東周時代の一覧
作成日:2023/1/21
平王(へいおう) 東周初代王
平王(へいおう)。周朝第13代王(東周初代王)。生没年:不詳 -
紀元前720年
平王は、周朝の第13代王。
平王の時代より周は東周と称されるようになる。
子は太子洩父、王子狐、王子烈ら。
宜臼は元来幽王の太子であったが、
褒姒が後宮に入り寵愛を受け、
伯服(伯盤)を儲けると、廃太子され、宜臼は申へ逃れた。
母であり同じく廃后された申后の父である申侯はこれに怒り、
幽王が悪戯で
烽火を用い諸侯を集め、
それにより諸侯の信頼を失っていた機に乗じ、
西方の
犬戎と協力して幽王を攻撃した。
紀元前771年、
幽王と伯服は驪山において殺害され、
褒姒も
犬戎により連れ去られ、ここに西周は滅亡した。
父幽王が非業の死を遂げた後は、
廃太子されていた宜臼は外祖父の申侯、
繒侯、許の文公、従父の鄭の武公などの諸侯によって、
申にて即位させられた。
しかし、都城である
鎬京は戦乱で荒廃していたため、
紀元前770年に
洛邑(現在の洛陽)の王城に
遷都し、
東周が始まった。
以後も
鎬京には叔父である
携王一派が存在しており、
紀元前759年にこれを倒し、
東西分裂していた周を統一した。
平王は51年の在位の後に崩御した。
太子洩父は夭折しており、
長男・洩父の子である姫林が王太孫となり、
祖父の後を継いで王位を継承した(
桓王)。
親族
- 祖先
-
- 兄弟
-
- 妻
-
- 子
-
-
長男:姫洩(姫泄、姫泄父)。
-
次男:姫狐(王子狐)。
紀元前720年。郑庄公・怨王,鄭国と人質として交換された。
太子洩父の死後、太子となった。
父平王の病死後、鄭から故郷に戻り即位の準備をした。
しかし、彼は宮廷に戻った後、悲しみのあまり病死した。
- 末子:姫武(武姓の始祖、武則天の先祖)
太子洩父 平王の子
太子洩父(せつぼ)。
姓は姫。
平王の太子。
「泄」は「洩」の古語。「洩父(泄父)」は尊称である。
周朝第14代王・
桓王の父親。
早逝で、父平王の存命中に逝去した。
そのため、
紀元前720年に平王が崩御したときには、
太子洩父の子である姫林が
桓王として即位した。
桓王(かんおう) 東周2代王
桓王(かんおう)。周朝第14代王(東周2代王)。生没年:不詳 -
紀元前697年。
太子洩父の子。
父が即位前に早世していたため、
王太孫に定められ、
祖父の平王が崩御すると継いで即位した。
叔父に姫烈、姫狐(太子洩父の弟)がいる。
即位した後、諸侯の力を弱め、相対的に王権を強化する政策を実行した。
また周領と鄭の領地が接しており、
鄭が境界線を越えて黍(稷、キビ)を収穫したことから、
族祖父(祖父の又従弟)にあたる鄭の荘公を卿士の職位より罷免し、
これに不満を持った荘公は一切朝見を行わなくなり、
周と鄭の関係も悪化している。
紀元前707年、
桓王は蔡、衛、陳と連合して鄭を攻撃したが撃退されてしまい、
周王室の力の衰えを露呈する形になってしまった。
桓王が王権の強化に努めたが、
周王室の衰退はとどまらず、
諸侯間の紛争を阻止する影響力を失った。
紀元前697年、桓王は崩御し、子の姫佗(
荘王)が王位を継承した。
しかし、
桓王は少子の儀叔克(姫克)を溺愛していたため、
太子の姫佗が即位すると、
王族の周公黒肩が儀叔克を擁立し、
兄弟による相続争いに発展してしまった。
親族
- 祖先
-
- 妻
-
-
后妃:紀季姜。生没年:不詳。
