欠史八代とは、
『古事記』・『日本書紀』において系譜(帝紀)は存在するがその事績(旧辞)が記されない第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇のこと、あるいはその時代を指す。
(かつては闕史八代または缺史八代とも書いた)
現代の歴史学ではこれらの天皇達は実在せず後世になって創作された存在と考える見解が有力であるが、 実在説も根強い。
これら古代の天皇達の実在を疑問視する説を初めて提唱したのは、
歴史学者の津田左右吉である。
津田左右吉の初期の説では欠史八代に加えて、
それに次ぐ崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇・成務天皇・仲哀天皇及びその后である神功皇后も存在を疑問視して「欠史十三代」を主張していた。
津田左右吉のこの説は戦前では不敬罪に当たるとして提訴されて西暦1942年に有罪判決を受けたものの、 第二次大戦後には古代史学の主流になった。
しかしその後の研究で崇神以降の実在性が強まり、
現在の歴史学では2代から9代までの実在を疑う「欠史八代」説が主流となっている。
一方で実在説を唱える学者に坂本太郎や田中卓など、
在野では安本美典、
古田武彦、
宝賀寿男、
足立倫行らが主張するなど少なくない。
葛城王朝説は鳥越憲三郎が主張している。
これらの八代の天皇は古代中国の革命思想である辛酉革命に合わせることで、 皇室の起源の古さと権威を示すために偽作したという推測がある。
2~9代に限らず古代天皇達はその寿命が異常なほど長い。
たとえば神武天皇は『古事記』では137歳、
『日本書紀』では127歳まで生きたと記されており、
このことは創生期の天皇達が皇室の存在を神秘的に見せるために創作されたことを示唆している。
『日本書紀』における初代神武天皇の称号『始馭天下之天皇』と、
10代崇神天皇の称号である『御肇國天皇』はどちらも「ハツクニシラススメラミコト」と読める。
これを「初めて国を治めた天皇」と解釈すれば、
初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。
このことから、
本来は崇神が初代天皇であったが「帝紀」「旧辞」の編者らによって神武とそれに続く八代の系譜が付け加えられたと推測することができる。
また、
神武の称号の「天下」という抽象的な語は、
崇神の称号の「国」という具体的な語と違って形而上的な概念であり、
やはり後代に創作された疑いが強いといえる。
西暦1978年、埼玉県稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣に「意富比垝(オホヒコ)」という人物からの8代の系譜が刻まれていたことが確認された。
この「意富比垝」は上述の崇神天皇が派遣した四道将軍の一人「大彦命」と考えられる。
大彦命は8代孝元天皇の第一皇子のはずだが銘文には何ら記載がなく、 鉄剣製作時(西暦471年)までにはそのような天皇は存在しておらず、 後の世になって創作された存在であることを暗に物語っている。
4代・6代~9代の天皇の名は明らかに和風諡号と考えられるが、
『記紀』のより確実な史料による限り和風諡号の制度は6世紀半ば頃に始まったものである。
また、
神武天皇・綏靖天皇のように伝えられる名が実名とすると、
それに「神」がつくのも考え難く、
さらに「ヤマトネコ」(日本根子・倭根子。「ネコ」とは一定の地域を支配する首長・王といった意味。)などという美称は『記紀』が編纂された7・8世紀の天皇の諡号に多く見られるもので後世的であり、
やはりこれらの天皇は後世になって皇統に列せられたものと考える見方が妥当である。
系譜などの『帝紀』的記述のみで事跡などの『旧辞』的記述がなく、
あっても2代綏靖天皇が手研耳命を討ち取ったという綏靖天皇即位の経緯ぐらいしかない。
これらは伝えるべき史実の核がないまま系図だけが創作された場合に多く見られる例である。
すべて父子相続となっており兄弟相続は否定されている。
父子相続が兄弟相続に取って代わったのはかなり後世になるため、
これでは歴史的に逆行することになる。
このことは上述の天皇の異常な長寿と考え合わせて、
皇統の歴史を古く見せかけようとしたために兄弟相続など同世代間での相続を否定したと考えるべきである。
陵墓に関しても欠史八代の天皇には矛盾がある。
第10代崇神天皇以降は、
多くの場合その陵墓の所在地には考古学の年代観とさほど矛盾しない大規模な古墳がある。
だが第9代開化天皇以前は、
考古学的に見て後世に築造された古墳か自然丘陵のいずれかしかない。
その上、
当時(古墳時代前~中期頃)築造された可能性のある古墳もなければ、
弥生時代の墳丘墓と見られるものもない。