魯(ろ) [中国]
作成日:2022/3/27
魯
ろ
建国 | : | 紀元前1055年 |
滅亡 | : | 紀元前256年 |
国姓 | : | 姫 |
爵位 | : | 侯爵 |
国都 | : | 奄城、曲阜 |
分封者 | : | 成王 |
始祖 | : | 伯禽 |
| | |
魯(ろ)は、
周(西周)の
武王の弟で、
周の封建制を創始したと伝えられる
周公旦が封じられ、
建国した国。
周が東方の夷人を抑える前線として置かれたと言われている。
都城は
曲阜で、
儒家の始祖である
孔子の出身地。
この魯の年代記で孔子が著述したとされるのが『春秋』である。
魯は周王とも関係の深い国で、
周王室の儀礼や文化的伝統を継承していたが、
東方に隣接する斉や、
南方から台頭した楚や呉などに挟まれ、
常に小国としての悲哀を余儀なくされていた。
また魯の君主たちも暗愚なものが多く、
一時は孔子が宰相に登用されたが政争に巻き込まれて魯を離れている。
紀元前256年、魯は楚の考烈王のために滅ぼされ、
頃公は下邑にうつされ、莒(きょ)の地に魯君として封じられた。
紀元前249年、南の楚に併合され、滅亡した。
地名としての魯は現在の
山東省南部を指す。
山東省全体の略称としても用いられる。
歴史
周公旦(周王朝の開祖である武王の弟で、武王の子成王を補佐した)の子伯禽が成王によって封ぜられて成立した。
春秋時代に入ってからは、晋・斉・楚といった周辺の大国に翻弄される小国となる。
しかも国内では、魯の公族である三桓氏が政治の実権を握り、国政はたびたび混乱した。
しかしながら、この混乱した小国が思想史・文化史に果たした役割は大きい。
周王朝の礼制を定めたとされる周公旦の伝統を受け継ぎ、魯には古い礼制が残っていた。
この古い礼制をまとめ上げ、儒学として後代に伝えていったのが、魯の出身である孔子であり、その一門である。
孔子が儒学を創出した背景には、魯に残る伝統文化というものがあったからともいえる。
ちなみに孔子が魯に仕えていたのは若年時までと晩年のみで、各国に弟子と共に放浪していた時期が長かった。
なお、「春秋」は、隠公元年(紀元前722年)から、哀公14年(紀元前481年)までの魯国の年次記録が基になっている。
孔子の死後、国としての魯はますます衰退し、事実上として三桓氏に分割されてしまう。
魯公室は細々と生き残るが、紀元前249年に楚に併合され、滅亡した。
歴代君主
初代・伯禽
伯禽(はくきん、? - 紀元前997年)は、魯の初代君主。
姓は姫(姬)、名は伯禽。伯は階級であり、尊称は禽父。
魯公(ろこう)・公伯禽(こうはくきん)としても知られる。
周公旦の子(長子)として生まれる。
周公旦は文王の四男で、初代周王・
武王の同母弟であり、
周王朝の政治家である。
父の周公旦は周の摂政として周に残ったため、子の伯禽は現在の中国
山東省南部の魯に「魯公」として派遣された。
魯の君主就任後(紀元前1042年?)に
管叔鮮・蔡叔度を指揮官とする反乱が国内で起こり、これを収めて魯に平定をもたらし、服喪三年の定めを取り決めるなど魯の風習を改定したという。
在位46年(
紀元前997年)に亡くなり、
子の姫酋が
考公としてあとを継いだ。
2代・考公
考公(こうこう、生年不詳 - 前993年)は、魯の第2代君主。
名は酋、世本は名を「就」とし、鄒誕は本名を「遒」とする。
伯禽の子で、姫伯禽のあとを受けて魯国の君主となった。
在位4年(
紀元前993年)に亡くなり、
弟の姫熙が
煬公としてあとを継いだ。
3代・煬公
煬公(ようこう、生年不詳 - 前987年)は、魯の第3代君主。名は熙、または怡。
考公の弟で、考公のあとを受けて魯国の君主となった。
在位6年(
紀元前987年)に亡くなり、
子の姫宰が
幽公としてあとを継いだ。
4代・幽公
幽公(ゆうこう、生年不詳 - 前973年)は、魯の第4代君主。名は宰。
煬公の子で、煬公のあとを受けて魯の君主となった。
在位14年(
紀元前973年)、弟の姫沸(後の
魏公)に殺害され、
姫沸が魯の第5代君主となった。
5代・魏公
魏公(ぎこう、生年不詳 - 紀元前924年)は、魯の第5代君主。名は沸。
煬公の子で、
幽公の弟。
