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淮南子(えなんじ/わいなんし)

作成日:2021/8/8

『淮南子』は、 中国、諸子(思想家たち)の雑家(総合学派)に属する百科全書風の思想書。 前漢の武帝の頃、 淮南王劉安(紀元前179年 - 紀元前122年)が学者を集めて編纂させた思想書。 武帝即位の翌年、紀元前139年成立。
劉安は前153年ごろから知識人を招いてそのパトロン役であり、 各地から数千人の賓客(ひんきゃく)が淮南に身を寄せた。
『淮南子』はこうして集まった諸子のさまざまな思想を網羅して、 前述のごとき当時最新の政治的・思想的課題に答えるために編纂されたもの。

日本へはかなり古い時代から入ったため、 漢音の「わいなんし」ではなく、 呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。 『淮南鴻烈』(わいなんこうれつ)ともいう。 劉安・蘇非・李尚・伍被らが著作した。 中国、諸子(思想家たち)の雑家(総合学派)に属する百科全書風の思想書。 前漢の王であった劉安(りゅうあん)(前179―前122)の撰(せん)。 10部21篇(ぺん)。 劉安にはもともと内書21篇・外書33篇・中篇8巻をはじめとする多くの撰著があったが、 現存の『淮南子』にあたる内書を除いてすべて散佚(さんいつ)した。

劉安は高祖劉邦の庶子劉長(淮南の厲王)の子。 謀反の罪に問われて自殺した父の後を継いで王となった。 景帝が崩御した(前141)機会に、 帝国治下の諸勢力・諸思想をすべて容認しつつそれらの緩やかな大調和による統一を実現せよと、 18歳の武帝に要求して撰したのが本書である。
『漢書』芸文志には「内二十一篇、外三十三篇」とあるが、 「内二十一篇」しか伝わっていない。 道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて書かれており、 一般的には雑家の書に分類されている。
注釈には後漢の高誘『淮南鴻烈解』・許慎『淮南鴻烈間詁』がある。

淮南子

概要

『淮南子』は、 中国、諸子(思想家たち)の雑家(総合学派)に属する百科全書風の思想書。
前漢の武帝の頃、 淮南王劉安(紀元前179年 - 紀元前122年)が学者を集めて編纂させた思想書。
武帝即位の翌年、紀元前139年成立。

日本へはかなり古い時代から入ったため、 漢音の「わいなんし」ではなく、 呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。

『淮南鴻烈』(わいなんこうれつ)ともいう。
劉安・蘇非・李尚・伍被らが著作した。

10部21篇。
『漢書』芸文志には「内二十一篇、外三十三篇」とあるが、 「内二十一篇」しか伝わっていない。
道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて書かれており、 一般的には雑家の書に分類されている。

注釈には後漢の高誘『淮南鴻烈解』・許慎『淮南鴻烈間詁』がある。

背景

『淮南子』が成立したのは、中国の前漢の時代。
前漢7代皇帝の武帝の頃に淮南王の劉安によって編纂された。

武帝の時代は、 地方に封じられた王の勢力が強まった時代であり、 その治世に起こった呉楚七国の乱(紀元前154年)は、 前漢の国土の約半分が反乱軍として朝廷に牙を剥いた。

この反乱が起こったのは、武帝の父である景帝の時代のこと。

反乱は3ヶ月で鎮圧されたが、 これを機に漢の帝室は諸侯王の力の削減に力をいれられるようになり、 中央集権の強化を図っていった。
景帝が紀元前141年に崩御すると、 後を継いだ武帝は、 帝国治下の諸勢力・諸思想をすべて容認しつつ、 緩やかではあるが、 それらを調和統一しようと動き始めた。

その統一と調和を図るために、 諸思想を統合し、 中央が管理するために作られたのが『淮南子』であった。

そのため、この書物は諸思想を集めた雑家に分類されてる。

経緯

前漢武帝の頃、淮南の王であった劉安の撰。

劉安にはもともと内書21篇・外書33篇・中篇8巻をはじめとする多くの撰著があったが、 現存の『淮南子』にあたる内書を除いてすべて散佚(さんいつ)した。
武帝即位の翌年、紀元前139年成立。
劉安は高祖劉邦(りゅうほう)の庶子(しょし)劉長(淮南の厲王)の子。
謀反の罪に問われて自殺した父の後を継いで王となった。

