小窓
西周時代の一覧

作成日:2022/8/20

武王  西周初代王

武王(ぶおう)
西周 初代王
先代  ---
次代  成王
在位(自) 紀元前1046年
在位(至) 紀元前1043年
生年  不詳
没年  紀元前1043年
姓・諱 姫・発
都城  鎬京
父   文王(次子)
母   太姒
后妃  邑姜
子   成王
周朝の創始者。殷を滅ぼし、周を立てた(殷周革命)。 文王の次子。

同母兄に伯邑考、 同母弟に管叔鮮周公旦蔡叔度霍叔処康叔封らがいる。

子は周王朝第2代王・成王、唐叔虞、邘(う)叔、應(おう)叔、韓(かん)叔ら。

武王は在位3年にして死んだので、 たちまち武庚や管、蔡らの大反乱が生じたという。
武王は文王とともに聖王とされ、 「詩」「書」や青銅器銘文にもその功業がたたえられており、 その殷の討伐も放伐物語として正統化された。 ...

周王朝創立まで

父の周国第15代君主・西伯昌(文王)が死んだあと、 呂尚(太公望)や周公旦を左右に父の事業の継承に励んだ。

殷の帝辛(紂王)は暴虐な振る舞いが多く、 これを討つために兵を挙げて盟津まで兵を進めた。
武王は文王の位牌を掲げ、 自らを太子発と呼び、 この遠征が父の意思によるものであると宣言した。
この時、 周軍に瑞兆がいくつも現れ、 諸侯が武王の元に馳せ参じ、 その数は800に達した。
これを見た諸侯達は「今こそ殷を倒す時です」と意気込んだが、 武王は時期尚早と見て兵を引き上げた。

2年後、紂王の暴虐はますます酷くなったので再び兵を挙げた。
この時の周の兵力は戦車300乗、士官3000人、武装兵45000人であった。
一方、殷軍は70万を超える大軍を繰り出し、両軍は牧野で激突した(牧野の戦い)。
殷軍は大軍であったがその大半は奴隷兵であり、 奴隷の中には殷により他の部族からさらわれてきたり、 戦争の時に捕虜になったりした者が大勢いたため逆に武王の到来を歓迎する者まであり、 周軍が攻めてくるとそれらの兵士は後ろを向いて殷軍に攻めかかった。

大敗した紂王は首都に逃げ帰り、そこで焼身自殺を遂げた。
それを追ってきた武王は紂王の遺体に3本の矢を打ち込み、 焼け爛れた首を黄金の鉞(まさかり)で落とし旗の先に掲げた。

周王朝創立後

殷を滅ぼし天子となった武王は父西伯昌に文王と追号した。
また帝辛によって誅殺された比干(帝辛の叔父)の墓を改葬し、 幽閉されていた箕子(帝辛の叔父)を解放し、 朝鮮に封じた(箕子朝鮮)。
そして帝辛の異母兄である微子啓に殷の祭祀を続けさせ、宋に封じた。

更に古代の聖王達の子孫を探し出し、

それぞれ封じた。

その後、功臣たちの論功行賞を行い、次のように封じた。

武王はこの他にも、 南方の呉に逃れた大伯父の太伯・虞仲の子孫を探し出し、 改めて呉に封じ、 その弟を北方の虞に封じた。

武王は首都の鎬京以外に洛邑を副都とし、 天下の武器を廃して兵士を故郷に返す事でもう戦いはしないと言う意思表示をした。
その後、ほどなくして武王は病にかかった。
後継者である子の成王はまだ年少であったため、 周の行く末を功臣の呂尚と同母弟の周公旦に托し、 病没した。

武王は夏の禹・殷の湯王・父の文王と並び聖王として後世に崇められている。
また、道教においては武王を霊宝天尊の化身とする場合もある。

邑姜(ゆうきょう) 生没年不詳 西周初代・武王の王后
邑姜(ゆうきょう) 生没年不詳

周の武王の王后。
斉の太公・呂尚の娘として生まれた。
周の武王に嫁ぎ、 周王朝第2代王・成王(せいおう)と唐叔虞(とうしゅくぐ。生没年不詳。晋の前身である唐の建国者)を生んだ。

