皇后は雄略天皇の皇女である春日大娘皇女であるが、
父を殺した雄略天皇の皇女を皇后とした理由として、
仁賢天皇自身が傍系の出身であるため、
直系の皇女を皇后に迎え入れ正当性を強めたと考えられている。
これは娘の手白香皇女も、
傍系出身の継体天皇の皇后となった事で繰り返されている。
陵(みささぎ)は、 宮内庁により大阪府藤井寺市青山3丁目にある埴生坂本陵(はにゅうのさかもとのみささぎ)に治定されている。 宮内庁上の形式は前方後円。 遺跡名は「ボケ山古墳(野中ボケ山古墳)」で、 墳丘長122メートルの前方後円墳である。
仁賢天皇11年10月に奉葬された。 元禄探陵において所在不明とされたが、 河内の学僧覚峰は現陵に擬定し、 ボケ山の「ボケ」を「オケ(億計)」の誤りと考証した。 この成果に基づき、 幕末に現陵に治定して修補を加えた。 前方部は市辺の方向に向いている。 北西に陪冢1基がある。
皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 また、神戸市西区押部谷町木津には、仁賢・顕宗両帝を祭神とする顕宗仁賢神社がある。 この神社の他にも西区内や明石市や三木市には所縁を称する神社が数多くある。