紀國君主の娘。姓は姜。諡號は季姜。
紀元前704年(桓公8年)、周王朝は紀國に僧侶を派遣し紀季姜を娶りました。
紀元前703年(桓公9年)の初月、紀季姜は都である洛邑に到着し、周の項王と結婚して王妃となった。
- 子
-
-
周庄王(周莊王)洩佗。
姓・名:姫佗。別名:周庄王。没年:紀元前682年。
事績:「王子克の乱」平定。
-
次男:王子克。
姓は姫。名は克。またの名を子仪(子儀)。
周王朝第14代王(東周第2代王)桓王姫林の子。
周王朝第15代王(東周第3代王)莊王の弟。
「王子克の乱」
-
娘:周王姫(嫁斉襄公)。
桓王の子である荘王の項には「姉妹:周王姫」と書いてあり、
百度百科で周王姫を検索すると荘王の姉妹と書いてある。
しかし、桓王の子とは書いていない。なぜ?。
荘王(そうおう) 東周3代王
荘王/莊王(そうおう)。周朝の第15代王(東周3代王)。生没年:不詳 -
紀元前682年。
桓王の子。姫佗(
釐王)、弭叔頽(姫頽)らの父。
紀元前694年、
王族の周公
黒肩が荘王を弑し、
その弟の儀叔克(姫克)を擁立する計画が露見した。
荘王は大夫辛伯に命じ、
そのため黒肩は殺害され、
儀叔克は南燕(現在の河南省延津県)に逃れた。
側室の姚氏が産んだ弭叔頽を溺愛し、
太子の姫胡斉(
釐王)を疎んじたが、
結局は太子がその後を継いだ(しかし、孫の恵王の代に弭叔頽は自ら周王と称した)。
親族
- 祖先
-
- 兄弟
-
- 妻
-
- 子
-
- 長男:周朝第16代王(東周第4代王)釐王姫胡斉
-
王子颓(生没年:紀元前696年 - 紀元前673年)
姓・名:姫・颓。荘王の庶子。釐王姫胡斉の弟。
紀元前675年、王子颓は5人の大官と一緒に兄の釐王に反旗を翻し、
釐王を追放して自らが周王朝の王となった。
紀元前673年、
鄭・郭の両国は周王朝の都に侵入し、
衰えた王子颓と五大官僚を殺害し、
釐王が復位した。
この出来事は「王子颓の乱(子颓の乱)」と呼ばれた。
-
黒肩
黒肩(こくけん) 生没年:不詳 -
紀元前694年
周公黒肩は、東周初期の周公。姓は姫。
周の王族の一員で、周公旦の後裔とされる。
紀元前707年、
周の桓王が諸侯を率いて鄭を攻撃したとき、
黒肩は周の左軍を率いた。
この繻葛の会戦は周の敗北に終わった。
紀元前694年、黒肩は周の荘王を殺害して王子克を立てようと計画した。
辛伯がこのことを荘王に告げると、黒肩を誅殺した。
王子克は燕に亡命した。
釐王(きおう) 東周4代王
釐王(きおう)。周朝の第16代王(東周4代王)。生没年:不詳 -
紀元前677年。
荘王の長男。中国春秋時代の周の王。
父荘王は、
側室の姚氏が産んだ弭叔頽を溺愛し、
太子の姫胡斉を疎んじたが、
結局は太子がその後を継いだ(しかし、孫の恵王の代に弭叔頽は自ら周王と称した)。
紀元前682年、
荘王が死去すると、姫胡斉は後を嗣いで周王として即位した。
釐王は文武の制度を変更し、
黒と黄の華麗な飾りを作り、
宮室を広壮にし、
輿や馬を贅沢なものにしたため、
孔子に非難されたと伝わる。
紀元前678年、
釐王は
虢公を派遣して曲沃の武公に策命し、晋侯に封じた。
紀元前677年、
釐王は死去し、子の姫閬(
恵王)が後を嗣いだ。
諡号の「釐王」は『
史記・周本紀』による。
『
春秋左伝正義』昭公26年所引『世本』によると諡号は「僖王」。
恵王(けいおう) 東周4代王
恵王(けいおう)。周朝の第17代王(東周5代王)。生没年:不詳 -
