多褹国が存続した期間中、 遣唐使が多褹国(多褹嶋)に帰着したことが二度ある。
一度目は西暦734年(天平6年11月20日)で、 大使多治比広成の乗船が帰国した。 この船には吉備真備・玄昉らが乗船し、帰国を果たした。
二度目は西暦753年(天平勝宝5年12月12日)(又は12月7日)で、
この時には琉球を3隻で発って多禰嶋を目指した遣唐使船のうち
第2船・第3船が多褹国の益救嶋(屋久島)に帰国した。
この第2船には鑑真が乗船しており、日本への来日を果たした。
大使藤原清河や阿倍仲麻呂らを乗せた第1船は琉球出航後に遭難し安南に漂着。
第3船には、2度目の入唐から帰国した副使・吉備真備が乗船していた。
国の格付けは、南島(奄美・沖縄方面)との交流や遣唐使の派遣、 隼人対策などの点から重要視されて中国とされていたが、 実際には下国をはるかに下回る規模の税収しかなく、 行政的な運営経費の不足分は大宰府が他の国から補填していた。
しかし隼人の対策が一段落し、 遣唐使の派遣経路が変わると多禰島の重要性は薄れてきた。
大宰府管内の飢饉に対処するために、
多禰島の運営経費に当てていた税収が減少することになったため、
財政の見直しの観点から西暦824年(天長元年10月1日)に多褹嶋司を司を廃止し、
能満郡・熊毛郡・馭謨郡・益救郡の四郡を熊毛郡・馭謨郡の二郡に再編して大隅国に編入した。
なお、都良香が手掛けた太政官奏(太政官謹奏 停多褹島隸大隅國事)は名文とされ、
『本朝文粋』にも収録されている。