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古代ギリシャ

作成日:2020/5/1

古代ギリシャがいつの時代を指すのかは諸説ある。
  1. 太古から古代ローマに占領される紀元前30年まで。
  2. 紀元前3000年頃に栄えたエーゲ文明(キクラデス文明)から古代ローマに占領される紀元前30年まで。
  3. ポリス(都市国家)社会が成立する紀元前800年頃から消滅を迎える紀元前149年から西暦148年頃まで
ここでは「1.の太古から古代ローマに占領される紀元前30年まで」を古代ギリシャと定義する
この選択は、 学問的な意味は全く持っておらず、 記事をまとめる都合だけである。

古代ギリシャとは、 ギリシャ最古の人類「ペトラロナ人」が生存していたと思われるおよそ40万年前(ないしは20万年前)から、 紀元前146年に古代ローマに占領されるまでのギリシャをいう。 これは、前期旧石器時代から末期新石器時代に該当する。

日本人が「ギリシャ」といっているのは、英語表記での Greece のこと。
しかし、ギリシャ人は自分の国をギリシャとも Greece とも言わない。 現代ギリシャ語ではエラダという。 ギリシャとはローマ人が使った言葉からきており、ギリシャの言葉ではなかった。

ギリシャ神話の英雄ヘレン(Hellen)は、古代ギリシャの名祖とされる。 古代ギリシャ人たちは、 自らをヘレネスヘレーネス)、 またその地をヘラスと呼んでいた。 それは、 彼らが自らを英雄ヘレン(Hellen)の子孫であると信じたからであり、 ヘレン(Hellen)の子や孫からドーリア人、 アイオリス人イオニア人アカイア人というギリシャ人の各部族の先祖に分かれた考えられている。
またヘレネスの居住するギリシャ本土をヘラスという。