紀元前652年。
釐王の子。中国春秋時代の周の王。
没年は『
史記』周本紀による。
『春秋左氏伝』では
紀元前653年。
釐王5年(
紀元前677年)、
父王が崩御し、その後を継いだ。
恵王元年(
紀元前676年)に即位すると、
田地で野獣を飼育するなど国人の不満を引き起こしたため、
翌年(
紀元前675年)秋、
辺伯・石速・詹父・子禽・祝跪の5人の大夫は叛乱を起こし、
燕と衛の軍を招き寄せて恵王を撃った。
恵王は温(現在の河南省温県南部)に逃れ、
鄭の厲公は櫟(現在の河南省禹州市)で恵王を迎えた。
冬、祖父・荘王の妾(姚氏)の子で、
叔父の弭叔頽(姫頽)が王に即位した。
恵王4年(
紀元前673年)、
鄭は遠縁の
虢と協力して弭叔頽を誅殺し、
恵王を復位させた。
その後、鄭は恩賞として虎牢(現在の河南省滎陽市汜水鎮)以東の地を与えられ、
同様に
虢に対しても領地が下賜された。
恵王10年(
紀元前667年)、
恵王は斉の桓公に伯の位を賜う。
恵王25年(
紀元前652年)、
恵王は崩御した。
襄王(じょうおう) 東周6代王
襄王(じょうおう)。周朝の第18代王(東周6代王)。生没年:不詳 -
紀元前619年。
恵王の子。
父王は前妻の死後、
後妻(恵后)との間に生まれた姫帯(叔帯、甘昭公)を寵愛したので、
襄王は王位継承が異母弟にいくのではないかと恐れていた。
恵王25年(
紀元前652年)、
恵王が崩御した。
襄王は恵王崩御の喪を伏せると同時に斉に使者を送り、
その支援を得て即位した。
襄王3年(
紀元前649年)、
叔帯は戎・翟と謀って襄王を攻撃した。
襄王は叔帯を誅殺しようとしたが、叔帯は斉に逃げた。
斉の桓公は管仲に周と戎を和解させ、隰朋(しゅほう)に晋と戎を和解させた。
襄王12年(
紀元前640年)、
叔帯は周に復帰した。
襄王13年(
紀元前639年)、
鄭は滑を征伐し、
襄王は游孫伯・伯犕を遣わして、
滑の地を献上するよう請うたが、
鄭は二人を捕えてしまう。
襄王は怒って、鄭を征伐しようとした。
文官の富辰が諫めたが、
襄王は聞かず、翌年(
紀元前637年)、
襄王は翟軍を率いて鄭を征伐した。
襄王はこの時、翟人の娘(翟后)を娶った。
襄王16年(
紀元前636年)、
襄王が翟后を退けたため、翟后は怒り、
恵后の子の叔帯を立てようと考え、
恵后と翟后・叔帯は内応し、
戎・翟を迎え入れて襄王を放逐し、
叔帯を天子に即位させた。襄王は鄭に出奔し、汜に住まわせた。
襄王17年(
紀元前635年)、
襄王は晋に救援を求めた。
晋の文公が戎・翟を放逐して叔帯を誅殺したので、
襄王は復位することができた。
襄王は晋の文公に伯の位と河内の地を与えた。
襄王32年(
紀元前620年年)、
襄王が崩御し、子の壬臣(
頃王)が立った。
頃王(けいおう) 東周7代王
頃王(けいおう)。周朝の第19代王(東周7代王)。生没年:不詳 -
紀元前613年。
姓は姫、名は壬臣。
襄王の子。
紀元前619年8月、
襄王が死去すると、頃王は後を嗣いで周王として即位した。
紀元前618年春、
頃王は毛伯衛を魯に派遣して、襄王の葬儀費用の負担を求めた。
紀元前613年春、
頃王は死去し、子の姫班(匡王)が後を嗣いだ。
ときに周公閲と王孫蘇が周の政権を争っていたため、訃告がなかった。
子女
- 姫班(匡王)
- 姫瑜(定王)
-
姫季子(劉康公)。姓は姫。氏は劉。名は季子。
