大化の改新(たいかのかいしん)

作成日:2020/6/1

大化の改新は、 皇極天皇4年(西暦645年)6月14日の「乙巳の変」に始まる一連の国政改革。
狭義には大化年間(西暦645年 - 西暦650年)のみを指す。
広義には大宝元年(西暦701年)の大宝律令完成までに行われた一連の改革を含む。

改革そのものは、 天皇ではなく、 皇極太上天皇とその親友とされる中臣鎌足(内臣)の主導のもと、 年若い両皇子(中大兄、大海人)の協力によって推進された。

この改革によって豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされている。
この改革により、 「日本」という国号と「天皇」という称号の使用が始まったとされる。
また「大化」は日本最初の元号である。
改新の歴史的意義や実在性については様々な論点が存在し、 現在でも大きく見解が分かれている。

要約

大化の改新は、次のように要約される。

乙巳の変に至る経緯

蘇我氏の専横
推古天皇30年2月22日(西暦622年4月8日)(同29年2月5日説もある)、 摂政・厩戸皇子(聖徳太子)が死去した。
聖徳太子の死により大豪族蘇我氏を抑える者がいなくなり、 蘇我氏の専横は甚だしいものになり、 その権勢は天皇家を凌ぐほどになった。
天平宝字4年(西暦760年)に成立した『藤氏家伝』大織冠伝には蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、 董卓に比肩する暴政としている。

推古天皇34年5月20日(西暦626年6月19日)、 蘇我馬子が死に、 子の蝦夷がかわって大臣となった。
推古天皇36年3月7日(西暦628年4月15日)、 推古天皇が後嗣を指名することなく崩御した。

有力な皇位継承権者には田村皇子(のちの舒明天皇)と山背大兄王聖徳太子の子)がいた。
血統的には山背大兄王の方が蘇我氏に近いが(聖徳太子蘇我氏の血縁であり、山背大兄王の母は蝦夷の妹である)、 有能な山背大兄王が皇位につき上宮王家が勢力を持つことを嫌った蝦夷は田村皇子(のちの舒明天皇)を次期皇位に推した。
蝦夷は山背大兄王を推す叔父の境部摩理勢勢を滅ぼして、 田村皇子(のちの舒明天皇)を即位させることを強行する。
これが舒明天皇である。

蘇我氏の勢いはますます盛んになり、 豪族達は朝廷に出仕せず、 専ら蘇我家に出仕する有り様となった。
大派皇子(敏達天皇の皇子)は、 群卿が朝廷に出仕することを怠っているので、 今後は鐘を合図に出仕させることにしようと建議したが、蝦夷はこれを拒んだ。

舒明天皇13年10月9日(西暦641年11月17日)、 舒明天皇は崩御し、 皇后であった宝女王が即位した(皇極天皇)。
蘇我氏の専横は更に甚だしくなった。

皇極天皇元年(西暦642年)7月、 日照りが続いたため、 蝦夷は百済大寺に菩薩像と四天王像をまつり衆僧に読経させ焼香して雨を祈ったところ、 翌日、 僅かに降ったが、 その翌日には降らなかった。

8月、皇極天皇が南淵の川辺で四方を拝して雨を祈ったところ、 たちまち雷雨となり、 5日間続いた。
人々は「至徳天皇」と呼んだ。
これは蘇我氏と天皇家が古代君主の資格である祈祷力比べを行い、 天皇家が勝っていたと後に書かれた史書の『日本書紀』が主張していることを意味する。

同年、蝦夷とその子の入鹿は、 自分達の陵墓の築造のために天下の民を動員、 聖徳太子の一族の領民も動員されたため、 太子の娘の大娘姫王はこれを嘆き抗議した。

皇極天皇2年10月6日(643年11月22日)、 蝦夷は病気を理由に朝廷の許しも得ず、 紫冠を入鹿に授け大臣となし、 次男を物部大臣となした(彼らの祖母が物部守屋の妹であるという理由による)。
上宮王家の滅亡
入鹿は蘇我氏の血をひく古人大兄皇子を皇極天皇の次期天皇に擁立しようと望んだ。
そのためには有力な皇位継承権者である山背大兄王の存在が邪魔であると考えた。