年表

40万年前~20万年前
15万年前
5万年前
  • 5万年ほど前に至ると最終氷期に突入、海面は下降し、 新人の時代に移った。
3万年前
  • 3万年前になると後期旧石器時代に入るが、 この時代は海面の上昇により痕跡物の数は多くないが、 フランクティ洞窟やセオペトラ洞窟などで狩猟採集民による活動を示唆する文化層の堆積が見られる。
    また、 この時代、 狩猟の方法も組織的なものへ変化し、 さらには石器の加工技術も進み、 洞窟絵画や女性彫像もこの時代に見られる。
紀元前7000年
  • ギリシャは新石器時代に入る。
    この時代は土器の様式や放射性炭素年代測定法による測定により、
    • 初期新石器時代:紀元前7000年 - 紀元前5800年
    • 中期新石器時代:紀元前5800年 - 紀元前5300年
    • 後期新石器時代:紀元前5300年 - 紀元前4500年
    • 末期新石器時代:紀元前4500年 - 紀元前3200年
    の四段階に区分されている。
紀元前6000年から紀元前5800年頃
  • このころ農村への定住の始まった。
紀元前3200年から紀元前3000年頃
  • ギリシャでは青銅器時代が始まったと考えられている。
紀元前13世紀
紀元前12世紀
  • ドーリス人を代表とする別系統のギリシャ人が南下を始め、 アテーナイとアルカディアを残す領域を征服した。
  • ドーリス人を代表とする西ギリシャ民族のこの進出により ミュケーナイ文化凋落し、 ギリシャの「暗黒」時代が訪れる。
紀元前9世紀から紀元前8世紀
  • ミケーネ土器を基にして進化した幾何学文様土器が作成されていたため、俗に「幾何学文様期」と呼ぶ。
紀元前8世紀
  • ギリシャ各地に都市国家であるポリスが徐々に生まれてくる。
紀元前776年
  • 第1回古代ペルシャ開催。(古代ペルシャは西暦393年の第293回まで開催された)
  • 慣例的に、アルカイック期紀元前480年まで)が始まったのは、最初の古代ペルシャが始まった年とされる。
紀元前700年
紀元前660年
  • 古代ギリシャ.第30回オリュンピア大祭(古代ペルシャ)が開催された。
紀元前632年
  • アテナイサイロン死去。
    テオゲネスの義理の息子であるサイロンという名前のアテネの貴族は、 紀元前632年にアテネで権力を掌握しようとして失敗した。
紀元前585年
  • 5月28日(先発ユリウス暦):中央アメリカから西アジアにかけて皆既日食が発生。
    ヘロドトスの『歴史』によれば、 ギリシャの哲学者タレスはこの日食を予測していたという。(タレスの日食
    またメディア王国とリュディア王国との戦闘中にこの日食が発生したために恐れた両国は休戦したという。(日食の戦い)
    ただし、タレスの「予測」の正確性や、 両国の戦闘の年代比定には議論がある。
紀元前561年
紀元前544年
  • アケメネス朝ペルシャ帝国に圧迫されたテオスの住民たちが、トラキアのアブデラへ逃れる。
紀元前543年
  • アテナイ僭主ペイシストラトスが、デロス島のアポローンの神殿近くにあった古い墓地を撤去し、デロス島を聖地として浄化した。
紀元前527年
  • アテナイ僭主ペイシストラトスが死去し、その子ヒッピアスが実権を掌握した。
紀元前525年
  • 《誕生》ギリシャ悲劇の劇作家・アイスキュロス。
  • 《死去》スパルタ王・アナクサンドリデス(紀元前560年即位)。
  • 《死去》古代ギリシャの科学者、哲学者・ミレトスのアナクシメネス(おおよその年代、異説あり)(紀元前585年ころ生)
  • デルポイのアポローン神域にある宝庫群の建設が完成する。(おおよその年代)
  • エクセキアスが、萼 (calyx) 型クラテールを考案する。(おおよその年代)
紀元前515年
  • (ギリシャ)エウリュポン朝のスパルタ王デマラトスが即位。
  • 《誕生》古代ギリシャの宗教哲学者・パルメニデス(紀元前450年没)おおよその年代、異説あり。
紀元前512年
  • (ギリシャ)トラキア地方のアブデラが、前年に続き、アケメネス朝の攻撃を受ける。
紀元前510年
  • アテナイ僭主ヒッピアスが、スパルタ王クレオメネス1世の支援を受けた民衆によって追放される。
  • スパルタ王アリストン(スパルタには王がふたりいる)の後継者としてデマラトスが即位。(紀元前515年とも)
  • アテナイの墓地で石碑の建立が規制され始める。(おおよその年代:紀元前430年ころまで。)
  • 《誕生》アテナイの将軍・キモン(紀元前450年没)。
紀元前508年
  • アテナイ僭主ヒッピアスが追放されクレイステネス率いる民主政が樹立され、オストラシズムの創設などの政治改革を行った。
    多分、「紀元前510年に追放されて2年後に」の意味か?
紀元前507年
  • アテナイの改革者クレイステネスが、実権を掌握して民主政を推進した。
紀元前502年
  • ナクソス島が、アケメネス朝ペルシャに対して反乱を起こす。
紀元前501年
  • クレイステネスがアテナイの民主政を改革する
  • ナクソスが、アケメネス朝ペルシャに攻撃される。
紀元前500年
  • 《誕生》アナクサゴラス - ソクラテス以前の古代ギリシャの哲学者(紀元前428年没)(おおよその年代)
紀元前499年
  • 紀元前502年にナクソス島の反乱の鎮圧に失敗した後、アケメネス朝ペルシャからの報復から自身を守ろうとしたアリスタゴラスは、ミレトスやその他のイオニア人とともに反乱を企てた。義理の父で前任のミレトスの僭主だったヒスティアイオスの支援を受け、アリスタゴラスはペルシャに対して反乱を起こし、これがイオニアの反乱の契機となり、ギリシャとペルシャの間でペルシャ戦争が始まった。ミティリーニの前の僭主は、この戦争で死亡した。