紀元前973年、
兄である
幽公を殺害して、
魯の第5代君主となった。
在位50年(
紀元前924年)に亡くなり、
子の姫擢が
厲公としてあとを継いだ。
6代・厲公
厲公(れいこう、生年不詳 -
紀元前887年)は、
魯の第6代君主。名は擢。
魏公の子で、
魏公のあとを受けて魯の君主となった。
在位37年(
紀元前887年)に亡くなり、
弟の姫具が
献公としてあとを継いだ。
7代・献公
献公(けんこう、生年不詳 -
紀元前855年)は、
魯の第7代君主。名は具。
厲公の弟で、
厲公のあとを受けて魯の君主となった。
在位32年(
紀元前855年)に亡くなり、
子の姫濞が
真公としてあとを継いだ。
8代・真公
真公(しんこう、生年不詳 -
紀元前825年)は、
魯の第8代君主。名は濞。
献公の子で、
献公のあとを受けて魯の君主となった。
在位30年(
紀元前825年)に亡くなり、
弟の姫敖が
武公としてあとを継いだ。
9代・武公
武公(ぶこう、生年不詳 -
紀元前816年)は、
魯の第9代君主。名は敖。
真公の弟で、
真公のあとを受けて魯の君主となった。
武公9年の春、
武公は長子の姫括や末子の姫戯(後の
懿公)とともに周の
宣王の朝見を受けた。
宣王は姫戯のことを気に入り、姫戯を魯国の太子に立てようとした。
周の樊
仲山父が諫めたが
宣王は聞き入れず、姫戯を魯国の太子に
冊立した。
夏、武公はふたりの子とともに帰国し、まもなく世を去った。
在位9年(
紀元前816年)に亡くなり、
末子の姫戯が
懿公としてあとを継いだ。
10代・懿公
懿公(いこう、生年不詳 -
紀元前807年)は、
魯の第10代君主。名は戯。
武公の子で、
武公のあとを受けて魯の君主となった。
在位9年(
紀元前807年)、
長兄の姫括の子の伯御(はくぎょ)と伯御を支持する魯国人によって懿公は殺害された。
懿公を殺害した後、
伯御は
廃公として君主となった。
11代・廃公
廃公(はいこう、生年不詳 -
紀元前796年)は、
魯の第11代君主。
武公の孫で、姫括の子。
魯の国人と協力して
懿公を殺害し、
自立して魯の君主となった。
周の
宣王は、
自らが
冊立した
懿公が殺されたことを知り、
大いに怒り、
伯御(はくぎょ)の在位11年(
紀元前796年)、
軍を派遣して魯を討伐し、伯御(はくぎょ)を殺害した。
樊
仲山父の助言により、
武公の3男で懿公の弟の称を魯国の君主に立てた。
伯御(はくぎょ)は諡号を贈られず、廃公(はいこう)と呼ばれた。
12代・孝公
孝公(こうこう、生年不詳 -
紀元前769年)は、
魯の第12代君主。称。
武公の3男。
懿公の弟。
伯御(はくぎょ)亡き後、魯の君主となった。
在位27年(
紀元前769年)に亡くなり、
子の姫弗湟が
恵公としてあとを継いだ。
なお、亡くなったのは在位27年であるが、
紀年は38年となる。
これは、伯御(はくぎょ)の即位が公認されず「伯御の即位元年」が「紀年上の孝公元年」となるため。
子
- 恵公姫弗湟
- 姫益師(字は衆父、衆氏祖
- 姫無駭(字は子展、展氏祖)
- 姫革(郈氏祖、郈恵伯)
- 姫臧(臧孫氏祖、臧僖伯)
13代・恵公
恵公(けいこう、生年不詳 -
紀元前768年)は、
魯の第13代君主。名は弗湟。
孝公の子。
孝公亡き後、孝公のあとを受けて魯の君主となった。
在位46年(
紀元前723年)に亡くなり、
子の姫息姑が
隠公としてあとを継いだ。
兄弟:
- 姫益師(字は衆父、衆氏の始祖)
- 姫無駭(字は子展、展氏の始祖)
- 姫革 (郈氏の始祖、郈恵伯)
- 姫彄 (臧孫氏の始祖、臧僖伯)
妻:
- 孟子(宋女、元正妃)
- 声子(孟子の死後、恵公の后となり、内政を執り、隠公を生んだ。)
- 仲子(宋女)
子女:
- 隠公姫息姑
- 桓公姫允
- 姫尾(字は施父)
- 紀伯姫
- 紀叔姫
14代・隠公
隠公(いんこう、生年不詳 -
紀元前712年)は、
魯の第14代君主。名は息姑。
恵公の庶長子。
恵公が死去すると、
恵公の嫡子姫允(後の桓公)はまだ年が幼かったため、
魯の国人たちは庶長子の姫息姑を立てて摂政させ、
君主の事務を代行させた。
在位11年。隠公は自らを桓公が成長するまでの代行と位置づけて逸脱しなかった。