皇極天皇2年11月1日(643年12月16日)
入鹿は巨勢徳多、 土師娑婆連の軍勢をさしむけ、 山背大兄王の住む斑鳩宮を攻めさせた。
これに対し山背大兄王は、 舎人数十人(十数人?)をもって必死に防戦して土師娑婆連を戦死させるが、 持ちこたえられず生駒山へ逃れた。

そこで側近の三輪文屋君からは東国へ逃れて再挙することを勧められるが、 山背大兄王は民に苦しみを与えることになると採り上げなかった。

皇極天皇2年11月11日(西暦643年12月30日)
山背大兄王斑鳩寺に戻り、妃妾など一族はもろともに首をくくって自害した。
このことによって聖徳太子の血を引く上宮王家は滅亡した。

入鹿が山背大兄王一族を滅ぼしたことを知った蝦夷は、「自分の身を危うくするぞ」と嘆いている。

年譜

皇極天皇4年(西暦645年)
皇極天皇4年6月12日(西暦645年7月10日) 蘇我入鹿を暗殺し、蘇我蝦夷を自害に追い込み藤原本宗家を滅亡に導いた。「乙巳の変
中大兄皇子中臣鎌足は、 皇極天皇の皇居である飛鳥板蓋宮・大極殿において蘇我入鹿を暗殺した。
大化の改新はこの「乙巳の変」から始まる。
皇極天皇4年6月13日(西暦645年7月11日) 蘇我蝦夷を自害に追い込み藤原本宗家を滅亡に導いた。
蘇我蝦夷が家を焼き自害した。
蘇我本宗家は滅亡した。
皇極4年6月14日(西暦645年7月12日) 皇極天皇が軽皇子へ譲位し、孝徳天皇が即位した。
乙巳の変の直後、 皇極天皇は退位し、 中大兄皇子に皇位を譲ろうとした。 それでは天皇になりたいがためにクーデターをおこしたのかと思われるので、 中大兄と鎌足との相談の結果、 皇弟・軽皇子が即位し孝徳天皇となり、 中大兄皇子が皇太子になった。
これは、 推古天皇の時、 聖徳太子が皇太子でありながら政治の実権を握っていたことに習おうとしたと推定されている。
新たに左右の大臣2人と内臣を置いた。
さらに唐の律令制度を実際に運営する知識として国博士を置いた。
この政権交替は、 蘇我氏に変わって権力を握ることではなく、 東アジア情勢の流れに即応できる権力の集中と国政の改革であったと考えられている。
  • 天皇 孝徳天皇
  • 皇太子 中大兄皇子
  • 左大臣 阿部内麻呂臣(あべのうちまろのおみ)
  • 右大臣 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだ の いしかわまろ)
  • 内臣 中臣鎌足
  • 国博士 高向玄理(たかむこのくろまろ)
  • 国博士 旻(みん)
大化元年(西暦645年)
大化元年6月19日(西暦645年7月17日) 大槻の樹の下の盟約。元号の制定。
孝徳天皇と中大兄皇子は、群臣を大の樹の下に集めて「帝道は唯一である」「暴逆(蘇我氏)は誅した。これより後は君に二政なし、臣に二朝なし」と神々に誓った。
そして、大化元年と初めて元号を定めた。
大化元年8月5日 
