小窓
富士山噴火史

作成日:2023/3/31

小御岳火山(こみたけかざん)噴火。約70万年前~20万年前

小御岳火山(こみたけかざん)噴火。約70万年前~20万年前

富士山の周辺一帯は数百万年前から火山活動が活発であったことが知られている。

今から数十万年前頃に、箱根火山や愛鷹(あしたか)火山の活動が始まり、 ほぼ同じ頃、約70万年前に現在の富士山の位置に小御岳(こみたけ)火山が活動を始めた。

現在ではこの火山の頭部が、 富士山北斜面5合目(標高2300メートル)の小御岳付近に出ている。

小御岳(こみたけ)火山は多量の安山岩溶岩や火山灰、火山砂礫を噴出し、 爆発を繰り返しながらゆっくりと大きくなり、 最終的には2400mほどになった。

北側スバルライン終点、小御岳神社近くの泉ケ滝(いずみがたき)で、 この小御岳(こみたけ)火山の頂部と思われる安山岩の姿を見ることが出来る。

古富士火山(約10万年前)

古富士火山(こふじかざん)。約10万年前

およそ10万年前頃になると、 小御岳(こみたけ)火山の南側と愛鷹(あしたか)火山の間で、 古富士火山(こふじかざん)が活動をはじめた。

この古富士(こふじ)火山は爆発的な噴火を繰り返し、 玄武岩の岩片と火山灰の混合物、 古富士泥流を西は富士川岸、 東は酒匂川(さかわがわ)上流付近まで流した。

この古富士(こふじ)火山は、高さおよそ2700mに達し、 その噴出し続けた火山灰は風で東へ運ばれ、 関東平野を覆う関東ローム層の上部をつくっている。

なおこの古富士(こふじ)火山が流した古富士(こふじ)泥流は、 白糸の滝や宝永山(ほうえいざん)の赤岩で目にすることが出来る。

氷河期と泥流

氷河期と泥流

富士山周辺の調査では、 古富士(こふじ)火山の時代には火山泥流が頻発したことが判明している。
当時は氷河期で、 もっとも寒冷化した時期には、 富士山における雪線(夏季にも雪が消えない地帯の境界)は標高2,500メートル付近にあり、 それより高所には万年雪または氷河が存在したと推定されている。
山頂周辺の噴火による火山噴出物が雪や氷を溶かして大量の泥流を発生させたと推定されている。

溶岩主体に移行

溶岩主体に移行

約11,000年前になると、 富士山の噴火の形態が大きく変わり、 その後約2,000年間は断続的に大量の溶岩を流出させた。
富士山の溶岩は玄武岩質で流動性が良く遠くまで流れる傾向がある。
この時期に噴火した溶岩は最大40キロメートルも流れており、 南側に流下した溶岩は駿河湾に達している。

新富士火山(約1万年前)

新富士火山(しんふじかざん)。約1万年前

富士山は、古富士(こふじ)火山の溶岩流のあと約4,000年間平穏であったが、 1万年程前になると、 古富士(こふじ)火山の活動は、多量の溶岩を流す噴火に変わり、 古富士(こふじ)火山の中心火口とほぼ同じ所から噴火が起こり、 新富士(しんふじ)火山の活動が始まった。

新富士(しんふじ)火山の噴火では、 溶岩流、火砕流、スコリア、火山灰、山体崩壊、 側火山の噴火などの諸現象が発生しており、 噴火のデパートと呼ばれている。 また、新富士火山の火山灰は黒色であることが多く、 新富士火山の噴火は、地層的にも新しく、 また8世紀以後には日本の古文書に富士山の活動が記載されており、 噴火について貴重なデータを提供している。

この新しい富士火山は、小御岳(こみたけ)、 古富士(こふじ)の両火山を玄武岩溶岩で幾重にも覆い、 海抜3776mの高さに成長した。

これが現在の富士山で、生誕から約10万年、 現在の姿になってからは約1万年ということになる。

3000年前の爆発的噴火

3000年前の爆発的噴火

縄文時代後期に4回の爆発的噴火が起こった。
これらは仙石スコリア、大沢スコリア、大室スコリア、砂沢スコリアとして知られています。富士山周辺は、通常西風が吹いており噴出物は東側に多く積もりますが、大沢スコリアのみは、東風に乗って浜松付近まで飛んでいる。