唐叔虞を身ごもったとき、 夢に天帝が現れ、 「わたしはその子を虞と名づけるよう命じる。その子に唐の地を与え、参星に子孫を養育させよう」といった。
子が生まれると、その手に「虞」の形の掌紋があった。
このためその子は虞と命名された。

のちに邑姜は、唐叔虞が建国した晋の妣(ひ。国母)とされた。

成王(せいおう) 西周2代王

成王(せいおう)
西周 2代王
先代  武王
次代  康王
在位(自) 紀元前1042年
在位(至) 紀元前1021年
生年  不詳
没年  紀元前1021年
姓・諱 姫・瑕
都城  鎬京
父   武王
母   邑姜
后妃  王姒
子   康王
 
成王(せいおう)は周王朝2代王。武王の子。 「成王」とは諡号ではなく、生前からの称号である。 同母弟は晋の開祖の唐叔虞。他に邘叔・応侯・韓侯らの兄弟がいた。

易姓革命後、2年で崩御してしまった父の武王の後を継いで即位する。 当時はまだ周の政治体制は安定しておらず、 殷の帝辛(紂王)の子の武庚(禄父)や成王の叔父(武王の弟。 管叔鮮と蔡叔度)たちの謀反(三監の乱)などが相次ぎ、国情は極めて不安定であった。

成王誦は即位した時はまだ幼少であったので、 実際の政務は母の邑姜、 叔父の周公旦(魯の開祖)、 太公望呂尚(斉の開祖)、 召公奭(燕の開祖)らが後見した。 弟の叔虞を唐(後の晋)に、 別の弟を韓に封じたほか、 『史記・楚世家』によると五帝の一人の顓頊の子孫を楚に封じたという。

成王が成長すると、自ら政務を執るも、『史記・周本紀』によると、若くして崩御したと記されている。 『史記・封禅書』によると、王の即位を天地に知らせて天下泰平を感謝する封禅の儀式を行なったという。斉の桓公に仕えた管仲が記憶する限り、封禅を行なった最後の王であった。 子の姫釗(康王)が後を継いだ。彼の代までが周の確立期であった(成康の治)。

後漢の王充の著書『論衡』によると、成王の時代に越裳(越常とも言う。中国の南方にいた民族と見られる)が白雉(白いキジ)を倭国に献じ、倭人が暢草(薬草)を献じた。 年代が大きく異なるので、日本の元号が白雉(はくち)に改元された逸話とは無関係である。

王姒(おうじ) 生没年不詳 西周2代・成王の王后
王姒(おうじ)生没年不詳 西周2代・成王の王后

伝承文書には王姒の記録はない。
出土した銅器の銘文などに記されているのは、 西周初期の人。

康王(こうおう) 西周3代王

康王(こうおう)
西周 3代王
先代  成王
次代  昭王
在位(自) 紀元前1020年
在位(至) 紀元前996年
生年  不詳
没年  紀元前996年
姓・諱 姫・趙(釗)
都城  鎬京
父   成王
母   王姒
后妃  王姜
子   昭王
 
父の薨去に伴い即位する。
その治世は「天下安寧で刑錯が四十余年用いられない」と称されたというが、 実際は召公奭(しょうこうせき)や畢公 高(ひつこう こう)の補佐を受けながら、 外征を繰り返した。
彼の代に周は各諸侯への威信を確立し、国家体制が安定を創出した。

王姜(おうきょう)
王姜(おうきょう)、生没年不詳。 西周第3代君主康王の王后。 西周第4代君主昭王の母。

伝承されている文献に記載はなく、出土した銅器に西周康王の后妃で在ることが記載されている。

昭王(しょうおう) 西周4代王

昭王(しょうおう)
西周 4代王
先代  康王
次代  穆王
在位(自) 紀元前995年
在位(至) 紀元前977年
生年  紀元前1027年
没年  紀元前977年
姓・諱 姫・瑕
都城  鎬京
父   康王
母   王姜
后妃  房后
子   穆王
 
