伊予来目部小楯(いよのくめべのおたて)/山部小楯(やまべのおたて)
『
日本書紀』・『
古事記』・『播磨国風土記』の記述によると、以下の通りになる。
西暦481年(
清寧天皇2年11月)、
小楯は播磨国司(針間国宰、はりまのくにのみこともち)として
大嘗祭の供奉料の新穀を徴収するため派遣された。
『
日本書紀』では赤石郡縮見屯倉(しじみ の みやけ)、
『
古事記』では志自牟(しじむ)、
『風土記』では「志深(ししみ)の里」の、
忍海部造細目(おしぬみべ の みやつこ ほそめ)の新室(にいむろ)の酒宴の席で、
牛飼となって隠れていた
市辺押磐皇子の遺子、
億計・
弘計両王を発見し、
民衆を動員して仮宮を建てさせた上で、朝廷に報告した。
清寧天皇は驚き、
さらに非常に喜んだという。
西暦485年(
顕宗天皇元年)、
小楯はその功で山官(やまのつかさ)に任じられ、
山部氏と連の姓を与えられた。
そして「吉備臣」を副(そいつかい)として「山守辺」(やまもりべ)を部民とした、
とある。