公子翬が桓公を弑しようと提案したとき、
これを聞いた隠公は断固としてこれを拒絶した。
在位11年(
紀元前712年)、
隠公は公子翬にそむかれて弑された。
隠公が君主を代行していた期間、魯の国力は比較的強かった。
隠公は棠の地で魚を見物して礼に合致していないと批判された事件を除くと、
行政や軍事の処理は比較的慎重で公正であり、
隣国とも修好につとめて、
周囲の滕や薛といった小国は魯の国都に朝拝してきた。
鄭や斉といった強国ともまた友好関係を結んだ。
恵公の嫡子の姫允は隠公の死の翌年(
紀元前711年)、
桓公として即位した。
弟妹:
15代・桓公
桓公(かんこう、?年9月24日 -
紀元前694年4月10日)は、
魯の第15代君主。名は允または軌。
恵公の嫡子で、
隠公の弟。
姫允は、
隠公が公子翬に弑された翌年(
紀元前711年)、
桓公として即位した。
恵公姫弗湟の正夫人の仲子から生まれて、太子に立てられたが、
恵公が世を去ったときにはまだ年が幼く、そこで異母兄の姫息姑(魯の隠公)が即位して摂政した。
紀元前712年に魯の隠公が殺された後、翌紀元前711年に即位。
18年の在位の間、
賢臣として知られる公族の臧孫達(臧哀伯。孝公の孫)を登用して魯を治めるが、
紀元前694年に斉国で不慮の死を遂げてしまう。
『春秋左氏伝』の記載によると、
桓公が夫人の文姜とともに斉国を訪問したとき、
斉の襄公(姜諸児)が文姜と姦通した(文姜は襄公の妹であった)。
それを知った桓公は、
文姜と襄公を指弾するが、
逆に襄公の怒りを買ってしまい、
同年夏4月10日、
襄公が桓公の馬車に同乗させた公子彭生によって、
桓公は車上で暗殺された。
これに憤激した魯国が斉国に圧力を加えると、
襄公は公子彭生に全責任を押し付けて処刑し、責任を回避した。
兄弟:•
隠公姫息姑
• 姫尾(字は施父)
• 紀伯姫
• 紀叔姫
子女:•
荘公姫同
• 慶父(孟孫氏(仲孫氏)祖、共仲)
• 叔牙(叔孫氏祖、僖叔)
• 季友(季孫氏祖、成季)
文姜
文姜(ぶんきょう、生年不詳 -
紀元前673年)は、魯の桓公の夫人。
斉の釐公の娘として生まれた。
兄の襄公と近親相姦の関係にあり、
そのことが夫の桓公に伝わり、
非難を受けるとそのことを襄公に告げた。
襄公は桓公を持て成すふりをして酒に酔わせ、
部下の公子彭生に命じて肋骨を折って殺した。
大国の当主の娘であり妹という境遇もあってのことであろうが、
かなり活発で行動的な女性だったといわれ、
夫や兄が死んでからも度々国外に出、
諸国間の会盟に立ち会ったり、
軍を閲兵するなどの行動もした。
16代・荘公
荘公(そうこう、
紀元前706年 -
紀元前662年)は、
魯の第16代君主。
誕生日が桓公6年(紀元前706年)9月24日であり、
父
桓公と同じ日であったことから、同と名づけられる。
桓公の後を受けて魯国の君主となった。
紀元前694年、
桓公が斉で横死したのを受け、魯公の座に就き、12月に桓公を弔う。
荘公8年(
紀元前686年)、
斉の公子糾と管仲が魯に亡命してきた。
翌年、斉の桓公が兵を発して魯軍を撃破すると、魯は糾を殺害した。
斉は魯に管仲の身柄をよこすよう要求した。
魯の施伯は斉が管仲を重く用いようとしていると見抜き、
魯の不利になるので管仲を殺すよう荘公に勧めたが、
荘公は聞き入れず、管仲を斉にかえした。
荘公13年(
紀元前681年)、荘公は斉の桓公と柯で会合した。
このとき曹沬が桓公を脅し、斉が奪った魯の土地を返還するよう要求した。
桓公が返還を約束すると、曹沬は桓公を釈放した。
桓公は約束を破棄したいと考えたが、管仲の諫めを受けて、魯の土地を返還した。
荘公の夫人の
哀姜は斉の人で、子がなかった。
荘公は死に臨んで庶子の斑(あるいは般と作る)を後嗣に立てようとしたが、
荘公の弟の叔牙が上の弟の慶父を立てるよう主張した。
末弟の季友は斑の立嗣を支持して、
荘公の名により叔牙に毒酒を飲ませて自殺させた。
荘公32年(
紀元前662年)8月5日、荘公は病没する。
享年45。これを受け、季友が斑を立てて魯君とした。
10月、慶父が斑を殺し、荘公の庶子の啓を魯君とした。
...