昭王(しょうおう)。 生年は、日本版wikiでは紀元前1027年、 中国版wikiでは紀元前1018年、 百度百科では不詳。
西周の青銅器碑文では卲王あるいは「王編に卲」王と記されている。

即位後、淮夷の反乱が発生したがこれを平定した。
竹書紀年』によると、昭王は三度南方に遠征し、3度めの遠征途中に行方不明となった。 楚軍の攻撃により戦死したと言われている。

史記・周本紀』によると、 南方を巡狩(視察)して戻ってくることなく死に、 その死は諸侯にも知らされなかった。

一方、同書の斉太公世家によると、斉の桓公が諸侯を率いて楚を破った。
そのとき楚の成王への問責の一つに、 300年前昭王が南方の巡狩から帰ってこなかったことをあげている。
昭王が楚王の先祖との戦いで戦死したことは、諸侯のあいだで周知であったとみえる。

房后 西周4代・昭王の王后
姓は祁。西周第4代王昭王の后。生没年不詳。
穆王の母親。

房后は、唐の堯の長男である丹朱の末裔である。

穆王(ぼくおう) 西周5代王

穆王(ぼくおう)
西周 5代王
先代  昭王
次代  共王
在位(自) 紀元前976年
在位(至) 紀元前922年
生年  不詳
没年  紀元前922年
姓・諱 姫・満
都城  鎬京
父   昭王
母  
后妃  王俎姜
妻   盛姫
子   共王
      孝王
 
穆王(ぼくおう) 西周第5代王 生没:不詳 - 紀元前922年

昭王の子であり、 昭王が楚への遠征途上で行方不明になったことより仮に王位に即位、 その後に昭王の死が判明したので正式に即位した。

彼は中国全土を巡るのに特別な馬(穆王八駿)を走らせていたと言われる。 すなわち、飛ぶように走ることができる「絶地(ぜっち)」、 鳥よりも速い「翻羽(ほんう)」、 一夜で万里を駆ける「奔霄(ほんしょう)」、 太陽の後を追って走ることができる「越影(えつえい)」、 光のように明るく輝く「逾輝(ゆき)」、 10の影を持つ馬「超光(ちょうこう)」、 雲に乗って走れる「騰霧(とうむ)」、 翼を持つ「挟翼(きょうよく)」の8頭である。 穆王はこの馬を駆って犬戎ら異民族を討った。

また、 司寇(司法官の長)である呂侯に命じて『呂刑』と呼ばれる刑法を定めて社会の安定を図ろうとしたが、 その3千と言われる罪状の多さに却って諸侯や民衆の反感を買った。

また彼は、 西の彼方にある神々が住むとされた崑崙山にも立ち寄り西王母に会い、 西王母が後に入朝したと言う。 このことは穆天子伝としてまとめられている。 神話、伝説の要素を多く含む中国最古の旅行記である。

王俎姜 生没年不詳 西周5代・穆王の王后
王俎姜 生没年不詳 西周5代・穆王の王后。

王俎姜は伝承文書に記録がなく、出土した青銅碑文によると、 西周中期に生まれ、穆王の后妃となった。 穆王の母親。

共王(きょうおう) 西周6代王

共王(きょうおう)
西周 6代王
先代  穆王
次代  懿王
在位(自) 紀元前922年
在位(至) 紀元前900年
生年  不詳
没年  紀元前900年
姓・諱 姫・繄扈
    姫・伊扈
都城  鎬京
父   穆王
母  
后妃  王嬀
子   懿王
 
共王(きょうおう) 西周第6代王 生没:不詳 - 紀元前900年        

共王は、西周時代の周の王。 姓は姫、諱は繄扈。あるいは伊扈。
周の穆王の子として生まれた。

共王が涇水のほとりを遊行したとき、密の康公が王に従った。 康公は土地の者に3人の娘を献上された。 康公の母は娘たちを王に献上するよう康公に言ったが、康公は献上しなかった。 1年後、共王は密を滅ぼした。