東周の諸侯国である劉国の建国の祖。
定王15年、
劉康公の称号を与えられ、劉康公と呼ばれるようになった。
匡王(きょうおう) 東周8代王
匡王(きょうおう)。周朝の第20代王(東周8代王)。生没年:不詳 -
紀元前607年。
姓は姫、名は班。
頃王の子。
紀元前613年春、
頃王が死去すると、
匡王は後を嗣いで周王として即位した。
周公閲と王孫蘇が周の政権を争った。
周公閲が晋の裁定を求めると、
匡王は王孫蘇との約束に背き、
尹氏と聃啓に命じて晋に対して周公の立場を弁護させた。
晋の趙盾が両者の争いを調停した。
この年、子叔姫の帰国を求める魯の東門襄仲(公子遂)の依頼を受けて、
匡王は単伯を斉に派遣したが、
単伯は斉に抑留された。
紀元前612年、
斉は単伯を釈放し、
匡王の命に従って子叔姫を魯に帰した。
紀元前607年10月乙亥、
匡王は死去し、弟の姫瑜(
定王)が後を嗣いだ。
定王(ていおう) 東周9代王
定王(ていおう)。周朝の第21代王(東周9代王)。生没年:不詳 -
紀元前586年。
姓は姫、名は瑜。
頃王の子。
紀元前607年10月乙亥、
兄の
匡王が死去すると、
定王は後を嗣いで周王として即位した。
紀元前606年春、
楚の荘王が大軍を率いて陸渾の戎を討ち、洛水に達した。
定王が王孫満を派遣してねぎらわせると、
荘王は周の
九鼎の軽重を訊ねた。
王孫満は天命がまだ革まっていないとして、
回答を拒否したので、
荘王はあきらめて楚軍を撤兵させた。
紀元前603年夏、
定王は子服を派遣して斉に王后を求めさせた。
冬、召桓公が斉から王后を迎えた。
紀元前600年、
定王は使者を魯に派遣した。
魯の仲孫蔑が使節として周に赴いた。
紀元前599年、
定王は弟の劉康公を魯に派遣した。
紀元前593年、
晋の景公が士会を派遣して周王室の内紛を調停させた。
定王は士会を饗応した。
紀元前592年、
定王は弟の姫季子を劉邑に封じた。姫季子は劉の康公を称した。
紀元前586年11月己酉、
定王は死去し、子の姫夷(
簡王)が後を嗣いだ。
簡王(かんおう) 東周10代王
簡王(かんおう)。周朝の第22代王(東周10代王)。生没年:不詳 -
紀元前572年。
姓は姫、名は夷。
定王の子。
紀元前586年11月己酉、
定王が死去すると、簡王は即位した。
紀元前580年、
周公楚が伯輿と政権を争って敗れ、出奔した。
簡王は劉子を派遣して鄄で周公と盟を交わさせ、呼び戻した。
しかし3日後、周公は晋に亡命した。
この年、晋の郤至が周と鄄の田土を争ったため、
簡王は劉康公と単襄公に命じて晋の厲公に訴えさせた。
紀元前573年、
晋の欒書と中行偃が主君の厲公を殺害した。
周子(悼公)が留学先の成周から迎えられて晋の国君に立てられた。
紀元前572年9月辛酉、
簡王は死去し、子の姫泄心(
霊王)が即位した。
霊王(れいおう) 東周11代王
霊王(れいおう)。周朝の第23代王(東周11代王)。生没年:不詳 -
紀元前545年。
姓は姫、名は泄心。
簡王の子。
紀元前572年9月、
簡王が死去すると、霊王は即位した。
紀元前568年、
霊王は王叔陳生を晋に派遣して、
周室が戎に圧迫されていると訴えさせた。
晋は王叔陳生を拘束した。
紀元前563年、
王叔陳生と伯輿が政権を争ったが、
霊王は伯輿に味方した。
王叔陳生は晋に亡命した。
紀元前561年、
霊王は斉に王后を出すよう求めた。
紀元前552年、
晋の欒盈が成周を通過したとき、