- 兄弟
-
- 慶父(孟孫氏祖、共仲)
- 叔牙(叔孫氏祖、僖叔)
- 季友(季孫氏祖、成季)
- 后
-
- 哀姜(第14代斉公・襄公の娘?)
- 叔姜(同上・哀姜の妹、閔公の母)
- 孟任(魯の大夫党氏の娘、子斑の母)
- 成風(須句の公女、僖公の母)
- 子女
-
- 子斑(第17代魯公・斑)
- 姫啓(第18代魯公・閔公)
- 姫申(第19代魯公・僖公)
- 公子遂(東門襄仲)
哀姜
哀姜(あいきょう、生年不詳 -
紀元前659年)は、魯の荘公の夫人。
斉の公女として生まれた。
哀姜が斉にいたとき、魯の荘公がたびたび斉を訪れて、哀姜と関係を持った。
紀元前670年8月、哀姜は魯に入国した。
このとき哀姜の捧げた礼物が大夫と同等だったために批判を浴びた。
哀姜は荘公の弟である慶父や叔牙と私通していた。
紀元前662年、
荘公が死去すると、
子斑が魯の国君の位についたが、
慶父が哀姜と謀って、
子斑を党氏で殺害し、
哀姜の妹の叔姜が荘公とのあいだに生んだ公子開(閔公)を国君に擁立した。
紀元前660年、
慶父は卜齮を使嗾して閔公を武闈で殺害し、
自ら国君になろうとした。
しかし慶父は魯人の支持を得られず、莒(きょ)に亡命した。
僖公が即位して、慶父の身柄を莒(きょ)に求めると、慶父は自殺した。
哀姜は慶父を国君に擁立しようとしていたことから、
邾に亡命した。
斉の桓公は哀姜が慶父と乱倫して魯を危うくしていると聞くと、
哀姜を
邾から召し出した。
紀元前659年7月戊辰、哀姜は夷で斉の人に殺害された。
慶父
慶父(けいほ、生年未詳 -
紀元前660年)は、
魯の公子、政治家。
第15代君主桓公の次男。
姓は姫、諱は慶、諡は共。
魯の実質的実権を握った
三桓氏の内の孟孫氏(仲孫氏)の祖。共仲と呼ばれる。
桓公の次男として生を受け、
嫡兄の
荘公の重臣となり、
他の兄弟の叔牙(僖叔)・季友(成季)と共に代々
三桓氏として魯の実権を握った。
しかし、慶父は2代続けて魯公を弑殺したことで魯の大夫の支持を失ってしまい、
隣国莒(きょ)(中国語版)へと亡命する羽目に陥ってしまう。
その後、第19代魯公となった公子申こと
僖公や、
宰相となった
季友によって、慶父は強制送還させられる。
その際慶父は、僖公や季友に対し減刑を嘆願するが、
魯を混乱に陥れた元凶として却下され、
これに絶望した慶父は首を吊って自害した。
死後、「共」を諡され、共仲と呼ばれる。
...