金文では「十五年趞曹鼎」によって共王の実在が確認できる。

共王が死去すると、子の懿王が周王として即位した。

王嬀 生没年不詳 西周6代・共王の王后
王嬀 生没年不詳 西周6代・共王の王后。姓は嬀。

王嬀の記録は伝承史料にはなく、青銅器銘文にあるだけ。
銘文には「王嬀」あるいは「王為」と記されている。

懿王(いおう) 西周7代王

懿王(いおう)
西周 7代王
先代  共王
次代  孝王
在位(自) 紀元前899年
在位(至) 紀元前892年
生年  紀元前937年
没年  紀元前892年
姓・諱 姫・囏
    姫・堅
都城  鎬京
    犬丘
父   共王
母  
后妃  王伯姜
子   夷王
 
懿王(いおう) 西周第7代王 生没:不詳 - 紀元前892年

姓は姫。 諱は『史記・周本紀』によると「囏」。 『史記・三代世表』、『史記索隠』周本紀所引『世本』によると「堅」。
生年は、日本語版Wikipediaでは「不詳」、 中国語版Wikipediaおよび百度百科では「紀元前937年」となっている。

周の共王の子として生まれた。 共王が死去すると、懿王が周王として即位した。

懿王は鎬京から犬丘(槐里)に遷都したとされる。

周の王室は衰微して、初めて風刺の詩が作られた。 金文では「匡卣」によって懿王の実在が確認できる。

懿王が死去すると、叔父の孝王が周王として即位した。

孝王(こうおう)西周8代王

孝王
西周 第8代王
先代  懿王
次代  夷王
在位(自) 紀元前891年
在位(至) 紀元前886年
姓・諱 姫・辟方
姫・方
都城  鎬京
生年  不詳
没年  紀元前886年
父   穆王
母  
后妃  王京
子  
陵墓  孝王陵
 
孝王(こうおう) 西周第8代王 生没年:不詳 - 紀元前886年

姓は姫、 『史記・巻四 周本紀第四』では諱は辟方、 『史記・三代世表』では諱を方とする。

史記・巻四 周本紀第四』では、 西周第6代王・共王の弟にあたる。
史記・三代世表』によると、西周第7代王・懿王の弟にあたる。

穆王の子。 甥の(前項の記述に注意)懿王が死去すると、 姫辟方が西周第8代王に即位した。

犬丘の非子が馬の飼育に長けていることを知った孝王は非子を召し出して、 汧河と渭河の間で馬の管理を任せ、 一年後に非子は馬の数を倍に増やした。 これに満足した孝王は非子に秦の地を与えた。

孝王が死去すると、大甥(懿王の太子)の姫燮が諸侯に擁立されて周王として即位した。

孝王の事蹟は伝世文献にそれほど語られず、 陝西省宝鶏市眉県常興鎮楊家村窖蔵で発見された金文「逨盤」によってようやく実在が確認された。

夷王(いおう) 西周9代王

夷王(いおう)
西周 第9代王
先代  孝王
次代  厲王
在位(自) 紀元前885年
在位(至) 紀元前878年
姓・諱 姫・燮
都城  鎬京
生年  不詳
没年  紀元前878年
父   懿王
母  
后妃  王姞
子   厲王
 
夷王(いおう) 西周第9代王 生没年:不詳 - 紀元前878年

姓は姫、名は燮。 周の懿王の子として生まれ、太子となった。 しかし懿王が死去すると、 共王の弟の孝王が周王として即位した。 孝王が死去すると、夷王が周王として即位した。

夷王2年、蜀人と呂人が来朝して瓊玉を献じた。
夷王3年、紀侯が斉の哀公について夷王に讒言すると、 夷王は哀公をで煮殺して、 その弟の胡公を斉侯の位につけた。

夷王が衰弱すると、辺境の勢力が参朝しなくなったため、 夷王は公に命じて六師を率いさせ、太原の戎を討伐させた。

夷王が死去すると、子の厲王が即位した。

厲王(れいおう) 西周10代王

厲王
西周 第10代王
先代  夷王
次代  宣王
在位(自) 紀元前877年
在位(至) 紀元前841年
姓・諱 姫・胡
      姫・㝬
都城  鎬京
生年  紀元前890年
没年  紀元前828年
父   夷王
母  
后妃  申姜
子   宣王
 