穂積咋を東国に国司として遣わし、 新政権の目指す政治改革を開始した。
これらの国司は臨時官であり、 後の国司とは同じではない。
それは8組からなっていたが、 どの地域に遣わされたかは定かではないが、 第3組は毛野方面に、 第5組は東海方面に遣わされたと、 後の復命の論功行賞から推定できる。
新政権は、このような広さを単位区域にして8組の国司を東国に派遣した。
鐘櫃(かねひつ)の制を定める。また、男女の法を定め、良民・奴婢の子の帰属を決める。
大化元年9月 古人大兄皇子を謀反の罪で処刑した。
皇子は蘇我氏の血を引いていて、蘇我入鹿によって次期天皇と期待されていたが、「乙巳の変」の後に出家し吉野へ逃れていた。
しかし,謀反を企てたとされ,中大兄皇子の兵によって殺害された。
大化元年12月 
孝徳天皇は、都を飛鳥から摂津の難波長柄豊碕宮(なにわのながらのとよさきのみや)へ遷都
大化2年(西暦646年)
大化2年元旦(西暦646年1月22日) 「改新の詔」発布。
大化2年春正月甲子朔、新政権の方針を示す改新の詔が発布された。
詔は大きく4か条の主文からなり、各主文ごとに副文(凡条)が附せられていた。
詔として出された主な内容は以下の通りで、豪族連合の国家の仕組みを改め、土地・人民の私有を廃止し、天皇中心の中央集権国家を目指すものであった。
  • それまでの天皇の直属民(名代・子代)や直轄地(屯倉)、さらに豪族の私地(田荘)や私民(部民)もすべて廃止し、公のものとする。(公地公民制)
  • 初めて首都を定め、畿内の四至を確定させた。また今まであった国(くに)、県(あがた)、郡(こおり)などを整理し、令制国とそれに付随する郡に整備しなおした。国郡制度に関しては、旧来の豪族の勢力圏であった国や県(あがた)などを整備し直し、後の令制国の姿に整えられていった。実際にこの変化が始まるのは詔から出されてから数年後であった。
  • 戸籍と計帳を作成し、公地を公民に貸し与える。(班田収授の法)
  • 公民に税や労役を負担させる制度の改革。(租・庸・調)
年月日
詳細
大化6年(西暦650年)
大化6年(西暦650年2月15日) 造営途中の難波宮で白雉改元の契機となった白雉献上の儀式開催。
孝徳天皇の西暦650年2月15日、造営途中の難波宮で白雉改元の契機となった白雉献上の儀式が開催された。『日本書紀
ここには扶余豊璋も出席している
年月日
詳細
白雉4年(西暦653年)
白雉4年(653年) 中大兄皇子が難波宮を引き払って飛鳥へ戻る。
孝徳天皇と中大兄皇子は不和となり、 白雉4年(西暦653年)に中大兄皇子が難波宮を引き払って飛鳥へ戻り、 群臣もこれに従い、 孝徳天皇は全く孤立して翌年に憤死する事件が起きた。
この不和の背景には、 孝徳天皇と中大兄皇子の間の権力闘争とも外交政策の対立とも言われているが不明な点が多い。
皇太子の中大兄皇子は即位せず、 母にあたる皇極天皇が重祚して斉明天皇となった。