成周の西郊で略奪に遭った。
欒盈が周の行人に訴えると、
霊王は司徒に命じて略奪品を返還させ、
欒盈を送り出させた。
紀元前549年、
斉に郟を築城させた。
紀元前547年、
晋の韓起と面会した。
紀元前545年11月癸巳、
霊王は死去し、子の姫貴(
景王)が即位した。
霊王の子に太子晋・王子佞夫・姫貴(景王)・姫還・姫姑・姫潑・姫弱・姫鬷・姫延・姫定・姫稠・姫趙車らがいたが、
その多くは戦乱に巻き込まれて殺害された。
景王(けいおう) 東周12代王
景王(けいおう)。周朝の第24代王(東周12代王)。生没年:不詳 -
紀元前520年。
姓は姫、名は貴。
霊王の子。
紀元前545年11月、
霊王が死去すると、景王は即位した。
紀元前541年、
景王は劉定公を派遣して趙武(趙文子)を潁でねぎらわせた。
紀元前533年、
景王は賓滑を派遣して甘の大夫襄を逮捕した。
紀元前531年、
景王は単成公を厥憖の会に派遣し、晋の韓起(韓宣子)と会合させた。
紀元前527年、
景王の太子の寿が死去した。
紀元前521年、景王は無射という大鐘を鋳造した。
景王は王子朝とその傅役の賓孟を気に入っており、
景王と賓孟は王子朝を太子に立てようとしたが、
劉献公の庶子の劉文公が賓孟を憎み、
これに反対していた。
紀元前520年4月、
景王が単穆公と劉献公を殺害しようと計画していたところ、
心臓の病のため栄錡氏の邸で死去した。
3日後に劉献公が死去し、
劉文公が後を嗣いだ。
単穆公と劉文公は悼王を擁立した。
6月の景王の葬儀のときに王子朝は反乱を起こすこととなった。
悼王(とうおう) 東周13代王
悼王(とうおう)。周朝の第25代王(東周13代王)。生没年:不詳 -
紀元前520年。
姓は姫、名は猛。
景王の子。
紀元前520年4月、
景王が死去すると、
単穆公と
劉文公によって悼王が擁立された。
6月、景王の葬儀がおこなわれると、
景王の庶長子の王子朝が悼王即位によって職秩を失った者や
霊王や景王の一族を引き入れて反乱を起こした。
劉文公は劉に逃れ、単穆公は平畤に逃れたが、
王子たちが追撃してくると反撃した。
王子朝は京に逃れ、劉文公は悼王とともに王城に入った。
鞏簡公が京で王子朝の軍に敗れ、甘平公もまた敗れた。
単穆公は晋に危急を伝えた。
7月、単穆公は悼王とともに平畤に向かい、
さらに圃車に向かい、
皇に宿営した。劉文公は劉に赴いた。
単穆公は王子処に王城を守らせ、
平宮で百工たちと盟を交わした。
王子朝側の鄩肸が皇を攻撃したが大敗し、
鄩肸は捕らえられ、王城の市で焼き殺された。
8月、司徒丑が悼王の軍を率いて前城で戦って敗れた。
百工が反乱側に加担し、単氏の宮を攻撃して敗れた。
単穆公は反撃し、東圉を攻めた。
10月、晋の籍談・智躒が軍を率いて悼王を王城に入れた。
単穆公と劉文公は悼王の軍を率いて郊前で戦って敗れた。
11月、悼王は暗殺され、敬王が即位した。
敬王(けいおう) 東周14代王
敬王(けいおう)。周朝の第26代王(東周14代王)。生没年:不詳 -
紀元前476年。
姓は姫、名は匄。
景王の子。
周は平王より洛邑を都城に定め王城と称していたが、
敬王の代に王子朝の勢力が強い悼王までの都を避け、
東(漢代の雒陽城、すなわち、現在の漢魏故城の辺り。⇒
位置)に
遷都した。
遷都した新しい都城を成周、旧都を王城と称すようになった。
紀元前476年、
敬王は死去し、子の仁(
元王)が後を継いだ。
...