  • アリスタゴラスは、スパルタ王クレオメネス1世に反乱への支援を求めたが、スパルタから返事はなかった。
  • ガリポリ半島を治めていたミルティアデスは、紀元前514年頃からペルシャの宗主権の下に入っていたが、イオニアの反乱に加わった。彼はペルシャからリムノス島とギョクチェアダ島を奪還した。
紀元前498年
  • アレクサンドロス1世はアミュンタス1世の後を継いでマケドニア王国の王になった。
  • アテナイとエレトリアは、イオニアからの請願に応えてペルシャに対抗するためにエフェソスに軍を送った。ここでイオニア軍と合流し、リディアのサトラップであるアルタフェルネスの治めるサルディスに侵攻した。アルタフェルネスは軍の大半をミレトスの包囲に送っており不意を突かれたが、要塞に逃げ込むことができた(イオニアの反乱)。ギリシャ軍は要塞を攻めることはできなかったが、サルディスの町を略奪し、焼き払った
  • 湾まで退却したところで、ギリシャ軍はアルタフェルネスの率いるペルシャ軍と出会い、エフェソスの戦いでこれを破った。
  • カウノス(英語版)とカリアもビュザンティオンやダーダネルス海峡の町に続いてペルシャに対して反乱を起こした。また、オネシルスが非ペルシャ系の兄弟であるゴルゴスからサラミス王の座を奪うと、キプロスも反乱に加わった。
紀元前497年
  • Artybiusがキプロスの反乱を終結させた。
  • アケメネス朝はダーダネルス海峡への遠征に出発した。
紀元前496年
  • 紀元前6世紀の僭主ペイシストラトスの親戚でカルモスの息子ヒッパルコスは、アテネのアルコンの選挙に勝利し、ペルシャへの抵抗は無意味だと主張した。
紀元前494年
  • ペルシャの同盟国であるフェニキアは、海賊と見なしたギリシャ人に対して、膨大な賠償金を請求した
  • トラキア人及びスキタイは、 ミルティアデスをケルソネソスから連れ戻した。 ミルティアデスは、5隻の船に宝を載せ、 アテナイに向かった。 ミルティアデスの長子メティオコスが船長を務める1隻の船は拿捕され、 メティオコスは生涯、 ペルシャの牢に入れられた
  • スパルタ王クレオメネス1世は、ティリンス近郊のセペイアの戦いで、アルゴス軍に大勝した
  • ミレトスの前僭主ヒスティアイオスは、ペルシャに捕まり、アルタフェルネスによってサルディスで処刑された
紀元前493年
  • アテナイ人は、テミストクレスをアルコンに選出した。彼は、ペルシャに対する抵抗を支持した
  • テミストクレスは、ピレウスに拠点を置く海軍の要塞の建設を始めた
  • イオニアの反乱の鎮圧後、イオニアからの難民の中に兵士として評判の高いミルティアデスがいた。テミストクレスは、彼をアテナイ軍の将軍にした
紀元前490年
  • アッティカ半島東部のマラトンで、マラトンの戦いが起こった。この戦いでアテネ軍がペルシャ軍を破る
紀元前489年
  • マラトンの戦いで大勝した後、ミルティアデスは個人的な負債を完済しようと海軍を率いてパロス島を攻めた。しかし、この遠征は失敗に終わり、その帰途、彼はクサンチッパスの率いる捜索隊に見つかって収監され、パロス島で受けた傷がもとで死亡した
  • 兵士で政治家であるアリステイデスがアテネのアルコンになった
紀元前488年
  • ヒッパルコスは、アケメネス朝との融和を望んだため、アテナイ市民に陶片追放された
紀元前487年
  • アイギナ島とアテナイの間で戦争が勃発した。アイギナ島は、早期にペルシャに服従したことで、アテナイの恨みを買った。スパルタ王レオテュキデスは、停戦を結ばせようと努力したが、失敗した
  • アテナイの全ての市民の中から抽選でアルコンが選ばれ、急進的なアテネ民主制への重要な一歩となった。9人のアルコンと1人の書記官のうち、3人のアルコンは、それぞれバシレウス、ポレマリク、エポニマスという特別な役割を担った
紀元前484年
  • アテナイの劇作家アイスキュロスは、ディオニューシア祭の劇で1等を取った。
紀元前483年
  • アテナイのアルコンであるテミトクレスは、 ギリシャは海戦でペルシャを破るべきであることに気づいた。 しかし、この戦略を実行するためには、 アテナイには、 現有の70隻よりも遙かに多くの三段櫂船が必要であった。 テミトクレスは、 当初は他の指導者から反対されていたが、 ラブリオの公営銀山で多くの銀が産出されると、 議会を説得し、 余剰金の全てを海軍の増強に回して200隻を建造した。
紀元前482年
  • アテナイのアルコンであるテミストクレスは、 敵を陶片追放し、 アテナイの政治のリーダーとなった。 アテナイの軍人で政治家のアリステイデスは、 テミストクレスの海洋政策に反対していたため、 追放された1人となった。
紀元前480年
紀元前479年
紀元前478年
  • アテネを中心とする軍事同盟であるデロス同盟が結ばれる
紀元前470年
  • 《誕生》ソクラテス
紀元前443年
紀元前438年
  • ギリシャ古典文化の黄金期であり、パルテノン神殿が完成する。
紀元前431年
  • アテネ中心のでデロス同盟とスパルタ中心のペロポネソス同盟の間でペロポネソス戦争が始まる
紀元前427年
  • 《誕生》プラトン
紀元前384年
  • 《誕生》 デモステネス
紀元前336年
紀元前338年
紀元前337年
紀元前336年
  • 10月 - マケドニア王国のバシレウス(王)であるピリッポス2世が暗殺された。
紀元前334年
紀元前333年
  • ペルシャ王ダレイオス3世は、ペルシャに亡命していたギリシャ人傭兵隊長カリデーモスを処刑した。
