。
紀元前600年
  • 魯が根牟を奪った。
  • 晋の成公・宋の文公・衛の成公・鄭の襄公・曹の文公が扈で会合した。
  • 晋の荀林父が軍を率いて陳を攻撃した。
  • 宋軍が滕を包囲した。
  • 楚軍が鄭を攻撃した。
  • 晋の郤缺が軍を率いて鄭を救援した。
  • 陳の孔寧・儀行父らが洩冶を殺害した。
  • 《死去》滕の昭公。晋の成公。衛の成公。
紀元前599年
  • 斉が済西の田地を魯に返還した。
  • 斉の崔杼が衛に亡命した。
  • 陳の夏徴舒が霊公を殺害した。
  • 宋軍が滕に侵攻した。
  • 鄭が楚についたことから、晋・宋・衛・曹の連合軍が鄭を攻撃し、和約を結んで引き揚げた。
  • 魯の公孫帰父が軍を率いて侵攻し、繹を奪った。
  • 楚軍が鄭に侵入すると、晋の士会が鄭を救援し、楚軍を潁北に追撃した。
  • 《死去》斉の恵公。陳の霊公。
紀元前598年
  • 楚軍が鄭に侵攻し、櫟に達した。鄭は楚に屈服した。
  • 楚・陳・鄭が辰陵で盟を交わした。
  • 楚の左尹の子重(公子嬰斉)が宋に侵攻した。
  • 楚の令尹の孫叔敖が沂に築城した。
  • 晋の景公が欑函で狄と会合した。
  • 楚軍が陳の夏徴舒の乱を討ち、夏徴舒を殺害した。楚の荘王はひとたび陳を楚の県として編入したが、申叔時の諫めをいれて、陳の成公を迎え、陳を復国させた。
  • 《死去》夏徴舒。
紀元前597年
  • 楚軍が鄭を包囲し、鄭は楚に降った。
  • 鄭の救援に出動した晋軍は、楚軍と邲で会戦して大敗した(邲の戦い)。
  • 楚軍が蕭を滅ぼした。
  • 晋・宋・衛・曹が清丘で同盟した。
  • 宋軍が陳に侵攻し、衛が陳を救援した。
紀元前596年
  • 斉軍が莒に侵攻した。
  • 楚軍が宋に侵攻した。
  • 赤狄が晋に侵攻した。
  • 晋は先年の邲の戦いの敗戦の罪を先縠に負わせて処断した。
  • 晋は衛が陳を救援したことを清丘の盟の違反として咎めた。
  • 《死去》先縠。
紀元前595年
  • 衛の孔達が自殺し、晋への申し開きとすることで、晋の侵攻を免れた。
  • 晋が鄭に侵攻した。
  • 楚の荘王が斉への使者として申舟を送ったが、申舟は宋の人に殺害された。これを名分に楚が宋に侵攻し、これを包囲した。
  • 魯の公孫帰父が斉の頃公と穀で会合し、晏弱と会見した。
  • 《死去》曹の文公。
紀元前594年
  • 魯の公孫帰父が宋を包囲中の楚の荘王と会合した。
  • 宋が楚と講和し、華元が人質として楚に入った。
  • 晋の荀林父が赤狄を曲梁で破り、潞を滅ぼした。
  • 周の王孫蘇が召氏や毛氏と政権を争い、王子捷に召戴公や毛伯衛を殺させ、召襄(召桓公)を立てた。
  • 秦の桓公が晋に侵攻した。晋の魏顆(令狐顆)が輔氏で秦軍を撃破した。
  • 魯の仲孫蔑が斉の高固と無婁で会合した。
  • 《死去》酆舒。召戴公。毛伯衛
紀元前593年
  • 晋の士会が軍を率いて赤狄の甲氏・留吁・鐸辰を滅ぼした。
  • 晋の景公は士会を派遣して周王室の内紛を調停させた。
紀元前592年
  • 晋・魯・衛・曹・が断道で同盟した。
  • 晋の士会が致仕を願い出て、郤克が政権を握った。
  • 《死去》蔡の文侯。許の昭公。魯の叔肸
紀元前591年
  • 晋と衛の連合軍が斉を攻撃し、陽穀に達した。斉の頃公は晋の景公と繒で盟を交わし、公子彊を人質として晋に送ったので、晋軍は凱旋した。
  • 魯の宣公の使者が楚に赴いて出兵を請い、斉に侵攻しようとした。
  • の人が鄫の君主を鄫で殺害した。
  • 魯の公孫帰父が斉に亡命した。
  • 《死去》楚の荘王。魯の宣公。
紀元前590年
  • 晋の景公が瑕嘉を派遣して周と戎の争いを調停させた。
  • 劉康公が茅戎を攻撃し、徐吾氏で敗北した。
  • 魯が斉の侵入に備えて丘甲の制を定めた。
  • 魯の臧許(臧宣叔)が晋の景公と赤棘で盟を交わした。
紀元前589年
  • 斉軍が魯の北郊に侵攻し、龍を攻め落とし、巣丘に達した。
  • 衛の孫良夫・石稷・甯相・向禽らが魯を救援するために斉に侵入し、新築で敗戦した。
  • 晋の郤克・衛の孫良夫・曹の公子首らが魯を救援するために出兵し、斉軍と鞍で戦ってこれを破った。
  • 斉の頃公は国佐を晋軍のもとに派遣して講和を求めた。晋の郤克はこれに応じ、国佐と袁婁で盟を交わした。斉は汶陽の田地を魯に返還した。
  • 楚と鄭の軍が衛に侵攻した。
  • 楚の子重(公子嬰斉)・魯の成公・蔡の景侯・許の霊公・秦の右大夫説・宋の華元・陳の公孫寧・衛の孫良夫・鄭の公子去疾・斉の大夫らが蜀で盟を交わした。
  • 晋の景公は鞏朔を周に派遣して斉の捕虜を献上させようとしたが、定王はその非礼を咎めて面会しなかった。
  • 《死去》宋の文公。衛の穆公。
紀元前588年
  • 晋・魯・宋・衛・曹が連合して鄭を攻撃した。鄭の子游(公子偃)が迎撃し、丘輿で諸侯の軍を破った。
  • 鄭の子良(公子去疾)が軍を率いて許を攻撃した。
  • 晋が楚の公子穀臣と連尹の襄老の遺体を楚に返還し、楚は抑留していた荀罃を晋に帰国させた。
  • 魯の叔孫僑如が棘を包囲した。
  • 晋の郤克と衛の孫良夫が廧咎如を攻撃し、赤狄の残党を掃討した。
  • 晋は六軍を作り、韓厥・趙括・鞏朔・韓穿・荀騅・趙旃はみな卿となった。
  • 斉の頃公が晋に朝見した。
紀元前587年
  • 鄭の公孫申が軍を率いて許の田地の境界画定に赴くと、許の人が公孫申の軍を展陂で撃破した。鄭の悼公が許を攻撃し、鉏任・泠敦の田地を奪った。
  • 晋の欒書・荀首・士燮らが軍を率いて許を救援し、鄭を攻撃して汜祭を奪った。楚の子反が鄭を救援した。鄭の悼公が許の霊公を楚に訴えたが、子反には判決を下すことができず、両国の国君を楚の共王のもとに招いた。
  • 《死去》鄭の襄公。魯の臧許。
紀元前586年
  • 晋の趙同と趙括が弟の趙嬰斉を斉に追放した。
  • 許の霊公が鄭の悼公を楚に訴えた。悼公は楚に赴いたが敗訴し、楚は鄭の皇戌と子国を抑留した。悼公は帰国すると、子游(公子偃)を晋に派遣して講和を求めた。
  • 鄭の悼公と晋の趙同が垂棘で盟を交わした。
  • 晋・魯・斉・宋・衛・鄭・曹・・杞が蟲牢で同盟した。
  • 《死去》周の定王。
紀元前585年
  • 《死去》鄭の悼公。
紀元前584年
  • 呉が郯を攻撃した。
  • 楚の子重(公子嬰斉)が軍を率いて鄭を攻撃した。
  • 晋・魯・斉・宋・衛・曹・莒・・杞の連合軍が鄭を救援した。
  • 晋・魯・斉・宋・衛・曹・莒・・杞が馬陵で同盟した。
  • 呉が州来を攻撃した。
  • 衛の孫林父が晋に亡命した。
紀元前583年
  • 晋の景公は韓穿を魯に派遣し、?陽の田を斉に返還させた。
  • 晋の欒書が軍を率いて蔡に侵攻した。
  • 晋の大夫の趙同・趙括が反乱の嫌疑を受けて殺害された。
  • 晋の士燮が魯・斉・と連合して、郯を攻撃した。
紀元前582年
  • 晋・魯・斉・宋・衛・鄭・曹・莒・杞が蒲で同盟した。
  • 鄭の成公が楚の公子成と鄧で会合した。
  • 鄭の成公が晋に赴くと、晋の人は鄭が裏切って楚についたことを責めて、成公を銅鞮に抑留した。
  • 晋の欒書が鄭を攻撃すると、鄭は伯蠲を使節として講和を求めたが、晋の人はこれを殺した。
  • 楚の子重(公子嬰斉)が陳に侵入し、鄭を救援した。
  • 晋の景公が楚の鍾儀を帰国させて、和議に尽力させた。
  • 楚の子重が莒を攻撃し、渠丘・莒・鄆の3邑を攻略した。
  • 秦と白狄が晋を攻撃した。
  • 鄭が許を包囲した。
  • 楚の共王が公子辰を晋に派遣し、修好を願い出た。
  • 《死去》斉の頃公。
紀元前581年
  • 晋の景公が大夫の糴茷を楚に派遣した。
  • 衛の定公の弟の黒背が軍を率いて鄭に侵入した。
  • 鄭の公子班が成公の庶兄の公子繻を国君に立てた。
  • 鄭の人が公子繻を殺して、成公の子の髠頑(釐公)を立てたため、公子班は許に亡命した。
  • 晋の景公の病が重くなり、子の寿曼(厲公)を立てて国君とした。
  • 晋は魯・斉・宋・衛・曹と連合して鄭を攻撃した。
  • 《死去》晋の景公。
紀元前580年
  • 晋の郤犨が使節として魯に赴き、魯の成公と盟を交わした。
  • 魯の季孫行父が晋に赴いた。
  • 周公楚が伯与と政権を争って敗れ、洛陽を出て晋に亡命した。
  • 魯の叔孫僑如が斉に赴いた。
  • 晋の郤至が周と鄇の田地を争ったため、簡王は劉の康公と単の襄公に命じて、晋の厲公に訴えさせた。
  • 宋の華元が楚に赴き、晋と楚のあいだの和議をまとめさせた。
  • 秦と晋が講和することとなり、令狐で会合しようとした。晋の厲公は先に令狐に到着したが、秦の桓公は黄河を渡ろうとしなかった。桓公は王城にあって、史顆を派遣して厲公と河東で盟を交わさせ、厲公は郤犨を派遣して桓公と河西で盟を交わさせた。桓公は帰国するやいなや、晋との盟約を破った。
紀元前579年
  • 晋の士燮が楚の公子罷と許偃と会合し、宋の西門の外で盟を交わした。
  • 晋の厲公・魯の成公・衛の定公が瑣沢で会合し、楚との和議を承認した。
  • 晋軍が交剛で狄を撃破した。
  • 晋の郤至が使節として楚に赴き、厲公の代理で盟を交わした。
  • 楚の公子罷が使節として晋に赴き、共王の代理で盟を交わした。
  • 晋の厲公が楚の公子罷と赤棘で盟を交わした。
紀元前578年
  • 晋は郤錡を魯に派遣して援軍を求めた。
  • 魯の成公が洛陽に赴いた。
  • 晋・斉・魯・宋・衛・鄭・曹などの連合軍が秦を攻撃し、麻隧で秦軍を撃破した。
  • 鄭の公子班は訾から洛陽の大宮に入ることを求めたが、許可されなかったため、子印と子羽を殺して、市に陣を張った。鄭の子駟(公子騑)は国人を率いて大宮で盟を交わし、公子班を襲撃して火を放ち、公子班とその子弟を殺害した。
  • 《死去》曹の君主・宣公。
紀元前577年
  • 晋に亡命していた衛の孫林父が帰国した。
  • 魯の叔孫僑如が公女を迎えるため斉に赴いた。
  • 鄭の子罕(公子喜)が軍を率いて許に進攻したが敗退した。鄭の成公は再び許に進攻し、許の外郭に侵入した。許は叔申の封土を返還して講和した。
  • 《死去》衛の君主・定公。秦の君主・桓公。
紀元前576年
  • 晋の厲公・魯の成公・衛の献公・鄭の成公・曹の成公・宋の世子成・斉の国佐らが戚で会合し同盟した。
  • 晋が曹の成公を捕らえて、洛陽に送った。
  • 楚が鄭に侵入して暴隧にいたり、衛に侵入して首止に及んだ。
  • 鄭の子罕(公子喜)が楚に侵入して新石を奪った。
  • 宋の蕩沢(子山)が公子肥を殺害した。華元が晋に亡命した。魚石がこれを引き止め、蕩沢処断の要求を魚石が認めると、華元は帰国した。宋の華喜と公孫師が蕩氏を攻め、蕩沢を殺害した。魚石は楚に亡命した。
  • 晋の士燮・斉の高無咎・魯の叔孫僑如・宋の華元・衛の孫林父、鄭の公子鰌らが呉と鍾離で会合した。
  • 許が葉に国を遷した。
  • 《死去》仲嬰斉。宋の君主・共公。
紀元前575年
  • 楚と鄭が講和し、武城で盟を交わした。
  • 鄭の子罕(公子喜)が軍を率いて宋に侵入した。宋の将鉏・楽灈が汋陵で鄭軍を撃破した。
  • 衛が鄭に侵攻し、鳴雁に達した。
  • 鄢陵の戦い。晋軍が楚と鄭の連合軍を鄢陵で撃破した。
  • 楚の子反(公子側)が敗戦の罪を問われて自殺した。
  • 晋の厲公・斉の霊公・魯の成公・衛の献公・宋の華元らが沙随で会合した。
  • 晋・斉・魯などの連合軍が鄭を攻撃した。晋の荀?が別軍を率いて陳に侵入して鳴鹿に達し、さらに蔡に侵入した。潁上にいた諸侯の軍は鄭の子罕の夜襲を受けて混乱した。
  • 晋によって成周に抑留されていた曹の成公が帰国した。
  • 魯の叔孫僑如が季孫行父を捕殺するよう晋の郤犨に要請したため、晋は&?丘で季孫行父を捕らえた。成公が叔嬰斉(子叔声伯)を派遣して季孫行父の釈放を求めると、季孫行父は解放された。
  • 魯の叔孫僑如が斉に亡命した。
  • 晋の郤犨と魯の季孫行父が扈で盟を結んだ。
  • 《死去》滕の君主・文公。
紀元前574年
  • 衛の北宮括が軍を率いて鄭に侵入し、高氏に達した。
  • 晋・斉・魯・宋・衛・曹などの連合軍が鄭を攻撃した。
  • 晋を中心とする諸侯が柯陵で同盟した。
  • 楚の子重(公子嬰斉)が鄭を救援して、首止に進軍したため、連合軍は撤退した。
  • 斉の高無咎が莒に亡命した。
  • 晋・斉・魯・宋・衛・曹などの連合軍が鄭を攻撃し、鄭を包囲した。楚の公子申が鄭を救援し、汝水のほとりに進軍したため、連合軍は撤退した。
  • 斉の国佐が慶克を殺害した。
  • 晋の胥童らが郤氏を襲撃し、郤錡・郤犨・郤至らを殺害した。
  • 楚の公子橐が軍を率いて舒庸を襲撃し、これを滅ぼした。
  • 晋の欒書・荀偃が胥童を殺害した。
  • 《死去》魯の大夫・叔嬰斉(子叔声伯)。の君主・定公。
紀元前573年
  • 晋の欒書・荀偃が程滑に命じて厲公を殺害した。成周から公孫周(悼公)が迎えられて即位した。
  • 斉の霊公が華免に命じて国佐を殺害させた。国勝が清の人に殺され、国弱が魯に亡命した。
  • 楚と鄭の連合軍が宋を攻撃した。楚に亡命していた宋の魚石が彭城に復帰した。
  • 宋の老佐と華喜が彭城を包囲したが、老佐が死去したため、彭城は陥落しなかった。
  • 楚の子重(公子嬰斉)が彭城救援のために出兵し、宋に侵攻した。晋軍が宋を救援し台谷に進軍し、靡角の谷で楚軍と遭遇すると、楚軍は撤退した。
  • 晋の悼公・宋の平公・衛の献公・斉の崔杼・魯の仲孫蔑らが虚朾で会合し、同盟した。
  • 《死去》晋の君主・厲公。斉の大夫・国佐。魯の君主・成公。
紀元前572年
  • 魯の襄公が即位した。
  • 晋・魯・宋・衛・曹らの連合軍が宋の彭城を包囲した。
  • 晋の韓厥と荀偃が諸侯の軍を率いて鄭を攻撃し、洧水の岸で鄭軍を撃破した。
  • 晋軍が斉・魯・曹らの軍と鄫で合流し、楚の焦や夷に進入し、陳にいたった。
  • 楚の子辛(公子壬夫)が軍を率いて宋の呂や留に進入した。
  • 衛の公孫秋や晋の荀?が使節として魯を訪れた。
  • 《死去》周の王・簡王。
紀元前571年
  • 鄭軍が宋を攻撃した。
  • 斉が莱に進攻した。
  • 晋・宋・衛の連合軍が鄭に進入した。
  • 晋の荀罃・魯の仲孫蔑・宋の華元、衛の孫林父らが戚で会合した。
  • 魯の叔孫豹が使節として宋に赴いた。
  • 晋の荀罃・斉の崔杼・魯の仲孫蔑・宋の華元、衛の孫林父らが戚で会合し、虎牢に城を築いた。
  • 楚で大夫の公子申が殺害された。
  • 《死去》魯の成公夫人・斉姜。鄭の君主・成公。
紀元前570年
  • 楚の子重(中国語版)(公子嬰斉)が軍を率いて呉を攻撃したが、呉軍に迎撃されて敗れた(鳩茲の戦い)。
  • 魯の襄公が晋に赴いた。晋の悼公と魯の襄公が長樗で盟を交わした。
  • 晋の悼公と斉の霊公が耏外で盟を交わした。
  • 晋の悼公・単の頃公・魯の襄公・宋の平公・衛の献公・鄭の釐公・斉の世子光らが鶏沢で会合し、同盟した。陳が楚から離反して、袁僑を会合に派遣すると、諸侯の大夫と袁僑が盟を交わした。
  • 楚の公子何忌が陳に侵攻した。
  • 晋の荀罃が軍を率いて許を攻撃した。
  • 《死去》楚の令尹・子重。
紀元前569年
  • 楚の彭名が陳に侵入した。
  • 魯の叔孫豹が晋に赴いた。
  • 魯の襄公が晋に赴いた。
  • 楚が頓に命じて陳に侵入させたことから、陳軍が頓を包囲した。
  • と莒が鄫を攻撃したため、魯の臧紇(臧武仲)が鄫を救援すべくに侵入したが、狐駘で敗れた。
  • 《死去》陳の君主・成公。魯の襄公の生母・定姒。
紀元前568年
  • 魯の襄公が晋から帰国した。
  • 晋が周の使節の王叔陳生を抑留した。
  • 鄭の子国(公子発)を使節として魯に派遣した。
  • 魯の叔孫豹が鄫の世子巫を晋に連れて行き、鄫の帰属を認めさせた。
  • 魯の仲孫蔑や衛の孫林父が善道で呉と会合した。
  • 楚で子辛(公子壬夫)が処刑された。
  • 晋の悼公・魯の襄公・宋の平公・陳の哀公・衛の献公・鄭の釐公・曹の成公・斉の世子光らが戚で会合した。
  • 楚の子嚢(公子貞)が令尹となった。
  • 楚の子嚢が陳を攻撃し、晋・斉・魯・宋・衛・鄭らの連合軍が陳を救援した。
  • 《死去》楚の穆王の子・子辛。魯の重臣・季孫行父(季文子)。
紀元前567年
  • 宋の華弱が魯に亡命した。
  • 莒が鄫を滅ぼした。
  • 魯の叔孫豹が&?に赴き、季孫宿が晋に赴いた。
  • 斉の晏弱が莱を包囲してこれを滅ぼした。莱の共公浮柔は棠に亡命した。
  • 《死去》杞の桓公。
紀元前566年
  • 魯の季孫氏が費に城を築いた。
  • 魯の季孫宿が衛に赴いた。
  • 晋の韓厥(韓献子)が引退し、韓起(韓宣子)に後を譲った。
  • 衛の孫林父が魯を訪れ、盟約を結んだ。
  • 楚の子嚢(公子貞)が軍を率いて陳を包囲した。
  • 晋の悼公・魯の襄公・宋の平公・陳の哀公・衛の献公・曹の成公らが鄬で会合した。
  • 陳の哀公は楚軍に公子黄を捕らえられ、別の君主を立てようとする動きを知らされたため、鄬の会合から逃げ帰った。
  • 《死去》鄭の釐公。
紀元前565年
