小窓
刑鼎(けいてい)

作成日:2023/8/16

刑鼎(けいてい)

鄭の宰相・子産は、 紀元前536年(鄭・簡公30年3月)に中国最初の成文法である「刑書」を鼎に鋳込んだ。
これを「刑鼎(けいてい)」という。 ...

鄭の子産、刑鼎を鋳る

出典:中国通史で辿る名言・故事探訪(中国最初の成文法・刑鼎)

「鄭の子産、刑鼎を鋳る」   春秋時代

鄭の宰相である子産は、魯・昭公六年(前536年)三月、鄭の15代簡公の御世に中国最初の成文法である「刑書」を鼎に鋳込んだが、 之を称して「刑鼎」という。

ところが、鄭の隣国である晋の賢人大夫と言われる叔向(しゅくきょう)が、子産の元に次のような書を送ってきた。
書に曰く、

「私は以前、子(あなた)に大いに期待を寄せていましたが、今は失望しました。
古昔、先王は事の軽重をその都度計って罰を決め、殊更に刑法を制定されなかったのは、 法を盾にしての争いを未然に防ごうとしたからなのです。
それでも完全には禁止できなかったので、徳義・礼信によって防ぎ、 政によって導き、禄位を定め、刑罰の寛厳を使い分け、民に忠誠と善行を勧めたのです。
ところが刑罰の成文法が出来たことを知れば、 民には御上を敬う心は無くなり、 誰もが条文を盾にするようになり治めきれなくなりましょう。
古の昔、夏に政令を犯す者が現れて「禹刑」が、商に政令を犯す者が現れて「湯刑」が、 周に政令を犯す者が現れて「九刑」が作られましたが、 この三刑はいずれも末世のことです。
今 子は刑を定めてそれを鋳込まれて鼎を作られたという。
それで民の安定を考えても、到底無理な事だと存じます。
「詩」に曰う、
文王の徳に則れば、

日々四方は靖し。
さすれば、法などは無用なのです。
「国亡びんとすれば、法を定むること多し」と吾は聞く。
これに対して子産は返書して云う、
「子の言葉に従おうにも、吾は不束者(ふつつかもの)。 子孫のことまで考え及びません。
吾は当世の手当てあるのみ。御忠告は忘れません」

と。
「春秋左氏伝 昭公六年」