源流 | : | バヤンカラ山脈 |
合流地 | : | 渤海 |
左支流 | : | 汾河ほか |
右支流 | : | 洮河, 渭水ほか |
長さ | : | 5,464km |
流域 | : | 752,000 km2 |
流量(平均) | : | 2,571 m3/s |
黄河流域には紀元前7000年ごろに黄河文明が成立した。
黄河文明はやがて南の長江流域に成立した長江文明と一体化し、
中国文明となるが、
黄河流域は基本的に中国文明の中心地であり続けた。
黄河の治水は古くより中国文明においての重大事であり、
伝説上の中国初の王朝である夏王朝が、
禹が黄河の治水事業に成功して舜より禅譲を受けたことにより成立したという伝説も、
その一端を示している。
紀元前17世紀ごろには確認できる中国最古の王朝である殷が成立した。
以後の歴代統一王朝は、
基本的に西周が都した関中盆地の長安周辺か、
中原の端にある東周が都した洛陽のいずれかに都を置いた。
一方、
明確に中原諸王朝の支配下にあった地域は黄河屈曲部の中ほどまでであり、
それ以北は北方の遊牧民族諸王朝の勢力下にあることが多かった。
屈曲部の北端である河套地域は黄河の遊水地的な湿地帯で、
牧畜に必要な豊かな草と水が広がる大牧草地として遊牧民にも重要な土地のひとつとなっていた。
しかしこの地域はどちらの根拠地からも遠く離れており、
両勢力の係争地となることが多かった。
戦国時代にはこの地域に趙が進出し、
河套の北に長城を築いて雲中や九原を支配した。
趙を滅ぼした秦もこの地域の支配を継続し、
九原県を置いたが、
秦漢交代期にこの地域の支配は崩れ、
頭曼単于の侵攻によって屈曲部北部は匈奴の領域となった。
以後100年近くこの支配は続いたが、
武帝が即位すると匈奴は圧迫され始め、
紀元前127年には屈曲部が、
紀元前121年にはそれまで中国諸王朝が進出していなかった蘭州などの黄河上流部およびその西に連なる祁連山の麓までを支配下に置き、
ここに河西四郡を置いた。
しかし後漢王朝以降、
徐々に屈曲部の中国王朝の支配は減退し、
さらに晋の衰退によって北方遊牧民族が中国北部に侵入し五胡十六国時代が始まると、
黄河流域全体が遊牧民族の支配下に置かれるようになった。
こうした状況は北魏によって華北が統一されても続き、
黄河流域の北朝と長江流域の南朝とが対峙する、
いわゆる南北朝時代が長く続いた。
この状況は、北朝の隋が南朝の陳を滅ぼして中国を再統一するまで続いた。
政治的には両大河流域は統一されたものの、
経済的にはこの両河川は分離したままだった。
これを統一するため、
西暦610年には隋の煬帝の手によって大運河が完成し、
黄河と長江が水運によって直結された。
これにより、
大運河と黄河との結節点にあたる開封が経済的に大繁栄し、
五代から北宋にかけての都となった。
一方で軍事的に弱体な宋は黄河屈曲部に十分な勢力を伸ばすことができず、
河套は遼の支配下に入り、
銀川平野はタングート族の李元昊が興した西夏王国の本拠地となった。
歴史上、
銀川平野に独立王朝が割拠したのはこれが唯一のことである。
北宋が金に敗れ南遷すると、
華北を支配するようになった金は中原の北端に近い中都(北京)に都を置き、
以後の王朝は北京または南京に都を置くようになって、
黄河流域に都は置かれなくなった。
元の時代には大運河がより直線的になるよう東側にルートが変更され、
これによって水運の結節点でなくなった開封の経済的重要性は低落した。