田斉(でんせい)は、
中国の戦国時代、
紀元前386年に田氏が姜姓呂氏の斉(姜斉または呂斉)を滅ぼして新たに立てた国。
国号は単に斉であるが、
西周・
春秋時代の姜斉と特に区別する場合に嬀斉または田斉と呼ばれる。
戦国時代中期には、
嬀王の頃に東帝を称するまでになるほど強盛を誇り、
戦国七雄の一つにも数えられる。
首都は姜斉の時と変わらず臨淄であった。
紀元前265年、
襄王が死に、子の田建が即位した。
母の君王后(中国語版)が輔政した。
紀元前249年、
君王后がこの世を去り、君王后の族弟の后勝(中国語版)が執政した。
后勝は秦から賄賂を受け取り、秦の都合のいいように主張した。
田建は后勝の主張を聞き入れ五国(韓・趙・魏・燕・楚)の滅亡を傍観し、
軍事を強化しなかった。
五国が滅亡すると、田建は秦が
侵攻することを恐れ、
将軍や軍隊は西部の辺境に集結した。
紀元前221年、
秦王政は斉の攻略を王賁に命じた。
秦軍は斉軍の主力が集結した西部を避け、
元燕の南部から南下し臨淄へ
侵攻した。
斉軍は秦軍からの突然の北面からの
侵攻に、
不意をつかれ瓦解した。
田建は降伏し、斉は滅亡した。
田建は魏の旧領の500里の邑へ赴いたが、食糧を絶たれ、餓死した。
斉の地に斉郡と瑯琊郡を置いた。
秦は中華を統一し、統一王朝の秦朝となった。