『史記』(しき)は、
中国前漢の武帝の時代に、
司馬遷によって編纂された中国の歴史書である。
二十四史の一つで、
正史の第一に数えられる。
計52万6千5百字。
著者自身が名付けた書名は『太史公書』(たいしこうしょ)であるが、
後世に『史記』と呼ばれるようになると、
これが一般的な書名とされるようになった。
二十四史の中でも『漢書』と並んで最高の評価を得ているものであり、 単に歴史的価値だけではなく文学的価値も高く評価されている。
日本でも古くから読まれており、元号の出典として12回採用されている。
司馬遷の家系は、
代々「太史公」(太史令)という史官に従事し、
天文・暦法・占星や、歴史記録の保管・整備に当たっていた。
特に、
父の司馬談は、
史官として記録の整理に当たるだけではなく、
それを記載・論評し、自分の著書とする計画を持っていた。
しかし、
司馬談はその事業を終えることなく死去し、
息子の司馬遷に自分の作業を継ぐように遺言した。
父の死後3年目に、
司馬遷も太史令となり、
史官の残した記録や宮廷の図書館に秘蔵された書物を読み、
資料を集めた。
太初元年(紀元前108年)には、
太初暦の改定作業に携わり、
この頃に『史記』の執筆を開始した。
のち、
天漢3年(紀元前98年)、
司馬遷は匈奴に投降した友人の李陵を弁護したため武帝に激怒され、
宮刑に処される。
こうした屈辱を味わいながらも司馬遷は執筆を続け、
征和年間(紀元前92年~紀元前89年)に至って完成した。
『史記』を執筆する意図について、 司馬遷は父の言葉を引用し以下のように述べている。
概ね、
『史記』の西周以前の部分については『書経』、
春秋時代については『春秋』経伝(特に『春秋左氏伝』)を最大の取材源としており、
現存する先行文献から重なる部分を確認できる場合が多い。
例えば「周本紀」の場合であれば、
古くから伝えられた系譜資料のほか、
『書経』『尚書大伝』『詩経』『大戴礼記』『礼記』『国語』『孟子』『韓非子』『呂氏春秋』『淮南子』などを利用したと考えられる。
各国の戦国時代の記述については『史記』にのみ見える情報が多く、
様々な資料を組み合わせて相当な労力のもと作られたと考えられる。
司馬遷は、
宮廷に秘蔵されていた文献のほかに、
自ら広く周遊して収集した各種資料に基づいて『史記』を編纂した。
この中国周遊は、
関中から江陵(楚の故都)、
長江流域、
斉魯地域、
さらに大梁の廃墟(魏の故都)、
洛陽を回ったもの。
『史記』では、
これらの旅行の際の見聞が紹介されることがある上に、
更にその知見をもとに文献伝承の真偽検証している場合もある。
『史記』は司馬遷の死後も加筆・修正が盛んに試みられた。
劉知幾は、補続した学者として劉向・劉歆・揚雄ら15人の名前を挙げる。
特に補続者として著名なのは褚少孫で、
陳渉世家・外戚世家・滑稽列伝などに見える「褚先生曰」以下はその修補の部分である。
また、
三皇時代について書かれた「三皇本紀」は、
司馬遷が書いたものではなく、
唐代に司馬貞が加筆したものである。
司馬貞は合わせて「史記序」を制作し、巻頭に附した。
『史記』は、「本紀」12篇、「表」10篇、「書」8篇、「世家」30篇、「列伝」70篇の計130篇からなる。
『史記』が対象とする時代は、
伝説時代である五帝の黄帝から、
前漢の武帝までであり、
その記述は中国古代史研究において最も基本的な資料であるとされている。
また、
「列伝」の末尾には司馬遷の自序である「太史公自序」が附され、
司馬氏一族の歴史や、
彼が『史記』の執筆に至った経緯・背景を述べている。
司馬談は、
武帝による儒教の官学化以前の人物であり、
道家思想が盛んな気風の中で学問を受け、
楊何に師事して『易』を修めた経験もあった。
彼の「六家要旨」では、
道家思想を最も高く評価しており、
これを中心に諸学の統一を図ろうと考えていたことが分かる。
