周の時代を理想とした政策を行なったが、
その理想主義・復古主義的な政策は当時の実情に合っておらず、
国内は混乱した。
また、匈奴や高句麗に対して高圧的な態度を取ったためにこれらの離反を招くなど、
その統治は失敗に終わり、
国内には不満をもつものが多くなった。[要出典]
具体的な政策としては、
古代の名称に合わせた地名や役職名の頻繁な改名、
井田制の導入による小作農民のための農地の国有化、
奴隷売買の禁止、
高利貸しに対し、
国家による安い金利での融資などを行った。
これについては地主や高利貸し等から反発があった。
貨幣制度改革は復古主義的なものであり、
五銖銭を廃止し、
金銀貨に加えて布貨(鍬の形の銅貨)や貝貨・亀貨などを導入する。
この幣制改革によって制度が複雑になったため経済が混乱し、
私銭鋳造を認めるまでになった。
財政面では塩と鉄と酒の専売制の強化に依拠し、
この面での民衆の負担を増やした。
また、
諸侯王を公に、
冊封国王を侯に格下げしたことで、
後者の諸国は反発し冊封から離脱する。
これに対して新朝は懲罰戦争を起こし、
匈奴には30万人、
西南の句町国には20万人の兵を派遣し、
後者では6・7割が餓死・疫病で死んだとされる。[要出典]
やがて、赤眉・緑林の乱が起こり、
更始帝の軍により長安を落とされて
王莽は殺され、
1代限りで滅んだ。