天乙(湯)が夏を滅ぼして建立したとされる王朝。
その王朝後期の首都の遺跡とみなされている、
殷墟から出土した甲骨文字では、
自らを「商」と呼んでいた。
現在の中国でも「殷」は「商」と呼ばれる場合が多い。
その商を滅ぼした周は、 先代の王朝名として「殷」を用いた。
伝説上、殷の始祖は契とされている。
契は、
有娀氏の娘で帝嚳の次妃であった簡狄が玄鳥の卵を食べたために生んだ子とされている。
契は帝舜のときに禹の治水を援けた功績が認められ、
帝舜により商に封じられ子姓を賜った。
その後、契の子孫は代々夏王朝に仕えた。
また、契から天乙(湯)までの14代の間に8回都を移したという。
No. | 名 | 備考 |
---|---|---|
契(始祖) | ||
昭明 | 契の子 | |
相土 | 昭明の子 | |
昌若 | 相土の子 | |
曹圉 | 昌若の子 | |
冥 | 曹圉の子 | |
亥(高祖、永) | 冥の子 | |
恒(亙) | 亥の弟 | |
上甲微(昏微) | 恒の子 | |
報乙(匚乙) | 上甲微の子 | |
報丙(匚丙) | 報乙の子 | |
報丁(匚丁) | 報丙の子 | |
主壬(示壬) | 報丁の子 | |
主癸(示癸) | 主壬の子 | |
天乙(湯) | 主癸の子 |
No. | 名 | 都 |
---|---|---|
天乙(湯) | 亳(はく) | |
外丙 | 亳(はく) | |
中壬 | 亳(はく) | |
太宗太甲 | 亳(はく) | |
沃丁 | 亳(はく) | |
太庚 | 亳(はく) | |
小甲 | 亳(はく) | |
雍己 | 亳(はく) | |
中宗太戊 | ||
中丁(仲丁) | 隞(囂)に遷都 | |
外壬 | 隞(囂) | |
河亶甲 | 相に遷都 | |
祖乙 | 耿(こう)と邢(けい)に遷都 または庇(び) | |
祖辛 | ||
沃甲 | ||
祖丁 | ||
南庚 | 庇から奄に遷都 | |
陽甲 | 奄 | |
盤庚 | 殷または亳(はく)に遷都 | |
小辛 | ||
小乙 | ||
高宗武丁 | 殷墟(大邑商) | |
祖庚 | ||
祖甲 | ||
廩辛 | ||
庚丁 | ||
武乙 | ||
太丁 | ||
帝乙 | ||
帝辛(紂王) | 商邑 |
夏の桀王は暴政を敷き、
その治世はひどく乱れた。
これに対し、
殷の湯王(契から数えて13代目、天乙ともいう)は天命を受けて悪政を正すとして、
賢人伊尹の助けを借りて蜂起、鳴条の戦で夏軍を撃破し、
各都市を破壊、
こうして夏は滅亡した。
現代の考古学調査によると、
夏の都市のひとつであった望京楼遺跡では、
殷による激しい破壊と虐殺の跡が見つかっている。
遺骨の多くは手足が刃物で切断されたり、
顔が陥没しており、
実際には殷が力によって、
中原の支配者の座を勝ち取ったことがしのばれる。
遺跡からは夏人のどれも毀損された遺骨と共に殷の青銅の武器も出土する。
このようにして夏を打倒した天乙は諸侯に推挙されて王となり、亳に都を置いた。
4代目の王太甲は暴君であったため、
伊尹に追放された。
後に太甲が反省したので、伊尹は許した。後、太甲は善政を敷き太宗と称された。
第8代王・雍己(ようき)の時に、王朝は一旦衰えた。
雍己の次の第9代王・太戊(たいぼ)は賢人伊陟を任用し、善政に努めたことで殷は復興した。
王太戊の功績を称えて、王太戊は中宗と称された。
中宗の死後、王朝は再び衰えた。
第13代王・祖乙(そいつ)は賢人遷都することを勧めた。
第13代王・祖乙(そいつ)の死後また王朝は衰えた。
第19代王・盤庚(ばんこう)は殷墟(大邑商)に遷都し、湯の頃の善政を復活させた。