厲王(れいおう) 西周第10代王 生没年:紀元前890年 - 紀元前828年
生年は中国語版Wikipediaによる。日本語版Wikipediaでは「不詳」

周の夷王の子として生まれた。 夷王が死去すると、厲王が周王として即位した。

厲王の在位期間は佞臣の栄夷公を重用し、 賢臣であった周公や召公らの諫言を退けて暴政を行ったとされ、 民衆は物事を口にするのを憚り、 視線によりその意図を伝え合ったとされる。 これにより周の国勢は凋落し、 朝政は腐敗を極めた。 金文によれば、 厲王は南国の服子を討伐したり、 晋の献侯とともに夙夷を征伐したりと、 親征を繰り返した。

民衆の不満が募り、 紀元前842年には民衆が王宮に侵入し、 厲王を殺害しようとする国人暴動が発生した。 事件に際して厲王は、 鎬京を脱出して黄河を越え、彘(てい。現在の山西省霍州市)に逃れた。 そのため、 『史記』によれば周公と召公が代わって朝政を見る共和の体制となった。 一方『竹書紀年』によれば、 この時期に共伯和という人物が不在の王に代わって政務を執ったとされる。 ...

紀元前828年(共和14年)に厲王は死去し、 周公及び召公により、厲王の子である姫静が即位して宣王となった。

また、宣王の時代に厲王の末子である姫友は鄭に封じられ、 鄭の桓公となった。

申姜

申姜  生没年:不詳

西周第10代・厲王(れいおう)の王妃、申伯の妹または妹。 周の宣王と鄭の桓公の母、周の禹王の祖母。

共和()

共和は、 西周第10代王・厲王が逃亡してから西周第11代王・宣王が即位するまでの期間を指す。

史記』の中では、 この期間から年代の記述が始まっている。
この共和の期間は紀元前841年から紀元前828年までとされている。
この共和の期間から『史記・十二諸侯年表』が始まっている。

史記・周本紀』によれば、 周の厲王が国人の暴動により出奔を余儀なくされて王が不在となったとき、 周定公召穆公の二人が政務を執り、 「共和」と称したという。
また『竹書紀年』によると、 厲王の亡命後に「共伯和」が政務を執ったともいう。
共伯和は、 共国を封地とし伯の爵位を持つ和(か)という名の人物で、 衛の武公のことであるとする説もある。

金文には「伯龢(=和)父」「師龢父」の呼称で共伯和の存在が見えるものがあり、 周公・召公の共和よりも共伯和の共和のほうが実態に近いと考えられている。

この時期には、 王がおらず、 諸侯の合議で国政が運営されたため、 近世に入り、 日本人はこの語『共和』を、 同様に王がおらず、 貴族・議員等の有力者の合議で国政を運営する欧州の「res publica」を指す語としても使用した。
こうして意味が拡張された『共和』という語は、 漢字文化圏全体に広まり一般化し、 現在では更に意味が拡張・普遍化され、 地域や時代を問わず、 世襲権力者がいない政体を指して共和制と呼ぶ。

宣王(せんおう) 西周11代王

宣王(せんおう)
西周 第11代王
先代  厲王
次代  幽王
在位(自) 紀元前828年
在位(至) 紀元前782年
姓・諱 姫・静
都城  鎬京
生年  紀元前862年
没年  紀元前782年
父   厲王
母  
后妃  姜后
妻   后夫人、女鸠
子女  幽王
      携王、长父
宣王(せんおう) 西周第11代王 生没年:紀元前862年 - 紀元前782年
生年は中国語版Wikipediaによる。日本語版Wikipediaでは「不詳」