紀元前520年11月、
兄の悼王が王子朝の反乱のために殺害されると、
敬王が即位して、
子旅氏の館に身を置いた。
敬王の軍は京楚に布陣し、王子朝の拠る京を攻撃して、
その西南を破壊した。
紀元前519年、周の敬王の軍と晋軍は王子朝側の郊を包囲して破った。
情勢の好転を受けて晋軍は本国に帰ったが、
王子朝は尹氏の支援を受けて抵抗を続け、
王城を占領した。
敬王は
単穆公と
劉文公の庇護を受けて劉に蒙塵した。
紀元前516年4月、
劉文公の軍が王子朝の軍を尸氏で撃破した。
7月、敬王は劉文公とともに劉を出て、渠に宿営した。
敬王は褚氏に進軍し、萑谷に宿営した。
さらに胥靡に入り、滑に宿営した。
10月、敬王が滑で起兵し、郊に入り、尸に宿営した。
11月、晋軍が王子朝側の鞏を攻め落とした。召簡公が王子朝を追放し、
王子朝は楚に亡命した。
召簡公は敬王を尸に迎え、
単穆公や劉文公と盟を交わした。
敬王の軍は圉沢に進軍し、隄上に宿営した。
敬王は成周に入り、襄宮で盟を交わした。
12月、敬王は荘宮に入った。
紀元前513年、
京師で召伯盈と尹氏固および原伯魯の子が殺害された。
王子趙車が鄻に入って反乱を起こしたが、
陰不佞がこれを撃破した。
紀元前504年、
周の儋翩が王子朝の残党を率いて、
鄭人の協力を得て成周で反乱を起こした。
敬王は儋翩の乱を避けて姑蕕に滞在した。
翌年、儋翩は儀栗に入った。
単武公と劉桓公は儋翩に味方した尹氏を窮谷で撃破した。
単武公と劉桓公は姑蕕の慶氏のもとから敬王を迎え、
晋の籍秦が敬王を護送した。
敬王は王城に入り、
公族の党氏の館に滞在して、
その後に荘宮で群臣の朝見を受けた。
紀元前502年、単武公は穀城を攻撃し、
劉桓公は儀栗を攻めた。
さらに単武公は簡城を攻撃し、
劉桓公は盂を攻め、儋翩の乱を平定した。
周は平王より洛邑を都城に定め王城と称していたが、
敬王の代に王子朝の勢力が強い悼王までの都を避け、
東(漢代の雒陽城、すなわち、現在の漢魏故城の辺り)に
遷都した。
遷都した新しい都城を成周、旧都を王城と称すようになった。
紀元前476年、
敬王は死去し、子の仁(
元王)が後を継いだ。
元王(げんおう) 東周15代王
元王(げんおう)。周朝の第27代王(東周15代王)。生没年:不詳 -
紀元前469年。
姓は姫、名は仁。
敬王の子。
紀元前473年、
越王勾践が呉を滅ぼし、
その後北方の瑯琊に
遷都、
斉・晋などの諸侯と徐州(現在の山東省滕州市の南東)にて会盟した。
元王は勾践を覇者として承認している。
紀元前469年、
元王は死去し、子の姫介(
貞定王)が後を継いだ。
貞定王(ていていおう) 東周16代王
貞定王(ていていおう)。周朝の第28代王(東周16代王)。
生没年:不詳 -
紀元前441年。
姓は姫、名は介。
元王の子。
子は
- 姫去疾(哀王)
- 姫叔襲(思王)
- 姫嵬(考王)
- 姫掲(温叔、桓公)
など。
紀元前441年、
貞定王は死去し、子の姫去疾(
哀王)が後を継いだ。
哀王(あいおう) 東周17代王
哀王(あいおう)。周朝の第29代王(東周17代王)。生没年:不詳 -
紀元前441年。
姓は姫、名は去疾。
貞定王の子。
『
史記・周本紀』によれば、在位期間はわずか3ヶ月であり、
弟の
姫叔襲により殺害されたと伝わる。
思王(しおう) 東周18代王
思王(しおう)。周朝の第30代王(東周18代王)。生没年:不詳 -
紀元前441年。
姓は姫、名は叔襲。
貞定王の子。
死後、思王と謚号された。
