日本へはかなり古い時代から入ったため、 漢音の「わいなんし」ではなく、 呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。 『淮南鴻烈』(わいなんこうれつ)ともいう。 劉安・蘇非・李尚・伍被らが著作した。 中国、諸子(思想家たち)の雑家(総合学派)に属する百科全書風の思想書。 前漢の王であった劉安(りゅうあん)(前179―前122)の撰(せん)。 10部21篇(ぺん)。 劉安にはもともと内書21篇・外書33篇・中篇8巻をはじめとする多くの撰著があったが、 現存の『淮南子』にあたる内書を除いてすべて散佚(さんいつ)した。
劉安は高祖劉邦の庶子劉長(淮南の厲王)の子。
謀反の罪に問われて自殺した父の後を継いで王となった。
景帝が崩御した(前141)機会に、
帝国治下の諸勢力・諸思想をすべて容認しつつそれらの緩やかな大調和による統一を実現せよと、
18歳の武帝に要求して撰したのが本書である。
『漢書』芸文志には「内二十一篇、外三十三篇」とあるが、
「内二十一篇」しか伝わっていない。
道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて書かれており、
一般的には雑家の書に分類されている。
注釈には後漢の高誘『淮南鴻烈解』・許慎『淮南鴻烈間詁』がある。
『淮南子』は、
中国、諸子(思想家たち)の雑家(総合学派)に属する百科全書風の思想書。
前漢の武帝の頃、
淮南王劉安(紀元前179年 - 紀元前122年)が学者を集めて編纂させた思想書。
武帝即位の翌年、紀元前139年成立。
日本へはかなり古い時代から入ったため、 漢音の「わいなんし」ではなく、 呉音で「えなんじ」と読むのが一般的である。
『淮南鴻烈』(わいなんこうれつ)ともいう。
劉安・蘇非・李尚・伍被らが著作した。
10部21篇。
『漢書』芸文志には「内二十一篇、外三十三篇」とあるが、
「内二十一篇」しか伝わっていない。
道家思想を中心に儒家・法家・陰陽家の思想を交えて書かれており、
一般的には雑家の書に分類されている。
注釈には後漢の高誘『淮南鴻烈解』・許慎『淮南鴻烈間詁』がある。
『淮南子』が成立したのは、中国の前漢の時代。
前漢7代皇帝の武帝の頃に淮南王の劉安によって編纂された。
武帝の時代は、 地方に封じられた王の勢力が強まった時代であり、 その治世に起こった呉楚七国の乱(紀元前154年)は、 前漢の国土の約半分が反乱軍として朝廷に牙を剥いた。
この反乱が起こったのは、武帝の父である景帝の時代のこと。
反乱は3ヶ月で鎮圧されたが、
これを機に漢の帝室は諸侯王の力の削減に力をいれられるようになり、
中央集権の強化を図っていった。
景帝が紀元前141年に崩御すると、
後を継いだ武帝は、
帝国治下の諸勢力・諸思想をすべて容認しつつ、
緩やかではあるが、
それらを調和統一しようと動き始めた。
その統一と調和を図るために、 諸思想を統合し、 中央が管理するために作られたのが『淮南子』であった。
そのため、この書物は諸思想を集めた雑家に分類されてる。
前漢武帝の頃、淮南の王であった劉安の撰。
劉安にはもともと内書21篇・外書33篇・中篇8巻をはじめとする多くの撰著があったが、
現存の『淮南子』にあたる内書を除いてすべて散佚(さんいつ)した。
武帝即位の翌年、紀元前139年成立。
劉安は高祖劉邦(りゅうほう)の庶子(しょし)劉長(淮南の厲王)の子。
謀反の罪に問われて自殺した父の後を継いで王となった。
当時、
漢の帝室は諸侯王の力の削減による中央集権の強化を図っていたが、
その景帝が崩御した(紀元前141年)機会に、
帝国治下の諸勢力・諸思想をすべて容認しつつそれらの緩やかな大調和による統一を実現せよと、
18歳の武帝に要求して撰したのが本書である。
劉安は紀元前153年ごろから知識人を招いてそのパトロン役を引き受けていたので、
各地から数千人の賓客(ひんきゃく)が淮南に身を寄せた。