父の厲王紀元前842年に逃亡し、 以後は王が不在のまま共和制が敷かれていた。 紀元前828年厲王が崩御した後、厲王の子である静が王として立てられた。治世前期は周の定公・召の穆公を輔政とし国勢が中興し、宣王中興(中国語版)と称される時期を築いた。 他にも、新興諸侯として弟の王子友(桓公)を鄭に封じたことが事蹟として挙げられる。 他方、軍事面では秦仲や杜伯(中国語版)といった大夫たちに命じて積極的な異民族征伐に乗り出したが、 こちらは徐々に劣勢となり、 紀元前789年の千畝(せんぽ)の役で姜戎に大敗するなど、 あまり思わしくなかった。 治世後期には政治面でも厲王にみられる君主独裁化が進み、 魯の継嗣問題介入、 杜伯の処刑など諸侯への圧迫を強めていったため、 周王朝の求心力は徐々に低下へと向かう。 その末路は定かではないが、 『墨子』明鬼篇によれば杜伯を処刑した3年後に、 鬼神の力を借りた杜伯によって射殺されている。

賛否両論の分かれる王ではあるが、 結果から言えば父の厲王や子の幽王と同じく、 周王朝の滅亡を早めた暴君・暗君と言わざるをえない。 文化面ではこの時代、籀(ちゅう)により『史籀篇』(しちゅうへん)が著され、 書体のひとつの大篆にあたる籀文(籀書)ができあがった。

姜后
姜后

西周第11代天子・宣王の王后。
齊國・武公の女。

幽王(ゆうおう) 西周12代王

幽王(ゆうおう)
西周 第12代王
先代  宣王
次代  携王
在位(自) 紀元前781年
在位(至) 紀元前771年
姓・諱 姫・宮涅
都城  鎬京
生年  紀元前795年?
没年  紀元前771年
父   宣王
后妃  申后
妻   褒姒
子女  平王
      伯服(伯盤)
弟   携王
幽王(ゆうおう) 西周第12代王 生没年:紀元前862年 - 紀元前782年
生年は中国語版Wikipediaによる。日本語版Wikipediaでは「不詳」

宣王の子。携王の兄。 平王、太子伯服(伯盤)らの父。西周最後の王である。

褒姒という女性を愛し、 彼女の笑顔を見たさに王朝を滅亡させ、自らも反乱に遇い命を失った。

幽王の死後、 申后の父である申侯は、 廃太子となっていた申后の生んだ宜臼を平王として立てた。
しかし兵乱により王都の鎬京は破壊されていたため、 平王は東の洛邑へと遷都し、 ここに西周は消滅して東周が始まった(平王東遷)。 ...

即位の三年後、 幽王は褒の地より後宮に入った褒姒を見て寵愛するようになった。 褒姒は笑うことがなく、 幽王はなんとか彼女を笑わせようとした。 絹を裂く音を聞き、彼女が微かに微笑んだことで、 国中の絹を集めては引き裂かせたともいう。

やがて褒姒は王の子の伯服を産むが、 この年は関中で大地震が発生し、歴史記録官の伯陽甫は、 亡国の凶兆であると書き残した。

ある日、幽王は兵乱発生の合図の烽火を上げさせ、 太鼓を打ちならし、 軍を緊急召集した。 駆けつけたが何ごともないのに困惑する将兵を見て、 褒姒ははじめて笑った。 喜んだ王は以後しばしば無意味に烽火を上げさせ、 何度も無駄足を踏まされた諸将は、 いつか烽火で集まることがなくなった。
また幽王は佞臣の虢石父を登用し、 悪政を行わせたため、人民の怨嗟を買った。

幽王はついに正室であった申后及び太子宜臼(後の平王)を廃し、 褒姒を后に、 伯服を太子に立てた。

申后の父である申侯は怒り、 蛮族の犬戎軍と連合して反乱を起こす。 都に迫る反乱軍に、 幽王は軍を集めようとして烽火をあげたが、 すでに集まる兵はなかった。 幽王と伯服は驪山の麓で殺され、 褒姒犬戎に連れ去られた。 反乱軍は都を略奪して財宝をことごとく奪い去った。

申后(しんこう) 西周12代王・幽王の后妃

申后(しんこう) 生没年不詳

申后
周の王后
別称申姜
配偶者西周第12代王・幽王
氏族姜姓
申侯
子女宜臼(平王)