  • 魯の襄公が晋に赴いた。
  • 鄭の公子たちが釐公の死に乗じて子駟(公子騑)を失脚させようとした。子駟はこれに先んじて子狐・子熙・子侯・子丁に罪を負わせて殺させた。孫撃と孫悪は衛に亡命した。
  • 鄭の子国と子耳が蔡に侵入し、蔡の公子燮を捕らえた。
  • 晋の悼公・鄭の簡公・斉の高厚・魯の季孫宿・宋の向戌・衛の甯殖らが邢丘で会合した。
  • 莒が魯の東辺に侵攻した。
  • 楚の子嚢(公子貞)が軍を率いて鄭を攻撃した。
  • 晋の士匄が使節として魯に訪れた。
紀元前564年
  • 宋で火災が起こり、楽喜が司城として対応に当たった。
  • 魯の季孫宿が晋に赴いた。
  • 秦の景公が晋を攻撃した。楚が武城に出兵して秦を助けた。
  • 晋の悼公・魯の襄公・宋の平公・衛の献公・曹の成公・斉の世子光らが連合して鄭を攻撃した。
  • 鄭は晋に屈服し、晋を中心とする諸侯と戯で同盟した。
  • 楚が鄭を攻撃し、鄭は楚と講和した。
  • 《死去》魯の穆姜。
紀元前563年
  • 晋の悼公・斉の世子光・魯の襄公・宋の平公・衛の献公・曹の成公らが呉の柤で会合した。
  • 晋の荀偃と士匄が偪陽を攻め滅ぼし、その地を宋の平公に与えた。
  • 楚の子嚢(公子貞)と鄭の公孫輒が軍を率いて宋を攻撃した。
  • 晋の荀罃が軍を率いて秦を攻撃した。
  • 鄭の皇耳が衛に侵入した。
  • 楚の子嚢と鄭の公孫輒が魯の西辺に侵入した。
  • 楚の子嚢と鄭の公孫輒が蕭を攻略した。
  • 莒が魯の東辺に侵入した。
  • 晋・斉・魯・宋・衛・曹などの連合軍が鄭を攻撃した。
  • 鄭の尉止・司臣・侯晋・堵女父・子師僕らが子駟(公子騑)を殺害した。子産や子蟜(公孫蠆)がこの反乱を鎮圧し、子孔(公子嘉)が鄭の政権を掌握した。
  • 楚の子嚢が鄭を救援し、晋を中心とする連合軍と楚軍とが潁水をはさんで対峙した。
  • 晋の悼公が士匄を派遣して周の王室の紛争を調停させた。
紀元前562年
  • 魯で三軍が置かれ、三桓氏がおのおの一軍を率いる制度が定められた。
  • 鄭の子展(公孫舎之)が軍を率いて宋に侵入した。
  • 晋・斉・魯・宋・衛・曹などの連合軍が鄭を攻撃した。鄭の城は包囲され、鄭は講和を求めた。
  • 亳の城北で晋を中心とする諸侯の同盟が結ばれた。
  • 楚が秦と結んで鄭を攻撃しようとしたが、鄭が再び屈服したため、楚と鄭の軍が宋を攻撃した。
  • 晋・斉・魯・宋・衛・曹などの連合軍が再び鄭を攻撃し、諸侯が蕭魚で会合した。
  • 秦の庶長鮑と庶長武が晋を攻撃した。櫟で会戦して秦軍が勝利した。
紀元前561年
  • 莒が魯の東辺に侵攻し、台を包囲した。魯の季孫宿が軍を率いて台を救援し、鄆に侵入した。
  • 晋の士魴が使節として魯を訪れた。
  • 楚の子嚢(公子貞)と秦の庶長無地が軍を率いて宋に侵攻し、楊梁に駐屯した。
  • 周の霊王が公女を王の后として入宮させるよう斉に求めた。
  • 《死去》呉の王・寿夢。
紀元前560年
  • 魯が邿を占領した。
  • 晋で荀罃と士魴が死去し、荀偃を中軍の将、士匄を中軍の佐とし、趙武を上軍の将、韓起を上軍の佐とし、欒黶を下軍の将、魏絳を下軍の佐とした。
  • 呉が楚に侵入した。楚の子庚(公子午)は康浦で会戦して呉軍を撃退し、公子党を捕らえた。
  • 楚に抑留されていた鄭の良霄が帰国した。
  • 《死去》楚の王・共王。晋の卿・荀罃。
紀元前559年
  • 晋・斉・魯・宋・衛・鄭・曹の大夫らが呉の向で会合し、呉のために楚を攻撃する計画を議論した。
  • 呉王諸樊は末弟の季札に王位を譲ろうとしたが、季札が固辞したため諦めた。
  • 晋・斉・魯・宋・衛・鄭・曹の軍が秦を攻撃した。
  • 衛の献公が斉に亡命した。
  • 晋が新軍を廃止した。
  • 莒が魯の東辺に侵攻した。
  • 楚の子嚢(公子貞)が軍を率いて呉を攻撃した。
  • 晋・魯・宋・衛・鄭の大夫らが戚で会合した。
紀元前558年
  • 宋の向戌が使節として魯を訪れ、劉で盟を結んだ。
  • 周の劉夏が斉に王后を迎えた。
  • 楚の子庚(公子午)が令尹となり、公子罷戎が右尹となり、蔿子馮が大司馬となり、公子橐師が右司馬となり、公子成が左司馬となり、屈到が莫敖となった。
  • 鄭の尉氏・司氏の乱の後、宋に逃れていた堵女父・尉翩・司斉が鄭に引き渡され、処断された。
  • 斉の霊公が魯の北辺を侵し、成を包囲した。魯の襄公は成を救援し、遇に達した。季孫宿と叔孫豹が軍を率いて成の外郭を築いた。
  • が魯の南辺を侵した。
  • 鄭の公孫夏が晋に赴いた。
  • 《死去》晋の君主・悼公。
紀元前557年
  • 晋の平公・魯の襄公・宋の平公・衛の殤公・鄭の簡公・曹の成公らが溴梁で会合した。
  • 晋の荀偃・魯の叔孫豹・宋の向戌・衛の甯殖・鄭の子蟜(公孫蠆)らが盟を結んだ。
  • 晋がの宣公と犂の犂比公を捕らえ、斉や楚との往来を咎めた。
  • 晋の荀偃・魯の叔老・鄭の簡公・衛の甯殖らが許を攻撃した。
  • 斉の霊公が魯の北辺に侵攻し、成を包囲した。
  • 魯の叔孫豹が晋に赴いた。
紀元前556年
  • 宋の荘朝が陳を攻撃し、司徒卬を捕らえた。
  • 衛の石買と孫蒯が曹を攻撃し、重丘を奪った。曹の人はこのことを晋に訴えた。
  • 斉の霊公が魯の北辺を攻撃し、桃を包囲した。
  • 斉の高厚が軍を率いて魯の北辺を攻撃し、防を包囲した。
  • 宋の華臣が陳に亡命した。
  • が魯の南辺を攻撃した。
  • 《死去》の君主・宣公。斉の政治家・晏弱。
紀元前555年
  • 曹の訴えを受けて、晋が衛の石買を長子で、孫蒯を純留で捕らえた。
  • 斉軍が魯の北辺を攻撃した。
  • 晋の平公・魯の襄公・宋の平公・衛の殤公・鄭の簡公・曹の成公らが魯済で会合し、ともに斉に侵攻した。晋の荀偃・士匄が中軍を率いて京茲を落とし、魏絳・欒盈が下軍を率いて邿を陥落させた。趙武・韓起は上軍を率いて廬を包囲したが、落とせなかった。晋を中心とした諸侯の軍は臨淄の外郭に放火し、東は濰水まで、南は沂水まで浸入した。
  • 楚の子庚(公子午)が軍を率いて鄭を攻撃した。
  • 《死去》曹の君主・成公。
紀元前554年
  • 晋を中心とする諸侯が祝柯で盟を結んだ。
  • 晋がの悼公を捕らえた。
  • の漷水以西の土地が魯のものとされた。
  • 魯の季孫宿が晋に赴いた。
  • 衛の孫林父が軍を率いて斉を攻撃した。
  • 晋の士匄が軍を率いて斉に侵攻した。穀に達して、斉の霊公が死去したことを知ると、撤退した。
  • 斉の崔杼が高厚を灑藍で殺害した。
  • 鄭の公子嘉(子孔)がその専横を憎まれ、西宮事件と純門の敗戦の責任を問われた。公子嘉は自家の甲士と子革氏・子良氏の甲士を率いて立て籠もったが、子展(公孫舎之)と子西(公孫夏)が国人を率いてこれを攻撃して、公子嘉を殺害した。
  • 斉の慶封が高唐を包囲したが落とせなかった。荘公が高唐を包囲すると、殖綽と工僂が斉軍を引き入れて陥落した。
  • 斉が晋と講和し、大隧で盟を結んだ。
  • 《死去》斉の君主・霊公。鄭の重臣・子蟜(公孫蠆)。魯の重臣・仲孫蔑(孟献子)。
紀元前553年
  • 魯が莒と講和し、仲孫速が莒人と向で会盟した。
  • 晋の平公・斉の荘公・魯の襄公・宋の平公・衛の殤公・鄭の簡公・曹の武公らが澶淵で盟を結んだ。
  • 魯の仲孫速が軍を率いてを攻撃した。
  • 蔡の公子燮が蔡を楚から離反させて晋に服属させようと運動したため、国人に殺害された。同母弟の公子履は楚に亡命した。
  • 陳の哀公の弟の公子黄が楚に亡命した。
  • 魯の叔老が斉に赴いた。
  • 魯の季孫宿が宋に赴いた。
  • 《死去》衛の卿・甯殖(甯恵子)。
紀元前552年
  • 魯の襄公が晋に赴いた。
  • の庶其が漆・閭丘の2邑とともに魯に帰順した。
  • 斉の荘公が慶佐を大夫とし、再び公子牙の党与を討って、公子牙を句瀆の丘で捕らえた。公子鉏が魯に亡命し、叔孫還が燕に亡命した。
  • 楚の令尹の子庚(公子午)が死去し、蔿子馮が令尹となった。
  • 晋の欒盈が楚に亡命した。
  • 晋の平公・斉の荘公・魯の襄公・宋の平公・衛の殤公・鄭の簡公・曹の武公らが商任で会合した。
  • 晋の智起・中行喜・州綽・邢蒯が斉に亡命した。
  • 《死去》楚の王子・子庚
紀元前551年
  • (9月28日)孔子の生年月日を紀元前551年9月28日(新暦換算)とする説がある。孔子#出自を参照。
  • 鄭の子産が晋に赴いた。
  • 晋の欒盈が楚から斉に移った。
  • 晋の平公・斉の荘公・魯の襄公・宋の平公・衛の殤公・鄭の簡公・曹の武公・の悼公らが沙随で会合した。
  • 楚の康王が令尹の子南(公子追舒)を殺害し、観起を車裂に処した。
  • 楚で蔿子馮が令尹に、公子齮が司馬に、屈建が莫敖に任じられた。
  • 《死去》鄭の卿・公孫黒肱。
紀元前550年
  • 楚に亡命していた陳の公子黄が慶虎と慶寅について楚に告発し、楚が慶楽を殺害すると、慶虎と慶寅は陳に拠って叛いた。楚の屈建と陳の哀公が陳を包囲した。陳の城壁を修築していた役夫が慶虎と慶寅を殺して開城した。これによって公子黄が楚から陳に帰国した。
  • 晋の欒盈がひそかに曲沃に入り、曲沃の兵を率いて晋の都の絳に攻め入ったが、敗北して曲沃に逃げ帰った。
  • 斉が衛を攻撃し、さらに晋に侵攻したが、晋の趙勝に敗れた。
  • 魯の叔孫豹が軍を率いて晋を救援し、雍楡に宿営した。
  • 魯の臧紇(臧武仲)がに亡命し、さらに斉に逃れた。
  • 晋軍が曲沃を攻撃して欒盈を殺害した。欒盈の一族もみな殺されたが、ひとり欒魴が宋に亡命した。
  • 斉が莒を襲撃した。
  • 《死去》杞の君主・孝公。魯の重臣・仲孫速(孟荘子)。
紀元前549年
  • 魯の叔孫豹が晋に赴いた。
  • 鄭の簡公が晋に赴いた。
  • 魯の仲孫羯が軍を率いて斉に侵攻した。
  • 楚が呉を攻撃したが、戦果なく撤退した。
  • 斉の崔杼が軍を率いて莒を攻撃した。
  • 晋の平公・魯の襄公・宋の平公・衛の殤公・鄭の簡公・曹の武公らが夷儀で会合した。晋を中心とした諸侯は斉に侵攻しようとしたが、洪水のために実現しなかった。
  • 楚・蔡・陳・許の連合軍が鄭を攻撃した。夷儀に参集した諸侯は鄭を救援した。
  • 呉の工作により舒鳩が楚から離反し、呉についた。
  • 陳の鍼宜咎が楚に亡命した。
  • 斉が周の郟の城壁を築いた。
紀元前548年
  • 斉の崔杼が軍を率いて魯の北鄙に侵入した。
  • 斉の崔杼が荘公を殺害した。
  • 晋の平公・魯の襄公・宋の平公・衛の殤公・鄭の簡公・曹の武公らが夷儀で会合した。晋を中心とする諸侯の連合軍が斉に侵入した。斉は慶封を派遣して講和を求めた。
  • 晋の平公は魏舒と宛没を斉に派遣して、衛の献公を迎えさせた。献公を夷儀に入らせた。
  • 鄭の公孫舎が軍を率いて陳に侵入した。
  • 諸侯が重丘で同盟した。
  • 楚の屈建が軍を率いて舒鳩を滅ぼした。
  • 鄭の公孫夏が軍を率いて陳を攻撃した。
  • 呉王諸樊が楚に侵攻し、巣の城門を攻撃して矢を受け、死去した。
  • 《死去》斉の君主・荘公光。呉の王・諸樊。
紀元前547年
  • 秦の景公の弟の鍼が晋に赴いた。
  • 衛の甯喜が殤公を殺害した。
  • 衛の孫林父が戚に拠って晋に帰順した。
  • 衛の献公が衛に入国した。
  • 楚軍が呉に侵入し、雩婁までいたって撤退した。
  • 楚軍が鄭に侵入し、城麇に達した。鄭の皇頡は城を出て楚軍と戦ったが、敗れて穿封戌に捕らえられた。
  • 晋の趙武・魯の襄公・宋の向戌・鄭の良霄らが澶淵で会合した。
  • 晋の人が衛の甯喜と北宮遺を捕らえ、さらに衛の献公を捕らえた。
  • 宋の公子痤が讒言を受けて幽閉され、自殺した。
  • 楚・蔡・陳の連合軍が鄭を攻撃した。南里に入ってその城壁を破壊し、鄭の師之梁門を攻撃した。
  • 晋が衛の献公を釈放した。
  • 晋の韓起(韓宣子)が使節として周に赴いた。
  • 《死去》衛の君主・殤公。許の君主・霊公。
紀元前546年
  • 斉の慶封が使節として魯を訪れた。
  • 晋の趙武・楚の屈建・魯の叔孫豹・蔡の公孫帰生・衛の石悪・陳の孔奐・鄭の良霄らが宋で会合した。
  • 衛の公孫免余が甯喜と右宰の穀を攻撃して殺害した。
  • 衛の献公の弟の公子鱄が晋に亡命した。
  • 諸侯の大夫が宋で盟約を結んだ。
紀元前545年
  • 斉の景公・陳の哀公・蔡の景侯・燕の懿公・杞の文公らが晋に朝見した。
  • 衛の石悪が晋に亡命した。
  • 蔡の景侯が晋から帰国する途中に鄭に立ち寄ったが、態度が不遜だったため、子産は景侯の禍を予見した。
  • 魯の仲孫羯が晋に赴いた。
  • 斉の子尾(公孫蠆)・子雅(公孫竈)・陳須無・鮑国らが起兵し、慶舎を殺害した。慶封が魯に亡命した。
  • 崔氏の乱のときに亡命した斉の公子たちが帰国した。
  • 魯の襄公・宋の平公・陳の哀公・鄭の簡公・許の悼公が楚に赴いた。
  • 《死去》周の王・霊王。楚の王・康王。楚の令尹・屈建。
紀元前544年
  • 周の景王が即位した。
  • 楚で郟敖が即位し、公子囲が令尹となって補佐した。
  • 衛の献公が死去し、襄公が即位した。
  • 晋の荀盈の主導で斉の高止・魯の仲孫羯・宋の華定・衛の太叔儀・鄭の公孫段らが集まり、杞に城壁を築いた。
  • 呉の公子季札が魯に使節としてやってきた。
  • 斉の子尾(公孫蠆)と子雅(公孫竈)が高止を燕に追放した。このため高止の子の高豎が盧で反乱を起こした。
  • 《誕生》孔門十哲のひとり・冉伯牛。
  • 《死去》呉の王・余祭(紀元前547年即位)。衛の君主・献公(在位は、紀元前576年 - 紀元前559年、および、紀元前546年 - 紀元前544年。)。
紀元前543年
  • 余昧が、前年に殺された兄王余祭を継いで、呉の王に即位した。
  • 鄭の簡公が大夫たちと盟を結んだ。
  • 蔡の景侯が子の姫般に殺害された。
  • 宋で火災があり、伯姫が焼死した。
  • 鄭の良霄が公孫黒の攻撃を受けて許に亡命した。良霄は罕虎(子皮)を頼って帰国したが、駟帯と戦って羊肆で殺害された。
  • 周の儋括が景王の弟の佞夫の擁立を図った。このため尹言多・劉毅・単蔑・甘過・鞏成らが佞夫を殺害した。儋括・王子瑕らが晋に亡命した。
  • 楚の公子囲が大司馬の蔿掩を殺害した。
  • 晋・斉・宋・衛・鄭・曹・莒・・滕・薛・杞・小が澶淵で会合した。
  • 鄭の罕虎が子産に政務を委譲した。
  • 《誕生》孔門十哲のひとり・子路。(紀元前481年没:生没年ともそれぞれ1年後とする説もある)
  • 《死去》蔡の君主・景侯。
紀元前542年
  • 斉の子尾(公孫蠆)が閭丘嬰を殺害するために、魯の陽州を攻撃した。
  • 呉が晋への使節として屈狐庸を送った。
  • 衛の襄公が北宮佗とともに楚へと赴いた。
  • 《死去》魯の君主・襄公。魯の重臣・仲孫羯(孟孝伯)。
紀元前541年
  • 楚の公子囲と伍挙が鄭に赴いた。
  • 晋の趙武・楚の公子囲・斉の国弱・魯の叔孫豹・宋の向戌・衛の斉悪・陳の公子招・蔡の公孫帰生・鄭の罕虎(子皮)・許人・曹人が、虢で会盟した。
  • 魯の季孫宿が莒を攻撃し、鄆を奪った。
  • 秦の景公の弟の后子鍼が晋に亡命した。
  • 鄭の公孫楚が公孫黒と争い、呉に追放された。
  • 鄭の簡公が公孫段の邸で大夫6人と盟を交わした。公孫黒が盟に加わり、大史に名を書かせて、七子と言わせた。
  • 晋の荀呉が軍を率いて大鹵で狄を撃破した。
  • 莒の己去疾(著丘公)が斉から帰国し、己展輿が呉に亡命した。
  • 楚の公子囲が子皙(公子黒肱)と伯州犂を派遣して、犨・櫟・郟に築城させた。
  • 楚の公子囲が楚王郟敖を絞殺し、その2子を殺害した。右尹の公子比(訾敖)は晋に亡命し、宮厩尹の子皙(公子黒肱)は鄭に亡命し、太宰の伯州犂は郟で殺害された。公子囲(霊王)が楚王として即位した。
  • 《死去》楚の王・郟敖。楚の政治家・伯州犂。の君主・悼公。
紀元前540年
  • 晋の韓起(韓宣子)が使節として魯を訪れた。
  • 斉の陳無宇が公女少姜を晋に送ったところ、中都で捕らえられた。
  • 魯の叔弓が晋に赴いた。
  • 鄭の公孫黒が乱を起こし、游氏を排除して取って代わろうとして失敗した。駟氏と諸大夫が公孫黒の殺害を図ったため、子産は公孫黒の罪を列挙して、自死を促した。公孫黒は自ら縊死して果てた。
  • 晋の少姜が亡くなり、魯の昭公が弔問に晋へと向かったが、晋の謝絶を受けて黄河まできて引き返した。季孫宿がそのまま晋に入って弔問した。
  • 晋の羊舌肸(叔向)が陳無宇を釈放するよう平公に進言し、陳無宇は解放されて斉に帰国した。
紀元前539年
  • 鄭の游吉が少姜の葬儀に参列するために晋に赴いた。
  • 斉の景公が宰相の晏嬰を晋に使節として派遣した。晏嬰は晋の重臣であった羊舌肸(叔向)と会い、斉の政権がやがては陳氏(田氏)のものになるだろうと述べた。
  • 鄭の簡公が晋に赴いた。
  • 晋の韓起(韓宣子)が斉に赴き、少姜に代わる公女を迎えた。子尾(公孫蠆)が公女を自分の娘とすり替えた。
  • 燕の大夫が恵公の寵臣を殺害したため、恵公は斉に亡命した。
  • 《死去》滕の君主・成公。
紀元前538年