司馬遷が『史記』を著す意図の一つには、
この父の考えを継ぐこともあった。
『史記』は、
道家思想を基調とする諸学の統合を史書の形式で実現するという一面を有していた。
こうした背景のもと、
『史記』列伝の冒頭の「伯夷列伝」で、
司馬遷は「天道は是なるか、非なるか」という問いを発している。
この問いは、
清廉潔白な人である伯夷は飢え死にし、
孔子最愛の賢者である顔回は早逝したにも拘わらず、
大盗人の蹠は天寿を全うしたことに対して、
「天道」を楽観的に信頼してもよいものか、
という切実なものであった。
また、
ここには司馬遷自身が、
李陵事件において公正な発言をしながら宮刑と言う屈辱を受けたことに対する含意も見受けられる。
また、
司馬遷は歴史の実態に即して記述することを重んじている。
例えば、
項羽は皇帝や君主ではなく、
またその覇権も五年に過ぎなかったため無視できる存在であったが、
秦の始皇帝から漢の高祖に至る実権の流れを説明するためには必要であり、
「本紀」の一つに立てられている。
また、
皇帝である恵帝を本紀から外し、
その間に実権を握っていた呂后のために「呂后本紀」を立てたのも同じ例である。
叙述の対象は王侯が中心であるものの、
民間の人物を取り上げた「游侠列伝」や「貨殖列伝」、
暗殺者の伝記である「刺客列伝」など、
権力から距離を置いた人物についての記述も多い。
また、
武帝の外戚の間での醜い争いを描いた「魏其武安侯列伝」や、
男色やおべっかで富貴を得た者たちの「佞幸列伝」、
法律に威をかざし人を嬲(なぶ)った「酷吏列伝」、
逆に法律に照らし合わせて正しく人を導いた「循吏列伝」など、
安易な英雄中心の歴史観に偏らない多様な視点も保たれている。
後漢に編纂された班固の『漢書』は、 『史記』の踏襲と批判の上に成り立っており、 後世の『史記』評価の原点となった。
班彪・班固父子は、『史記』を以下の観点から批判している。
三国時代には、
『史記』と『漢書』は「史漢」と併称されるようになり、
これに『東観漢記』を加えて「三史」と称されることもあった。
ただし、
旧中国においては、
『史記』よりも『漢書』が圧倒的に優勢であり、
『隋書』経籍志の記録によれば『漢書』に比べて『史記』の注釈は非常に少ない]。
唐代の作である「三皇本紀」は別にしても、
太史公自序にいう「今上本紀」が今の『史記』には見えず、
かわりに「孝武本紀」があるが、
これが後世の補作であることは明らかである。
それ以外の巻にも司馬遷が使ったはずのない「孝武」「武帝」の語が散見する。
それどころか「建元以来侯者年表」「外戚世家」「三王世家」「屈原賈生列伝」には昭帝まで言及されている。
とくに「漢興以来将相年表」は司馬遷のずっと後の鴻嘉元年(紀元前20年)まで記している。
『漢書』司馬遷伝によると、
班固の見た『史記』は130巻のうち10巻は題だけで本文がなかった。
現行本は130巻全部がそろっているので、
後漢以降に誰かが補ったということになる。
張晏によると、
欠けていたのは「孝景本紀・孝武本紀・礼書・楽書・兵書・漢興以来将相年表・三王世家・日者列伝・亀策列伝・傅靳蒯成列伝」であるという。
『史記』太史公自序の『索隠』は、
このうち兵書は補われず、
かわりに律書を加えたとする。
歴史叙述をするための簡潔で力強い書き方が評価され、
「文の聖なり」「老将の兵を用いるがごとし」と絶賛されたこともある。
特に「項羽本紀」は名文として広く知れ渡っている。
文体は巻によって相当異同があることも指摘されており、 白川静は題材元の巧拙によって文体が相当左右されたのではないかと考えており、 司馬遷自身の文学的才能には疑問を呈している。
正史として歴史的な事件についての基本的な情報となるほか、
細かな記述から当時の生活や習慣が分かる部分も多い。
特に「書」に記された内容は、
前漢時代における世界観や政治経済、
