『後宇多天皇宸翰御手印遺告』(国宝、大覚寺蔵)の巻頭部分 文永4年(1267年)、亀山天皇の第二皇子として誕生する。母は左大臣洞院実雄の娘、皇后佶子(京極院)。祖父・後嵯峨上皇の意志により、文永5年(1268年)生後8か月で立太子。文永11年(1274年)1月に亀山天皇から譲位を受けて8歳で践祚。亀山上皇による院政が行われた。 治世中には、元・高麗軍による文永・弘安の両役、いわゆる元寇が発生した。 建治元年(1275年)、亀山上皇の血統(大覚寺統)に天皇が続くことを不満に思った後深草上皇(持明院統)が幕府に働きかけ、幕府の斡旋により、後深草上皇の皇子で2歳年上の熈仁親王(伏見天皇)を皇太子とする。弘安9年(1286年)に第一皇子の邦治(後二条天皇)が親王宣下を受けるが、弘安10年(1287年)、21歳で皇太子・熈仁親王(伏見天皇)に譲位した。以後、持明院統と大覚寺統による皇位の争奪に対し、調停策として出された幕府の両統迭立案に基づく皇統の分裂が続く。 第一皇子である後二条天皇(94代)の治世、正安3年(1301年)から徳治3年(1308年)まで院政を敷いた。 徳治2年(1307年)、寵妃の遊義門院が亡くなったことが契機となり、仁和寺で落飾(得度)を行い、金剛性と称した。そのとき、大覚寺を御所とすると同時に入寺、大覚寺門跡となった。翌徳治3年(1308年)には後二条天皇が崩御したため、天皇の父(治天の君)としての実権と地位を失い、後醍醐天皇即位までの間、政務から離れる。この頃から、真言密教に関心を深め、正和2年(1313年)、かねてからの希望であった高野山参詣を行った。参詣の途中、山中にて激しい雷雨に遭い、気を失うほど疲労してしまい、供をしている者が後宇多法皇に輿に乗られるように勧めたが、高野山に到着するまで輿に乗らなかったという。真言密教に関する著作として『弘法大師伝』『後宇多天皇宸翰御手印遺告』などがある。大覚寺で院政を執ったときに法印・法眼・法橋などの称号・位階を設け、この称号の授与に関する権限を大覚寺に与える永宣旨(永代にわたり有効たる宣旨)を出した(ただしこの永宣旨は明治維新を迎えると廃止された)。また、仁和寺の御室門跡が法性法親王の没後、寛性法親王が後任に決まるまで、別当を代行していた禅助(中院通成の子)に迫って門跡だけが知り得る秘儀「密要抄」の内容の伝授を受けようとして法性に阻止されている(「密要抄」のような秘儀の相承は門跡の正統性の要件の1つであり、師弟関係にない他寺の人間に流出することは門跡の存続に関わる事態であった)。これは後宇多院による御室門跡の事実上の乗っ取り策であったとみられているが、これが失敗に終わったために自らを祖とする「大覚寺法流」と呼ばれる新たな門跡の素地となる法流を作りだした[1][2]。 また、大覚寺と並んで東寺に対しても積極的な庇護を与え、徳治3年(1308年)には後二条天皇からの勅命の形で東寺及び広沢流と縁が深い益信に「本覚大師」の諡号を授与したことに延暦寺が反発、真言宗と天台宗の争いに発展するだけでなく持明院統や鎌倉幕府まで巻き込むなど政治問題化した[3]。北畠親房は『神皇正統記』の中で後醍醐天皇の美点として、父院の信仰を受け継ぎながらも真言宗だけではなく他の宗派への配慮も欠かさなかったことを挙げて、後宇多院の真言宗を極端に重視した宗教政策を間接的に批判している[4]。 持明院統の花園天皇を挟んで、第二皇子の尊治親王(後醍醐天皇)が文保2年(1318年)に即位すると再び院政を開始。元亨元年(1321年)、院政を停止し隠居。以後、後醍醐の親政が始まる。 後醍醐に政務を移譲した理由は、『増鏡』「秋のみ山」によれば、仏道の修行に専心したいからだったという[5][注釈 2]。日本史研究者の河内祥輔は、仏道に専念したいというのは、本人が真意を隠すために公言 したことに過ぎず、実際は、後醍醐に実績と権威を積ませることで、正嫡の邦良派と准直系の後醍醐派の二頭体制で天皇位・皇太子位を独占させて、持明院統の親王の立太子を防ぎ、両統迭立での完全勝利を背後から策謀したのではないか、という[8]。一方、中井裕子は、『増鏡』の仏道専念説がやはり正しいであろうとし、後二条の代にも政務を譲ろうとした形跡があること(『実躬卿記』徳治2年(1307年)7月26日条)、既に以前から後醍醐に所領管理を任せていたこともあること、などを挙げ、後継者育成が一段落したところで政務を離れて隠居したかったのではないか、という[5]。 元亨4年(1324年)6月25日、大覚寺御所にて崩御。享年58。同年9月に正中元年事件(いわゆる正中の変)が発生した。
