花園天皇(はなぞのてんのう)
作成日:2020/6/16
花園天皇は、日本の第95代天皇。
伏見天皇の第四皇子。
日本の第95代天皇 花園天皇(はなぞのてんのう)
[在位] 延慶元年8月26日(西暦1308年9月11日)- 文保2年2月26日(西暦1318年3月29日)《紀》
[生没] 永仁5年7月25日(西暦1297年8月14日)- 貞和4年11月11日(西暦1348年12月2日)52歳没《紀》
[時代]
鎌倉時代
[先代]
後二条天皇<
[次代]
後醍醐天皇
[陵所]
十樂院上陵(じゅうらくいんのうえのみささぎ)
[
追号] 花園院
[
諱] 富仁(とみひと)
[別称] 遍行(法名)、富小路天皇、萩原法皇
[父親]
伏見天皇
[母親] 左大臣洞院実雄の女、洞院季子(とういん すえこ/きし)。院号:顕親門院。
[
皇居]
二条富小路内裏(にじょうとみのこうじだいり)
年譜
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- 永仁5年(西暦1297年)
- 7月25日(8月14日) 降誕
- 延慶4年(西暦1311年)
- 1月3日(1月22日) 元服
- (西暦)
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- (西暦)
- () 即位礼
- (西暦)
- () 大嘗祭
- 貞和4年(西暦1348年)
- 11月11日(12月2日) 崩御。於:萩原殿
- 貞和4年(西暦1348年)
- 11月13日(12月4日) 大喪儀
- (西暦)
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- (西暦)
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略歴
延慶元年(1308年)8月25日、大覚寺統の先帝後二条天皇が急死したために翌26日に12歳で践祚、11月16日に即位。在位の前半は父の伏見上皇が、後半は兄の後伏見上皇が院政を布いた。文保2年(1318年)2月、大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)に譲位。
譲位後は、皇太子となった甥の量仁親王(光厳天皇)の養育にあたったが、その一環として、元徳2年(1330年)2月、親王を訓戒するために記した『誡太子書』(宮内庁書陵部蔵)は、やがて訪れるであろう動乱の時代に備えて勉学の必要性があることを説いた書として名高い。
禅宗の信仰に傾倒し、建武2年(1335年)11月、円観について出家、法名を遍行と称した。宗峰妙超と関山慧玄を師とし、暦応5年(1342年)1月には仁和寺の花園御所を寺に改めて妙心寺を開基している。
貞和4年(1348年)11月、花園萩原殿で崩御。享年52。
人物
歌道・学問・書道に優れ、特に和歌では京極派の主要人物の一人で『風雅和歌集』の監修を行っている。日記『花園天皇宸記』は宸筆の原本が今日に残る(宮内庁書陵部蔵)。信心深く読経や念仏を欠かさなかった。
『誡太子書』と同時期に量仁親王のために著したとみられる『学道之御記』(宮内庁書陵部蔵)では、その冒頭部で「学問の目的はただ文字を識り、博学になるためのものではなく、本性に達し、道義をおさめ、礼義を知り、状況の変化をわきまえ、過去を知り未来に活用するためのものである」という意味の一文を掲げているが、そこからも天皇の持っていた学問に対する考え方がよく見て取れる。逆に、博学だけを吹聴したり、風月文章をもって旨とすることを「学者之弊」として戒める記述が『花園天皇日記』には散見する。
諡号・追号・異名
仙洞御所である洛西花園の萩原殿にちなみ、生前は「萩原法皇」と呼ばれた。追号である花園院は遺詔による。
后妃・皇子女
後宮:正親町実子(宣光門院)(1297-1360)- 権大納言正親町実明女、太政大臣洞院公守養女
第一皇女:寿子内親王(徽安門院)(1318-1358)- 光厳天皇後宮
第二皇子:源性入道親王(業永親王)(1327-1353)- 仁和寺門跡
第三皇子:直仁親王(1335-1398)- 崇光天皇皇太子
皇女:儀子内親王(?-1348?)
皇子 - 聖護院
皇女 - 花山院某室
後宮:一条局(?-1325)- 権大納言正親町実明女
第一皇子:覚誉法親王(1320-1382)- 聖護院門跡
典侍:葉室頼子(冷泉局・別当典侍) - 勘解由次官葉室頼任女
皇女:祝子内親王(?-?)
皇女
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、
宮内庁により京都府京都市東山区粟田口三条坊町にある十樂院上陵(じゅうらくいんのうえのみささぎ)に治定されている。
宮内庁による形式は円丘。
埋葬は崩御の2日後である。