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前漢

作成日:2024/8/13

前漢(ぜんかん)  紀元前202年 - 西暦8年

前漢は、中国の王朝である。 西漢(せいかん)とも呼ばれる。 秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、 長安を都とした。

武帝の時に全盛を迎え、 その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、 孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡した。 その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。 前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。

中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、 後漢東漢と称される。 前漢後漢との社会・文化などには強い連続性があり、 その間に明確な区分は難しく、 前漢後漢を併せて両漢と総称されることもある。 この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、 後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。

漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、 本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、 劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、 中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。

当時の度量衡については以下の通り。 距離・1里=300歩=1800尺=414m 面積・1畝=4.61a 重さ・1斤=16両=1/120石=240g 容積・1升=199.7ml。
よみがな順で記載する。

年表

紀元前209年
  • 河南の陳勝による反乱が発生したことが契機となり、陳勝・呉広の乱と称される全国的な騒乱状態が発生した
  • 春、二世皇帝胡亥が東方の郡県を巡行し、李斯がつき従った
  • 4月、二世皇帝が趙高の助言をえて大臣や公子たちを誅殺した。公子12人が咸陽の市で斬り殺され、10人の公主が杜で磔にされて死んだ
  • 陳勝・呉広の乱:7月、陳勝と呉広が蘄で挙兵した。陳勝は王となり、国号を「張楚」とした
  • 張楚の武将である周章(周文)が函谷関を陥落させた。二世皇帝は大いに驚き、少府の章邯に迎撃させると、周文は敗走した
  • 8月、張楚の武将である武臣が自立して趙王を称した。陳余を大将軍とし、張耳を右丞相とし、邵騒を左丞相とした
  • 9月、沛の人劉邦が沛で挙兵した
  • 下相(現在の江蘇省宿遷市)の人の項梁が会稽郡守の殷通を殺し、甥の項羽と共に呉で挙兵した
  • 狄(現在の山東省淄博市高青県東南部)の人の田儋が斉郡で挙兵した
  • 二世皇帝は衛君角を庶人とし、衛の祭祀が絶えた
紀元前208年
  • 秦の将軍である章邯は陳勝と呉広に率いられた陳勝・呉広の乱を鎮圧した
紀元前207年
  • 望夷宮の変 - 秦の二世皇帝胡亥が、丞相の趙高らの企てによって、自害を強いられた
紀元前206年
  • 秦の三世子嬰は劉邦に降伏した。これによって秦王朝は滅亡し、前漢が建国された。しかし項羽との間に楚漢戦争が勃発し、紀元前202年まで続いた
  • 正月、項羽は羋心を義帝とする
  • 項羽は自立して西楚覇王となり、天下を分封して、劉邦を漢王に、韓成を韓王に封じた
  • 五月、劉邦は韓信の計謀を用いて、項羽が田栄を北攻している隙に乗じてこっそりと陳倉を渡った(暗渡陳倉)
  • 六月、田栄は斉王田巿を殺して、自立して斉王となる
  • 七月、項羽は張良が劉邦に付き従ったため、韓成を斬首し、大夫鄭昌を改めて韓王とした
  • 八月、漢王劉邦は出兵して雍王章邯を攻撃した
  • 八月、燕王韓広は遼東に遷されることを嫌ったため、項羽が燕王に封じた臧荼は韓広を殺し、遼東の王となる
  • 項羽は九江王英布などに義帝を殺させた
紀元前205年
  • 田栄が自立して斉王となり、項羽は大軍を率いて斉を征伐する。田栄は敗れて殺され、項羽は斉襄王の子で斉王建の弟の田假を立てて斉王とするが、その年に田栄の弟の田横に撃敗され、楚国に投じるが、項羽に殺される
  • 4月、漢軍は彭城の戦いで惨敗し、勢力は総崩れとなり、劉太公と劉媼と呂雉が楚軍の捕虜となる
  • 関中に大飢饉が起こり、米斛が高騰し、人が互いに食らった
  • 劉邦は韓地を得て、韓王信を韓王となした
紀元前206年
紀元前202年
  • 楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって前漢が建てられ、長安を都とした
紀元前1年
  • (元寿2年正月)匈奴および烏孫の使者が来朝する
  • 4月壬辰晦、日食
  • 6月哀帝逝去。罷免されていた王莽が復権。董賢に代わり大司馬に返り咲く
  • 9月平帝9歳で即位。王莽は政務を総覧
紀元前206年
西暦784年
  • あああ
  • (この年)
    • あああ