  • 魯で大規模な雨雹の被害があった。
  • 楚の霊王が許の悼公や鄭の簡公を引き留めて、江南で狩猟をおこなった。
  • 楚の霊王が蔡・陳・鄭・許・徐・滕・頓・胡・沈・小の諸侯および宋の公子差と淮夷を参集させ、申で会合した。霊王は徐王を捕らえた。
  • 楚は諸侯を率いて呉に侵攻し、朱方を攻め落とし、斉の慶封を捕らえて殺した。さらに頼に侵攻してこれを滅ぼした。
  • 鄫が莒から離反して魯に帰属した。
  • 鄭の子産が丘賦の制度を作って増税したため、国人に非難されたが、これを強行した。
  • 呉が楚に侵攻し、棘・櫟・麻を攻撃して、朱方の戦いに報復した。
  • 《死去》魯の重臣・叔孫豹(叔孫穆子)。
紀元前537年
  • 魯で中軍が廃止された。
  • 楚で大夫の屈申が殺害された。
  • 晋の韓起(韓宣子)が楚に公女を送るために赴いた。羊舌肸(叔向)が副使をつとめた。
  • 莒の牟夷が牟婁および防・茲の3邑とともに魯に亡命した。
  • 魯の叔弓が軍を率いて莒軍を蚡泉で撃破した。
  • 楚の霊王が蔡・陳・許・頓・沈・徐・越を率いて、呉を攻撃した。楚の蔿啓彊は鵲岸で呉軍に敗れた。沈尹赤は莱山に宿営し、蔿射は繁揚の軍を率いて南懐に入った。呉の防備が整っていたため、楚軍は戦果の出ないまま撤退した。
  • 《死去》秦の君主・景公。
紀元前536年
  • 鄭で刑書を鋳こんだ刑鼎(中国初の成文法)が作られた。
  • 魯の季孫宿が晋に赴いた。
  • 宋の華合比が衛に亡命した。
  • 鄭で火災が起こった。
  • 楚の公子弃疾が晋に赴いた。
  • 楚の蔿洩が徐を攻撃すると、呉が徐を救援した。楚の令尹の蔿罷(子蕩)が呉を攻撃したが、房鍾で敗れた。
  • 斉が恵公を送り込むべく、燕を攻撃した。
  • 《死去》杞の君主・文公。
紀元前535年
  • 斉と魯が講和した。
  • 魯の昭公が楚に赴いた。
  • 鄭の子産が晋に赴いた。
  • 鄭の子産が州の田土を晋の韓起(韓宣子)に返還した。
  • 周の単献公が殺害され、弟の単成公が立った。
  • 《死去》衛の君主・襄公。魯の重臣・季孫宿(季武子)
紀元前534年
  • 陳の公子招と公子過が、公子偃師を殺して公子留を世子に立てた。
  • 陳の哀公が自ら縊死した。
  • 楚が陳の干徴師を捕らえて殺害した。
  • 陳の公子留が鄭に亡命した。
  • 斉の子尾(公孫蠆)が死去し、欒施(子旗)はその財産を奪おうと、梁嬰を殺害した。この事件により子成・子工・子車が魯に亡命した。陳無宇が欒施に頭を下げて、高欒両家を和解させた。
  • 陳の公子招が公子偃師の殺害の罪を公子過に押しつけて殺害した。楚の公子弃疾が公子偃師の子の公孫呉を奉じて陳を包囲した。宋軍が包囲に合流し、陳を滅ぼした。公子招は捕らえられ、越で釈放された。
  • 《死去》陳の君主・哀公。
紀元前533年
  • 楚の霊王が魯の叔弓・宋の華亥・鄭の游吉・衛の趙黶らと陳で会合した。
  • 楚の公子弃疾が許を葉から城父に移転させた。
  • 周の甘邑大夫の襄が晋の閻嘉と閻の田土を争い、晋の梁丙・張趯が陰戎を率いて潁を攻撃した。周の景王は詹桓伯を晋に派遣して、戎を動員したことを非難した。晋の韓起(韓宣子)は羊舌肸(叔向)の意見を容れて、閻の田土を周に贈り、潁で得た捕虜を送還した。景王は賓滑に甘邑大夫の襄を逮捕させ、その事情を晋に説明させると、晋は賓滑を礼遇して帰国させた。
  • 陳で火災があった。
  • 晋の荀盈が妻を迎えに斉に行き、帰国する途中に死去した。その葬儀がおこなわれないうちに、晋の平公が酒宴を催し、音楽を鳴らしたので、膳宰の屠蒯がこれを諫めた。
  • 魯の仲孫玃(孟僖子)が斉に赴いた。
紀元前532年
  • 斉の陳無宇と鮑国が欒氏と高氏を攻撃した。稷の戦いで欒氏と高氏は敗れ、欒施(子旗)と高彊は魯に亡命した。
  • 魯の季孫意如が莒を攻撃し、郠を奪った。
  • 《死去》晋の君主・平公。宋の君主・平公。
紀元前531年
  • 楚の霊王が蔡の霊侯を申で饗応して酔わせ、伏兵に捕らえさせた。
  • 楚の公子弃疾が蔡を包囲した。
  • 魯の仲孫玃(孟僖子)がの荘公と祲祥で盟約を結んだ。
  • 晋の韓起(韓宣子)・斉の国弱・魯の季孫意如・宋の華亥・衛の北宮佗・鄭の罕虎(子皮)・曹人・杞人らが厥憖で会合し、蔡の救援を相談した。
  • 周の単成公が晋の韓起と戚で会談した。
  • 楚が蔡をひとたび滅ぼした。楚の霊王は蔡の隠太子姫有を岡山の祭祀の犠牲とした。
  • 楚の霊王が公子弃疾を蔡公とした。
  • 《死去》周の邦君・単成公・
紀元前530年
  • 斉の高偃が軍を率いて北燕伯款を唐に送り込んだ。
  • 宋の華定が使節として魯に赴いた。
  • 斉の景公・衛の霊公・鄭の簡公が晋に赴き、昭公に朝見した。
  • 楚の霊王が大夫の成虎を殺させた。
  • 晋の荀呉が斉軍と合流すると偽り、鮮虞に道を借りて昔陽に攻め入り、肥を滅ぼした。
  • 周の原伯絞がその家臣らによって追放された。
  • 周の甘悼公過が甘成公や甘景公の支族を排除しようとして、反撃に遭い、殺害された。甘成公の孫の甘平公鰌が立てられた。
  • 魯の叔仲小・南蒯・公子憖が季孫氏の排除を計画した。費の宰の南蒯は費に拠って離反して、斉についた。公子憖は費の離反を聞いて斉に亡命した。
  • 楚の霊王が州来で狩猟をおこない、徐を包囲し、呉を脅かした。
  • 晋が鮮虞を攻撃した。
  • 《死去》鄭の君主・簡公。
紀元前529年
  • 魯の叔弓が軍を率いて費を包囲したが、敗退した。
  • 楚の公子比(訾敖)が晋から帰国し、霊王を乾谿で殺害した。楚の公子弃疾(平王)が公子比を殺した。
  • 楚の平王が即位し、陳の恵公と蔡の平侯を帰国させ、両国を再建させた。
  • 晋・斉・魯・宋・衛・鄭・曹・莒・・滕・薛・杞・小が平丘で会合した。
  • 魯は平丘の会に参加したものの、盟に加われず、季孫意如が晋に捕らえられた。
  • 晋の荀呉が著雍から上軍を率いて鮮虞に侵攻し、中人に達して凱旋した。
  • 呉が州来を滅ぼした。
  • 《死去》楚の王・霊王。
紀元前528年
  • 魯の費の長官である南蒯は、費を季孫氏から自立させようとしたが、費人の支持を得られず、斉に亡命した。南蒯は斉の景公に叛夫と罵られた。
  • 楚の平王が鬬成然を殺害し、養氏の一族を滅ぼした。
  • 莒の著丘公が死去し、蒲余侯茲夫が公子意恢を殺害した。郊公が斉に亡命し、斉から己庚輿が迎えられて、国君として立った。
  • 晋の邢侯と雍子が鄐の田土をめぐって争っていたが、羊舌鮒(叔魚)が邢侯に罪ありと判決したため、邢侯が怒って、羊舌鮒と雍子を殺害した。韓起(韓宣子)の諮問を受けた羊舌肸(叔向)は3人を同罪とし、これによって邢侯は処刑され、雍子と羊舌鮒の遺体が市に晒された。
  • 《死去》曹の君主・武公。莒の君主・著丘公。晋の政治家・羊舌鮒。
紀元前527年
  • 呉の王、余昧が死去し、寿夢の遺命により公子季札に王位が譲られることとなったが、季札はこれを拒んだため、呉王僚が即位した。
  • 蔡の朝呉が鄭に亡命した。
  • 晋の荀呉が兵を率いて鮮虞に進攻し、鼓を包囲した。
  • 《死去》春秋時代の呉の王・余昧。周の景王の嫡長子・太子寿(中国語版)6月9日に死去。周の景王の妃、太子寿の母・穆后(中国語版)8月23日に死去。
紀元前526年
  • 斉が徐に侵攻した。斉軍が蒲隧に達すると、徐は講和を申し入れ、蒲隧で盟を交わした。
  • 楚の平王が戎蛮子嘉を誘い出して殺し、蛮氏を占領した。
  • 晋の韓起(韓宣子)が鄭を訪れ、子産と会談した。
  • 魯の昭公が晋から帰国した。
  • 《死去》晋の君主・昭公。
紀元前525年
  • 晋の荀呉が軍を率いて陸渾の戎を滅ぼした。
  • 呉が楚を攻撃し、長岸の戦いで楚の子魚を戦死させ、公子光が余皇を奪った。
紀元前524年
  • 周の毛得が毛伯過を殺害して自ら毛伯として立った。
  • 宋・衛・陳・鄭で火災が起こった。
  • 鄭の子産が火災に遭った社を再建した。
  • 楚の平王が公子勝を派遣して許を白羽に移転させた。
  • 《死去》曹の君主・平公。
紀元前523年
  • 楚の沈尹赤が陰戎を下陰に移転させた。
  • 宋がを攻撃し、蟲牢を包囲して占領した。
  • 許の公子止が悼公を毒殺した。公子止は晋に亡命した。
  • 斉の高発が軍を率いて莒を攻撃した。
  • 楚の平王が水軍を動員して濮を攻撃した。平王は費無忌の進言に従って、城父に城壁を築き、太子建を城父に住まわせた。
  • 楚が州来に城壁を築いた。
  • 楚に抑留されていた呉の蹶由が帰国した。
  • 《死去》鄭の卿・駟偃(子游)。
紀元前522年
  • 曹の公孫会が宋に亡命した。
  • 楚の費無忌が太子建のことを平王に讒言した。建は宋に亡命し、伍奢が殺害された。伍子胥が呉に亡命した。
  • 宋の華亥・向寧・華定が陳に亡命した。
  • 衛の斉豹・公子朝らが反乱を起こし、霊公の兄の公孟縶が殺害された。
  • 宋の公子城・公孫忌や楚の太子建らが鄭に亡命した。
  • 《死去》楚の臣・伍奢。鄭の政治家・子産。
紀元前521年
  • 宋の華亥・向寧・華定が、陳から宋の南里に入り、元公に反抗した。
  • 斉軍と宋軍が呉軍を鴻口で破った。
  • 華登が宋軍を破った。
  • 曹の翰胡が晋の荀呉・斉の苑何忌・衛の公子朝らと合流して宋を救援し、華氏と赭丘で戦った。華登が楚に救援を求め、平王は救援を約束した。
  • 蔡の悼侯が楚に亡命した。
紀元前520年
  • 斉の北郭啓が軍を率いて莒を攻撃した。
  • 宋の華亥・向寧・華定らが楚に亡命した。
  • 周の景王が死去し、子の悼王が即位したが、これに不満を持つ王子朝が反乱を起こし、悼王を殺害した。敬王が即位した。
  • 晋の荀呉が鼓を襲撃して滅ぼした。
  • 《死去》周の王・景王。周の王・悼王。
紀元前519年
  • 晋軍が郊を包囲した。
  • 晋が魯の叔孫婼を抑留した。
  • 尹圉が王子朝を尹に迎え、敬王側の単旗を破った。
  • 呉軍が州来を攻撃したため、楚の蔿越が諸侯の軍を率いて救援に向かった。鶏父で会戦し、呉軍が楚の連合軍を撃破した。
  • 楚の蔿越が敗戦の罪を負って自殺した。
  • 楚の嚢瓦(子常)が令尹となった。
  • 《死去》蔡の君主・悼侯。
紀元前518年
  • 王子朝が鄔に入った。
  • 魯の叔孫婼が晋から帰国した。
  • 王子朝の軍が瑕と杏を攻撃して陥落させた。
  • 鄭の定公が晋に赴いて士鞅と面会した。
  • 楚の平王が呉に進攻し、圉陽まで達して撤退した。呉軍は楚軍を追って、巣と鍾離を滅ぼした。
  • 《死去》杞の君主・平公。
紀元前517年
  • 魯の叔孫婼が宋に赴いた。
  • 晋の趙鞅の主導により、魯・宋・衛・鄭・曹・・滕・薛・小の人々が黄父で会合した。
  • 斉軍が魯の鄆を包囲した。
  • 《死去》魯の重臣・叔孫婼(叔孫昭子)。宋の君主・元公。
紀元前516年
  • 斉が魯の鄆を占領した。
  • 魯の昭公が斉から鄆に入った。
  • 斉・魯・莒・・杞が鄟陵で会盟した。
  • 周の敬王が成周に入り、王子朝は毛伯得・尹氏固・南宮嚚らとともに楚に亡命した。
  • 《死去》楚の王・平王。
紀元前515年
  • 魯の昭公が斉に赴き、斉から帰国して鄆に留まった。
  • 呉が楚を攻撃し、公子掩余や公子燭庸が軍を率いて潜を包囲した。楚の莠尹然や工尹麇が潜の救援に向かった
  • 呉王僚が季札を晋に派遣した。
  • 呉王僚が公子光の命を受けた刺客の専諸に暗殺され、専諸もその場で殺された。
  • 呉の公子掩余が徐に逃れ、公子燭庸が鍾吾に逃れた。
  • 楚の左尹の伯宛が費無忌の讒言を信じた令尹の嚢瓦(子常)の攻撃を受けて自殺した。
  • 晋の士鞅・宋の楽祁・衛の北宮喜・曹人・人・滕人が扈で会合した。
  • 魯の仲孫何忌(孟懿子)と陽虎が昭公のいる鄆を攻撃した。
  • 楚の令尹の嚢瓦は伯宛を死なせたことを国人に非難され、費無忌と?将師を滅ぼすことで償いとした。
  • 魯の昭公が再び斉に赴き、斉から帰国してまた鄆に留まった。
  • 曹の悼公が、抑留先の宋で没し、声公が即位した。
  • 《死去》春秋時代の呉の王・呉王僚(紀元前526年即位)。春秋時代の曹の君主・悼公(紀元前524年即位)。楚の6代の王に仕えた政治家・伯州犂(生年不明)。楚の平王に仕えた政治家・費無忌。
紀元前514年
  • 魯の昭公が晋に赴き、乾侯に留まった。
  • 晋で祁盈と楊食我が殺害された。
  • 晋で韓起(韓宣子)が死去し、魏舒(魏献子)が政権を握った。祁氏や羊舌氏の田土を分割して県に再編した。
  • 《死去》春秋時代の晋の政治家、将軍・韓起。春秋時代の鄭の君主・定公。春秋時代の滕の君主・悼公。
紀元前513年
  • 周の都の洛陽で召伯盈・尹氏固および原伯魯の子が殺害された。
  • 周の王子の趙車が鄻に入って反乱を起こし、陰不佞がこれを撃破した。
  • 晋の趙鞅と荀寅(中行文子)が、かつて士匄(范宣子)の作った刑書を彫り付けた刑鼎を公開した。これが晋で初めての成文法となった。
  • 滕の頃公が即位。
  • 鄭の献公が即位。(紀元前514年とも)
紀元前512年
  • 孫武(『孫子』の著者)が、呉の闔閭の下で、将軍、軍師となる。(おおよその年)
  • 呉が鍾呉子を捕らえ、ついで徐を攻め滅ぼした。楚は徐を救援しようとしたが間に合わず、徐子章羽の亡命を受け入れて、夷にとどまらせた。
  • 呉王闔閭が呉軍を3軍に分けて楚に遊撃戦を仕掛ける伍子胥の戦略を採用した。
  • 《死去》晋の君主・頃公(即位:紀元前525年)
紀元前511年
  • 魯の季孫意如が晋の智躒と適歴で会合した。
  • 呉軍が楚に侵入し、夷を攻め、灊や六を侵した。楚の沈尹戌が軍を率いて灊を救援すると、呉軍は撤退した。楚軍は灊の住民を南岡に移して引き揚げた。呉軍が弦を包囲すると、楚の左司馬の沈尹戌と右司馬の稽は軍を率いて弦の救援に向かった。楚軍が豫章に達すると、呉軍は撤退した。
紀元前510年
  • 呉が越を攻撃した。
  • 周の敬王が富辛と石張を晋に派遣して、成周の城壁修築を依頼した。晋はこれを受け入れ、士弥牟(士景伯)の案をもとに諸侯を動員して工事がおこなわれ、韓不信が監督した。
  • 曹の声公が、弟の姫通に殺害され、姫通が隠公として即位した。
紀元前509年
  • 晋の魏舒が諸侯の大夫を狄泉に召集して、成周の城壁を修築させた。
  • 晋の士弥牟(士景伯)が宋の仲幾を捕らえて京師に送った。
  • 魯の定公が即位。先王昭公は、紀元前510年に斉で没しており、紀元前517年に昭公が斉に逃れて以来の空位時代が終わった。
  • 《死去》晋の武将、政治家・魏舒(生年不明)。
紀元前508年
  • 楚の嚢瓦(子常)が呉軍を豫章で攻撃した。呉軍は豫章で楚軍を撃破し、巣を攻め落として、楚の公子繁を捕らえた。
紀元前507年
  • 鮮虞が晋軍を平中で破り、晋の観虎を捕らえた。
  • 魯とが郯で会盟した。
  • 蔡の昭侯が楚から帰国すると、晋に人質を送って楚に対する進攻を要請した。
  • 《誕生》公輸盤(魯班) - 中国の発明家、哲学者(紀元前444年没)
紀元前506年
  • 晋・斉・魯・宋・蔡・衛・陳・鄭・許・曹などの諸国が召陵に会盟し、楚に対する進攻を決議した。
  • 蔡が召陵の会に参加しなかった沈を滅ぼした。
  • 楚が蔡を包囲した。
  • 晋の士鞅と衛の孔圉が軍を率いて鮮虞を攻撃した。
  • 呉・蔡・唐が楚に侵攻した。
  • 柏挙の戦い - 孫武の率いる呉の軍勢が楚軍を柏挙で破り、楚の都であった郢を破壊し、楚の昭王は逃亡を余儀なくされた。
紀元前505年
  • 呉軍が楚に侵攻した隙をついて、越が呉を攻撃した。
  • 秦が申包胥の援軍要請を受けて楚を救援し、呉の夫概を沂で破った。
  • 楚の子西が呉軍を軍祥で破った。
  • 楚の子期と秦の子蒲が唐を滅ぼした。
  • 魯の陽虎が仲梁懐を追放し、公何藐を殺し、季孫斯(季桓子)と盟約して、国内の粛清を敢行した。
  • 楚の昭王が郢に帰還した。
  • 晋の士鞅が鮮虞を包囲した。
紀元前504年
  • 鄭の游遫が軍を率いて許を滅ぼした。
  • 魯が鄭に侵入して、匡を奪った。
  • 魯の季孫斯(季桓子)が晋に赴き、鄭の捕虜を献じた。
  • 呉の太子の終纍が楚の水軍を撃破した。
  • 周の儋翩が王子朝の残党を率いて成周で乱を起こそうとした。
  • 晋が宋の楽祁を抑留した。
  • 魯の陽虎が定公や三桓氏と周社で盟約した。
紀元前503年
  • 周の儋翩が儀栗に入って反乱を起こした。
  • 斉が魯に鄆と陽関を返還した。魯の陽虎はここに拠って政権を握った。
  • 単の武公と劉の桓公が尹氏を窮谷で破った。
  • 斉と鄭が鹹で会盟し、衛を誘った。衛の霊公は北宮結を斉に派遣して、衛への進軍を求めた。斉軍が衛に侵入すると、衛は瑣で斉と会盟した。
  • 反乱により都から逃れていた周の敬王が、晋の支援を受けて反乱を鎮め、都に戻った。
  • 《誕生》孔子の弟子のひとり・子張(没年不明)。
紀元前502年
  • 魯が斉に侵攻し、陽州を攻撃したが、敗退した。
  • 単武公が穀城を攻撃し、劉桓公が儀栗を攻撃した。単武公が簡城を攻撃し、劉桓公が盂を攻撃して、儋翩の乱は終息した。