紀元前686年、慶父は魯軍を率いて斉軍と共に郕を包囲したが、
郕が自分達魯軍を差し置いて斉軍に降伏した事に激怒し、
斉軍を攻撃しようとして兄の
荘公に止められたり、
あるいは荘公夫人の
哀姜(斉の桓公の姪)と密通するなど、
恐れを知らぬ傍若無人な公子であった。
紀元前662年、当時危篤だった荘公の後継として、
慶父は三弟の
叔牙の推挙を受けるが、
公子斑(のちの魯国17代君主
斑)を推挙していた四弟の
季友に叔牙を自害させられたため、
有力な与党を失った慶父は次期魯公候補から脱落してしまう。
紀元前662年8月5日に荘公が没し、
第17代魯公の座に荘公の子である公子斑が即位するが、
その直後に慶父は公子斑を暗殺し、
密通相手の哀姜の妹の叔姜の子で、
公子斑の異母弟の公子啓(後の
閔公)を第18代魯公として擁立した。
この後、政敵の季友が陳に亡命したことで、
慶父は閔公の宰相として魯の最高権力を握ることとなった。
しかし、閔公が斉の桓公に季友を魯に帰国させる事を訴え、
自ら季友を迎えに行ったことから、
慶父は閔公が擁立者の自分よりも季友を信頼していたことに激怒し、
哀姜の示唆もあって、自らが魯公になる決意を固め、
紀元前660年に
閔公も暗殺してしまう。
叔牙
叔牙(しゅくが、生年未詳 -
紀元前662年)は、
魯の公子、政治家。第15代君主桓公の三男。
姓は姫、諱は牙、諡は僖。
魯の実質的実権を握った
三桓氏の内の叔孫氏の祖。僖叔と呼ばれる。
魯(現:中国
山東省南部)の第15代君主
桓公の三男として生を受け、
嫡兄で第16代君主
荘公の重臣となり、
他の兄弟の
慶父・
季友と共に代々
三桓氏として魯の実権を握った。
しかし、華やかな経歴が伝わる慶父や季友と違い、
慶父と親しかったことや最期の場面を除いて、叔牙の逸話は大変乏しい。
紀元前662年、
当時危篤だった荘公の後継として、
叔牙は次兄の慶父を擁立する動きを見せるが、
公子斑を薦める季友に、子孫の無事と引き換えに自害を迫られる。
機先を制せられたことを悟った叔牙は観念し、毒酒を飲んで自害した。
死後、「僖」を諡され、僖叔と呼ばれる。
叔牙の子孫は季友の約束どおり咎めは受けず、
三桓氏の一つである叔孫氏として隆盛を誇った。
季友
季友(きゆう、生年未詳 -
紀元前644年)は、魯の公子、政治家。
第15代君主
桓公の四男。
姓は姫、諱は友、諡は成。
魯の実質的実権を握った
三桓氏の内の季孫氏の祖。
成季、もしくは季成子と呼ばれる。
魯(現:中国
山東省南部)の第15代君主
桓公の四男として生を受け、
嫡兄で第16代君主
荘公の重臣となり、
他の兄弟の
慶父(共仲)・
叔牙(僖叔)と共に代々
三桓氏として魯の実権を握った。
季友の名は、誕生時、
掌線に(
篆書の)「友」の字が見えたことに由来する。
更に、その際の占いで「公室の柱石を担う人で、彼がいなければ魯は栄えない」と極言される。
前644年3月に魯で生涯を終えた。
死後、「成」を諡され、成季、あるいは季成子と呼ばれる。
なお、子の季孫無軼は季友に先立って病没したため、
孫の季孫行父(季文子)が季友の後を継いだ。
季友の子孫は季孫氏として、
三桓氏の中で最も隆盛を誇った。
...
存命中の
紀元前669年・
紀元前667年に母の故郷である陳を訪問し、
親交を深める。
また、
紀元前662年には、
三兄の
叔牙が、
当時危篤だった
荘公の後継として次兄の
慶父を擁立する動きを見せたのに対し、
季友は叔牙に毒の入った酒を盛って自害に追い込み、
自らの地位を確立した。
紀元前662年8月5日に荘公が没し、
第17代君主の座に荘公の子である公子斑を擁立するが、
魯公となった子斑を慶父が殺し、
その異母弟の公子啓(後の
閔公)を擁立したため、
季友は陳に一時亡命することとなった。
その後、閔公が斉の桓公に季友を魯に帰国させる事を訴え、
桓公はこれを承諾し、季友は帰国した。
その際、閔公自ら季友を迎えに来たことから、
季友は閔公からも絶大な信頼を得ていたことがうかがえる。
しかし、
紀元前660年に魯公の座を狙っていた慶父が閔公も暗殺した為に、
季友は公子申(後の第19代君主
僖公)と共に今度は別の隣国の
邾に亡命することとなった。
しかし、慶父は2代続けて魯公を弑殺したことで魯の大夫の支持を失い、
隣国莒(きょ)へと亡命したため、季友は公子申と共に帰国を果たし、
彼を魯公として擁立する。
その後強制送還された慶父を自害に追い込んだ後に、
公子申こと僖公から魯の宰相に任ぜられた。
そして、斉との友好に尽力し、魯公の座をめぐり混乱した魯の国勢を建て直した。
三桓氏
三桓氏(さんかんし)は、
魯の第15代君主