社会制度などについての重要な資料である。
また、
匈奴を始めとする周辺異民族や西域についての記述も、
現在知られている地理や遺跡の発掘などから判明した当時の状況との整合性が高く、
これらの地方の当時を知るための貴重な手がかりとなっている。
また、
秦始皇本紀における「始皇帝は自分の墓に近衛兵三千人の人形を埋めた」という記述についても、
西安市の郊外の兵馬俑坑の発見で記述の正確さが証明されている。
一方で、
『史記索隠』が引く『竹書紀年』などとの比較から年代矛盾などの問題点が度々指摘されている(例えば呉の王家の僚と闔閭の世代間の家系譜など)。
宮崎市定は、
『史記』には歴史を題材にした語り物・演出が取り込まれていることを指摘し、
全てを実録とは信じられないとしている。
小川環樹は、
司馬遷は『戦国策』等の記述をだいぶ参照しているであろう、
とその著書で指摘し、
加藤徹も司馬遷が記した戦国七雄の兵力には多大に宣伝が入っているのではないかとしている。
『続日本紀』巻29・神護景雲2年(西暦768年)9月11日の条に、
日向國宮埼郡の人・大伴人益が目の赤い白亀を瑞兆として献上した旨の記事がある。
その際、
人益は上奏文において『史記』巻128・龜策列伝の「神龜は天下の宝なり」以下のくだりを引用している。
また、 『続日本紀』巻30・神護景雲3年(西暦769年)10月10日の条に、 称徳天皇が大宰府の
平安時代には公私の各蔵書目録に『史記』があらわれた。
藤原佐世が奉勅して寛平年間(西暦889年 - 西暦897年)に撰した『日本国見在書目録』に「『史記』八十巻・裴駰『集解』」が記載されている。
なお藤原通憲(信西)の『通憲入道蔵書目録』にも史書のひとつとして「『史記索隠』上帙七巻・中帙十巻・下帙九巻」が挙げられている。
さらに、
清少納言は『枕草子』で「ふみは文集。文選。新賦。史記五帝本紀。願文。表。博士の申文」と述べている。
他方、
紫式部は『源氏物語』で152箇所にわたり中国詩文を引用し、
うち14箇所で『史記』を用いている。
例えば、
藤壷院が自身に降りかかる難を避けるべく出家を決意する場面で、
劉邦の寵妃の戚夫人の「人彘」の逸話を藤壷院に連想させている(第10帖・「賢木」)。
また、
紀伝道の宗家とされた大江氏では、裴駰『集解』を基にした延久点に基づく訓点本が著された。
『太平記』における中国故事の引用は62例あり、
うち30話は『史記』を源泉とする説話である。
『太平記』には呉越・楚漢の興亡に取材した部分が多く、
殊に巻28・「漢楚戦之事付吉野殿被成綸旨事」では、
『史記』巻7・項羽本紀を中心にして再構成した楚漢の戦いの描写に約9千字を費やしている。
上杉憲実が文安3年(西暦1446年)に足利学校の学規を定めて「三注・四書・六経・列・荘・老・史記・文選の外は学校において講ずべからず」とした。
元和2年(西暦1616年)10月、
徳川家康が駿府の文庫に蔵していた図書が家康の遺命により江戸城内・富士見の亭の文庫に一部移転された。
その引継目録『御本日記』に「『史記』四十三冊・『史記抄』十四冊」がみえる。
また、
徳川光圀が18歳の時に『史記』巻61・伯夷列伝を読んで感動したとの逸話が、
光圀の伝記『義公行実』などに記されている。
光圀らが編纂した『大日本史』は『史記』と同様の紀伝体の史書である。
なお、
天皇が侍読に『史記』を進講させた記録が各時代の史料に散見される。
また、
日本に現存する最古の『史記』は、
南宋時代に出版されて日本に渡ったとされる宋版本である。
西暦1195年~西暦1201年に建安で刊行され、
『建安黄善夫刊/于家塾之敬室』と刊記が残っている。
妙心寺の僧侶である南化が所有していたが、
直江兼続に譲り、
その後米沢藩藩校「興譲館」で保管されていたものであり、
宋版『漢書・後漢書』と共に現在は国宝となり国立歴史民俗博物館で保管されている。