  • 魯が斉に侵攻し、廩丘を攻撃したが、敗退した。
  • 斉の国夏と高張が魯の西鄙を攻撃し、晋の士鞅・趙鞅・荀寅が魯を救援した。
  • 晋が衛と鄟沢で会盟したが、衛の霊公の怒りを買い、破談となった。
  • 晋の士鞅が鄭に侵入し、蟲牢を包囲した。
  • 晋と魯が衛に侵入した。
  • 魯の陽虎が三桓氏当主の排除を狙って乱を起こした。
  • 《死去》曹の君主・靖公(在位:紀元前506年 - 紀元前502年)(生年不明)。
紀元前501年
  • 宋の景公が楽大心を晋に派遣して同盟を結ばせた。
  • 魯から離反した陽虎が陽関の萊門に火を放って包囲を脱し、斉に亡命した。斉に拘禁されたため、脱出して宋に入り、さらに晋に逃れて趙氏の庇護を受けた。
  • 斉と衛の連合軍が晋の夷儀を攻撃した。晋軍が中牟を出立して、斉軍を撃破した。
  • 孔子が、魯の定公によって中都の宰に任じられる。
  • 《死去》哀公 - 秦の君主(在位:紀元前536年 - 紀元前501年)(生年不詳)。鄧析 - 鄭の政治家。子産の成文法を批判した。
紀元前500年
  • 斉と魯が講和した。
  • 斉の景公と魯の定公が夾谷で会盟した。
  • 晋の趙鞅が衛を包囲した。
紀元前499年
  • 宋の景公の弟の公子辰・公子仲佗・公子石彄・公子地が陳から蕭に入って、宋にそむいた。
  • 魯と鄭が講和した。
紀元前498年
  • 衛の公孟彄が曹を攻撃し、郊を攻め落として凱旋した
  • 魯の子路が季孫氏の宰となり、 三桓氏の拠点である費・郈・成を取り壊そうとした。 費の宰である公山不狃と叔孫輒が曲阜を襲い、 定公は三桓とともに季孫氏の宮に入り、 武子の台に登った。 孔子が申句須と楽頎に命じて費の兵を攻撃すると、 費の兵は敗走して、公山不狃と叔孫輒は斉に亡命した。 費の城は破却された
  • 斉と魯が黄で会盟した
  • 魯の定公が成を包囲した
紀元前497年
  • 斉と衛の連合軍が晋を攻撃した
  • 晋の范氏と中行氏が趙氏の宮を攻撃し、 趙鞅は晋陽に逃れた。 智躒・韓不信・魏侈が定公を奉じて范氏と中行氏を攻めた。 范氏と中行氏は定公を攻撃して国人の反感を買い、 敗北して朝歌に逃れた。趙鞅は絳に帰還した。
  • 孔子が魯の官を辞し、弟子たちとともに放浪の旅に出た。孔子は衛に入った
紀元前496年
  • 晋軍が范氏と中行氏の拠る朝歌を包囲した
  • 衛の公叔戌が魯に亡命し、趙陽が宋に亡命した
  • 楚の公子結と陳の公孫佗人が軍を率いて頓を滅ぼした
  • 越が呉軍を欈李で破り、呉王闔閭は戦傷を受けて死去した
  • 斉と魯と衛が牽で会盟した
  • 斉と宋が洮で会盟した
  • 晋軍が范氏と中行氏の軍を潞で破り、籍秦と高彊を捕らえた
  • 晋軍は鄭軍と范氏の軍を百泉で破った
  • 《死去》孫武 - 斉の軍事思想家で孫子の著者(生年:紀元前544年)
  • 《死去》闔閭 - 呉の王
紀元前495年
  • 夫差が父の闔閭から王位を継ぎ、呉の最後の王となった
  • 楚が胡を滅ぼした
  • 鄭の罕達が宋軍を老丘で破った
紀元前494年
  • 楚が陳・随・許を従えて蔡を包囲した
  • 呉王夫差が越を夫椒で破った。越王勾践は会稽山に立てこもって、呉に講和を求めた。夫差は伍子胥の反対を押し切って講和を許した
  • 斉と衛が晋の范氏を救援するために邯鄲に出兵し、五鹿を包囲し、棘蒲を奪った
  • 呉が陳に侵攻した
  • 魯の仲孫何忌(孟懿子)が邾を攻撃した
紀元前493年
  • 魯の季孫斯(季桓子)・叔孫州仇(叔孫武叔)・仲孫何忌(孟懿子)らが邾を攻撃し、漷東の田と沂西の田を奪った
  • 衛の霊公が死去し、夫人の南子が公子郢を後嗣に立てようとしたが、郢に固辞されたため、太子蒯聵の子である輒が即位した
  • 晋の趙鞅が衛の太子蒯聵を送って戚に入城させた
  • 趙鞅が鄭の罕達の軍と鉄で戦って撃破した
  • 蔡が国を呉の州来に遷した。蔡の昭公は反対派の大夫の公子駟を殺害した
紀元前492年
  • 斉の国夏と衛の石曼姑が軍を率いて戚を包囲した
  • 魯の桓宮と僖宮が火災に遭った
  • 宋の楽髠が曹を攻撃した
  • 晋の趙鞅が范氏と中行氏の拠る朝歌を包囲した
紀元前491年
  • 蔡の昭侯が殺害された
  • 晋の士蔑が戎蛮子赤を捕らえて楚に引き渡した
  • 斉の陳乞・弦施と衛の甯跪が晋の范氏を救援し、五鹿を包囲した
  • 趙鞅が邯鄲を包囲し、邯鄲は降伏した。荀寅(中行文子)は鮮虞に逃れ、趙稷は臨に逃れた
  • 斉の国夏が晋を攻撃し、邢・任・欒・鄗・逆畤・陰人・盂・壺口を奪った
紀元前490年
  • 晋軍が柏人を包囲し、荀寅(中行文子)と士吉射(范昭子)は斉に逃れた
  • 晋の趙鞅が衛を攻撃した
  • 斉の景公が死去すると、萊に幽閉されていた公子嘉・公子駒・公子黔が衛に亡命し、公子鉏・公子陽生が魯に亡命した
  • 鄭の駟秦が殺害された
紀元前489年
  • 孔子が陳と蔡の間で包囲される
  • 楚の昭王が孔子を奉幣を使わして招聘し、書社七百に封じようとする。しかし令尹の子西(中国語版)の妨害により、これは実行されなかった
  • 孔子は再度衛へ赴く
  • 呉が陳を攻め、楚が救援の兵を出す。楚の昭王が軍中で死ぬ。その子の熊章があとを継ぎ、恵王となる
  • 晋が中山国を攻める
  • 斉内乱の戦 - 田乞と鮑牧(中国語版)と大夫たちが兵を率いて宮殿に入り、国夏と高張(中国語版)の二人を破る。国夏と高張らは魯へ亡命する。田乞らは斉の景公の子の陽生を擁立し、悼公とする。この出来事は斉の田氏貴族の専横の始まりとなった
紀元前488年
  • 宋の皇瑗が鄭に侵攻した
  • 晋の魏侈が衛に侵攻した
  • 呉が魯と鄫で会見した。呉は魯に百牢を要求した
  • 魯が邾に侵攻した
  • 宋が曹を包囲し、鄭の駟弘が曹を救援した
紀元前487年
  • 宋が曹を滅ぼし、曹伯陽を自国に連行した
  • 呉が魯を攻撃した
  • 斉の鮑牧が魯を攻撃し、讙と闡を占領した
紀元前486年
  • 宋の皇瑗が雍丘で鄭軍を破った
  • 楚が陳に侵攻した
  • 呉王夫差が邗溝を開いた。これは長江と淮河を結び、北方の国家である宋や魯と戦争するための補給品の輸送路となった
紀元前485年
  • 呉・魯・邾・郯の連合軍が斉を攻撃し、 鄎に進軍した。 斉の田乞が悼公を殺害して講和を求めた。 呉の徐承が水軍で侵入したが、 斉軍に敗れて、 呉軍は撤退した
  • 晋の趙鞅が斉を攻撃し、犁と轅を占領し、高唐の城郭を破壊した。趙鞅は頼まで進軍して撤退した
  • 楚の子期が陳を攻撃し、呉の季札が陳を救援した
紀元前484年
  • 斉の国書が前年の報復のために魯に侵攻した
  • 呉が魯と連合して斉に侵攻し、艾陵で戦って斉の国書を破り、捕らえた
  • 呉王夫差が伍子胥を自殺させた
  • 衛の太叔疾が宋に亡命した
紀元前483年
  • 呉と魯が橐皋で会合した
  • 魯と衛と宋が鄖で会合した
  • 宋の向巣が鄭を攻撃して鍚を占領し、元公の孫を殺し、嵒を包囲した
  • 鄭の罕達が嵒を救援し、宋軍を包囲した
紀元前482年
  • 鄭の罕達が宋軍を嵒で撃破した
  • 晋の定公と呉王夫差が黄池で会盟した
  • 越の勾践が呉に攻め入り、呉軍を大いに破った
紀元前481年
  • 魯の哀公が西方の大野沢で狩猟をおこない、麟を獲た
  • 斉の田恒(田成子)が国君の簡公を捕らえた
  • 宋の桓魋(向魋)が曹に亡命し、さらに衛に逃れた。その兄の向巣は魯に亡命した
  • 斉の田恒が舒州で簡公を殺害した
  • 晋の趙鞅が衛を攻撃した
紀元前480年
  • 楚の子西と子期が呉に攻め入り、桐汭に達した
  • 鄭が宋を攻撃した
  • 魯が斉と講和した
  • 晋の趙鞅が衛に進攻した
  • 衛の反乱に巻き込まれて子路が殺害された。衛の孔?により荘公が擁立された
紀元前479年
  • 衛の荘公が戚から衛に入国した。出公は魯に亡命した
  • 衛の孔悝が宋に亡命した
  • 楚で白公勝の乱が起こった。白公勝は子閭を楚王に立てようとしたが、子閭はこれを固辞して殺された。沈諸梁(葉公子高)が反乱を鎮圧し、白公勝は自殺した
  • 《死去》孔子 - 春秋時代の哲学者(生年:紀元前551年)
紀元前478年
  • 衛の太子疾が渾良夫を殺害した
  • 越王勾践が呉軍を笠沢に破った
  • 晋の趙鞅が衛を包囲した
  • 楚の公孫朝が陳を滅ぼした
  • 斉の平公と魯の哀公が蒙で会盟した
  • 今日の曲阜市に孔子廟が建設された
紀元前477年
  • 宋で皇瑗が殺害された
  • 巴人が楚に侵入して、鄾を包囲した
  • 衛の石圃が衛君起を追放して、起は斉に逃れた。出公が斉から帰国して復位した
紀元前476年
  • 越が楚に侵入した
  • 楚の公子慶と公孫寬が撤退する越軍を追撃して冥にいたったが追いつけなかった
  • 楚の沈諸梁(葉公子高)が東夷を攻撃し、三夷の男女と敖で盟を結んだ
紀元前475年
  • 元王が周の王となった
  • 斉を中心に廩丘で会盟がおこなわれ、晋に対する攻撃が謀議されたが、鄭が脱落したため、密約は成らなかった
  • 晋の趙無恤が亡父の服喪のために食膳を減らし、呉王夫差のために出兵できない無念のためにさらに減らした
紀元前474年
  • 越が魯に初めて使者を送った
  • 斉が魯と邾と顧で会盟した
紀元前473年
  • 邾の隠公が斉から越に逃れた。越が隠公を帰国させると、邾の太子革は越に亡命した
  • 越が呉を滅ぼし、呉王夫差は自ら縊死した
紀元前472年
  • 晋の智瑶が斉を攻撃し、犁丘で会戦して斉軍を破った
紀元前471年
  • 魯の哀公が越を訪問した
紀元前470年
  • 衛の出公が宋に亡命した
  • 魯の哀公が越から帰国した
紀元前469年
  • 越・魯・宋らが衛に遠征して、出公を復位させようとしたが、果たせずに撤退した
  • 《死去》元王 - 周の王
  • 《死去》景公 - 宋の君主
紀元前468年
  • 貞定王が28代目の周の王となった
  • 越王勾践が舌庸を魯に派遣した
  • 晋の智瑶が鄭を攻撃した
  • 魯の哀公が三桓氏の排除を図って失敗し、出奔した
紀元前465年
  • 《死去》勾践:越の王
紀元前461年
  • 秦が大茘を攻撃し、その王城を奪った
紀元前452年
  • 田白が斉の宰相となった
紀元前448年
  • 越王不寿が殺され、子の朱句(州句)が立った
紀元前447年
  • 楚が蔡を滅ぼした
紀元前445年
  • 楚が杞を滅ぼした
紀元前444年
  • 秦が義渠を攻撃し、その国君を捕らえた
紀元前441年
  • 哀王が周の王となったが、年が終わる前に死亡し、思王が後を継いだ
  • 《死去:哀王 - 周の王》
紀元前440年
  • 考王が周の王となった
紀元前433年
  • 現在の湖北省随県で、戦国時代の周(東周)代の人物である曾侯乙の墓から後に出土した、65個の編鐘一式が製作された。この編鐘は、現在は武漢市の湖北省博物館で保存されている?????
紀元前432年
  • 戦国時代の周(東周)代の人物で、楚出身の曾侯乙が埋葬され、その墓に5オクターヴの音域、2種類の音色を奏でる65個の編鐘一式などが副葬された(おおよその年代)?????
紀元前430年
  • 義渠が秦を攻撃し、渭水の南までやってきた
紀元前426年
  • 《死去》周の考王 - 周(東周)の王
紀元前425年
  • 威烈王が、周(東周)の王に即位した
紀元前404年
  • 宋の昭公が死に、子の悼公が即位する
紀元前403年
  • 中国.晋が下剋上により韓・魏・趙に分裂し、戦国時代始まる
  • 周(東周)は、三晋の独立を追認し、韓・趙・魏を諸侯の列に加えた。戦国時代の始まりとして伝統的に言及される時点のひとつ
  • 魏斯が魏侯に封じられ魏の文侯となる。文侯は儒教を尊び、李克・呉起・西門豹といった有能な政治顧問を登用した
  • 趙籍が趙侯に封じられ趙の列侯となる
  • 韓虔が韓侯に封じられ韓の景侯となる
  • 北宋の司馬光による中国史史書『資治通鑑』はこの年から始まる
紀元前402年
  • 周の威烈王が死去し、安王が即位した
  • 楚の声王が在位6年にして賊に暗殺される
  • 《死去》周の威烈王 - 中国の周(東周)の王
  • 《死去》声王 - 楚の王
紀元前401年
  • 秦が魏を攻撃し、陽狐に到達した
紀元前400年
  • 韓と趙と魏が楚を攻撃し、乗丘に至る
  • 鄭が韓の陽翟を包囲する
  • 韓の景侯虔が薨去し、子の烈侯が即位する
  • 趙の烈侯籍が薨去し、弟の武侯が即位する
  • 秦の簡公悼子が薨去し、子の恵公が即位する
  • 《死去》簡公 - 秦の君主
紀元前399年
  • 周の王子の定が晋に亡命する
  • 虢山が崩れ、黄河が塞がる
紀元前398年
  • 楚が鄭軍を破り、鄭を包囲した。鄭人は宰相の駟子陽を殺した
紀元前397年
  • 厳仲子が聶政に依頼して韓の宰相の侠累を殺害させた
紀元前396年
  • 鄭の駟子陽の残党が繻公を殺害し、その弟の康公を擁立した
紀元前394年
  • 斉が魯を攻撃し、郕を奪った
  • 負黍が鄭から離反して、韓に復帰した
紀元前393年
  • 魏が鄭を攻める
  • 晋の烈公が薨去し、子の孝公が即位する
  • 《死去》烈公 - 晋の君主
紀元前391年
  • 秦が韓の宜陽を攻撃し、六つの邑を取る
  • 斉の大夫の田和が斉の康公の姜貸を海上の孤島に追放し、食邑として城を1つだけ与えられ、祖先の霊を祀ることとされた
  • 《死去》墨子 - 中国の哲学者(生年:紀元前476年)おおよその年代
紀元前390年
  • 秦と晋が武城で戦った
  • 斉が魏を攻撃し、襄陵を奪った
  • 魯が斉軍を平陸で破った
紀元前389年
  • 秦が晋に侵攻した
  • 斉の田和が魏や楚や衛と濁沢で会盟し、諸侯となることを求めた
  • 楚の令尹(宰相)呉起が、政治、行政、軍制改革に着手し、最初の一連の法令を定めた。呉起は、この国から腐敗を一掃し、特権を制限しようと取り組んでおり、それに反発していた楚の高官や貴族たちは呉起への怒りや不信を高めた。呉起は、最後には紀元前381年の悼王の葬儀の際に暗殺されたが、暗殺者たちは直後に即位した粛王によって一族もろとも処刑された
  • 歴史書『春秋』の代表的な注釈書で、左丘明という盲目の歴史家の作とされる『春秋左氏伝』が、この年までに成立した(より古い可能性がある)
紀元前387年
  • 秦が蜀を攻撃し、南鄭を取る
  • 呉起が楚に亡命する
  • 秦の恵公が死に、子の出公が即位する
  • 趙の武侯が死に、国人は烈侯の太子章を立て、敬侯となす
  • 韓の烈侯が死に、子の文侯が即位する
  • 《死去》恵公 - 秦の君主(生年不詳)
  • 《死去》武公 - 趙の君主(生年不詳)
  • 《死去》烈侯 - 韓の君主(生年不詳)
  • 《死去》文侯 - 魏の君主
紀元前386年
  • 斉の田和が諸侯として周の安王に認められた
  • 趙が、邯鄲に都を築き、中牟(現在の河南省鶴壁市山城区)から遷都した
  • 趙の公子朝が反乱を起こし、魏に亡命した。公子朝は魏とともに邯鄲を襲撃したが、敗れた
紀元前385年
  • 秦で庶長が献公を河西から迎えて擁立し、出公とその母を殺して深淵に沈めた
  • 斉が魯を攻撃した
  • 韓が鄭を攻撃して陽城を奪い、宋を攻撃して悼公を捕らえた。宋の国人は子の休公を立てた
  • 斉の太公が死去し、子の田剡が即位した
紀元前383年
  • 魏が趙軍を兔台で破った
紀元前381年
  • 《死去》楚の悼王
  • 《死去》呉起 - 中国の兵家、戦国時代の楚の令尹(宰相)。衛に生まれ、魯の官僚でもあった
紀元前380年
  • 斉が燕を攻撃し、桑丘を奪った
  • 魏・韓・趙が斉を攻撃し、桑丘に達した
紀元前379年
  • 趙が衛を襲撃したが、敗北した
  • 《死去》康公 、春秋時代・斉(姜斉)最後の君主
紀元前378年
  • 狄が魏軍を澮で撃破した
  • 魏・韓・趙が斉を攻撃し、霊丘に達した
紀元前377年
  • 蜀が楚を攻撃し、茲方を奪った
  • 《死去》文侯 - 中国戦国時代の韓の君主
紀元前376年
  • 周の安王が死去し、烈王が即位した
  • 春秋時代の有力諸侯であった晋は、紀元前403年に有力家臣であった韓・趙・魏の三家によって国土を分割されたものの、晋公はわずかな領土を与えられて存続していた。だが、この年になって韓と魏が連合して晋を攻め滅ぼした
  • 《死去》安王 - 周王朝第33代の王
紀元前375年
  • 韓が鄭を滅ぼし、新鄭に遷都した
  • 《死去》 敬侯 - 中国戦国時代の趙の君主
紀元前374年
  • 韓の厳遂が哀侯を殺害した。韓の国人たちは懿侯を擁立した
  • 《死去》哀侯 - 中国戦国時代の韓の君主
紀元前373年
  • 燕が斉軍を林狐で破った
  • 魯が斉を攻撃し、陽関に入った
  • 魏が斉を攻撃し、博陵に達した
  • 《死去》燕の簡公
紀元前372年
  • 趙が衛を攻撃し、73城を奪った
  • 魏が趙軍を北藺で破った
  • 《誕生》孟子、中国戦国時代の哲学者(没年:紀元前289年)
紀元前371年