    アケメネス朝ペルシャ王ダレイオス3世は、 ペルシャに亡命していたギリシャ人傭兵隊長カリデーモスを、 イッソスの戦いへの準備をしたとして処刑した。
  • 11月5日。イッソスの戦い開戦。
  • アレクサンドロス3世は、将軍ネアルコスを新しく得たリュキアとパンフィリアのサトラップに、将軍アンティゴノス1世をフリギアのサトラップにした。
  • アレクサンドロス3世は、ペルシャ軍を拠点から孤立させるため、イッソスから南のシリアとフェニキアまで進軍した。
  • アレクサンドロス3世は、アレクサンドロス3世は、ビブロスとサイダを得たのち、ティルスを包囲攻撃した。
  • アレクサンドロス3世は、ダレイオス3世からの和平を求める手紙の返事として、ダレイオス3世の無条件降伏を要求した。
紀元前332年
  • アレクサンドロス3世は、 エジプト全土をマケドニア領とした。
    前年のイッソスの戦いにおいて勝利したアレクサンドロス3世のペルシャ遠征は続いており、 ダマスカスを占領してシリアを支配下に置いたのち、 エジプトに入った。 アケメネス朝ペルシャの総督(サトラップ)は降伏し、 エジプト全土がマケドニア領となった。
    アレクサンドロス3世は、 エジプト支配の根拠地として、 建築家ディノクラティスに命じ、 それまで恒久的なギリシャ商船の停泊地の無かったエジプトの貿易港としての立地も兼ね備えたナイルデルタ西端の地に、 アレキサンドリアを建設させた。
    さらにアレクサンドロスは西方の砂漠に向かい、 シワ・オアシスにてアメン神の息子であるとの神託を受け、 エジプト支配の正統性を得た。
紀元前331年
  • アレクサンダー大王がエジプトを発ち、軍をフェニキアに向けた。彼はナウクラティスのクレオメネスにエジプトの統治をゆだねた。
  • 10月1日- アレクサンダー大王はガウガメラの戦いに勝利し、ダレイオス3世のペルシャ軍を打ち破った。ダレイオス3世は部下が戦い続ける中逃走した。アレクサンダー大王の軍はペルシャ軍をアルベラに追撃したが、ダレイオス3世はバクトリア人騎兵、ギリシャ人傭兵と共にメディア王国に逃げ込んだ。
  • アレクサンダー大王は初めて戦象に遭遇した。戦闘の後ダレイオス3世の軍の野営地で15頭のペルシャ戦象を捕獲した。
  • アレクサンダー大王はアケメネス朝を滅亡させた。バビロンとスーサは門を開けて降伏した。彼は首都のスーサで5万タレントの金を発見した。
  • スパルタがマケドニア王アレクサンドロス3世に戦いを挑んだ。(メガロポリスの戦い
紀元前330年
  • アレクサンドロス3世の東方遠征により、アケメネス朝ペルシャが滅亡。
  • 前年にスーサや首都ペルセポリスを占領し、アケメネス朝ペルシャの中枢を占領したマケドニア王国国王アレクサンドロス3世の東征は未だ続行中である。アケメネス朝の国王ダレイオス3世は東部諸州に逃れて再起を期したが、アレクサンドロスの追討を受け、逃亡中にバクトリアのサトラップである王族で側近の部下ベッソスによって殺害され、ここに事実上アケメネス朝ペルシャ帝国は滅亡した[1]。しかしベッソスはアルタクセルクセスを名乗ってペルシャ国王を自称しアレクサンドロスと敵対したため、アレクサンドロス軍は彼を追討するためさらに東へと進軍していった。
紀元前329年
  • フラダ(英語版)から、 アレクサンドロス3世3世(大王)はヘルマンド川, アラコシア(英語版)の谷を制圧し、現在のカーブル付近の山を越えて パロパミソス(英語版)に至り、そこにコーカサスのアレクサンドリア(英語版)を建立する。
  • バクトリアでベッソスがペルシャ王アルタクセルクセス4世を名乗り、東部の州で反乱を起こす。
  • ヒンドゥークシュを、 おそらくカワック峠を越えて、 アレクサンドロスは軍勢を率いて、 食料不足にもかかわらず、 北の方角のドラプサカへ行く。 側面に回りこまれ、 ベッソスはオクソス川の向こうへと逃亡した。
  • 西へと進軍し、アレクサンドロスはバクトリアのサトラップとしてフリュギアのアルタバゾス(英語版)と会見する。
  • オクソス川を渡り、アレクサンドロスは、ベッソスを追撃するためプトレマイオス将軍を派遣する。その時ベッソスはソグディアナ人のスピタメネスにより打ち倒される。ベッソスは捕らえられ、鞭打たれ、アレクサンドロスをなだめる事を願い、バクトリアにいるプトレマイオスの元へ送られる。ベッソスはエクバタナで公開処刑される。ベッソス(アルタクセルクセス4世)の死とともに、アレクサンドロスに対するペルシャ人の抵抗は終わる。
  • マラカンダから、キュロポリス(英語版)を抜けてペルシャ帝国の国境であるヤクサルテス川へアレクサンドロスは前進する。その場所で彼は、カタパルトを用いてスキュティア人遊牧民の反対勢力を破る。北岸で彼らを打ち負かした後、奥地まで追撃する。現在のヤクサルテス川沿いのホジェンドの場所に、"極東"を意味するアレクサンドリア・エスカテを建立する。
紀元前328年
  • 東征中のマケドニア王国国王アレクサンドロス3世は、前年に反乱を起こしていたスピタメネスを滅ぼし、バクトリア及びソグディアナを完全に制圧してアケメネス朝ペルシャの支配地域を完全に制圧することに成功した。これを機にアレクサンドロスはペルシャとの融和政策を開始し、スピタメネスと並ぶバクトリアの有力者であったオクシュアルテスの娘ロクサネを娶った[1]。
紀元前327年
  • 《誕生》ヘーラクレース (Heracles) - アレクサンドロス3世の庶子。母は、フリギア太守アルタバゾス2世 (Artabazos II of Phrygia) の娘バルシネで、後にマケドニアの王位を請求する。(紀元前309年没)