後宇多上皇の人物評としては、政敵である持明院統の天皇で、学問皇帝として名高い花園上皇の『花園天皇宸記』元亨4年6月25日条[10]が著名である。花園による評伝では、後宇多は「天性聡敏、博覧経史、巧詩句、亦善隷書」と、聡明な帝王であり、学問・和歌・書道にも長けていたと評される[10]。花園によれば、後宇多は、後二条天皇の上に治天の君として立っていた乾元・嘉元年間(1302年 - 1306年)の間は厳粛な善政を行っていたという[11]。しかし、寵妃の遊義門院の崩御後は仏教にのめりこみ、第二次院政期は賄賂政治になってしまった、と花園は後宇多の晩年の政治を批判する[11]。とはいえ、総評としては「晩節雖不修、末代之英主也、不可不愛惜矣」つまり「晩節を汚したとはいえ、末代の英主であることには違いない。その崩御が本当に名残惜しい」と、自身の政敵でありながら、後宇多を惜しみなく称えている[10]。この評伝からは、評価された側の後宇多の才覚だけではなく、評価する側の花園の、簡にして要を得た筆力と、冷静で客観的な性格も読み取ることができる[11]。 日本史研究者の森茂暁は、「うたがいなく鎌倉時代の牽引役を果たした人物の一人で、歴代天皇・上皇のなかでもまれにみる辣腕の政治家」と評している[11]。 第一次院政期には、裁許を迅速にするため、院への取次を務める伝奏(てんそう)を訴訟処理の中核として用いるなど、訴訟制度の効率化を進めた[12]。また、子の後醍醐天皇は検非違使庁を土地裁判・納税徴収など京都の統治に活用したが、中井裕子によれば、これも後宇多の院政期に既にその嚆矢は見られるという[13]。市沢哲によれば、こうした後宇多前後の諸帝の訴訟制度改革の取り組みと連動して、治天の君が果たす役割が大きくなったため、後醍醐の王権強化の改革もまた時代の流れに沿ったものであり、後宇多らの朝廷政治の延長と捉えられるという[13]。20世紀最末期からの研究の流れでは、後醍醐は建武政権で後宇多ら朝廷の改革と鎌倉幕府の改革を発展的に統合させ、後進の室町幕府も建武政権の政策を基盤としているという[14]。
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町にある蓮華峯寺陵(れんげぶじのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方形堂・石造五輪塔。 大覚寺殿にて崩御し、その3日後に蓮華峰寺の傍山に葬られたという。 また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
遺詔によって、「宇多天皇」の追号に「後」の字を冠した後宇多院の追号が贈られた(『花園天皇宸記』元亨4年6月25日条…「奉号後宇多院、是遺詔歟」)[15][10]。宇多天皇もまた、真言宗に傾倒し、阿闍梨(師僧)の資格を得た天皇だった。 なお、日本史研究者の河内祥輔によれば、子の後醍醐天皇が自身の追号を「後醍醐」としたのは、後宇多の後継者であることを自認していたからではないかという[7]。宇多天皇が子の醍醐天皇のために書き残した遺訓の『寛平御遺誡』は、この当時広く知られており、『寛平御遺誡』の名声を通じて自身が後宇多の後継者であることを示したかったからではないか、という[7]。 嵯峨天皇の離宮であった大覚寺を再興しそこで院政を執ったため、大覚寺殿と称され、のちには亀山・後宇多の皇統を指す語にもなった。ほかに御所として使用された万里小路殿や常磐井殿に基づく異称もある。また、落飾(得度)したため、僧侶としての法諱・金剛性がある。