第19代王・盤庚(ばんこう)の死後にも王朝は衰えた。
第22代王・武丁は賢人傅説を任用し、殷の中興を果たした。
武丁の功績を称えて彼は高宗と称された。
第22代王・武丁以降の王は概ね暗愚な暴君であった。
王朝最後の帝辛(紂王)は即位後、
妃の妲己を溺愛し暴政を行った。
そのため、
周の武王に誅され(牧野の戦い)、
殷はあっけなく滅亡した。
現代の考古学調査によると、
殷は占いによって政治を行い、
その為に多数の人身御供を必要とした。
中国の文字である漢字は、骨に刻むための象形文字として始まった。
これまでに(西暦2012年現在)、
少なくとも14000体の殷代に生贄の犠牲となった人骨が発掘されており、
それらは殷以外の他の部族から見せしめ的に要求され、
献上された人身御供であった。
このような恐怖政治は他の多くの部族の反感を買い、
やがて、
周や微など東西南北の8つの従属国家が密かに連絡を取り合い、
連携し、
やがて紂王が東夷の征伐に乗り出した隙をついて、
反乱、
牧野の戦いで殷軍を撃破し、
王朝は滅亡した。
殷の王位継承について、
『史記』を著した司馬遷は、
これを漢の時代の制度を当て嵌め(漢の時代になると、いくつかの氏族で君主権力を共有することなど考えられなかった)、
親子相続および兄弟相続と解釈したが、
後年の亀甲獣骨文字の解読から、
基本は非世襲で、
必ずしも実子相続が行われていたわけではなかったことが判明した。
殷は氏族共同体の連合体であり、
殷王室は少なくとも二つ以上の王族(氏族)からなっていたと現在では考えられている。
仮説によると、
殷王室は10の王族(「甲」から「癸」は氏族名と解釈)からなり、
不規則ではあるが、
原則として「甲」「乙」「丙」「丁」(「丙」は早い時期に消滅)の4つの氏族の間で、
定期的に王を交替していたとする。
それ以外の「戊」「己」「庚」「辛」「壬」「癸」の6つの氏族の中から、
臨時の中継ぎの王を出したり、
王妃を娶っていたと推測される。
上記と関連して、 殷の王族は太陽の末裔と当時考えられており、 山海経の伝える10個の太陽の神話(十日神話)は、 殷王朝の10の王族(氏族)の王位交替制度を表し、 羿(ゲイ)により9個の太陽が射落される(射日神話)のは、 一つの氏族に権力が集中し強大化したことを反映したものとする解釈もある。
紂王の子である武庚は、周の武王に殷の故地に封じられた。
武王の死後、
武庚は、武王の兄弟の管叔鮮・蔡叔度・霍叔処と共に反乱を起こした(三監の乱)が失敗し、
叔度以外誅殺された。
(叔度は追放されたがその子が継いだ。)
その後、
武庚(禄父)の伯父の微子啓(紂王の兄)が宋に封じられ、
殷の祭祀を続けた。
微子啓には嫡子が無かったため、同じく紂王の兄の微仲衍が宋公を継ぐ。
異説もあるが、
その微仲衍の子孫が孔子とされ、
その後の孔子の家系は世界最長の家系として現在まで続いている。
紂王の叔父箕子は朝鮮に渡り箕子朝鮮を建国したと中華人民共和国では主張されているが、 中国人によって朝鮮が建国されたことになってしまうため、 韓国側は檀君朝鮮こそ初の王朝であり箕子朝鮮は単なる後世の創作であると主張している。
商人という言葉は、
商(殷)人が国の滅亡した後の生業として、
各地を渡り歩き、
物を売っていたことに由来するとされる。
そこから転じて、
店舗を持たずに各地を渡り歩いて物を売っていた人を「あれは商の人間だ」と呼んだことから「商人」という言葉が生まれたというものである。
ただし、白川静は「商に商業・商賈の意があるのは、亡殷の余裔が国亡んでのち行商に従ったからであるとする説もあるが、商には賞の意があり、代償・償贖(とく)のために賞が行なわれるようになり、のちにそのことが形式化して、商行為を意味するものとなったものと思われる」と否定している。