『淮南子』はこうして集まった諸子のさまざまな思想を網羅して、
前述のごとき当時最新の政治的・思想的課題に答えるために編纂されたものである。
本書は、
若い武帝に帝王の道としての思想統一の意義を教え、
董仲舒をはじめ対抗する儒教に中央集権政治思想の整備を促した。
その結果、
儒教の地位が急速に高まり(紀元前136年以後の国教化)、
ついに劉安を謀反の罪で自殺させるに至った(紀元前122年)。
21篇の構成は、道家の存在論を基礎に据え、世界の構成をモデルにした、
は『日本書紀』の冒頭
の典拠となった。
『淮南子』は当時の思想家たちの思想をそれぞれ書き記したものであったが、
中心には老荘思想があった。
『淮南子』の要略(まとめ)には、次の様な言葉が書き記されている。
『淮南子』はその様な思想の元に編纂されたもので、
現実世界の事象である「事」は全て根底に「道」という法則があり、
全て「道」に帰一するという考えである。
この思想は荘子の思想でもあり、斉物論の考え方そのものであった。
『淮南子』はこの「事」の世界に対処するための役割を儒墨などの諸家の思想によって治め、 それらを包括する根本原理に「道」を置いた。
『淮南子』における「道」とは、物事全てに共通する原理・真理を指し、
「事」とは現実世界を指している。
『淮南子』の「巻一 原道訓」では、「道」を次の様に述べている。
このように『淮南子』における「道」は超次元的なものであり、絶対普遍的なものとして語られている。
一方で、「事」は要略で次のように述べられている。
すなわち、「事」は事象が多岐に渡るため、その意を通じさせる必要があると説いた。
このように『淮南子』における「道」は「事」を統べる根本原理としての機能を担ってた。
そして、現実世界の社会的場面(事)を処理するにあたっては、諸家の思想を用いようとした。
「巻十一 斉俗訓」に収められている。
一般的には「絶えず忙しく旅行をすること」という意味で使用される四字熟語だが、
厳密な意味を考えると、少し違うようである。
『淮南子』に収録されている原文。
ここから、 南船北馬とは忙しく旅行をすることではなく、 適材適所によって使い分けることの重要性を説いた言葉である。
『淮南子』は日本にも影響を与えた。
『日本書紀』の冒頭には、
『淮南子』から引用された文言が用いられている。
どの様な理由で『日本書紀』に『淮南子』が引用されたかの経緯は不明だが、 中国の典籍は古くから日本に流入しているため、 紀元前1世紀に成立した『淮南子』も他の典籍と同様に奈良時代には日本に伝わっていたことが分かる。
「人間万事塞翁が馬」とは、人生における幸不幸は予測しがたいということを意味している。
『淮南子』「巻十八 人間訓」に登場する話。
因みに「人間万事塞翁が馬」の文中の「人間」は「にんげん」ではなく、「じんかん」と読み、世の中のことを表している。
昔、中国北方の砦近くに住む老人(塞翁)がいました。老人は占いが得意でした。
ある時、老人の馬が逃げ、人々が気の毒に思うと、老人は「そのうち幸福がくる」と言いました。
暫くすると、逃げた馬は沢山の駿馬を連れて帰ってきました。
人々が老人を祝うと、 今度は「これは不幸の元だ」と言います。 するとその馬に乗った老人の息子が落馬して足を骨折します。
人々がお見舞いに来ると、老人は「この出来事は幸福の元である」と言いました。
一年後に敵軍が侵攻し戦争となると、砦近くに住む若者たちは多くが戦死してしまいます。
しかし骨折した老人の息子は、徴兵されず戦死しなかったといいます。
幸福や不幸は予測できないという意味であると同時に、この言葉は老荘思想の「道」の思想にも繋がっている。
老荘思想では物事は本来全て根源が一つであり同じものであると考えます。
つまり、全ての事柄に善悪はなく存在しており、人為によって善悪の分別が付けられているのである。
「人間万事塞翁が馬」で起きた出来事は、本来は善悪もなく、根源が一であるという事なのである。