  • 魏が楚を攻撃し、魯陽を奪った
紀元前370年
  • 斉の桓公が周に来朝した
  • 趙が斉を攻撃し、鄄に達した
  • 魏が趙軍を懐で破った
  • 楚の粛王が死去したが、子がなかったため、弟の宣王が即位した
  • 魏の武侯が死去したが、太子を立てていなかったため、子の#x7F43;(恵王)と公子中緩が即位を争い、国内は混乱した
  • 《死去》粛王 - 中国戦国時代の楚の王
  • 《死去》武侯 - 中国戦国時代初期の魏の君主(生年:紀元前424年)
紀元前369年
  • 周の烈王が死去し、顕王が即位した
  • 魏の混乱を見て、韓の懿侯と趙の成侯は共同で出兵し、 濁沢で魏軍を撃破し、魏を包囲した。 魏の国君に罃と公子中緩のどちらを立てるかをめぐって、 韓と趙の意見は対立し、両軍は撤退した。 罃(恵王)は公子中緩を殺して即位した
  • 《死去》烈王 - 周の王
紀元前368年
  • 斉が魏を攻撃し、観津を奪った
  • 趙が斉に侵攻し、長城に達した
  • 魏の大夫の王錯が韓に亡命した
紀元前367年
  • 西周の威公が死去し、恵公が即位した。恵公の弟の公子班が反乱を起こした
  • 趙と韓が周を攻撃し、公子班を東周の恵公として立てた
紀元前366年
  • 魏と韓が宅陽で会合した
  • 秦が魏と韓の連合軍を洛陰で破った
紀元前365年
  • 魏が宋を攻撃し、儀台を奪った
  • 魏が大梁に遷都した
紀元前364年
  • 中国の天文学者で斉出身の甘徳が、木星の衛星のひとつガニメデを発見し、また、史上初めて太陽黒点の観察を行なったとされる
  • 秦の献公の将軍の章?は晋と石門で戦い、6万人を斬首し、周の天子から黼黻(ほふつ)の衣服を賜った
紀元前363年
  • 《死去》宋の休公
  • 《死去》韓の懿侯
紀元前362年
  • 魏が澮で韓と趙の連合軍を破り、趙の楽祚を捕らえた
  • 少梁の戦いにおいて秦と魏が戦い、魏が敗れて、宰相(公孫#x75E4;)が捕虜となった
  • 《死去》衛の声公
  • 《死去》燕の桓公
  • 《死去》秦の献公
紀元前361年
  • 衛の公孫鞅が秦に入国した
紀元前360年
  • 魏の恵王が黄河と淮河を連結する運河である鴻溝を開削する
  • 商鞅が李克の法経を携えて秦に投じる
  • 《死去》公叔痤 - 魏の相国
紀元前359年
  • 商鞅が秦の孝公に変法の提案をおこなった
紀元前358年
  • 秦が韓軍を西山で撃破した
紀元前357年
  • 魏と趙が鄗で会合した
  • 《死去》斉の桓公
紀元前356年
  • 秦の孝公が商鞅を左庶長に任命して変法を実行させた(第一次変法)
  • 斉の威王が即墨大夫を万家に封じるいっぽう、阿大夫の汚職を責めて処断したため、斉の国内は粛然とした
  • 趙と燕が阿で会合した
  • 趙と斉と宋が平陸で会合した
  • 魯・衛・宋・韓の国君が魏の恵王に朝見した
  • 《誕生》恵文王、秦の王(没年:紀元前311年)
紀元前355年
  • 斉の威王と魏の恵王が郊で会合し狩猟をおこなった
  • 秦の孝公と魏の恵王が杜平で会合した
紀元前354年
  • 秦が魏軍を元里で撃破し、少梁を奪った
  • 魏が趙を攻撃し、邯鄲を包囲した。楚が景舎を派遣して、趙を救援した
紀元前353年
  • 斉の威王が田忌を趙の救援に向かわせた
  • 桂陵の戦いにおいて、兵家孫?の献策により、斉が魏を破った(囲魏救趙)
  • 韓が東周を攻撃し、陵観と廩丘を奪った
  • 楚で昭奚恤が令尹(宰相)となった
  • 宋の景善と衛の公孫倉が斉軍と合流し、魏の襄陵を包囲した
  • 《死去》魯の共公
紀元前352年
  • 魏と韓の軍が襄陵を包囲していた斉・宋・衛の連合軍を撃破した(襄陵の戦い)。斉の威王は楚に仲介を依頼し、楚は景舎を派遣して講和を求めさせた。魏の恵王は斉や宋と会合した
  • 秦の大良造の商鞅が魏を攻撃し、安邑を包囲して降した
  • 秦の孝公は咸陽城を(現・咸陽市)に造り、都をここに移した
紀元前351年
  • 秦の商鞅が魏の固陽を包囲して降した
  • 魏が趙の邯鄲の包囲を解き、趙と漳水のほとりで盟約を結んだ
  • 韓の昭侯が申不害を宰相として任用した
紀元前350年
  • 秦が咸陽に遷都した
  • 秦が魏と彤(現在の陝西省渭南市華州区付近)で会合した
  • 趙の成侯が死去し、公子碟は太子語と位をめぐって争ったが敗れて、韓に亡命した。太子語は即位して粛侯となった
  • 宋の剔成君が桓公を廃位して、自ら即位した
紀元前348年
  • 秦の商鞅が賦税法を行う。孝公は田租の基礎の上に、口賦(人頭税)の徴収を開始する
  • 斉の威王が周に来朝した
紀元前346年
  • 斉が大夫の牟辛を殺す
  • 衛は自ら貶めて侯爵となり、三晋に臣服する
  • 《死去》康公 - 魯の君主
紀元前344年
  • 諸侯が成周で会合した
  • 魯で康公が死に、景公が即位した
  • 《死去》康公 - 魯の君主
紀元前343年
  • 周の顕王が秦の孝公を伯とし、諸侯が慶賀した
紀元前342年
  • 魏の龐涓が韓を攻撃した。韓は斉に救援を要請した。斉の威王は田忌・田嬰・田肦を将軍とし、孫臏を軍師として韓の救援に向かわせた。斉軍は魏の都の大梁を目指した
  • 馬陵の戦いで斉軍が魏軍を破った。これは巻き上げハンドル式のトリガー機構付きの弩の使用の信頼出来る記録がされた最初の戦いでもある
紀元前340年
  • 秦の商鞅が魏へ侵攻し、 自ら兵を率いて討伐した(呉城の役(中国語版))。 またかつて親友であった魏の総大将である公子卬(中国語版)を欺いてこれを捕虜にし、 黄河以西の土地を奪った。 魏の恵王は「あの時の公叔痤の言葉に従わなかったためにこのような事になってしまった」と大いに悔やんだという。この功績により公孫鞅は商・於という土地の15邑に封ぜられた。これより商鞅と呼ばれる
  • 斉と趙が博望で会合し、魏を攻撃した
  • 宣王が死去し、子の楚の威王が即位した
  • 《死去》宣王 - 楚の君主
紀元前338年
  • 秦の孝公が死去し、恵文王が即位した
  • 秦の公子虔らが商鞅が謀反を讒言し、役人に逮捕を命じた。 商鞅は魏に逃れようとしたが、 魏は受け入れなかったため、 秦の国内に戻った。 商鞅は封地の商で兵を集めたが、 秦の討伐軍に攻められて殺害された。 恵文王の厳命でその遺骸は黽池(べんち、現在の河南省澠池県)で見せしめとして車裂きの刑に処せられ、 身体は引き裂かれて曝しものとされた
  • 《死去》商鞅 - 秦の政治家(生年:紀元前390年)
  • 《死去》孝公 - 秦の第25代君主(生年:紀元前381年)
紀元前337年
  • 《死去》申不害 - 中国の官僚、韓の宰相
紀元前336年
  • 宋の太丘社が滅び、九鼎が彭城泗水の下に没した
  • 孟子が魏の恵王と会談した
紀元前335年
  • 秦が韓を攻撃し、宜陽を奪った
  • 斉の威王が田嬰を彭城に封じた
紀元前334年
  • 田嬰が斉の宰相となった
  • 斉の威王と魏の恵王が徐州で会合し、互いを王と認め合った
  • 越王無彊が斉を攻撃した。 斉の威王は人を派遣して、 斉を攻撃するより楚を攻撃する利益が大きいことを越王に説かせると、 越王は楚を攻撃した。 楚軍は越軍に大勝し、 勝利に乗じて呉の故地を奪い、 東は浙江まで領土を拡大した。 越はこの大敗以後、 諸公族が争って立ち、 ある者は王となり、 ある者は君となり、 海岸地方に追いつめられて、 楚に服属していった
紀元前333年
  • 楚が斉を攻撃し、斉軍を破り、徐州を包囲した。斉の田嬰が張丑を派遣して楚の威王を説得すると、楚は軍を返した。
  • 《死去》釐侯 - 韓の君主
  • 《死去》成侯 - 衛の第40代君主
  • 《死去》文公 - 燕の第36代君主
紀元前332年
  • 秦の恵文君が公孫衍を派遣して斉と魏を説得し、連合して趙を攻撃して、合従の約を破らせた。趙の粛侯がこのことで蘇秦を責めた。蘇秦が使者として燕に赴くと申し出て出国すると、合従の約は解体してしまった。趙軍が黄河を決壊させて斉と魏の陣にそそがせると、斉と魏の軍は撤退した。
  • 魏は陰晋をもって秦と講和した。
  • 斉軍が燕を攻撃して10城を奪ったが、蘇秦が斉の威王を説得すると、これらの城を燕に返還した。
紀元前330年
  • 秦が魏を攻撃し、焦と曲沃を包囲した。魏は少梁と河西の地を秦に割譲した。
紀元前329年
  • 秦は魏を攻撃し、汾陰・皮氏・焦を奪った。
  • 楚の威王が死去し、子の槐(懐王)が即位した。
  • 宋の剔成君の弟の偃がクーデターを起こして剔成君を追放し、宋君として即位した。
  • 《誕生》秦の君主・武王(没年:紀元前307年)
  • 《死去》楚の第37代王・威王
紀元前328年
  • 秦の公子華と張儀は、魏に出兵して攻撃し、蒲陽を取る。張儀は秦の恵文王に、蒲陽を返還することと、公子?を魏へ人質に出すことを請う。張儀は魏の恵王に「秦はこんなにも魏を厚遇しています。魏は秦に無礼であることはできません」と言う。魏は秦に上郡(現在の陝西省楡林市付近)15県を献上する。張儀は秦の宰相となる。
紀元前327年
  • 秦が義渠を県に編入し、義渠の君を臣とした。
  • 秦が焦と曲沃を魏に返還した。
紀元前326年
  • 趙の粛侯が死去し、子の武霊王が即位した。
  • 滕の文公が即位した。
紀元前325年
  • 名目上の主君である周への忠誠に逆らい、秦の君主恵文君が王を称して、恵文王となる。他の戦国時代の君主の間にも同じ動向を引き起こす。
  • 衛の平侯が死に、子の嗣君が即位する。
  • 《誕生》昭襄王 - 秦の国王(没年:紀元前251年)
紀元前324年
  • 秦の張儀が魏を攻撃し、焦を取る。
  • 蘇秦が燕の易王の母と密通し、王はそれに気づく。蘇秦は恐れ、王に「私は燕に居ては、燕を重くすることができません。斉にいればできます」と言った。易王はこれを許した。蘇秦はこれを機に、斉に亡命し、威王の客となる。
紀元前323年
  • 秦の張儀が齧桑で、斉と楚に会見する。
  • 韓の宣恵王と燕の易王が王を称す。
  • 《死去》景公 - 魯の君主
紀元前322年
  • 張儀が魏の宰相となり、密かに秦の軍を招いて魏を攻撃し、曲沃と平周を取る
紀元前321年
  • 周の顕王が死去し、子の慎靚王が即位した
  • 燕の易王が死去し、子の噲が即位した
  • 孟嘗君が楚を訪れた
  • 《死去》顕王 - 周朝の第35代王
  • 《死去》易王 - 戦国時代の燕の君主
紀元前320年
  • 衛が侯から君へと貶号した。衛君は濮陽を領有するのみとなっていた
  • 《死去》威王 - 斉の君主
紀元前319年
  • 秦が魏を攻撃し、鄢を奪った
  • 魏の恵王が死去し、襄王が即位した
  • 《死去》恵王 - 魏の君主
紀元前318年
  • 楚・趙・魏・韓・燕が連合して秦に侵攻し、函谷関を攻撃した。秦軍が出兵して迎え撃ち、5カ国連合軍は敗走した
  • 宋君偃が王を称した
紀元前317年
  • 秦が韓軍を修魚で撃破し、韓の将軍の䱸や申差を濁沢で捕らえた
  • 斉の大夫が蘇秦を暗殺させた
  • 張儀が魏の襄王を説得して、秦と魏の同盟を成立させた。張儀は秦に帰国して再び宰相となった
紀元前316年
  • 秦は司馬錯の意見を容れて、蜀を攻撃して併呑した。蜀王を侯に落とし、陳壮を蜀の相として送り込んだ
  • 燕王噲が老い、国政は宰相の子之が決裁するようになった
  • 《死去》孫臏 - 中国の斉の兵家、将軍
紀元前315年
  • 周の慎靚王が死去し、赧王が即位した
  • 《死去》慎靚王 - 中国・周の王
紀元前314年
  • 秦が義渠を攻撃し、25城を奪った
  • 魏が秦との同盟を破ったため、秦は魏に侵攻し、曲沃を奪い、住民だけ魏に返した
  • 秦が韓を岸門に攻撃し、韓の太子倉が人質として秦に入国して講和した
  • 燕の宰相の子之が国政の実権を握って3年、太子平と公子職が子之を討つべく挙兵したため、燕は内乱状態になった。斉が公子職を救援することを名目に内戦に介入し、子之と燕王噲は殺害された
  • 《死去》子之 - 燕の宰相
  • 《死去》燕王噲 - 燕の君主
紀元前313年
  • 秦の樗里疾が趙を攻撃し、藺を陥落させ、趙将の荘豹を捕らえた
  • 秦の恵文王が斉を攻撃しようと、斉と楚の同盟を破らせるべく、張儀を楚に派遣した。張儀は楚が斉との同盟を破棄すれば、商・於の地600四方を献上すると、楚の懐王に約束した。懐王が斉との同盟を破棄して、商・於の地を受け取りに行かせると、張儀は言を左右にして、与えようとしなかった。怒った懐王は屈?を将軍として秦に侵攻させた
紀元前312年
  • 張儀の策謀に嵌った楚は大軍を発して秦を侵攻した。 秦の軍隊は迎撃して丹陽にて大いに楚軍を破り、 8万人を斬った。 逆に楚の漢中地方に攻め入り、その地に漢中郡を設置した。 楚の懐王が再び全国の徴集できる部隊を召集して進攻を発動し、 藍田で秦軍と会戦すると、秦軍は再び勝利した(藍田の戦い)。 この戦いは楚の衰亡の端緒となった。 魏と韓はこの機に乗じて、楚に侵攻し、鄧に達した。 楚軍はこれを聞いて撤兵し、2城を割譲して秦と講和した
  • 燕の公子職は、 斉に服属することを条件にして王に即位することを許された。 即位した昭王は燕の再興と斉への復讐を目的にして、 臣民と労苦を分かち、富国強兵と人材の登用に励んだ。 昭王は郭隗を師と仰いだ。 これが有名な「まず隗より始めよ」の故事であり(郭隗に宮殿を与えて優遇することで郭隗程度でも優遇されるのだからもっと優れた人物はもっと優遇してくれるということ)、 郭隗のいうとおりに名将で名高い楽毅が燕にやって来たのもこの昭王の時代である。 楽毅は魏より、劇辛は趙より来た。昭王は楽毅を亜卿に任じ、 国政を任せた。
  • 韓の宣恵王が死去し、太子倉が即位して、襄王となる
  • 《死去》宣恵王 - 韓の君主
紀元前311年
  • 蜀の宰相が蜀侯を殺害した
  • 秦の張儀が使者として楚に赴くと、楚の懐王は張儀を殺そうとした。 張儀が靳尚(中国語版)に厚く賄賂を送ったため、 懐王は張儀を釈放した。 張儀は楚と秦の協力を説いた。 秦の恵文王が再び張儀を出国させると、 張儀は韓・魏・斉・趙・燕の諸王に対して、 各個に秦と同盟を結ぶ連衡策を説かせた
  • 秦の恵文王が死去し、太子の蕩(武王)が即位した。武王は張儀を嫌って排斥したため、六国の諸侯は再び秦に対抗する合従策を採るようになった
  • 《死去》恵文王 - 中国戦国時代の秦の王
紀元前310年
  • 秦の武王は甘茂に命じて蜀の宰相の陳壮を殺害させた
  • 秦の武王と魏の襄王が臨晋で会合した
  • 趙の武霊王が呉広の娘の呉孟姚を后に迎えた。趙何(後の恵文王)が生まれた
  • 《死去》恵文王 - 趙の王
紀元前309年
  • 秦が初めて丞相を置き、樗里疾が右丞相となった
  • 秦が古蜀を征服した直後、彼らは古蜀の技術者を雇い、現在でも使われている冠県の灌漑システムを作った
  • 《死去》張儀 - 秦の戦略家
紀元前308年
  • 秦と魏が応で会合した
  • 秦の武王が甘茂に命じて魏と息壌で盟約させ、韓に侵攻させた。甘茂と長封が軍を率いて宜陽を攻撃した
紀元前307年
  • 秦の甘茂が韓の宜陽を攻撃したが、 5カ月経っても陥落させられなかったため、 武王は甘茂を召還して軍を撤退させようとした。 甘茂が息壌の盟約を武王に思い出させると、 武王は大規模な援軍を編成して、甘茂を助けた。 宜陽が陥落すると、韓の公仲侈が秦に入国して陳謝し、 講和を願い出た
  • 秦の武王は力比べを好み、 力士の任鄙・烏獲・孟説らはみな大官に上った。 この年の8月、 武王と孟説は鼎を持ち上げる勝負をしていたところ、 武王は脈が絶えて突然死した。 孟説の一族はみな処刑された。 武王には子がいなかったため、 燕に人質として異母弟の稷(昭襄王)を擁立して即位させた。 昭襄王の母の宣太后が朝政の実権を握り、 武王の遺臣の樗里疾・甘茂・向寿・公孫奭らが国政を運営した
  • 趙の武霊王が中山国を攻撃し、房子に達した。武霊王は趙軍に胡服騎射を採用して、軍事の強化を図った
  • 《死去》武王 - 秦の君主
紀元前306年
  • 秦の昭襄王が向寿に宜陽へと進駐させ、樗里疾と甘茂に魏の皮氏を攻撃するよう命じた
  • 秦の甘茂が韓に武遂を返還するよう昭襄王に勧め、向寿と公孫奭がこれに反対したが、昭襄王は甘茂の意見を採用した
  • 秦の甘茂は向寿や公孫奭らの讒言を受けて不安を抱き、魏の蒲阪を攻撃する計画を取りやめて、亡命した。樗里疾が魏と講和して撤兵すると、甘茂は斉に逃れた
  • 趙の武霊王は中山国を攻撃し、甯葭に達した。さらに西方の胡地を攻略し、楡中に達した
  • 林胡王が趙の武霊王に馬を献上した
  • 趙の武霊王が遠征から帰国すると、楼緩を秦に、仇液を韓に、王賁を楚に、富丁を魏に、趙爵を斉に派遣した。武霊王は代の宰相の趙固が掌握している胡兵を呼び寄せた
  • 楚の懐王が斉や韓と同盟を結んだ
紀元前305年
  • 趙の武霊王が中山国を攻撃し、 丹丘・爽陽・鴻の塞を奪い、 さらに鄗・石邑・封龍・東垣を奪取した。 中山国は4つの邑を差し出して講和した
