西暦662年(天智天皇元年)、
大海人皇子の第二皇子として誕生。
西暦671年(天智天皇10年)、
天智天皇が崩御すると、
後継を辞退した大海人皇子に従い吉野へ下る。
その後、
壬申の乱で勝利した大海人皇子は西暦673年(天武天皇2年)、
飛鳥浄御原宮で即位(天武天皇)。
生母の鸕野讚良皇女が皇后に立てられる。
皇后の実子であることから後継者と目され、 西暦679年(天武天皇8年)、 同世代の男性皇族が呼び集められた吉野の盟約にて、 事実上の後継者となる。西暦681年(天武天皇10年)2月、立太子。
西暦686年(朱鳥元年)7月、
重態に陥った天武天皇から母と共に大権を委任される。
9月、天武天皇が崩御。
事実上皇位を継承した草壁皇子だが、
直ちに即位はしなかった。
これは、皇子が若かったのと、天皇崩御の直後の10月、
草壁皇子に次ぐ皇位継承権者とみなされていた大津皇子が謀反の罪で処刑されており、
これに対する宮廷内の反感が皇子の即位の障害となったものと思われる。
しかし、草壁皇子は皇位に就くことなく、
西暦689年(持統天皇3年4月13日)に27歳で早世。
時代が下って西暦758年(天平宝字2年)、
時の淳仁天皇から岡宮御宇天皇の称号が贈られた。
皇統を継ぐべき子の珂瑠皇子(文武天皇)は幼少であったことから、 母である皇后が持統天皇として即位することになる。 その後も、草壁皇子に始まる皇統を継ぐべき男性皇族(文武天皇、基王、安積親王)の早世、 女性皇族の即位など、 皇統をめぐる政治的混乱が以降一世紀にわたり続くことになる。
『万葉集』に石川郎女に贈った歌が一首残されている。
少数説であるが、 草壁皇子の立太子そのものを軽皇子(文武天皇、草壁皇子の皇子)の即位を正当化するために後世作為されたもので、 鸕野讚良皇后が草壁皇子に天武天皇の殯宮の喪主を務めさせることで、 初めてその後継者であることを内外に明らかにしたとする説もある(なお、天武天皇の殯の終了は西暦688年(持統天皇2年)11月のことである)。
また、文武天皇の即位後に持統上皇と共に後見となった文武の生母である阿閇皇女(草壁皇子妃、後の元明天皇)に待遇と称号を与えるために、 夫の草壁皇子を皇太子として作為したとする説もある(その結果、阿閇皇女には「皇太妃」という称号が与えられた)。