  • 《死去》オリュントスのカリステネス (Callisthenes of Olynthus) - ギリシャの歴史家、アリストテレスの甥で弟子(紀元前360年ころ生)
紀元前326年
  • 春 - アレクサンドロス3世(大王)はインダス川をアトック付近で渡って、タキシラに入り, 現地の領主タクシレス(英語版) (アーンビAmbhiとも)は、 130頭の戦象と軍団を提供し、見返りにヒュダスペス川(現在のジェルム川)とアケシネス川(英語版)(現在のチェナブ川)の土地を支配していたポロスという敵対者に対抗するための援助を求める。
  • ヒュダスペス川の左岸で、アレクサンドロスは最後の大きな戦いであるヒュダスペス河畔の戦いを戦う。彼と将軍のクラテロスはインド王ポロスを打ち負かす。アレクサンドロスはそこに,インダス川沿いのアレクサンドリア(英語版)またの名をアレキサンドリア・ニカイア(英語版)(勝利を記念して)とアレキサンドリア・ブーケファリア(英語版)またはブケパラ(英語版) (死んだ愛馬ブケパロス にちなむ)という都市を建設する。ポロスは同盟者となる。
  • アレクサンドロスの家臣のピリッポスは、インダス川とアケシネス川の合流地点を南限としてヒュダスペス川西側の地方を含むインドのサトラップに任命される。ピリッポスは、アレクサンドロスにより、インダス川沿いのアレクサンドリアの建設の任に就く。
  • アレクサンドロスはインダス川上流部のすべての征服を続ける。ガンジス川近くのポロスの王国の東部で、アレクサンドロスは、強大な帝国であるナンダ朝のマガダ国に対峙する。他の強大なインド軍に対面する予想が心配され、また数年の遠征に疲れていたため、ヒュパシス川(現在のビアース川Beas)で、彼の軍は暴動を起こしてこれ以上の東への行軍を拒否した。かくして、この川がアレクサンドロスの征服の東の限界となった。
  • ヒュパシス川の暴動に引き続いて、アレクサンドロスは軍の指揮官たちによりガンジス渓谷の侵略計画を諦めるよう説得される。アレクサンドロスは、海軍経験のあるクレタ人のネアルコスを海軍提督に任命し、航海知識のある全ての軍員を任せた。ネアルコスはインドの船大工に800の軍艦を作らせ、中には300トンの大きさを持つものもあった。軍を率いてペルシャ湾通ってをバビロンまで航海した。アレクサンドロス大王はインダス川を下り海へと退却の行軍を始めた。
  • アレクサンドロスがインドを離れたあと、ピリッポスは、自らが率いた傭兵隊の誰かによって暗殺される。アレクサンドロスはピリッポスの領地の代わりの太守としてエウダモスとタクシレス(英語版)を任命する。
紀元前325年
  • 古代ギリシャの彫刻の4世紀(古典期後期)が終わり、ヘレニズム期に入る(おおよその年代)。
  • アリストテレスが、徳と倫理の性質について『ニコマコス倫理学』を書く(おおよその年代)。
  • (マケドニア帝国)アレクサンドロス大王はインドを離れ、家臣のペイトン (アゲノルの子)をインダス川周辺地域のサトラップに任命する。
  • (マケドニア帝国)アレクサンドロス大王は、大王の軍がゲドロシア(英語版)(現:バローチスターン州)を通って行軍を始める間に、提督のネアルコスに西インドのヒュダスペス川(現:ジェルム川)からペルシャ湾へ航海し、バビロンまでユーフラテス川を遡るように命じる。
  • (マケドニア帝国)アレクサンドロス軍は、ペルシャへ帰還する間、マリ(現在のムルターン)の部族と衝突する。この連続する戦いは、軍を激しく消耗させた。アレクサンドロスは、軍の多くをクラテロス将軍とともにカルマニア(英語版)(現在のイラン南部ケルマーン州)に送り、自身は残りの軍を率いてゲドロシア砂漠(現在のイラン南部と南パキスタンのマクラーン(英語版))を通る南ルートでペルシャへ戻る。
  • (マケドニア帝国)この年の終わりに、アレクサンドロス軍はペルセポリスに到達し、ほぼ同時期にネアルコス率いる海軍がスーサに到達する。
  • (マケドニア帝国)サトウキビについての最初の言及が、アレクサンドロス大王の提督であるネアルコスの著作に現れる。彼は、インドのアシは「ハチがいないにもかかわらず、蜂蜜を作る」と書き記した。
  • 《誕生》エウクレイデス:アレキサンドリア在住のギリシャの 数学者(没年:紀元前275年)
紀元前324年
  • (マケドニア帝国)東征中のマケドニア王国国王アレクサンドロス3世がインド遠征より旧ペルシャ中心部に帰還し、バビロンにて新帝国の体制作りをはじめる。融和政策をさらに進めるため、スーサにてマケドニア人兵士とペルシャ人女性との集団結婚式を実施[1]。両国の融合を図る。また、軍隊や行政にペルシャ人のマケドニア人との対等な登用を進めた。
紀元前323年
  • (マケドニア帝国)バビロンでアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)が死去。
  • (マケドニア帝国)大王の死去と社会情勢により民衆に動揺が広がりインフレーションが発生。これが記録が残る最古のインフレーションである。
  • (マケドニア帝国)アレクサンドロス3世の遺将たち(ディアドコイ)によりバビロン会議が行われた。
  • ラミア戦争(紀元前323年 - 紀元前322年)
  • 《誕生》アレクサンドロス4世、マケドニア国王、アレクサンドロス3世の子(???)
  • 《死去》ディオゲネス (犬儒学派) - 古代ギリシャの哲学者
  • 《死去》アレクサンドロス3世 - 古代ギリシャの王
紀元前301年
  • ついに紀元前323年、 アレクサンドロスが死んだことにより、 ギリシャの反マケドニアの動きが強まり、 ディアドコイ戦争が展開される中、 紀元前301年コリント同盟は解消された