桓公の子孫の孟孫氏(仲孫氏)・叔孫氏・季孫氏の事を指す。
魯の第15代桓公の子に生まれた3兄弟の
慶父・
叔牙・
季友は、
後に嫡兄の第16代
荘公の重臣となり、
- 慶父は孟孫氏(仲孫氏)の祖。
- 叔牙は叔孫氏の祖
- 季友は季孫氏の祖
にそれぞれ分かれて代々魯の実権を握る事となる。
中でも特に権力を極めたのが季孫氏である。
魯の第25代
昭公が、
紀元前517年に季孫氏当主の季孫意如を攻めるが、
逆に三桓氏の軍事力に屈し、国外追放された。
また、魯の第26代
定公が就任してから8年目の
紀元前502年に、
季孫氏の有力家臣であった陽虎が叔孫氏・孟孫氏(仲孫氏)の家臣を従えて、
三桓氏の君主を追放する反乱を起こしたが陽虎は敗れ、
国外追放された。
紀元前498年(定公12年)、
季孫氏の宰であった子路は三桓の居城の破壊を命じたが、成功しなかった。
定公の次の哀公は三桓氏を除こうとして失敗し、魯から追放されて、越の地で死亡した。
その後、三桓氏は悼公を立てたが、もはや魯公の力はきわめて弱いものになっていた。
17代・斑
子斑(しはん、生年不詳 -
紀元前662年)は、
魯の第17代君主。
名は斑。『春秋左氏伝』は名を般とする。
荘公の子で、
荘公のあとを受けて魯の君主となった。
荘公の夫人の哀姜には子がなかったので、
荘公の死の直前に庶子の斑を後継に立てようとした。
荘公の三弟の
叔牙は、
次弟の
慶父を立てようとしたが、
四弟の
季友が斑の立嗣を支持し、
荘公の名をもって叔牙に迫って毒酒を飲ませ自殺させた。
紀元前662年8月、
荘公が病没すると、
季友が斑を魯の君主に立てた。
10月、
慶父が斑を殺害し、
荘公の庶子の啓を魯の君主に立てた(
閔公)。
季友は陳国に逃亡した。
18代・閔公
閔公(びんこう、生年不詳 -
紀元前660年)は、
春秋時代の魯の君主。
『春秋左氏伝』では「閔公」であるが、『
史記』では「湣公」と表記される。名は啓。
荘公の子で、
慶父が斑を殺害し、
荘公の庶子の啓を魯の君主に立てた(
閔公)。
閔公は荘公の子だが、
次期魯公は
季友が推す庶子の公子斑が有力視されていたため、
公位の対象外にあった。
しかし、
紀元前662年に荘公が没した直後に魯公となった斑を慶父が暗殺し、
慶父の推挙を受けて翌
紀元前661年魯公の座に就く。
その後、斉に亡命していた季友を呼び戻すために、
斉の桓公に季友の帰国を働きかけ、首尾よく実現させる。
その際に閔公自らが帰国途中の季友を迎えに行ったことから、
閔公は季友を慶父以上に信頼していたことがうかがえる。
だが、
紀元前660年に魯公の座を狙っていた慶父によって、
暗殺されてしまう。
在位はわずか2年で、正に慶父に振り回された人生であった。
代・僖公
僖公(きこう、生年不詳 -
紀元前659年)は、
魯の第19代君主。
『春秋左氏伝』では「僖公」であるが、『
史記』では「釐公」と表記される。
名は申。
献公の子で、
荘公の庶子で、閔公の後を受けて魯国の君主となった。在位33年。
在位33年(
紀元前627年)に亡くなり、
子の姫興が
文公としてあとを継いだ。
20代・文公
真公(しんこう、生年不詳 -
紀元前825年)は、
魯の第8代君主。名は濞。
献公の子で、
献公のあとを受けて魯の君主となった。
在位30年(
紀元前825年)に亡くなり、
弟の姫敖が
武公としてあとを継いだ。
21代・宣公
宣公(せんこう、生年不詳 -
紀元前591年)は、
魯の第21代君主。名は俀。
文公の子で、
文公のあとを受けて魯の君主となった。
在位18年(
紀元前591年)に亡くなり、
子の姫黒肱が
成公としてあとを継いだ。
文公は正夫人の姜氏との間に2人の公子があったが、
東門襄仲(公子遂、荘公の子)が文公の第二夫人の敬嬴と私通しており、
姜氏の2人の公子を殺して敬嬴の子の俀を立てた。
姜氏は実家の斉に帰った。
当時はすでに
三桓氏が政治の実権を握っており、
襄仲の子の公孫帰父は晋の力を借りて三桓氏を除こうとしたが、
晋に滞在中に宣公が亡くなったために失敗した。公孫帰父は斉に逃れた。
22代・成公
穆姜
穆姜/繆姜
ぼくきょう
| | |
国姓 | : | 姫 |
死去 | : | 紀元前564年 |
配偶者 | : | 宣公 |
子女 | : | 成公姫黒肱 |
| | 伯姫 |
氏族 | : | 姜姓呂氏 |
出身国 | | 斉 |
| | |
穆姜(ぼくきょう、生年不詳 -
紀元前564年)は、
繆姜ともいい(『列女伝』?嬖伝「魯宣繆姜」)、
魯の
宣公の夫人で、
成公の母。
斉の公女として生まれた。
紀元前608年、
魯の宣公にとついで夫人となった。
のちに成公と伯姫を生んだ。
...