斉明天皇時代は阿倍比羅夫を東北地方へ派遣して蝦夷を討ち、 朝廷の支配権を拡大させた。
一方で政情不安は続き、 西暦658年に有間皇子が謀反を起こそうとしたとして処刑された。
白雉4年(西暦653年) 百済から扶余豊璋が渡来した。
扶余豊璋の渡来時期は、『日本書紀』によれば舒明天皇3年(西暦631年)3月であるが、 『三国史記』百済本紀には「義慈王13年(西暦653年)倭国と通好す」とあるので、 この頃ではないだろうかとする説もある。
年月日
詳細
(西暦658年)元号なし
有間皇子が謀反を起こそうとしたとして処刑された。
658年に
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詳細
(西暦660年)元号なし
西暦660年 伝統的な友好国だった百済が唐・新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)に攻められて滅びた。
年月日
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(西暦661年)元号なし
661年、百済の遺臣の要請に応じて中大兄皇子は救援の兵を派遣することを決め、斉明天皇と共に自ら朝鮮半島に近い筑紫へ赴くが、天皇はこの地で崩御する。
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天智天皇元年(西暦662年)元号なし
天智天皇元年1月27日(西暦662年2月20日) 天智天皇、百済鬼室福信に品を下賜
天智天皇元年3月4日(西暦662年3月28日) 天智天皇、百済扶余豊璋に布を下賜
天智天皇元年(西暦662年5月) 斉明天皇は、百済復興のために軍を百済へ遣わす。
斉明天皇扶余豊璋に安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津が率いる兵5,000と軍船170艘を添えて百済へと遣わし、 扶余豊璋は約30年ぶりとなる帰国を果たした。
扶余豊璋と倭軍は鬼室福信と合流し、 扶余豊璋は百済王に推戴されたが、 次第に実権を握る鬼室福信との確執が生まれた。
西暦663年6月、 扶余豊璋は鬼室福信を殺害した。
これにより百済復興軍は著しく弱体化し、 唐・新羅軍の侵攻を招くことになった。
年月日
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天智天皇2年(西暦663年)元号なし
天智天皇2年6月(西暦663年) 百済復興のために共に戦っていた扶余豊璋鬼室福信を殺害した。
これにより百済復興軍は著しく弱体化し、 唐・新羅軍の侵攻を招くことになった。
天智天皇2年8月27日-28日(西暦663年10月4日-5日) 百済再興の倭国・百済連合軍は白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗を喫した。
扶余豊璋は周留城に籠城して倭国の援軍を待ったが、 8月13日、 城兵を見捨てて脱出し、 倭国の援軍に合流した。
やがて唐本国から劉仁軌率いる7,000名の救援部隊が到着し、 8月27、28日の両日、 倭国水軍と白村江(韓国では白江、白馬江ともいう)で衝突した。
その結果、倭国・百済連合軍が大敗した。
いわゆる白村江の戦いである。
扶余豊璋は数人の従者と共に高句麗に逃れたが、 その高句麗も内紛につけ込まれて西暦668年に唐に滅ぼされた。
扶余豊璋は高句麗王族らとともに唐の都に連行され、 高句麗王の宝蔵王らは許されて唐の官爵を授けられたが、 扶余豊璋は許されず、嶺南地方に流刑にされた。
扶余豊璋の弟については、 『日本書紀』によれば百済王善光(『続日本紀』では徐禪廣)といい、 豊璋と共に人質として倭国に渡り滞在したが帰国はしなかった。
白村江の戦いの後、 百済王族唯一の生存者として持統天皇から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。
日本は朝鮮半島への足掛かりを失うばかりでなく、逆に大国である唐の脅威にさらされることとなった
(西暦668年には新羅によって高句麗も滅亡する)。
中大兄皇子は筑前や対馬など各地に水城を築いて防人やを設置し、 大陸勢力の侵攻に備えて東の大津宮に遷都する一方、 部曲を復活させて地方豪族との融和を図るなど、 国土防衛を中心とした国内制度の整備に注力することになる。
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天智天皇7年(西暦668年)
天智天皇7年1月3日(西暦668年2月20日) 中大兄皇子が即位した(天智天皇)。
中大兄皇子は数年間称制を続けた後に即位した(天智天皇)。
年月日
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(西暦670年)
670年に新たな戸籍(庚午年籍)を作り
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年月日
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(西暦671年)
西暦671年には初めての律令法典である『近江令』を施行している。
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天智天皇10年12月3日(西暦672年1月7日) 天智天皇が46歳で崩御
天智天皇の同母弟である大海人皇子(後の天武天皇)と天智天皇の庶長子である大友皇子とが不和となり、
年月日
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(西暦672年)
天武天皇元年6月24日(西暦672年7月24日) 壬申の乱が起こる。
大海人皇子が皇位継承権争奪戦に勝利し、大津宮大津宮から飛鳥浄御原宮遷都して即位した。天武天皇は改革をさらに進めて、より強力な中央集権体制を築くことになる。
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年度
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比肩(ひけん)

同等の、匹敵する、相当するなどの意味のある熟語。