御殿場泥流

御殿場泥流

約2,300年前、富士山の東斜面で大規模な山体崩壊が発生し、 泥流が御殿場市から東へは足柄平野へ、 南へは三島市を通って駿河湾へ流下した。 これは御殿場泥流と呼ばれており、 この泥流が堆積した範囲は現在の三島市の広い地域に相当する。

山体崩壊が発生した原因は、現在のところ特定されていないが、 崩壊当時、顕著な噴火活動が見られないこともあって、 富士川河口断層帯ないし国府津松田断層帯を震源とする大規模な地震によるのではないかという説が出されている。

延暦大噴火(西暦800年)

延暦大噴火(西暦800年)

『日本紀略』によると、西暦800年(延暦19年旧暦3月14日から4月18日)にかけて大規模な噴火が起こったとさる。
また、2年後の西暦802年(延暦21年)1月8日???どっち???にも噴火の記録がある。これに伴って相模国足柄路が一次閉鎖され、5月19日から翌年の1年間は、箱根路が代用された。

貞観大噴火(西暦864~西暦866年)

貞観大噴火(西暦864~西暦866年)

864年(貞観6年)富士山の北西斜面(現在の長尾山)から大量の溶岩を流す噴火が起こった。
流れ出た溶岩の一部は当時あった大きな湖(せの海)を埋めて西湖と精進湖に分断し、 大部分は斜面を幅広く流れた。
これは青木が原溶岩と呼ばれ、 現在そこには樹海が広がっている。

宝永大噴火(西暦1707年)

宝永大噴火(西暦1707年)

西暦1707年宝永4年)大量のスコリアと火山灰を噴出した宝永大噴火が発生した。 この噴火は日本最大級の地震である宝永地震の49日後に始まり、 江戸市中まで大量の火山灰を降下させるなど特徴的な噴火であった。

噴火の1~2か月前から山中のみで有感となる地震活動が発生し、 十数日前から地震活動が活発化、 前日には山麓でも有感となる地震が増加した(最大規模はマグニチュード5程度)。
12月16日朝に南東山腹(今の宝永山)で大爆発を起こし、 黒煙、噴石、降灰があり、 激しい火山雷があった。 また、その日のうちに江戸にも多量の降灰があり、 川崎で5センチメートル積もった。

噴火は月末まで断続的に起きていたが、 次第に弱まってきた。 山麓で家屋や耕地に大きな被害があり、 噴火後は、洪水等の土砂災害が継続した。

山頂周辺での噴気活動(江戸時代晩期~昭和中期)

山頂周辺での噴気活動(江戸時代晩期~昭和中期)

宝永の大噴火後、 富士山では大規模な火山活動はなかったが、 江戸時代晩期から昭和中期にかけて、 山頂火口南東縁の荒巻と呼ばれる場所を中心に噴気活動が発生した。
この活動は西暦1854年の安政東海地震をきっかけに始まったと言われており、 明治、大正、昭和中期に掛けての期間、 荒巻を中心とした一帯で明白な噴気活動が存在したことが、 測候所の記録や登山客の証言として残されている。 この噴気活動は明治中期から大正にかけて、 荒巻を中心に場所を変えつつ活発に活動していたとされている。 活動は昭和に入って低下し始めたが、 西暦1957年の気象庁の調査においても50度の温度を記録している。 その後西暦1960年代には活動は終息し、 現在、山頂付近には噴気活動は認められていない。
しかしながら、 噴気活動終了後も山頂火口や宝永火口付近で地熱が観測されたとの記録もあった。

山頂で有感地震(西暦1987年8月20日~27日)

山頂で有感地震(西暦1987年8月20日~27日)

富士山で一時的に火山性地震が活発化し、 山頂で有感地震を4回記録した。
(最大震度3) やや深部での低周波地震の多発(西暦2000年10月~12月及び西暦2001年4月~5月)富士山のやや深部で、 低周波地震が一時的に多発した。

古文書などでの富士山の噴火記録

古文書などでの富士山の噴火記録

古記録によれば新富士火山の噴火は西暦781年以後17回記録されている。
噴火は平安時代に多く、 西暦800年から西暦1083年までの間に12回の噴火記録がある。
また噴火の合間には平穏な期間が数百年続くこともあり、 例えば西暦1083年から西暦1511年までは400年以上も噴火の記録はない。
また西暦1707年宝永大噴火以後も約300年間噴火しておらず、 平穏な状態が続いている。