宣公の弟の叔肸とその妻とのあいだに叔嬰斉(子叔声伯)が生まれたが、
叔肸とその妻が正式な婚礼を挙げていなかったことから、
穆姜は「妾を義理の妹とするわけにいかない」と言って叔肸の妻を追放した。
紀元前582年、
穆姜の娘の伯姫が宋の共公にとつぐにあたって、
季孫行父(季文子)が伯姫を宋に送って帰国した。
穆姜は房から出て再拝し、
季孫行父の忠勤に感謝を述べ、『詩経』邶風「緑衣」の終章を歌った。
ときに穆姜は叔孫僑如と私通していた。
紀元前575年、
叔孫僑如と穆姜は共謀して季孫行父と仲孫蔑(孟献子)を追放し、
魯国を専断しようと図った。
晋と楚が鄢陵で戦うにあたって、
成公は晋の援軍として出陣しようとしていた。
出発にあたって穆姜は季氏と孟氏を追放するよう成公に求めたが、
成公は「帰ってから言うことを聞こう」といって断った。
叔孫僑如は晋の郤犨に賄賂を贈って、
晋が季孫行父を逮捕し、叔孫僑如が仲孫蔑を殺し、
魯は晋に仕える内臣となる密約を結んだ。
陰謀は発覚して、叔孫僑如は追放され、斉に亡命した。
穆姜は自分が亡くなったときのために立派な檟(ひさぎ。ノウゼンカズラ科の落葉高木。)を選んで柩(ひつぎ)を作らせていたが、
紀元前571年に斉姜が死去すると、
穆姜を憎んでいた季孫行父にその柩を取りあげられて、
斉姜の葬儀に使われた。
紀元前564年5月辛酉、
穆姜は魯の東宮で死去した。
代・襄公
襄公(じょうこう、
紀元前575年 -
紀元前542年)は、
魯の第23代君主。
名は午。
成公の子。
成公18年(
紀元前573年)、
成公が死去すると、
3歳の姫午が君主の位についた。これが魯の襄公である。
襄公は季孫行父を丞相として、魯国の安定をはかった。
襄公5年(
紀元前568年)、
大臣の季孫行父が死去したとき、
季孫行父は薄葬をもって葬儀を進めるよう遺言しており、
襄公はこれに感動して季孫行父を廉吏とたたえ、
季孫行父の諡号を「文」(季文子)とした。
襄公21年(
紀元前552年)、
襄公は自ら晋の平公のもとに朝拝した。
襄公31年(
紀元前542年)、
襄公は死去し、太子の姫野が即位した。
24代・魯公野
魯公野(ろこうや、? -
紀元前542年)は、
魯の第24代君主。名は野。
襄公の長子で、
昭公の異母兄。
魯の襄公三十一年(
紀元前542年)6月、
襄公が
薨去すると、太子野が即位した。
しかし同年の9月、魯公野は突然死した。
後に魯の国人たちは襄公と斉帰の間の子である公子稠を君主とした。
これが魯の昭公である。
25代・昭公
26代・定公
定公(ていこう、生年不詳 -
紀元前495年)は、
魯の第26代君主。
名は宋。
襄公の子で、
昭公の弟。
昭公が晋の乾侯で客死すると、その後を受けて魯国の君主となった。在位15年。
定公の時代の魯では陽虎が実権を握ったが、
その後、三桓氏を排除しようとして失敗し、
陽虎は最終的に晋の趙鞅のもとへ出奔した。
27代・哀公
哀公(あいこう、生年不詳 -
紀元前467年)は、
魯の第27代君主。
名は将。父は魯の第26代君主
定公。
「哀」は若くして没した王に送られる諡号。
紀元前494年、
父の定公に代わり第27代君主に即位した。
紀元前487年に隣国の呉に攻められるも奮戦し、
和解した。その後斉に攻められ敗北した。
紀元前485年には呉と同じく斉へ攻め込み大勝した。
紀元前484年にはまた斉に攻められ、
紀元前483年に、
当時斉の君主であり、
権力を誇っていた簡公討伐に、