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紀元前209年
  • アカイアの将軍フィロポイメンはアカイア同盟に軍事力を持たせて軍事的な組織にした。フィロポイメンに率いられたアカイア同盟軍はエリスでアイトリア軍を破った
紀元前206年
  • マケドニア王国とローマ帝国の間で戦争が起こったが、ローマ帝国の狙いは征服にはなく、ギリシャの政治を分断して脅威の芽を摘んでおくことにあった
  • マケドニア王国の王ピリッポス5世はローマの隙を突いてアエトリアを攻め、平和条約を結ばせた
紀元前205年
  • ピリッポス5世は、マケドニアに優位な条件で第一次マケドニア戦争の終わりにローマと一時的な和約(フォエニケの和約(英語版))を結んだ。この協約はマケドニアのイリュリアの獲得を含み、公にマケドニアの優位を知らしめたが、引き換えにピリッポスはハンニバルとの同盟を実質的に無効にした
  • 和約の後、スパルタ王ナビスはアカイア同盟と戦争に入る。アカイアの将軍フィロポイメンはメッセネ(英語版)からスパルタのナビスを追い払った
  • フォエニケの和約によってピリッポスはイリュリアまたはアドリア海へ東への拡張が出来なくなったため、西のエーゲ海へ興味を向け、そこで巨大な艦隊を建設し始める。第一次マケドニア戦争を終えた後、マケドニアのピリッポスは、ロードスを打倒する好機とみて、ロードス船を襲い始めたアイトーリア人海賊とスパルタ人海賊と同盟を結ぶ。クレタ戦争(en:Cretan War (205?200 BC))がピリッポスのマケドニアとアエトリア同盟と いくつかのクレタの都市(その中でもオロウス(英語版)とヒエラピュトナHierapytnaが最も重要であった)とスパルタ海賊と、それに対するロードス軍とのちにペルガモンのアッタロス1世やビザンチウム、キュジコス、アテネ、クノッソスの軍の間で始まる
  • ロードスの艦隊と経済は海賊からの略奪に苦しんでいたので、ピリッポスはトラキアのマルマラ海周辺にあるロードスの同盟国の土地を襲い始める

