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新 / 莽新

作成日:2024/8/13

(しん)  西暦8年 - 西暦23年

は、中国の王朝。 前漢の外戚であった王莽前漢最後の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて(実際は簒奪)建てた。 都は長安(前漢の都であった長安を引き続き都としたが、名は「常安」に改められた)。

国号の「」は、 成帝の時期に王莽が新都侯に封じられたことに由来する。 莽新とも呼ばれる。

年表

西暦784年允恭天皇10年)
  • あああ
  • (この年)
    • あああ

概要

周の時代を理想とした政策を行なったが、 その理想主義・復古主義的な政策は当時の実情に合っておらず、 国内は混乱した。

また、匈奴や高句麗に対して高圧的な態度を取ったためにこれらの離反を招くなど、 その統治は失敗に終わり、 国内には不満をもつものが多くなった。[要出典]

具体的な政策としては、 古代の名称に合わせた地名や役職名の頻繁な改名、 井田制の導入による小作農民のための農地の国有化、 奴隷売買の禁止、 高利貸しに対し、 国家による安い金利での融資などを行った。 これについては地主や高利貸し等から反発があった。

貨幣制度改革は復古主義的なものであり、 五銖銭を廃止し、 金銀貨に加えて布貨(鍬の形の銅貨)や貝貨・亀貨などを導入する。 この幣制改革によって制度が複雑になったため経済が混乱し、 私銭鋳造を認めるまでになった。 財政面では塩と鉄と酒の専売制の強化に依拠し、 この面での民衆の負担を増やした。

また、 諸侯王を公に、 冊封国王を侯に格下げしたことで、 後者の諸国は反発し冊封から離脱する。 これに対して新朝は懲罰戦争を起こし、 匈奴には30万人、 西南の句町国には20万人の兵を派遣し、 後者では6・7割が餓死・疫病で死んだとされる。[要出典]

やがて、赤眉・緑林の乱が起こり、 更始帝の軍により長安を落とされて王莽は殺され、 1代限りで滅んだ。

王莽

王莽(おう もう)  紀元前45年 - 西暦23年10月6日

王莽は、新朝の皇帝。 字は巨君。
『漢書』などに記されている「莽」の字の草冠の下の字は大ではなく犬である。

前漢の元帝の皇后の王政君(孝元皇后)の甥で、成帝の母方の従弟にあたる。王曼の次男。子は王宇・王獲・王安・王臨・王興・王匡ら。娘は平帝の皇后王氏・王曄・王捷ら。孫(王宇の子)は王千・王寿・王吉・王宗・王世・王利。孫娘(王宇の娘)は王妨(王宗の姉。衛将軍に任じられた王興の妻)・王氏(下の名前は不明。定安公に封じられた後の孺子嬰の妻)。兄は王永。甥(王永の子)は王光。正妻は丞相王?の孫の宜春侯王咸の娘。

儒教の新興による名声の高まりと、天命と称する符命も利用して、平帝の死後、漢の皇帝を践祚(代行)することを名目に、漢の摂皇帝や仮皇帝となり、やがて、符命を理由に漢(前漢)から禅譲を受けて新の皇帝に即位したが、直後に各地で反乱が起こり、更始帝の軍の攻撃を受けて殺害された。