魯の曲阜生まれの儒学者の孔子が進軍を勧めるが実現しなかった。
紀元前481年、
斉の簡公が宰相の田恒に弑殺されたのを受けて、
孔子が再び斉への進軍を3度も勧めるが、哀公はこれを聞き入れなかった。
紀元前471年に哀公は晋と同じく斉へ指揮官として進軍した。
28代・悼公
悼公(とうこう、生年不詳 -
紀元前467年)は、魯の第28代君主。名は寧。
哀公の子で、哀公の後を受けて魯国の君主となった。
在位31年。
魯国の政権は
三桓といわれた季孫氏・孟孫氏・叔孫氏が掌握した。
29代・元公
元公(げんこう、生年不詳 -
紀元前416年)は、
魯の第29代君主。名は嘉。
悼公の子で、悼公の後を受けて魯国の君主となった。
在位21年。
魯国の政権は
三桓といわれた季孫氏・孟孫氏・叔孫氏が掌握した。
30代・穆公
穆公元年(
紀元前415年)、
穆公は改革を実行するため、博士の公儀休を魯の相に任命し、
三桓氏から政権を奪回すべく、親政を開始した。
季孫氏はその封邑の費・卞・東野に拠って独立した小国となっていた。
穆公4年(
紀元前412年)、
斉が魯の莒(きょ)と安陽(現在の山東省陽穀県の北東)を攻撃したので、呉起を将として、斉軍を破った。
穆公5年(
紀元前411年)、
呉起が魏に亡命した。斉が魯を討って都を取った。
穆公8年(
紀元前408年)、
斉が魯の郕を取った。
穆公22年(
紀元前394年)、
斉が魯を討ち、郕を取った。韓が魯を救った。
穆公26年(
紀元前390年)、
魯が斉を平陸で破った。
31代・共公
共公(きょうこう、? -
紀元前353年)は、
魯の第31代君主。名は奮。
穆公の子で、
穆公の後を受けて魯国の君主となった。在位30年。
共公10年(
紀元前373年)、
斉の田午が田剡を殺害して自立すると、
魏が斉を討つため博陵に進軍したため、
魯国も斉を討つために陽関に進軍した。
共公27年(
紀元前356年)、
宋の桓公・衛の成侯・韓の昭侯とともに魏に朝覲した。
楚の
宣王と酒を飲んで宣王の不興を買い、このため楚は斉と結んで魯を攻撃した。
32代・康公
康公(こうこう、生年不詳 -
紀元前344年)は、
魯の第32代君主。名は屯。
共公の子で、
共公の後を受けて魯国の君主となった。在位9年。
33代・景公
景公(けいこう、生年不詳 -
紀元前323年)は、
魯の第33代君主。名は匽。
康公の子で、
康公の後を受けて魯国の君主となった。在位21年。
34代・平公
平公(へいこう、生年不詳 -
紀元前303年)は、
魯の第34代君主。名は叔。『世本』は名を「旅」とする。
景公の子で、
景公の後を受けて魯国の君主となった。在位20年。
35代・文公
文公(ぶんこう、生年不詳 -
紀元前280年)は、
魯の第35代君主。名は賈。
平公の子で、
平公の後を受けて魯国の君主となった。
在位23年。
『世本』は「緡公」とし、『漢書』人表は「愍公」とし、律暦志は「緡公」とする。
36代・頃公
頃公(けいこう、生年不詳 -
紀元前249年)は、
魯の最後の君主。名は讎。
文公の子で、
文公の後を受けて魯国の君主となった。
頃公2年(
紀元前278年)、
秦が楚の首都の郢を陥落させ、楚の頃王は陳に東遷した。
頃公19年(
紀元前261年)、
楚が魯を討って徐州を奪った。
頃公24年(
紀元前256年)、
魯国は楚の考烈王のために滅ぼされ、頃公は下邑にうつされ、
莒(きょ)の地に魯君として封じられた。
後7年(
紀元前249年)、
頃公は柯(現在の山東省東阿県)で死去し、魯国の祭祀は絶えた。