周が殷を滅ぼしたのは具体的に何年の出来事かを推定する作業が進められている。
中国の夏商周年表プロジェクトはこの出来事を紀元前1046年であるとした。
古い説では『竹書紀年』に武王から幽王(西周最後の王)まで257年という記述があり、
幽王が死んだのが紀元前771年のことなので殷が亡んだのは紀元前1027年の出来事となる。
また『漢書』には周は867年続いたという記述があり、
これからは紀元前1123年の出来事となる。
それ以外にも多数の説があり、 殷滅亡を一番古い時代に置くのは紀元前1127年、 最も新しい時代では紀元前1018年となっている。
殷社会の基本単位は邑(ゆう)と呼ばれる氏族ごとの集落で、
数千の邑が数百の豪族や王族に従属していた。
殷王は多くの氏族によって推戴された君主だったが、
方国とよばれる地方勢力の征伐や外敵からの防衛による軍事活動によって次第に専制的な性格を帯びていった。
また、
宗教においても殷王は神界と人界を行き来できる最高位のシャーマンとされ、
後期には周祭制度による大量の生贄を捧げる鬼神崇拝が発展した。
この王権と神権によって殷王はみずからの地位を強固なものにし、
残酷な刑罰を制定して統治の強化を図った。
しかし祭祀のために戦争捕虜を生贄に捧げる慣習が、
周辺諸氏族の恨みを買い、
殷に対する反乱を招き、
殷を滅亡に導いたとする説もある。
現代の考古学調査では、
これまでに発見された殷による生贄になった人の骨は計14000体にのぼる。
殷王朝の軍隊は氏族で構成され、
殷王による徴集を受けると普段は農耕に従事していた氏族の構成員が武器をとり、
出征する軍隊を編成した。
この軍隊を指揮するのは各氏族の貴族だった。
強大な軍事力を誇った殷王朝は、
度重なる戦争に勝利を収めるために、
兵種・戦法・軍備などを発展させていった。
その中で特筆すべきは、
「三師戦法」という大量の戦車を活用した戦術である。
殷王朝が歩兵中心の軍制から、
戦車を中心とした軍制に変化するのは、
殷の支配域が拡大して黄河中下流域や中原など、
戦車を疾駆させるのに適した平原地帯が戦場になっていったからと考えられる。
『呂氏春秋』によると殷の湯王が夏の桀王を討ったとき、
「良車七十乗(輌)、必死(決死隊)六千人」があったといい、
「令三百射」「到三百射」と記載された甲骨文があることから、
一度に戦役に出撃した戦車は300輌にも達していたことが窺える。
戦車は歩兵と共同して戦いを行った。
1輌の戦車には3人の兵が乗り、
左側の兵士が弓を、
右側の兵士が矛や戈を持ち、
中央の兵士が御者となった。
戦車部隊は5輌が最小単位で、
戦車兵15人と付随する歩兵15人からなっていた。
100輌の戦車と戦車兵と歩兵がそれぞれ300人、
25輌の戦車と戦車兵と歩兵が75人というふうに、
戦車が5の倍数で、
戦車兵と歩兵は15の倍数で編成されていた。
戦車の運用法では「三師戦法」が編み出され、
これは軍隊を左・右・中の3つの部隊に分け、
互いに連携して敵に対処するというものだった。
軍備については戦車戦に適した戈・矛・弓矢・木製の盾・刀などが使われた。
その他でも殷王朝では戈と矛を合体させた戟が発明されている。
戈や矛の材質は青銅製で、弓矢の鏃の材質は石器や骨器なども使われた。
防具については戦車兵が立ったままの状態で戦車に乗っていたため標的にされやすく、
そのため重装化が進んだ。
殷代の鎧は皮革から、兜は青銅で作られている。
また、敵の弓矢から身を守るために盾も戦車には用意されていた。