当時、 漢の帝室は諸侯王の力の削減による中央集権の強化を図っていたが、 その景帝が崩御した(紀元前141年)機会に、 帝国治下の諸勢力・諸思想をすべて容認しつつそれらの緩やかな大調和による統一を実現せよと、 18歳の武帝に要求して撰したのが本書である。
劉安は紀元前153年ごろから知識人を招いてそのパトロン役を引き受けていたので、 各地から数千人の賓客(ひんきゃく)が淮南に身を寄せた。
『淮南子』はこうして集まった諸子のさまざまな思想を網羅して、 前述のごとき当時最新の政治的・思想的課題に答えるために編纂されたものである。

本書は、 若い武帝に帝王の道としての思想統一の意義を教え、 董仲舒をはじめ対抗する儒教に中央集権政治思想の整備を促した。
その結果、 儒教の地位が急速に高まり(紀元前136年以後の国教化)、 ついに劉安を謀反の罪で自殺させるに至った(紀元前122年)。

構成

21篇の構成は、道家の存在論を基礎に据え、世界の構成をモデルにした、

淮南子の思想

『淮南子』は当時の思想家たちの思想をそれぞれ書き記したものであったが、 中心には老荘思想があった。
『淮南子』の要略(まとめ)には、次の様な言葉が書き記されている。

■原文
故言道而不言事、則無以與世浮沉。言事而不言道、則無以與化遊息。

■訓読
道を言いて事を言わざれば、則ち以て世と浮沈すること無く、事を言いて道を言わざれば、則ち以て化と游息すること無し。

■意訳
深遠な道を述べながら現実の事を言わなければ、世俗とともに生活することな どできないし、現実の事ばかり述べて深遠な道を語らなければ、自然とともに遊び息(いこ)うことはできない。

『淮南子』はその様な思想の元に編纂されたもので、 現実世界の事象である「事」は全て根底に「道」という法則があり、 全て「道」に帰一するという考えである。
この思想は荘子の思想でもあり、斉物論の考え方そのものであった。

『淮南子』はこの「事」の世界に対処するための役割を儒墨などの諸家の思想によって治め、 それらを包括する根本原理に「道」を置いた。

特徴的な説話

「道」と「事」
参考

『淮南子』における「道」とは、物事全てに共通する原理・真理を指し、 「事」とは現実世界を指している。
『淮南子』の「巻一 原道訓」では、「道」を次の様に述べている。

■原文
夫道者、覆天載地、廓四方、柝八極。
・・・(中略)・・・
故植之而塞於天地、橫之而彌于四海、施之無窮、而無所朝夕。舒之幎於六合、卷之不盈於一握。

■訓読
夫れ道なる者は、天を覆い地を載せ、四方に廓り、八極に柝く。
・・・(中略)・・・
故に之を植つれば天地に塞がり、之を横たうれば四海に弥り、之を施せば窮まり無くして、朝夕する所無し。之を舒せば六合を幎い、之を巻けば一握に盈たず。

■意訳
道というものは、 天を覆い地を載せ、 四方八方に開張して、 深さも広さも計り知れないものである。
・・・(中略)・・・
それ故に道を縦にすれば天と地を塞ぎ、 道を横にすれば四方へ広がり、 用いても極まるところがなく、 増減することもない。
開けば四方を覆い、 巻くと一握りに満たない程の大きさになる。

このように『淮南子』における「道」は超次元的なものであり、絶対普遍的なものとして語られている。

一方で、「事」は要略で次のように述べられている。

■原文
夫道論至深、故多為之辭、以抒其情。萬物至眾、故博為之說、以通其意。

■訓読
夫れ道論は至って深し、故に多く之が辭を為し、以ってその情を抒(の)ぶ。
萬物は至って衆(おお)し、故に博(ひろ)く之が説を為して、以て其の意を通ず

■意訳
道に関する論はいたって深遠であるため、多くの言葉を使って述べる必要がある。
万物は至って多いので、広く(万物について)説き明かし、その意を伝える必要がある。

すなわち、「事」は事象が多岐に渡るため、その意を通じさせる必要があると説いた。
このように『淮南子』における「道」は「事」を統べる根本原理としての機能を担ってた。
そして、現実世界の社会的場面(事)を処理するにあたっては、諸家の思想を用いようとした。

南船北馬

「巻十一 斉俗訓」に収められている。
一般的には「絶えず忙しく旅行をすること」という意味で使用される四字熟語だが、 厳密な意味を考えると、少し違うようである。
『淮南子』に収録されている原文。

■原文
是以人不兼官、官不兼事、士農工商、鄉別州異。
・・・(中略)・・・
是以士無遺行、農無廢功、工無苦事、商無折貨、各安其性、不得相干。
・・・(中略)・・・
各有所宜、而人性齊矣。
胡人便於馬、越人便於舟。
異形殊類、易事而悖、失處而賤、得勢而貴。