申后は、申侯の娘で、西周の幽王の王后で平王の母。
幽王は褒姒(ほうじ)を寵愛した。
遂には申后と太子宜臼(後の平王)を廃し、褒姒を王后、褒姒の子の伯服を太子にした。

この事件に申后の父の申侯は激怒し、 紀元前771年犬戎らと周を攻め、 幽王を殺した(申侯の乱)。

太子宜臼は即位し、洛邑遷都した。

褒姒(ほうじ) 西周
褒姒
西周 第12代王・王后
生没年不詳
配偶者西周第12代王・幽王
別名襃姒、褎姒
子女伯服
氏族姒姓
出身諸侯国
出生地褒国(陝西省漢中)
褒姒は、 西周の西周第12代王・幽王の2番目の后。 美貌によって王を惑わせ、西周を破滅に導いた、亡国の美女として有名。

史記』の記述によると、夏王朝の時代、宮中の庭に神龍が出現した。 夏の帝は龍に漦(口の泡)を貰い、箱に納めた。 やがて夏王朝は亡び、この箱は殷王朝に伝わる。 さらに殷が亡び、 箱は周王朝の王家に伝わったが、 その数百年の間に、 一度も開けられることがなかった。

周の厲王の世になり、 この箱を開いたところ、 中から泡が発して庭じゅうに溢れだした。 やがて泡は一尾の蜥蜴(とかげ)と為り、 後宮に入り、 七歳の童女に遭った。 やがて次代の宣王の時代、 この童女が十五歳になったとき、 男も無くひとりの女児を産んだ。 人は恐れ、この子を捨てた。

そのころ巷間に「檿弧萁箙、実亡周国(山桑の弓に萁の矢筒、周の国が亡びよう)」という童謡がはやった。
宣王が調査させると確かに山桑の弓と萁の矢筒を売っている夫婦がいたので、 捕えて殺そうとした。
この夫婦は逃亡したが、 途中で道ばたで泣いている捨子を見つけ、 哀れに思って拾いあげ、 ともに褒国に逃げた。 その後、 褒の者に罪があり、 育ったこの捨子の少女を宮中に差し出して許しを乞うた。 そこでこの褒国から来た少女を、褒姒と呼んだのである。

幽王三年、 王は後宮で褒姒を見て愛するようになり、 やがて子の伯服が生まれた。
周の太史(記録官)伯陽は「禍成れり。周は滅びん」と言った。『史記・巻四周本紀』...

褒姒は、笑ったことがなかった。 幽王はなんとか彼女を笑わせようと手を尽くした。
ある日、 幽王は烽火を上げさせ、 太鼓を打ち鳴らした。
諸将はさっそく駆けつけたが、 来てみると何ごとも無い。
右往左往する諸将を見た褒姒は、 そのときはじめて晴れやかに笑った。
喜んだ幽王は、 そののちたびたび烽火を上げさせたので、 次第に諸将は烽火の合図を信用しなくなった。
また王は佞臣の虢石父を登用して政治をまかせたので、 人民は悪政に苦しみ、 王を怨むようになった。

王はとうとう当時の王后だった申后と太子宜臼(後の平王)を廃し、 褒姒を王后にして伯服を太子にした。
怒った申后の父の申侯は反乱して、 蛮族の犬戎の軍勢と連合して幽王を攻めた。
王は烽火を上げさせたが、応じて集まる兵はなかった。
反乱軍は驪山で幽王を殺し、 褒姒を捕え、 周の財宝をことごとく略奪して去った。
この乱で、西周は滅びたのである。

褒姒をはじめ、 殷の妲己・夏王朝の末喜春秋時代の呉・越の西施など、 古代中国史には美貌によって王君を破滅させ、 国を滅亡に追いこむ魔性の女性がしばしば現れる。
のち『漢書』から、 国が傾く原因になるほどの美女を「傾国傾城」と呼ぶようになった(巻九十七上 孝武李夫人伝)。
のちに「傾城」は江戸時代の日本で花魁(おいらん)の別称になった。

