小窓
遺跡(日本・青森)

作成日:2024/2/17

記事はあいうえお順で記載。

大平山元遺跡(おおだい やまもと いせき)

大平山元Ⅰ遺跡(おおだい やまもと いち いせき)は、 青森県東津軽郡外ヶ浜町にある旧石器時代終末期から縄文時代草創期の遺跡である。 西暦2013年平成25年)3月27日付で国の史跡に指定された。 指定名称は「大平山元遺跡(おおだいやまもといせき)」。

西暦1975年昭和50年)とその翌年に青森県立郷土館により、 西暦1998年平成10年)に民家の建て替え工事に伴い旧蟹田町教育委員会により発掘調査されている。 旧蟹田町教育委員会が行った発掘調査で出土した縄文土器は世界の中で最も古いとされるものがある。

縄文土器に付着した炭化物のAMS法による放射性炭素年代測定法の算定で16,500年前下記【注】参照(暦年較正年代法による)のものである可能性があるとされる。
また、 石鏃も世界でもっとも古いもので、 これは世界で最も古い弓矢の使用を示す。 この縄文土器の発見により、 日本の旧石器時代が」終わり、 縄文時代に時代は移っていった。

【注】
発掘された土器の年代について、Wikipediaは15,000-16,500年前(脚注「谷口2000年 P.22」)となっている。
しかし、他のサイト(例えば「縄文遺跡群世界遺産事務局(三内丸山遺跡センター 世界文化遺産課内)」)では、 紀元前13,000年頃となっている。
違った言い方をすると、 15,000-16,500年前と書いてあるのはWikipediaだけであった。
この項は当初Wikipediaを元の作成したものであったので、 とりあえずはこのまま記載しておく。2023/12/3

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外ヶ浜町山元地区にはⅠ~Ⅳ遺跡、 墓地公園遺跡などいくつもの縄文遺跡が発見されているが、 このうち本遺跡は縄文時代草創期のものである。
これらから出土した石器や土器は、 大山小学校跡の大山ふるさと資料館に保存されて自由に見学ができるようになっている。

大平山元Ⅰ遺跡からは石斧石核石鏃などの石器も発掘されている。
ほとんどの石器の材料は地元の川から採れる頁岩からできているが、 中には青森県西津軽郡鰺ヶ沢町から運ばれてきた黒曜石からできている石器もある。

土器はすべて小破片で形の分かるものはないが、 文様はなく平らで角張った底の土器である。
土器の内側には炭化物が付着しており、 食料の煮炊きに使ったものであることが分かる。
これは世界でもっとも古い煮炊きの跡と言えるだろう。

現在は民家と民家の間に挟まれた狭い空き地にある。
田の近くにあるため、 縄文時代には湿地帯のすぐ近くの小高い場所だったとされる。

北海道・青森県・岩手県・秋田県及び関係市町村が連携して世界遺産登録を目指す「北海道・北東北の縄文遺跡群」を構成する16遺跡の1つとなっている。

三内丸山遺跡(さんない まるやま いせき)

三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)

三内丸山遺跡は、 青森県青森市大字三内字丸山にある、 縄文時代前期中頃から中期末葉(約5900-4200年前)の大規模集落跡。 当時、クリ、クルミなど手入れされた落葉広葉樹林(ナラ林帯)に囲まれた集落で、 現在の沖館川右岸の河岸段丘上に立地する。 西暦1997年3月5日、 国の特別史跡に指定。
西暦2021年7月27日、 国際連合教育科学文化機関(UNESCO)により、 「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界文化遺産に登録された。

遺跡には竪穴建物(竪穴住居)群、 高床建物(高床倉庫)群、 大形竪穴建物のほか、 シンボル的な3層の掘立柱建物が再現されており、 資料や出土品の展示施設「縄文時遊館」もある。 青森県教育庁三内丸山遺跡センターが継続的に発掘調査を行っている。

遺跡の概要

八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、 標高は約20メートルで、 遺跡は約40ヘクタールの広大な範囲に広がっている。 集落は住居、墓、捨て場、大型掘立柱建物、掘立柱建物、貯蔵穴、墓・土壙墓、粘土採掘穴、盛り土、道路などが、計画的に配置されている。

この遺跡は現在の敷地から、 広場を囲むように住居が造られた環状集落であると見られることもあるが、 住居が非同心円状に機能別に配置されているところから見て、 それとは異なる形式であると考えられる。 現在の遺跡の環状構造はかつて野球場建設の際、 その敷地が円形であった跡であり、遺跡とは関係ないものである。

遺跡には、 通常の遺跡でも見られる竪穴建物、 高床倉庫の他に、 大型竪穴建物が10棟以上、 約780軒にもおよぶ建物跡、 さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。 また、他の遺跡に比べて土偶の出土が多く、 板のように薄く造られていて板状土偶と呼ばれる。 次の縄文後期や晩期の立体的に体の各部を表現した土偶とは大きく異なっている。

遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、 それが栽培されていたものであることなども分かった。 多数の堅果類(クリ、クルミ、トチなど)の殻、 さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土した。 三内丸山の人たちは、 自然の恵みの採取活動のみに依存せず、 集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽しており、 一年草を栽培していた可能性も考えられる。 このことを通してこの遺跡の居住者数は数百人と考える事ができる。 1994年(平成6年)9月に青森市で開催された「北のまほろばシンポジュウム」では、 最盛期の縄文時代中期後半には500人の居住者がいたのではないかとの発言があったが、 異論も出た。

それらは縄文時代の文化が従来考えられていたものよりも進んだものであることを示すものであった。 遺跡は他の近くの遺跡に繋がっている可能性が高く、 未だに全容は把握しきれていない。

三内丸山遺跡と一連のものであると考えられる遺跡
三内丸山遺跡と一連のものであると考えられる遺跡
遺跡の終焉の謎
これほどの大規模集落がなぜ終焉を迎えたのかは謎である。 一因としては、 気候の寒冷化などが挙げられるが、 それだけで集落全土を手放すとは考えづらい。 栗の栽培を停止しなければならない何か特別な理由があったという見解も示されてはいるが、 それが何であるかは分かっていない。