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紀元前784年
  • あああ

概要 719

古代ギリシャ人とは

古代ギリシャにおいてギリシャ人をどう定義するかという問題がある。 旧石器時代以降、ギリシャに人類が定住していたことは間違いないが、 古代ギリシャ語となる言語を話していた民族は古代ギリシャ語がインド・ヨーロッパ語族に属することから、 前2200年頃にギリシャの方へ移動したと考えられている。 古代ギリシャ語はすくなくともミケーネ時代には使用されており、 この古代ギリシャ語を使用したからこそ古代ギリシャ文化が花開いた。 さらに研究者の間ではギリシャ人としての自己意識が関わるとする。 古代ギリシャにおいてはギリシャ人である要件に言語、出自、そして祭礼などが共通であるとヘロドトスの著した『歴史』には記載されている。

ギリシャの表記について

「ギリシ」と表記するのか「ギリシ」と表記するのかの問題である。
最初に結論を書いておく。特に気にしていないので混在している。
理由は、参考にした(引用した)元ネタに依存している。
なぜ気にしていないのかの理由を、日本を例にして簡単に書いておく。

この論争に何の意味があるんだろう。
世界中の人達が理解できるようにと考えるのなら「Japan」だね。 ギリシャの問題に戻れば、 世界共通語で表現した場合は「ギリシャ」でも「ギリシ」でもないと思うのだが。

そもそも、 日本語でギリシャあるいはギリシとは何なのかを、 順不同で上げてみる。

「ギリシャ美術」および「古代ギリシャの音楽」も参照

ギリシャ文字

詳細は「古代ギリシャ語」、「ギリシャ文字」、「線文字A」、「線文字B」、および「ミケーネ・ギリシャ語」を参照

古代ギリシャ語における文字はギリシャと西アジア、エジプトとの通商が行われるようになってから経済的な理由から発展したと考えられる。 BC1700年以降のクレタ島の遺跡やエーゲ海の島嶼部では言語系統は不明で未だに解読されていない線文字Aが発見されており、 さらにはそれを発展させた線文字BがBC1400年以降に使用された形跡が見つかっている。 線文字Bはクレタ島、ギリシャ本土の遺跡で発見されており、 解読された結果、線文字Bはギリシャ語を筆記したものであった、 がこれは経済的管理を行うために使用されたもので宮殿の書記など一部の者しか理解することができなかった。

前8世紀にギリシャ人たちがフェニキア人らと接触すると、 それまでギリシャ人としてのアイデンティティの拠り所であるホメロスの叙事詩などを口承で伝えられて来たものが、 フェニキア人らからフェニキア文字を借用することでギリシャ文字を作成、 文字によって内容を定着させることが可能となった。 そして、このアルファベットは言葉を書き留めることが可能となったことで瞬く間にエーゲ海に広がって行った。

文学

古代ギリシャにおける文学の出発点はホメロスの叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』である。 これはミケーネ時代に口承で伝えられたものがアルファベットの確立によって固定化された。 この叙事詩はヨーロッパにおける最古の文学作品である。 さらにはホメロスと並んで評されるヘシオドスは『仕事と日々』や『神統記』に、前古典期の精神の覚醒を著した。 その他叙事詩では断片ではあるがアルキロコス、サッフォー、テオグニス、ピンダロスなどやピュタゴラスやクセノファネスなども生まれた。

古典期に入ると、 アテナイで多くの文化が生まれた。 アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスなどの三大悲劇詩人や喜劇詩人としてアリストファネスが生まれた。 そのほかにも歴史家トゥキュディデスやヘロドトスが生まれ、 さらに哲学の分野ではソクラテス、 弟子のプラトン、 孫弟子のアリストテレスらも存在を示した。 そのほかに弁論家リュシアスやデモステネスらが生まれ弁論(レトリック)も発達した。

宗教

詳細は「古代ギリシャの宗教」および「ギリシャ神話」を参照

古代ギリシャでは宗教は大きな位置を占めており、 アテナイでは一年の三分の一が宗教儀式に当てられており、 生活の隅々にまでその影響は及んでいた。 特にミケーネ時代後期にはすでに機能していたと考えられているデルフィの神託は紀元前8世紀には各ポリスが認める国際聖域となり、 デルフィでの神託は未来を予知するためのものだと認識されていた。 さらにはデルフィに各ポリスが人を派遣したことから各ポリスの交流の場所としても機能していた。

古代ギリシャにおいては個人のみならず、 ポリス単位までが眼に見える形での神への祭儀を中心に活動しており、 これを行うことで家族やポリスの住民らが集団的にかつ利害関係を明確にし、 さまざまな集団が共に進んで行くということを明確にしていたと考えられる。

