黒媛
くろひめ
身位 | : | 履中天皇后 |
生没年 | : | 不詳 |
別名 | : | 黒比売命、狭名来田蒋津之命 |
氏族 | : | 葛城臣 |
父親 | : | 葦田宿禰 |
| | (羽田矢代宿禰) |
子女 | : | 市辺押磐皇子、 |
| | 御馬皇子、 |
| | 飯豊青皇女 |
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黒媛(くろひめ、生年不明 - 推定西暦404年(履中天皇5年9月19日))
『
古事記』によると、
葛城曾都比古の子の葦田宿禰の娘であり、
市辺之忍歯王と御馬王、
青海郎女(飯豊郎女)を産んだと記されている。
『
日本書紀』によると、
仁徳天皇の崩御の際に、
まだ即位していない皇太子であった去来穂別皇子(
履中天皇)は、
黒媛を妃にしようと思い立ち、
婚約の儀式も整って、
弟の住吉仲皇子を派遣し、結婚の吉日を告げた。
ところが、住吉仲皇子は太子だと偽って黒媛と姦通した。
その際に、仲皇子は手にしていた鈴を黒媛の家に置き忘れてしまった。
翌日、太子が黒媛を訪ねた際に、黒媛の部屋の寝台にはいり、
寝台の頭に鈴の音がするのを聞いて、
「何の音だろう?」と質問した。
黒媛は、「昨夜。太子が持ってこられた鈴ではないですか、どうして私に尋ねられるのでしょうか」と逆に聞き返した。
このことにより、太子は、仲皇子が自分の名を詐称したことを知り、
黒媛にはそれ以上何もきかずに、
黙ってその場を立ち去った、という。
その後、住吉仲皇子の反乱を収め、即位した天皇は、
黒媛を皇后にしている。
履中天皇5年9月、
天皇が狩りをするために淡路島に行幸した際に、
急使が到着し、黒媛の死を告げたという。
天皇は大変驚いて行幸を中断し、
4日後には宮にもどったという。
翌月には、黒媛を埋葬したが、
神の祟りをおさめずに后妃を亡くされたことを後悔し、
その原因を探ったところ、
「車持君が原因だろう」という意見があったので、詮議をされたという。