  • 秦の後継者争いに敗れた公子荘は、 反対勢力を結集して反乱を起こした(庶長荘の反乱、季君の乱)。 この乱は魏冄らにすぐに鎮圧された。 反乱に同調した悼武王后は魏に追放され、 昭襄王の兄弟で従わない者は全て滅ぼされた。 この乱をきっかけに魏冄の権力はますます強まっていった
  • 秦の樗里疾が、衛の蒲を攻めたが、胡衍の取りなしで包囲を解いた。 引き返して魏の皮下を攻めたが、 降伏しなかったので、 引き上げた
  • 《生誕》鄒衍(すうえん) - 中国、戦国時代の思想家(没年:紀元前240年)
紀元前304年
  • 秦の昭襄王と楚の懐王が黄棘で会盟し、秦は楚に上庸を返還した
紀元前303年
  • 彗星が出現した
  • 秦が魏の蒲阪・晋陽・封陵を奪い、さらに韓の武遂を奪取した
  • 斉・韓・魏は楚が合従の約に背いたと見なして、連合して攻撃した。楚の懐王は太子横を人質として秦に送り、救援を求めた。秦が兵を発して楚を救うと、3カ国は兵を撤退させた
  • 《死去》平公 - 魯の君主
紀元前302年
  • 秦の昭襄王と魏の襄王および韓の太子韓嬰が、臨晋で会談した。韓嬰は咸陽を訪問して帰国した
  • 秦が魏に蒲阪の地を返還した
  • 楚の太子横が秦の大夫を殺して楚に逃亡し、秦と楚の両国関係が険悪になった
  • 《生誕》孝文王 - 秦の王(没年:紀元前251年)
紀元前301年
  • 秦軍が韓の穣を奪った
  • 蜀の蜀侯惲が秦に叛いたため、秦の司馬錯がこれを攻撃して殺害した
  • 秦の庶長の奐(姓は不明)が韓・魏・斉の軍と連合して楚軍を重丘で撃破し、楚将の唐眜を戦死させた
  • 趙の武霊王が中山国を攻撃し、中山君は斉に亡命した
  • 《死去》宣王 - 斉の王
紀元前300年
  • 秦の涇陽君が斉の人質となった
  • 秦の華陽君が楚軍を撃破し、楚将の景鞅を戦死させ、襄城を奪った。楚の懐王は太子の羋橫を人質として斉に送った
  • 秦の樗里疾が死去し、趙出身の楼緩を丞相とした
  • この年以降、燕は大将秦開を派遣して東胡を打ち破った
  • 《死去》白圭 - 魏の商人(生年:紀元前370年)
  • 《死去》樗里疾 - 秦の王族・政治家・軍人
紀元前299年
  • 趙の武霊王が退位し、子の恵文王に王位を譲った。武霊王は主父を称して、実権を握り続けた
  • 秦が楚を攻撃し、8城を奪った。 秦は和平の条件として楚の懐王と武関で会合することを求めた。 懐王が行こうとしたので、屈原は身を挺して反対した。 しかし懐王は武関に赴き、秦に抑留された。 斉は楚の太子横を帰国させ、太子は即位して頃襄王となった
  • 斉の孟嘗君が秦に入ると、秦の昭襄王は孟嘗君を丞相とした
紀元前298年
  • 秦の丞相孟嘗君が讒言を受けて解任され、楼緩が再び丞相となった。昭襄王は孟嘗君の殺害を命じ、孟嘗君の邸は秦兵に包囲された。孟嘗君は食客の機転に助けられ、斉に帰国することができた(鶏鳴狗盗)
  • 秦軍が武関から出撃して楚を攻撃し、16城を奪った
  • 趙の恵文王が弟の勝を平原君とした。平原君は士を好んで、食客数千人を集めた
紀元前297年
  • 韓と魏の連合軍が秦の函谷関を攻撃した
  • 楚の懐王が秦の咸陽から脱走した。 秦が楚に向かう道を封鎖したため、 懐王は間道を通って趙に逃れようとした。 しかし趙の主父が代にいて不在だったため、 趙は懐王を受け入れようとしなかった。 そこで懐王は魏に逃げようとして、 秦の追っ手に捕らえられ、連れ戻された
  • 趙の主父が新領土を巡行し、代にいたった。楼煩王と西河で会見してその兵を麾下に加えた
紀元前296年
  • 斉・韓・魏・趙・宋が連合して秦を攻撃し、塩氏まで進軍して引き上げた。秦は韓に武遂を、魏に封陵を返還して講和した
  • 趙の主父が中山国を滅ぼし、中山王尚を膚施に移した
  • 趙の主父が長男の公子章を代に封じて、安陽君と号させた
  • 《死去》懐王 - 楚の王
  • 《死去》襄王 - 魏の王
  • 《死去》襄王 - 韓の王
紀元前295年
  • 秦の尉錯が魏の襄城を攻撃した
  • 趙の主父と恵文王が沙丘に遊覧した。 このとき公子章(安陽君)と田不礼が反乱を起こし、肥義を殺した。 公子章は公子成や李兌らに敗れて、 主父の宮に逃げ込んで立てこもり、 公子成や李兌らが宮を包囲した。 3カ月後に主父は餓死した
  • 秦の丞相の楼緩が罷免され、魏?が代わって丞相となった
  • 《死去》荘子 - 中国の哲学者
  • 《死去》武霊王 - 趙の王
紀元前294年
  • 秦が魏軍を解で撃破した
紀元前293年
  • 白起に率いられた秦軍は、伊闕の戦いで魏と韓の連合軍を破った。魏の公孫喜を捕らえ、5つの城を落とした
  • 楚の頃襄王は、秦の脅迫を受けて、再び秦と和親を図った
紀元前292年
  • 楚の頃襄王が秦から妻を迎えた
  • 秦の丞相の魏冄が病のために辞職し、客卿の燭寿が丞相となった
  • 秦の白起が魏を攻撃して垣を奪い、まもなく魏に返還した
紀元前291年
  • 秦が韓を攻撃し、宛を落とした
  • 秦の丞相の燭寿が罷免され、魏冄が再び丞相となった。魏冄は穣と陶に封じられて、穣侯と呼ばれるようになった。また公子巿を宛に封じ、公子悝を鄧に封じた
紀元前290年
  • 魏が河東の地400を秦に割譲し、韓が武遂の地200を秦に割譲した
  • 魏の芒卯が策謀によって重んじられるようになった
紀元前289年
  • 秦の大良造の白起と客卿の司馬錯が魏を攻撃し、軹に達し、大小の城61を奪った
  • 《死去》孟子 - 中国の哲学者(生年:紀元前372年)
紀元前288年
  • 10月、秦の昭襄王が西帝と称し、斉の湣王に使者を送って東帝として立て、共同で趙を攻撃した
  • 12月、昭襄王も称帝をやめて再び王を称した
  • 秦が趙を攻撃し、杜陽を陥落させた
紀元前287年
  • 秦が魏を攻撃し、新垣と曲陽を陥落させた
紀元前286年
  • 秦の司馬錯が魏の河内を攻撃した。魏は安邑を割譲して秦と講和し、秦は安邑の人々を魏に帰らせた
  • 秦が韓軍を夏山で撃破した
  • 斉の湣王が将軍の韓聶を派遣して宋を滅ぼさせた。宋の康王は魏に逃亡して温で死去した
紀元前285年
  • 秦の昭襄王が楚の頃襄王と宛で会合し、趙の恵文王と中陽で会合した
  • 秦の蒙武が斉を攻撃し、9城を陥落させた
  • 斉の湣王は前年に宋を滅ぼしたことに気をよくして、 南方の楚や西方の趙・魏・韓に進攻し、 東周・西周を併呑して、 自分が天子となる計画を立てた。 狐咺がこれに反論したため、 檀衢で斬刑に処し、 陳挙が直言して諫めたため、 東閭で殺害した
  • 燕の昭王は楽毅とともに斉を攻撃する計画を立てた。 楽毅が趙と盟約するための使者として赴き、 別の使者が楚や魏に向かって、 斉を攻撃する利害を説いた。 諸国は斉の湣王の横暴のために害を被っていたため、 燕と連合して斉を攻撃する計画に参加した
紀元前284年
  • 燕の昭王が斉を攻撃する軍を発し、楽毅を上将軍とした。 秦は尉斯離に軍を与えて趙・魏・韓の軍と合流させた。 趙の恵文王は相国の印授を楽毅に与えた。 楽毅と秦・魏・韓・趙の兵は連合して斉を攻めた。 斉の湣王は国中の人々を動員して防戦にあたったが、 済西の戦いで斉軍は大敗した。 楽毅は秦と韓の軍を帰国させ、 魏軍には宋の旧地を攻略させ、 趙軍には河間の地を接収させ、 自らは燕軍を率いて、 斉国の奥深くまで侵入した。 斉の湣王は逃走し、 楽毅は臨淄に入った。 燕の昭王は遠征軍の功労をねぎらって、 楽毅を昌国君に封じた
  • 斉の湣王は衛に亡命したが、 態度が不遜だったために追い出された。 鄒や魯に逃れたが、やはり傲慢だったため、 入国を許されなかった。 やむなく自国領でなお降伏していなかった莒に逃れた。 湣王は楚が斉を救援するために送り込んだ淖歯を斉の宰相とした。 しかし淖歯は、 燕とのあいだで斉を分割することをもくろみ、 湣王を殺害した
  • 楽毅は斉の70城あまりを攻略し、燕の郡県として編入した
  • 秦の昭襄王と魏の昭王と韓の釐王が洛陽で会合した
  • 《死去》湣王 - 斉の王
紀元前283年
  • 秦と趙が穣で会合した。秦軍が魏の安城を攻め落とし、大梁に到達して凱旋した
  • 斉の国人が淖歯を殺して襄王を擁立した
  • 趙の恵文王が楚の和氏の璧を手に入れた。 秦の昭襄王はこれを欲して、15城と交換したいと申し出た。 恵文王は秦の富強を恐れて、 璧を渡すこととしたが、 騙し取られることを警戒した。 趙の藺相如は自ら志願して秦への使者として立ち、 璧を奪われることなく帰国した(完璧の故事)。 恵文王は藺相如を上大夫とした
  • 《死去》嗣君 - 衛の君主
紀元前282年
  • 秦が趙を攻撃し、2つの城を攻め落とした
紀元前281年
  • 秦が趙を攻撃し、石城を陥落させた
  • 秦の穣侯魏冄が再び丞相となった
  • 楚は斉や韓とともに秦を攻撃するべく、まずは周を併呑しようと計画した。周の赧王は東周の武公を使者として、楚の令尹の昭子を説得し、計画を取りやめさせた
紀元前280年
  • 秦の白起が趙を破り、2万人を斬首し、代の光狼城を奪った
  • 秦の司馬錯が、隴西の兵を発して蜀から楚の黔中を攻撃し、これを陥落させた。楚は漢北と上庸の地を秦に割譲した
  • 秦で赦令が下され、罪人を南陽に移した
  • 《誕生》李斯 - 秦の宰相、法家の思想家(没年:紀元前208年(推定))
紀元前279年
  • 秦の白起が楚を攻撃し、鄢・鄧・西陵を奪った
  • 秦の昭襄王と趙の恵文王が澠池で会談した
  • 燕の昭王が死去し、恵王が即位した。燕の楽毅は恵王と相性が悪く、斉の田単の反間の計に遭って、趙に亡命した
  • 斉の田単が火牛の計により即墨(現在の山東省平度市南東)で燕軍を撃破した。 燕将の騎劫は戦死し、 斉の旧領70城あまりが燕から離反して斉に復帰した。 田単は斉の襄王を莒に迎えて都の臨淄に戻った
  • 斉の田単は安平君に封じられて宰相となった
  • 斉の田単が狄を攻撃した
  • 《死去》昭王 - 燕の王
  • 《死去》孟嘗君 - 中国戦国時代の政治家
紀元前278年
  • 秦の白起が楚を攻撃し、首都の郢を陥落させ、夷陵を焼いた。楚の頃襄王は北東に逃れて、陳に遷都した。秦は郢に南郡を置き、白起を武安君に封じた
  • 楚の屈原は郢の陥落を悲しんで、「哀郢」の詩を書き、汨羅に入水した
  • 《死去》屈原 - 中国の詩人(生年:紀元前340年)
紀元前277年
  • 秦の白起が巫と黔中を平定し、初めて黔中郡が置かれた
  • 《死去》昭王 - 魏の王
紀元前276年
  • 秦の白起が魏を攻撃し、2つの城を陥落させた
  • 楚の頃襄王が、東方で10万人あまりを徴兵して、江南の15邑を奪回した
  • 魏の安釐王が弟の無忌を封じて信陵君とした
紀元前275年
  • 秦の丞相の穣侯魏冄が魏に侵攻した。 韓の暴鳶が魏を救援したが、 魏冄に敗れて啓封に逃れた。 魏は8つの城を割譲することで、講和を求めた。 魏冄は再び魏に侵攻し、魏将の芒卯を破り、北宅に入った。 秦軍はそのまま魏の首都の大梁を包囲した。 魏が温を割譲して講和を求めたので、 秦軍は大梁の包囲を解いた
紀元前274年
  • 魏が再び斉と合従の盟約を結んだ。秦の穣侯魏冄が魏を攻撃し、4つの城を陥落させた
紀元前273年
  • 趙と魏が韓の華陽を攻撃した。 韓は秦に救援を求めたが、昭襄王は動こうとしなかった。 韓は陳筮を派遣して穣侯魏冄を説得させると、 秦は白起と公孫胡昜を派遣して韓を救援し、 魏軍を華陽の下で破り、魏の3将を捕らえた。 白起はさらに趙将の賈偃と戦い、 その兵2万人を黄河に沈めた(華陽の戦い)。 魏は蘇代の反対にもかかわらず、 段干子を派遣して南陽を秦に割譲することで講和した
  • 秦の昭襄王は白起および韓と魏の軍に楚を攻撃させようと計画した。 たまたま楚の黄歇が使者として秦に来ており、 この計画を知ると、昭襄王に上書して説得した。 昭襄王は攻撃を取りやめて楚と和親した
  • 《死去》釐王 - 韓の王
紀元前272年
  • 楚の太子完が人質として秦に入った
  • 秦が南陽郡を置いた
  • 韓・魏・楚が連合して燕を攻撃した
  • 《死去》恵王 - 燕の王
紀元前271年
  • 趙の藺相如が斉を攻撃し、平邑に達した
  • 趙の田部吏の趙奢が法に基づいて平原君の家臣9人を処刑した。 平原君は激怒して趙奢を殺そうとしたが、 趙奢が法の公平によって国を富強にすると説いたので、 平原君は感心して趙奢を恵文王に推挙した
紀元前270年
  • 秦は趙を攻撃し、閼与を包囲した。趙の恵文王は趙奢を大将とし、大いに秦軍を破り、趙奢を馬服君に封じた
  • 秦の魏冄が客卿の竈に昭襄王へと言上させ、斉を攻めさせると、剛や寿の地を奪って、自らの領地の陶邑を広げた
  • 魏の范雎が宰相の魏斉に鞭打たれて秦に亡命し、昭襄王に遠交近攻を説いた
紀元前269年
  • 秦の中更の公孫胡昜が趙の閼与を攻撃したが、落とせなかった
紀元前268年
  • 秦の昭襄王は范雎の計略を採用して、五大夫の綰に魏を攻撃させ、懐を陥落させた
紀元前267年
  • 秦の悼太子質が魏で死去した
紀元前266年
  • 秦が魏の邢丘と懐を陥落させた
  • 秦で宣太后や魏冄らが失脚し、范雎が丞相となって、応侯に封じられた
  • 《死去》恵文王 - 趙の王
紀元前265年
  • 秦の穣侯魏冄が封地の陶に赴いた
  • 秦の昭襄王の子の安国君が太子となった
  • 秦が趙を攻撃し、3城を奪った。 趙は斉に援軍を求めたが、斉は長安君を人質として求めた。 趙が長安君を斉に送ったので、 斉が援軍を差し向けると、 秦軍は撤退した
  • 斉の安平君田単が趙軍を率いて燕を攻撃し、中陽を奪った。さらに韓を攻撃して、注人を奪った
  • 《死去》宣太后 - 戦国時代の秦の王太后
  • 《死去》襄王 - 斉の王
紀元前264年
  • 秦の白起が韓を攻撃し、9城を落とした
  • 田単が斉の宰相となった
紀元前263年
  • 秦の白起が韓の南陽を攻撃し、太行山への道を遮断した
  • 《死去》頃襄王 - 楚の王
紀元前262年
  • 楚が州陵を秦に割譲して講和した
  • 秦の白起が韓を攻撃し、野王を陥落させた
  • 《誕生》喜 - 中国戦国時代末期から秦代にかけて秦に仕えた地方官吏(没年:紀元前217年)
紀元前260年
  • 長平の戦いで、秦軍は趙軍を完全に打ち負かし、 中国全土での軍事的な優位性を確立した。 この戦いでは、趙軍は廉頗と趙括、秦軍は白起に率いられ、 今日の高平市の近くで戦闘が起き、 戦いの後には、数十万人の趙軍の兵士が処刑された
  • 《誕生》始皇帝 - 秦の皇帝(没年:紀元前210年)
  • 《死去》趙括(ちょう かつ)- 趙の武将。長平の戦いで戦死
紀元前259年
  • 秦の白起は軍を三分し、王?が趙の武安・皮牢を攻め落とし、司馬梗が北方の太原を平定して、上党の地を全て占領した
  • 秦の昭襄王は、応侯范雎の意見を容れて、韓が垣雍を、趙が6城を秦に割譲することで講和に応じることとした
  • 趙の孝成王は、虞卿の意見を容れて、斉に6城を割譲した。秦のために趙で工作していた楼緩が逃亡した
  • 秦の昭襄王は丞相の范雎の仇である魏斉が趙の平原君のもとにいると知ると、 孝成王に圧力をかけて平原君の邸を包囲させた。 魏斉は虞卿とともに魏の信陵君の庇護を求めた。 信陵君が受け入れを躊躇(ためら)っているうちに魏斉は自殺した
紀元前258年
  • 秦の王陵が趙の邯鄲を攻撃したが、劣勢となったため、 昭襄王は病から回復した白起に交代させようとした。 白起が固辞したため、王陵を王齕に代わらせた
  • 趙の孝成王は平原君を楚に派遣して援軍を要請させた。 平原君の食客の毛遂の働きにより、交渉は成功した。 楚の考烈王は春申君に援軍を率いさせて趙に派遣した
  • 魏の安釐王は趙を救援するため将軍の晋鄙に10万の兵を率いて進軍させたが、 秦から脅迫を受けて晋鄙の進軍を停止させていた。 趙の平原君が信陵君に手紙を書いて決断を促すと、 信陵君は晋鄙を殺して軍権を奪い、邯鄲の救援に向かった
  • 《死去》武成王 - 燕の王
紀元前257年
  • 秦の昭襄王が白起に自殺を命じた
  • 魏の信陵君が秦軍を邯鄲城下で撃破し、 王齕は邯鄲の包囲を解いて敗走した。 鄭安平が趙に降伏したが、 范雎は鄭安平を推挙した罪を問われなかった
  • 趙の人質になっていた秦の公子異人が呂不韋の援助を受けて邯鄲を脱出し、華陽夫人の養子となり、名を楚と改めた
  • 《死去》白起 - 秦の将軍
紀元前256年
  • 秦の将軍楊摎が韓を攻撃し、陽城・負黍を陥落させた。さらに趙を攻撃し、20県あまりを奪った
  • 西周の文公は諸侯の軍を結集し、 伊闕を出て秦を攻撃して、 陽城との連絡路を遮断しようとした。 秦の昭襄王は将軍楊摎に西周を攻撃させた。 西周の文公は秦に降伏し、その領土を献上した。 赧王も秦の庇護下に入ったが、まもなく死去した。
    周はここに事実上滅亡したが、東周君の昭文君の国が7年間存続した
  • 楚が魯を滅ぼし、魯の頃公は莒に移された
  • 秦の蜀郡郡守の李冰が成都平原を灌漑するために岷江に都江堰を築いた
  • 《誕生》劉邦 - 漢王朝の建国者(没年:紀元前195年)
  • 《死去》赧王 - 周王朝最後の王