紀元前441年、兄である哀王を殺害して即位したが、在位5ヵ月後の8月、弟である
姫嵬に殺害された。
考王(こうおう) 東周19代王
考王(こうおう)。周朝の第31代王(東周19代王)。生没年:不詳 -
紀元前426年。
姓は姫、名は嵬。
貞定王の子。
哲王とも。姫午(威烈王)、姫班(鞏叔)らの父。
紀元前441年、兄の思王を殺害して自ら即位した。翌年、弟の姫掲を河南(王城)に封じた。これが西周の桓公である。
このようにもともと都の成周近辺にしか支配が及ばなくなっていた周朝の領土はさらに細分化され、その王権の弱体化が顕在化した時期に相当している。中国における戦国時代の開始を考王に求める説も存在している。
威烈王(いれつおう) 東周19代王
威烈王(いれつおう)。周朝の第32代王(東周20代王)。生没年:不詳 -
紀元前402年。
姓は姫、名は午。
考王の子。
弟は姫班(鞏叔、鞏の君主)。姫驕(安王)の父。
紀元前403年、晋大夫の韓虔、趙籍、魏斯をそれぞれ韓侯、趙侯、魏侯に封じ、三家分晋と称される冊封を行った。三家分晋は春秋時代の終息であり、戦国時代へと本格的に突入することとなった。
この年を以って『資治通鑑』の記載が開始されている。
安王(あんおう) 東周21代王
安王(あんおう)。周朝の第33代王(東周21代王)。生没年:不詳 -
紀元前376年。
姓は姫、名は驕。
威烈王の子。
姫喜(烈王)、姫扁(顕王)らの父。
紀元前386年、
斉の大夫田和を斉侯に封じる田氏代斉を行った。
紀元前376年、
安王は死去し、太子の姫喜(
烈王)が後を継いだ。
烈王(れつおう) 東周22代王
烈王(れつおう)。周朝の第34代王(東周22代王)。生没年:不詳 -
紀元前369年。
姓は姫、名は喜。
安王の子。
父王の後を継いだ。しかし、子がなく弟の姫扁(顕王)がその後を継いだ。
顕王(けんおう) 東周23代王
顕王(けんおう) 周朝の第35代帝(東周23代王)。 生没年:不詳 -
紀元前321年。
姓は姫、名は扁。
安王の子。
姫定(慎靚王)の父。
兄の
烈王に子がなかったため、その後を継いだ。
慎靚王(しんせいおう)
慎靚王(しんせいおう/しんけんおう) 周朝の第36代帝(東周24代王)。 生没年:不詳 -
紀元前315年。
姓は姫、名は定。悼靚王とも。
顕王の子。
赧王(たんおう)
赧王(たんおう)
(『竹書紀年』では隠王)
周王朝第37代王
(東周第25代王)
赧王(たんおう) 周朝の第37代帝(東周25代王)。 生没年:不詳 -
紀元前256年。
姓は姫、名は延。
慎靚王の子。
在位期間は59年であり、周朝における最長在位の君主であった。
『竹書紀年』によると、
諡号は隠王。
在位中は周王室の影響力はわずかに王畿(現在の洛陽附近)に限定されるようになっていた。
周王室も桓公掲(貞定王の末子)を始祖とする西周公と恵公班(西周威公の末子)を始祖とする東周君の勢力に分裂しており、
赧王は西周の武公を頼って西周の河南(王城)に
遷都した。
祖父の第35代王
顕王の時代より秦の勢力が急速に拡大しており、
諸々の政策でも周の勢力挽回は成功しなかった。
紀元前307年、秦が韓の宜陽を攻撃すると、赧王は宜陽を救援するために出兵した。
紀元前256年、秦の将軍楊摎の攻撃を受けて、西周の文公がその領土を秦に献上した。
このため赧王は秦の保護下に入り、まもなく崩御した。
秦は
九鼎を移し、王畿を占拠することで周は滅亡することとなった。
子孫の有無は不詳。
なお、「赧」は「顔を赤らめて恥じ入る」という意味である。