小窓
黒媛(くろひめ)  [履中天皇后]

作成日:2023/4/25

黒媛
くろひめ
身位  履中天皇后
生没年 不詳
別名  黒比売命、狭名来田蒋津之命
氏族  葛城臣
父親  葦田宿禰
      (羽田矢代宿禰)
子女  市辺押磐皇子
      御馬皇子、
      飯豊青皇女
 

黒媛(くろひめ、生年不明 - 推定西暦404年(履中天皇5年9月19日))

古事記』によると、 葛城曾都比古の子の葦田宿禰の娘であり、 市辺之忍歯王と御馬王、 青海郎女(飯豊郎女)を産んだと記されている。

日本書紀』によると、 仁徳天皇の崩御の際に、 まだ即位していない皇太子であった去来穂別皇子(履中天皇)は、 黒媛を妃にしようと思い立ち、 婚約の儀式も整って、 弟の住吉仲皇子を派遣し、結婚の吉日を告げた。 ところが、住吉仲皇子は太子だと偽って黒媛と姦通した。 その際に、仲皇子は手にしていた鈴を黒媛の家に置き忘れてしまった。 翌日、太子が黒媛を訪ねた際に、黒媛の部屋の寝台にはいり、 寝台の頭に鈴の音がするのを聞いて、 「何の音だろう?」と質問した。 黒媛は、「昨夜。太子が持ってこられた鈴ではないですか、どうして私に尋ねられるのでしょうか」と逆に聞き返した。 このことにより、太子は、仲皇子が自分の名を詐称したことを知り、 黒媛にはそれ以上何もきかずに、 黙ってその場を立ち去った、という。 その後、住吉仲皇子の反乱を収め、即位した天皇は、 黒媛を皇后にしている。

履中天皇5年9月、 天皇が狩りをするために淡路島に行幸した際に、 急使が到着し、黒媛の死を告げたという。 天皇は大変驚いて行幸を中断し、 4日後には宮にもどったという。 翌月には、黒媛を埋葬したが、 神の祟りをおさめずに后妃を亡くされたことを後悔し、 その原因を探ったところ、 「車持君が原因だろう」という意見があったので、詮議をされたという。