略歴 4546-4725

周王朝創設前

詳細は「殷周革命」を参照。易姓革命
周国の伝説上の始祖は后稷であり、 五帝のに仕えて、 農政に功績があったという。

古公亶父の時代に周の地に定住したとされる。
古公亶父には3人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と言った。
季歴に息子が誕生する際、 さまざまな瑞祥(吉兆。聖人が生まれる際に起こるとされる)が起こったため、 古公亶父は「わが子孫のうち最も栄えるのは季歴の子孫であろうか」と期待した。
その期待を察した太伯と虞仲は、 季歴に継承権を譲るため自発的に出奔した。
南方の僻地に赴いた太伯は句呉と号して国を興し、 その地の蛮族(荊蛮)は皆これに従った。
なお、 この南方の僻地は日本だったという伝説もある(太伯・虞仲#日本に関する伝承)。

季歴の息子姫昌(後の文王)が王位を継ぐと、 古公亶父の期待通り周国を繁栄させ、 ついには宗主国の殷から「西伯」の地位を賜るにいたる。
姫昌と同時代の殷の帝辛(紂王)は暴君だったため、 諸侯は姫昌に頼って革命を期待したが、 姫昌はあくまで帝辛(紂王)の臣下であり続けた。

姫昌の死後、 後を継いだ姫発(武王)は、 周公旦・太公望・召公奭ら名臣の補佐のもと、 亡き父姫昌を名目上の主導者として、 紀元前1046年に革命戦争(牧野の戦い)を起こす。
武王は殷の帝辛(紂王)に打ち克ち(克殷)、周王朝を創始した。

成康の治

詳細は「成康の治」を参照

武王は建国後すぐに死去する。
後を継いだ成王(在位:前1042年 - 前1021年)は未だ幼少であり、 殷の残存勢力は侮れないものがあった。
ここで周公旦が摂政として政治を見ることになった(周公旦が即位したという説もある)。
心配されたとおり、 殷の遺民たちを治めさせていた武庚禄父と、 周公旦の兄弟であるが周公旦が政権を握ることに不満を持つ管叔鮮と蔡叔度が共謀して乱を起こす(三監の乱)。
周公旦は成王の命を受けてこれを鎮圧し、 その後7年して成王が成長した後に、 周公は一臣下に戻った。
成長した成王は周公旦・召公奭を左右に政務に取り組み、 東夷を討って勢威を明らかにした。

成王の後を継いだのが康王(在位:前1020年 - 前996年)である。
康王は召公奭と畢公高を左右にしてよく天下を治めた。
成王・康王の時代は天下泰平の黄金時代であり、 40年にわたり刑罰を用いることがなかったという(成康の治)。

衰退

その後は徐々に衰退する。 4代目の昭王(在位:前995年 - 前977年)は南方へ遠征を行ったが失敗し(後代の文献では遠征中に死亡したとされているが、同時代にその記述はない)、それ以降周は軍事的に攻勢から守勢に転じるようになった。 5代目の穆王(在位:前976年 - 前922年)以降、王は親征することが無くなり、盛んに祭祀王として祭祀儀礼を行うことで軍事的に弱まった王の権威を補っていくことになった。

6代共王(在位:前922年 - 前900年)、 7代懿王(在位:前899年 - 前892年)、 8代孝王(在位:前891年 - 前886年)、 そして9代目の夷王(在位:前885年 - 前878年)までの王は影が薄いが、 この時期に礼制が改められ、 王が臣下を職務に任命する冊命儀礼などを通じて臣下に対する周王室への求心力の維持を図り、 ひとまずの安定を得た。 しかし、夷王は紀侯(中国語版)靖公の讒言を信じて斉の哀公を釜茹での刑(烹)に処しており、 その諸侯に対する暴虐さ・暗愚さが次代の厲王らへと受け継がれていった。

10代厲王(在位:前877年 - 前841年)は、 周りに分け与えられるべき財を全て独占したために諸侯の間で不満が高まり、 最終的には大反乱が起き、 厲王は辺境に逃げ出した。 王が不在のあいだ、 周定公召穆公の2人の大臣が合議制で「共に和して」政治を行った。 ちなみに、現代において英語の「republic」を「共和制」と訳すのは、 この故事を由来としている。 なお、実際は「共に和して」ではなく、 「共伯和」という名の人物(「共」を封地または諡号として「伯」の爵位を持つ「和」という名の人物)が執政したので、 それを略して「共和」と呼んだ、という説もある。

やがて大臣らは太子静(11代宣王、在位:前827-前782)を立てて輔政を行うと国勢は回復し、 宣王中興と呼ばれた。 しかし宣王も後半期には政治に倦むようになったために再び衰退する。 12代幽王(在位:前781年 - 前771年)の時代、 申から迎えていた皇后を廃し褒?を皇后としたため、 申侯の怒りを買い、 申は犬戎を伴い王都へと攻め込んだ。 幽王は殺され、褒?の子の伯服(中国語版)(伯盤)も殺されてしまう。(申侯の乱)。 そこで、次代として携王(在位:前770年 - 前750年)が即位した。 これに反対する諸侯は、 東の洛邑(王城・成周)(現在の河南省洛陽市付近)へ王子宜臼を擁して移り、 王子を平王(在位:前771年 - 前720年)として立てて対立した。 周は東西に分かれて争った結果、東の平王が打ち勝ち、 ここから周は東周と呼ばれ、 時代区分では春秋時代に移行する。

春秋戦国時代

詳細は「春秋戦国時代」、「春秋時代」、および「戦国時代 (中国)」を参照 春秋時代の周は、往時と比するべくもない程まで没落した。平王の孫である桓王は王権の再強化を図ったが、繻葛の戦い(中国語版)(前707年)で一諸侯に過ぎない鄭に敗れた事で諸侯に対する統制力を喪失した。 さらに、王室内で幾度も王位継承争いが発生したために周王室の力は弱体化し[11]、洛邑(王城・成周)周辺のみを支配する小国となっていった。現代の湖北省随州市付近にあった曽(中国語版)の春秋時代の侯の墓に納められていた青銅器の銘文には、「周室既卑(しゅうしつすでにひくく)」と書かれている[12]。それでも権威だけは保持しており、諸侯たちはその権威を利用して諸侯の間の主導権を握ろうとした(春秋五覇)。周王室側も覇者をはじめとする諸侯に対して、西周以来の伝統と権威を強調することで祭祀を主催する立場の維持を図った[13]。 しかし、その権威も春秋時代後半からは低下していった。例えば春秋時代の秦の景公の墓の出土品の銘文では秦の君主を本来周王の称号であったはずの「天子」と称している[14]。また孔子の登場以降、西周の時代を理想化した礼制の整備が儒家や諸侯によって行われていくが、それらに対して周王室は全く主導権を発揮しておらず[15]、祭祀を主催する立場すら失っていた。 戦国時代初期の情勢 戦国時代に入ると、かつての覇者・晋や太公望の子孫である斉(姜斉)といった周王室と歴史的に結びつきが強い諸侯が滅び、周王の権威や存在意義はますます低下していった。魏の惠王は「夏王」・「天子」を称し、周王朝に取って代わる意思を示すほどであった[16]。東周23代目の王顕王は秦に対して春秋時代に覇者に対して行っていた儀礼を行うことで、秦の保護を受けようとしたが、既に春秋時代に天子を称していた秦の恵文王は王を称し、後には七雄の諸侯のみならず小国の宋や北辺の中山国の君主までもが王を称するようになった。秦の昭襄王と田斉の?王に至っては一時「西帝」「東帝」と帝号を称した[17]。

