小窓
仁賢天皇(にんけんてんのう)

作成日:2019/10/15

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第24代天皇 仁賢天皇(にんけんてんのう)  顕宗天皇の実の兄

[在位] 西暦488年仁賢天皇元年1月5日) - 西暦498年9月9日(仁賢天皇11年8月8日)《紀》
[生没] 西暦449年允恭天皇38年) - 西暦498年9月9日(仁賢天皇11年8月8日) 50歳没《紀》
[時代] 古墳時代
[先代] 顕宗天皇   [次代] 武烈天皇
[和風諡号]
[] 億計皇子、大脚、大為
[父親] 市辺押磐皇子   [母親] 荑媛(はえひめ)
[皇后] 春日大娘皇女
[皇居] 石上広高宮
[陵所] 埴生坂本陵

年表

天皇の系譜(第10代から第26代)日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである。
西暦449年允恭天皇38年)
億計皇子誕生
西暦456年安康天皇3年)
(10月)父の市辺押磐皇子大泊瀬皇子(後の雄略天皇)に殺された。
西暦481年清寧天皇2年)
(11月)億計(のちの仁賢天皇)と弘計(のちの顕宗天皇)兄弟を発見。(⇒ 市辺押磐皇子の遺児発見
西暦482年清寧天皇3年)
(1月)億計弘計を皇子と認めて宮中に迎え入れる。
(4月17日)億計王清寧天皇の皇太子として立太子される。
西暦484年清寧天皇5年)
(1月16日)清寧天皇41歳で崩御
(11月)河内坂門原陵に葬られる
西暦485年顕宗天皇元年1月1日)
(1月1日)顕宗天皇36歳で即位
(4月11日)詔「来目部小楯の功を賞し給ふの詔」を発した。
西暦487年顕宗天皇3年4月25日) 38歳没
(4月25日)顕宗天皇38歳で崩御
西暦488年仁賢天皇元年)
(1月5日)仁賢天皇40歳で即位石上広高宮を宮とした。
西暦489年仁賢天皇2年)
(9月)顕宗天皇皇后の難波小野王が自殺した。
西暦490年仁賢天皇3年)
(2月)石上部舎人を置いた。
西暦492年仁賢天皇5年)
佐伯造を置いた。
西暦493年仁賢天皇6年)
(9月)高麗(こま)へ日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わし、皮の工匠などの手工業者を招いたという。
西暦494年仁賢天皇7年)
(1月3日)皇子の小泊瀬稚鷦鷯尊を皇太子に定めた。
西暦498年仁賢天皇11年)
(8月8日)仁賢天皇50歳で崩御
(12月)武烈天皇 即位

略歴

皇后は雄略天皇の皇女である春日大娘皇女であるが、 父を殺した雄略天皇の皇女を皇后とした理由として、 仁賢天皇自身が傍系の出身であるため、 直系の皇女を皇后に迎え入れ正当性を強めたと考えられている。
これは娘の手白香皇女も、 傍系出身の継体天皇の皇后となった事で繰り返されている。

漢風諡号である「仁賢天皇」は、代々の天皇と同様、奈良時代に淡海三船によって撰進された。

親族

祖父:履中天皇     祖母:葛城黒媛
父親:市辺押磐皇子   母親:荑媛(はえひめ)
兄弟:
皇后:春日大娘皇女
妃:糠君娘 - 和珥臣日爪の女

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、 宮内庁により大阪府藤井寺市青山3丁目にある埴生坂本陵(はにゅうのさかもとのみささぎ)に治定されている。 宮内庁上の形式は前方後円。 遺跡名は「ボケ山古墳(野中ボケ山古墳)」で、 墳丘長122メートルの前方後円墳である。

仁賢天皇11年10月に奉葬された。 元禄探陵において所在不明とされたが、 河内の学僧覚峰は現陵に擬定し、 ボケ山の「ボケ」を「オケ(億計)」の誤りと考証した。 この成果に基づき、 幕末に現陵に治定して修補を加えた。 前方部は市辺の方向に向いている。 北西に陪冢1基がある。

皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。 また、神戸市西区押部谷町木津には、仁賢顕宗両帝を祭神とする顕宗仁賢神社がある。 この神社の他にも西区内や明石市や三木市には所縁を称する神社が数多くある。


顕宗天皇 [← 前へ]  [次へ →] 武烈天皇

億計皇子(おけのみこ)

仁賢天皇の諱(いみな)。

弘計皇子(顕宗天皇)は同母弟。

弘計皇子(おけのみこ)/

顕宗天皇の諱(いみな)。

億計皇子(仁賢天皇)は同母兄。

小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)

武烈天皇の諱(いみな)