褒姒の出自に関する記録は奇怪で神話的なうえ、 年代を計算すると50歳を過ぎてから王の寵を得たことになり史実性が怪しい。
褒姒の実体が曖昧なことから、 後世に数多くの伝説が生まれた。
『平家物語』では、褒姒は野干という魔獣の化身であったという。
玉藻前の伝説では褒姒は玉藻前の前歴の一つとして挙げられている。
伯服(はくふく)
伯服(はくふく) 生没:紀元前779年-紀元前771年

姓は姬
西周第12代王・幽王(ゆうおう)と褒姒(ほうじ)の子。
褒姒が宮殿に入った後、伯服を出産した。
伯服は聡明で可愛い子であった。
幽王は正室・申后とその息子の宜臼を廃し、 褒姒とその息子の伯服に変えた。

正室・申后の父親・申候は犬戎とともに幽王を攻撃し、 幽王を殺し、褒姒は犬戎に拉致され、西周は滅亡した。

虢石父(かく せきほ)
虢石父
王朝
姓・諱姫鼓
石父
文公
虢石父(かく せきほ) 生没:不詳 - 紀元前771年頃

虢石父は、西虢の君主で、周の王族。
虢公鼓とも称し、 楊寛の『西周史研究』では「鼓が名で、石父は字」とする。
清の梁玉縄の『古今人表考』によると、子は虢公翰と見なしている。

周の幽王が虢石父を上卿とし、 祭公を司徒とし、 尹球を大夫とした。
石父はよくへつらって利を好み、 人民に対して収奪を加えたので、 国人はみな彼を怨んだ。
石父は幽王に驪山(りざん)の烽火台に登るよう勧め、 守兵に命じて烽火に点火させ、 たわむれに諸侯を召集させた。
褒姒(ほうじ)が大笑いしたので、幽王は千金を与えて石父を賞した。
最後には西周の滅亡を導いた。
彼自身は犬戎の先鋒隊によって殺害された。

携王(けいおう) 西周代王

携王(けいおう)
西周 第代王
在位(自) 紀元前770年
在位(至) 紀元前750年
姓・諱 姫・余臣
諡号  恵王
都城  鎬京
生年  不詳
没年  紀元前750年
父   宣王
 
携王(けいおう)は、周の東遷期に立った周王。 従来は平王と同時期に在位した二王並立があったと見られてきたが、 『清華簡・繋年』の発見と研究によりその評価は変わりつつある。

携王についての記述は『史記』に存在せず、 『竹書紀年』にある携王の記述を『史記』と合わせ解釈することで通説が形成されていた。

紀元前771年、 周の幽王と太子伯盤(伯服)は犬戎の攻撃を受けて戯で死去した。 申侯と許の文公・魯の孝公らがもとの太子であった宜臼を申で平王として擁立した。 いっぽう虢公翰が携で王子余臣(携王)を擁立し、 東西の二王並立の情勢となった。

「二十一年」(従来は晋の文侯の21年、つまり紀元前760年と解釈されてきた)、 携王は晋の文侯によって殺害された。嫡子でなかったため携王と称した。 ...

西暦2008年に清華大学が入手した『清華簡・繋年』に見える新たな記述によって、 従来の通説は書き換えを迫られている。

紀元前771年、 周の幽王と太子伯盤が犬戎や繒人の攻撃を受けて滅び、 周が潰滅すると、 周の邦君諸侯たちは幽王の弟である余臣をで擁立した。 これが携恵王である。 「立二十又一年」(携恵王の21年、つまり紀元前750年)、 恵王は晋の文侯によって殺害された。

周が王を失って9年(紀元前741年)、 邦君諸侯たちは周に朝見しなくなった。 晋の文侯は少鄂に平王を迎え、 これを京師に擁立した。

3年(紀元前738年)、 平王は東遷して成周にとどまった。

清華簡・繋年』の記述は平王と携王の二王並立があったとする『竹書紀年』の記述と食い違っているが、 どちらが正しいかは判明していない。

水野卓によると、 紀元前771年に幽王と伯盤が殺害されると直後に携王が擁立され、 9年目の紀元前762年に平王が擁立され、 晋の文侯の21年となる紀元前760年に携王が文侯に殺害されたとされる。