滅亡

周王室の力は上述のように衰微し、影響力はわずかに王畿(現在の洛陽附近)に限定されていた。 ただでさえ衰えていた周王室であるが、 末期には貞定王の末子掲(桓公)を始祖とする西周公(武公)とそこから分裂した東周君(昭文君)の勢力によって分裂していた。 周王朝最後の王である赧王は西周の武公を頼って西周(河南)に遷都し、 元の成周は東周君が支配した。 周王室の領土は東西に分裂し、狭い範囲で互いに争い合う有様であった。

赧王の在位は59年に及んだが紀元前256年、 西周は諸侯と通じて韓と交戦中の秦軍を妨害したため秦の将軍楊摎の攻撃を受けた。 西周の文公(武公の子)は秦へおもむき謝罪しその領土を秦に献上した。 このため赧王は秦の保護下に入ったがまもなく崩御し、 程なくして西周の文公も死去した。 西周の文公が死去すると、 その民は堰を切ったように東周へ逃亡し、 秦は九鼎と周王室の宝物を接収し、 文公の子を移した。 こうして、秦が王畿(現在の洛陽附近)を占拠したことで、 西周と周王室本家は滅亡することとなった。

その後も昭文君の東周は7年間存続したが、紀元前249年、秦の呂不韋によって攻め滅ぼされた。『史記』の秦本紀では昭文君は謀殺されたと伝えられているが、東周君に土地を与えて周の祭祀を続けさせたとも書かれており、この場合昭文君の子が封じられたと考えられる[20]。

秦の始皇帝の死後、すなわち楚漢戦争期には、各地で戦国諸侯の王族が再び擁立されたが、周の末裔を擁立して周王室を復興しようという動きはなかった[21]。

前漢の武帝以降、儒学が尊重されるようになると、周王室の子孫も尊重されるようになり、姫嘉(中国語版)という人物が周子南君(中国語版)に封じられた。姫嘉の子孫は元帝の時代には周承休侯へ昇格され、平帝の時には鄭公に、後漢の光武帝の時代には衛公に封じられている[22]。

諸侯 4728-4944

主要諸侯

参考:人物事典【別サイト・別窓】

史記・三世表』には、周建国当時の有力な諸侯として以下の11国が記される(記載順)。

参考(地図)

その他の諸侯

滕(とう)

とう
期間1 紀元前11世紀-紀元前414年
期間2 紀元前375年-紀元前296年
国姓  姫姓滕氏
爵位  侯爵
      子爵
国都  滕(山東省棗荘市滕州市)
分封者 武王
始祖  姫繡(滕叔繡
滅亡  1.越
      2.宋
 
滕は、周代に存在した諸侯国。
周初に文王の庶子の錯叔繡(滕叔繡)を封じて、滕国が建てられた。

紀元前414年に越王朱句により滅亡するが、その後復興されたらしい。
『戦国策』によれば宋の康王により滅亡させられたとされる。

ちゅう/ちゅ/しゅ
期間1 紀元前11世紀-紀元前414年
期間2 紀元前375年-紀元前296年
国姓  姫姓滕氏
爵位  侯爵
      子爵
国都  滕(山東省棗荘市滕州市)
分封者 武王
始祖  姫繡(滕叔繡
滅亡  1.越
      2.宋
 
邾(ちゅう/ちゅ/しゅ) ピンイン:Zhū

邾は、中国の諸侯・地名。
地名としての邾は現在の山東省曲阜市の南東を指す。 なお、曹氏の国であるが、曹とは異なる。

諸侯としての邾は、周の春秋時代・戦国時代にわたって存在した国である。 代々の君主の爵位は子爵であり、 首府は邾・繹(現在の山東省鄒城市)。 黄帝の子孫である曹挾が周の武王によって邾に封じられて成立した。

国家誕生後は、 周囲の大国に翻弄され続ける小国家として存在したが、 戦国時代の紀元前369年から紀元前340年の間に楚に併合され、 国家は消滅した。 また、鄒(邾)は孟子の生国であり、儒学国家としての面も持っている。

『三国志』に引用されている王沈の『魏書』では、 前漢の曹参は邾の後裔であり、 更にその子孫に曹操がいると書き記している。 ただし、信憑性は低い。

歴代君主

  1. 曹挾(周武王元年 - ?)
  2. 曹非
  3. 曹成
  4. 曹車輔
  5. 曹将新
  6. 曹訾父
  7. 武公(顔、夷父)(? - 前796年)
  8. 曹叔術(前795年 - 前781年)
  9. 曹夏父(前780年 - ?)
  10. 曹釛
  11. 安公(克、儀父)(? - 前678年)
  12. 憲公(瑣)(前677年 - 前666年)
  13. 文公(蘧蒢)(前665年 - 前615年)
  14. 定公(玃且)(前614年 - 前573年)
  15. 宣公(牼)(前572年 - 前556年)
  16. 悼公(華)(前555年 - 前541年)
  17. 荘公(穿)(前540年 - 前507年)
  18. 隠公(益)(前506年 - 前487年、前473年 - 前471年)
  19. 桓公(革)(前486年 - 前473年)
  20. 曹何(前471年 - ?)
  21. 共公(盂)
  22. 考公(良)
以後不明
  1. 穆公

周王一覧 4946-5451

先王一覧

周国の建国から武王周王朝(東周)を建国するまでの王の一覧。
先王
No.諡号姓・諱在位備  考
1 后稷 姫・弃(棄) 不詳 不詳
2 不窋 不詳 不詳
3 不詳 不詳
4 公劉 不詳 不詳
5 慶節 姜・ 不詳 不詳
6 皇僕 姜・ 不詳 不詳
7 差弗 姜・ 不詳 不詳
8 毀隃 不詳 不詳
9 公非 不詳 不詳
10 高圉 不詳 不詳
11 亜圉 不詳 不詳
12 公叔祖類 不詳 不詳
13 古公亶父 不詳 不詳
14 季歴 不詳 不詳
15 文王 紀元前1051年 紀元前1051年

西周王一覧

西周王一覧
No.諡号姓・諱在位備  考
1 武王 姜・発 紀元前1046年 紀元前1043年
2 成王 姜・瑕 紀元前1042年 紀元前1021年
3 康王 姜・釗 紀元前1020年 紀元前996年
4 昭王 姜・瑕 紀元前995年 紀元前977年
5 穆王 姜・満 紀元前976年 紀元前922年
6 共王 姜・繄扈 紀元前922年 紀元前900年
7 懿王 姜・囏 紀元前899年 紀元前892年
8 孝王 姜・辟方 紀元前891年 紀元前886年
9 夷王 姜・燮 紀元前885年 紀元前878年
10 厲王 姜・胡 紀元前877年 紀元前841年
共和 紀元前841年 紀元前828年
11 宣王 姜・静 紀元前828年 紀元前782年
12 幽王 姜・宮涅 紀元前781年 紀元前771年
携王 姜・余臣 紀元前770年 紀元前750年

東周王一覧

東周王一覧
No.諡号姓・諱在位備  考
13(1) 平王 姫・宜臼 紀元前771年 紀元前720年
14(2) 桓王 姫・林 紀元前719年 紀元前697年
15(3) 荘王 姫・佗 紀元前696年 紀元前682年
16(4) 釐王 姫・胡斉 紀元前681年 紀元前677年
17(5) 恵王 姫・閬 紀元前676年 紀元前675年 惠王は一度
弭叔頽に王位を
奪われた。
・弭叔頽 紀元前675年 紀元前673年
恵王 姫・閬 紀元前673年 紀元前652年
18(6) 襄王 姫・鄭 紀元前652年 紀元前619年
19(7) 頃王 姫・壬臣 紀元前619年 紀元前613年
20(8) 匡王 姫・班 紀元前613年 紀元前607年
21(9) 定王 姫・瑜 紀元前607年 紀元前586年
22(10) 簡王 姫・夷 紀元前586年 紀元前572年
23(11) 霊王 姫・泄心 紀元前572年 紀元前545年
24(12) 景王 姫・貴 紀元前545年 紀元前520年
25(13) 悼王 姫・猛 紀元前520年 紀元前520年
26(14) 敬王 姫・匄 紀元前520年 紀元前476年
27(15) 元王 姫・仁 紀元前476年 紀元前469年
28(16) 貞定王 姫・介 紀元前468年 紀元前441年
29(17) 哀王 姫・去疾 紀元前441年 紀元前441年
30(18) 思王 姫・叔襲 紀元前441年 紀元前441年
31(19) 考王 姫・嵬 紀元前440年 紀元前426年
32(20) 威烈王 姫・午 紀元前425年 紀元前402年
33(21) 安王 姫・驕 紀元前402年 紀元前376年
34(22) 烈王 姫・喜 紀元前375年 紀元前369年
35(23) 顕王 姫・扁 紀元前368年 紀元前321年
36(24) 慎靚王 姫・定 紀元前320年 紀元前315年
37(25) 赧王 姫・延 紀元前314年 紀元前256年

西周公
No.名前始期終期
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15

政治 5456-5476

周の官制については周の諸制度について周公旦が纏めたとされる『周礼』に非常に詳しい記述があるが、この書物の成立は戦国時代以降と見られているのでこれを以って周の官制を論ずるには無理がある。
金文によると周には卿事寮(けいじりょう)・太史寮(たいしりょう)と呼ばれる2つの組織があった。卿事寮の長官は太保・太師の2つがあり、のちに太師だけになる。下に司馬(軍事担当)・司土(司徒、土地管理担当)・司工(司空)の職があり、各諸侯の下にも同じ職があった。太史寮の長官を太史と呼び、歴史の編纂・各種儀礼・祭祀などを行う。

身分制度については『春秋左氏伝』によると、 王の下に諸侯がおり、 その下に大夫(たいふ)と呼ばれる一種の貴族層があり、 その下に士と呼ばれる層があり、 その下が庶民となっている。
ただし大夫と士と言う階級は金文には無い。
前述したように取引される対象である一種の奴隷階層があったことは間違いなく、 主に主人に代わって農作業を行っていた。
この中には職工と思われる職もあり、 青銅器の鋳造に関わっていたと考えられる。

土地制度については井田制が行われていたとされるが、 この制度も実際に行われていたかは疑問視する声が多い。[要出典]。

文化 5479-5539

殷の青銅器文化はその芸術性において最高の評価を与えられている。 周も基本的にはその技術を受け継いでいたのだが、 芸術性においては簡素化しており、 殷代に比べればかなり低い評価となっている。

この時代の青銅器はほぼ全てが祭祀用であり、実用のものは少ない。 器には占卜の結果を鋳込んである。 これが金文と呼ばれるもので、この時代の貴重な資料となっている。 殷代と比べて周代はこの文が非常に長いものとなっていることに特徴がある。

またそれまでの絶対的な祖先崇拝が薄められたことも殷と周との違いとして挙げられる。 殷では祖先に対する崇拝と畏れが非常に強く、 祭祀を怠ったりすればすぐにでも祟られるという考えを持っていた。

これらの青銅器に文字を鋳込む技術は王室の独占技術であったようで、 諸侯には時に王室から下賜されることがあった。 春秋時代に入るときの混乱から、 技術が諸侯にも伝播して諸侯の間でも青銅器に文字を鋳込むことが行われ始めた。

建築の分野では周に入ってからそれまでの茅葺きから瓦が一般的になったことがわかっている。

投壺(とうこ)が始まったのも周代とされる。

九鼎(きゅうてい)

九鼎(きゅうてい)

九鼎は、古代中国におけるレガリア

鼎(かなえ)は鍋釜に相当する古代中国の三本足の金属器具で祭器としても利用された。 伝説によれば夏の始祖禹が九州(中国全土)に命じて集めさせた青銅をもって鋳造したものという(『史記』封禅書)。 夏の最後の君主の履癸(桀)が殷の天乙(湯王)に滅ぼされたのちは殷室に、 帝辛(紂王)が周の武王に滅ぼされてからは周室の所有となった。 周の成王即位の折、周公旦は九鼎を洛邑に移し、 ここを新都と定めたという(『墨子』耕柱)。 「鼎を定む」(奠都すること)の成句はこの故事に由来する。

九鼎は周王朝37代にわたって保持され、 それをもつものがすなわち天子とされた。 周が秦に滅ぼされたとき、 秦はこれを持ち帰ろうとしたが、 混乱のさなか泗水の底に沈んで失われたという。 秦朝は新たに玉璽を刻し、 これを帝権の象徴とした。

西暦2006年、 北京の中国国家博物館は北京国宝工芸研究院に依頼して九鼎を復元、展示した。

「鼎の軽重を問う」
周の定王の時代、時の覇者であった楚の荘王が洛水河畔に軍兵を展開し、 王位をうかがった際の故事に由来する成句。

都市と領土 5542-5592

殷代から春秋時代にかけての華北は、 邑と呼ばれる都市国家が多数散在する時代であった。 殷代、西周時代の邑は君主の住まいや宗廟等、 邑の中核となる施設を丘陵上に設けて周囲を頑丈な城壁で囲い、 さらにその周囲の一般居住区を比較的簡単な土壁で囲うという構造のものであった。 戦時に住民は丘陵上の堅固な城壁で囲まれた区画に立てこもり防戦した。

東周時代には、外壁が強化され、 内壁=城と、外壁=郭からなる二重構造、 つまり、「内城外郭式」がとられるようになった。 華北の城壁は、 無尽蔵にある黄土を木の枠にしっかりとつき固め、 堅い層を作りそれを重ねてゆく版築という工法によって築造されている。 こうして作られた城壁は、極めて堅固な土壁となる。 水には弱いが、 もともと華北は雨量が少ない上、 磚と呼ばれる、 黄土を焼成して作られた煉瓦で城壁を覆い防水加工を施すため、 あまり水の浸食を受けることもない。 人為的破壊が無い限り城壁はかなり長い寿命を維持することができる。

邑は、城壁に囲まれた都市部と、 その周辺の耕作地からなる。 そして、その外側には、未開発地帯が広がり、 狩猟・採集や牧畜経済を営む非都市生活の部族が生活していた。 彼らは「夷」などと呼ばれ、 自らの生業の産物をもって都市住民と交易を行ったがしばしば邑を襲撃し、 略奪を行った。 また、 邑同士でも農耕や交易によって蓄積された富などを巡って武力を用いた紛争が行われていた。 こうした紛争などにより存続が難しくなった小邑は、 より大きな邑に政治的に従属するようになっていった。 さらに春秋時代の争乱は、 中小の邑の淘汰・併合をいっそう進めた。 大邑による小邑の併合や、 鉄器の普及による開発の進展で農地や都市人口が大規模に拡大したために、 大邑はその領域を拡大して邑と邑の間に広がっていた非都市生活者の生活領域や経済活動域を消滅させてゆく。 また、軍事が邑の指導者層である都市貴族戦士に担われる戦車戦から増大した農民人口によって担われる歩兵戦に重点が移行するとともに、 それまで温存されていた大邑に従属する小邑が自立性を失って、 中央から役人が派遣されて統治を受ける「県」へと変えられていった。 こうして、春秋末から戦国にかけて、 華北の政治形態は、 都市国家群から領域国家群の併存へと発展していった。



関連項目
歴史(トップ)
中国神話
三皇五帝
中国文明
夏王朝
殷王朝
周王朝
彘(てい)

現在の中華人民共和国山西省霍州市

定公(ていこう) 西周 生没年不詳

定公(『今本竹書紀年』では周定公)は、 西周時代の周の国君で周公旦(しゅうこう たん)の後裔。

紀元前841年、 周の厲王(れいおう)が暴虐であったため、 国人の乱を引き起こした。
厲王は逃走し、定公と召の穆公が政権を握った。
これが共和(周召共和)であった。
14年後、 厲王は彘(てい)の地で崩御し、 太子の姫静(宣王)が即位することで、 共和行政は収束した。

穆公(ぼくこう) 召/邵(しょう)の君主  生没年不詳

穆公は、召の君主。
姫姓召氏。名は虎。幽伯の子。母は召姜。
召公奭の16世の孫。

当時、周の厲王は暴虐で、国人暴動(国人の乱)を引き起こした。
穆公は太子静を匿(かくま)い、死んだことにした。
太子静はその後脱出した。
厲王の死後、太子静(宣王)が即位し、穆公と周の定公が執政を補佐した。
これを共和と言う。

穆公は7,000人の軍を率い、40,000人の淮夷(わいい)の軍を破った。

共伯和(きょうはく か)

共伯和とは、 共国を封地とする伯の爵位を持つ和(か)という名を持つ人物である。 西周の厲王が彘(てい)に逃げ去った後、 宣王が即位するまでの間(紀元前841年から紀元前827年まで)国政を執り行った人物である。

彼の正確な正体と役割については、 さまざまな史料で証言が分かれているため、 学者たちの間でやや論争が残っている。

獫允(けんいん)は、中国の北方と西北方に位置した古代の民族。 また玁允獫狁玁狁などと呼称される。
その形跡は金文と先秦古籍において最古のものを見ることができ、 ときには「昆夷」などの名とともに混ぜ書きされるが、 居住地区が同じためである。

西周の中期、玁狁が強盛となり、焦獲に移住し、 また焦獲から南侵して、鎬・朔方および涇陽にいたって、 直接に周王朝を脅かすようになると、 周の宣王は大将の南仲に命じて軍を率いて北征させ、 合わせて朔方に築城させた。 『詩経』采微では、 当時の周王朝と玁狁の戦いの状況と兵士の厳しい生活を「薇(わらび)を采り薇を采る、薇また止まんと作す。歸らんと曰い歸らんと曰う、歳また止むことなし。室を靡(す)て家を靡つるは、玁狁の故なり。啓居する遑(いとま)なきは、玁狁の故なり」と描写した。 東晋の謝玄はこれを『詩経』中で最高の詩篇と称している。

春秋時代に玁狁は戎狄と呼称され、 戦国時代には秦・趙・燕の北の地域に分布した。 秦代には蒙恬が30万の軍を率いて撃破したものを北に移し、 秦末にはゴビ砂漠の南北を統治して、南は陰山を越え、黄河を渡り、 オルドスの沃土を占拠した。 漢王朝が創始されると、 多くは玁狁を匈奴の先民とみなし、 『史記』匈奴列伝には、 「唐虞以前には山戎・玁狁・葷粥があった。北蛮に居住し、家畜を放牧しながら移動した」と書かれる。 ただしこれは「匈奴その先祖は夏后氏の苗裔である」との説とは矛盾する。 近代になって考証家により鬼方・昆夷と玁狁は同一民族の別の名称と考えられるようになった。