■訓読
是を以て、人は官を兼ねず、官は事を兼ねず、士・農・工・商、郷別に州異にす。
・・・(中略)・・・
是を以て、士に遺行無く、農に廢功(はいこう)無く、工に苦事(くじ)無く、商に折貨無く、各々其の性に安んじ、相い干(おかす)を得ず。
・・・(中略)・・・
各々宜しき所有りて、人の性は齊(ひと)し。
胡人は馬に便に、越人は舟に便になり。
形を異にし類を殊にするもの、事を易(か)ふれば而ち悖(もと)り、處(ところ)を失へば而ち賤しく、勢を得れば而ち貴し。

■意訳
一人の者は二つの官職を兼ねることはせず、一つの官職は二つの仕事を兼ねることはせず、士農工商それぞれに区別があった。
・・・(中略)・・・
こうして、士人には治務の遺漏がなく、農民にはむだな骨折りなく、工人には困難な作業なく,商人には損失なく、各人が自分の持ち前に従って、互いに犯しあうことはなかった。
・・・(中略)・・・
このように人にはそれぞれ長ずるところがあり、人の性に優劣はないのである。
胡人(北方の異族)は馬をのりこなし、越人(南方の異族)は船を乗りこなす。
形や類のちがう者が仕事を替えれば失敗し、適所を失えば賤しまれ、勢いに乗ずれば尊重される。

ここから、 南船北馬とは忙しく旅行をすることではなく、 適材適所によって使い分けることの重要性を説いた言葉である。

天地開闢

『淮南子』は日本にも影響を与えた。
日本書紀』の冒頭には、 『淮南子』から引用された文言が用いられている。

『日本書紀』冒頭
■原文
古天地未剖、陰陽不分、渾沌如鶏子、溟涬而含牙。及其淸陽者、薄靡而爲天、重濁者、淹滯而爲地、精妙之合搏易、重濁之凝竭難。故天先成而地後定。

■意訳
古の時、天と地は未だ分かれず、陰陽も分かれず、混沌として鶏の卵のようでありながら、ほのかに兆しが含まれていた。清陽なものはたなびいて天となり、重濁なものはとどまって地となった。精妙な集まりは群がりやすく、重濁な集まりは固まりにくいので、天がまず定まり、後に地が定まった。

『淮南子』俶真
■原文
有未始有夫未始有有無者、天地未剖、陰陽未判、四時未分、萬物未生、汪然平靜、寂然清澄、莫見其形、若光燿之間於無有、退而自失也。

■意訳
「無の無の無」とは、天地に未だ形がなく、陰陽の氣も生まれず、春夏秋冬の季節の巡りもなく、万物も生まれておらず、静かにたたずんで、ひっそりとした清らかさがあり、その形は見えない。

どの様な理由で『日本書紀』に『淮南子』が引用されたかの経緯は不明だが、 中国の典籍は古くから日本に流入しているため、 紀元前1世紀に成立した『淮南子』も他の典籍と同様に奈良時代には日本に伝わっていたことが分かる。

人間万事塞翁が馬

「人間万事塞翁が馬」とは、人生における幸不幸は予測しがたいということを意味している。
『淮南子』「巻十八 人間訓」に登場する話。
因みに「人間万事塞翁が馬」の文中の「人間」は「にんげん」ではなく、「じんかん」と読み、世の中のことを表している。

昔、中国北方の砦近くに住む老人(塞翁)がいました。老人は占いが得意でした。
ある時、老人の馬が逃げ、人々が気の毒に思うと、老人は「そのうち幸福がくる」と言いました。

暫くすると、逃げた馬は沢山の駿馬を連れて帰ってきました。

人々が老人を祝うと、 今度は「これは不幸の元だ」と言います。 するとその馬に乗った老人の息子が落馬して足を骨折します。

人々がお見舞いに来ると、老人は「この出来事は幸福の元である」と言いました。
一年後に敵軍が侵攻し戦争となると、砦近くに住む若者たちは多くが戦死してしまいます。
しかし骨折した老人の息子は、徴兵されず戦死しなかったといいます。

幸福や不幸は予測できないという意味であると同時に、この言葉は老荘思想の「道」の思想にも繋がっている。

老荘思想では物事は本来全て根源が一つであり同じものであると考えます。
つまり、全ての事柄に善悪はなく存在しており、人為によって善悪の分別が付けられているのである。
「人間万事塞翁が馬」で起きた出来事は、本来は善悪もなく、根源が一であるという事なのである。