クセノフォンによれば宗教儀式が最も多かったのはアテネとしており、 アリストファネスも神殿と神像の多さと一年中行われる宗教儀式に驚いている。

オリンピア

詳細は「古代ペルシャ」を参照

全ギリシャの四大神域としてオリュンピア、デルフォイ、ネメア、イストミアがあり、 これらの神域は全ギリシャからの崇拝を集めていた。 デルフォイは神託で有名であったが、 ペロポネソス半島西部にあるオリュンピアは前776年前後に第一回オリュンピア競技会が開かれたことで徐々にギリシャ各地のポリスが参加、 前7世紀には全ギリシャ的(パンヘレニック)的な神域となった。 この四年に一度開かれた競技会はエリス、 ピサの両ポリスがその管理運営権を巡って争ったが、 のちにエリスがそれを手中に収め、 393年、ローマ帝国皇帝テオドシウス1世による廃止まで続いた。

建築

詳細は「ギリシャ建築」を参照

ギリシャ建築はローマ時代を通じて間接的ではあるがヨーロッパの建築物に多大な影響をおよぼして来た。 ミケーネ時代はキュクロプス式の城壁のように壮大なものが多く、 また、クレタのミノア遺跡やサントリーニー島に現在も住居の遺跡が残されている。 そしてミケーネのメガロンは古典時代の神殿に影響を与えている。 また、古典期、ヘレニズム時代では昔から存在した都市は古代からの流れを汲み組織的に発達してきた。 それに対して小アジアではは計画的に建設されており、 この計画はグリディロンと呼ばれる。

時代区分

ギリシャ史は現在でも枠組みが確定しておらず、古代ギリシャを中心として流動的である。以下は『ギリシャを知る事典』を元に区分化したものである。
時代区分 大区分 小区分 およその年代 備考
先史時代 石器時代 旧石器時代 紀元前40万年-30万年 紀元前1万3千年
中石器時代 紀元前1万3千年 紀元前8000年-紀元前7000年
新石器時代 紀元前8000年-7000年 紀元前6000年-紀元前5800年 農村への定住の始まり
青銅器時代 初期青銅器時代 紀元前6000年-紀元前5800年頃 紀元前3200年-紀元前3000年
中期青銅器時代 紀元前2000年頃 紀元前1650年頃 ミノア文明
後期青銅器時代 紀元前1650年頃 紀元前1200年頃 ミケーネ文明
暗黒時代(初期鉄器時代) 紀元前1200年頃-紀元前1000年頃紀元前800年頃 幾何学文様期と呼ばれる時代を含む
古代 前古典時代 紀元前800年頃 紀元前500年末頃 ポリスの成立
古典時代 紀元前500年末頃 紀元前350年頃 ペルシャ戦争、ペロポネソス戦争
ヘレニズム時代 紀元前350年頃 紀元前30年 アレクサンダー大王による王国からローマ帝国による占領まで
ローマ帝国統治下 紀元前30年 紀元前西暦330年 古代ギリシャの範囲には入れていない。

石器時代

前期旧石器時代

ギリシャにおいて発見された最古の人類は、 ハルキディキ半島ペトラロナで発見されたペトラロナ人で、 彼等はホモ・エレクトゥスネアンデルタール人の形質の特徴を持ち合わせており、 およそ20万年から40万年前までにさかのぼると考えられている。

彼らが活動したこの時代がギリシャにおける前期旧石器時代と推測され、 ギリシャにおいて人類の活動が始まったのはこの時代とほぼ考えられている。

中期旧石器時代

15万年前になると、生活の痕跡が増加し、この時代が中期旧石器時代と考えられている。

およそ6万年前の中期旧石器時代になると化石人類に代わって、 旧人類の活動が確認される。
環東地中海世界によくみられるムスティエ文化の特徴が見られ、 イピルス、テッサリア、エリス、アルゴリス、クレタ島などで剥片が発見されており、 特にアルゴリスにあるフランクティ洞窟ではルヴァロア技法の剥片が発見されている。

5万年ほど前に至ると最終氷期に突入、海面は下降し、 新人の時代に移った。

3万年前になると後期旧石器時代に入るが、 この時代は海面の上昇により痕跡物の数は多くないが、 フランクティ洞窟やセオペトラ洞窟などで狩猟採集民による活動を示唆する文化層の堆積が見られる。
また、 この時代、 狩猟の方法も組織的なものへ変化し、 さらには石器の加工技術も進み、 洞窟絵画や女性彫像もこの時代に見られる。

中石器時代に至ると、温暖化が進んで海岸線も上昇した。
それまでの狩猟生活から蓄える生活への転換が見られ、 フランクティ洞窟でも黒曜石や魚の骨が発見され、 また、 スポラデス諸島のユウラ島のキクロパス洞窟でも魚の骨や釣り針などが発見されており、 これらの遺物から当時ギリシャに住まう人々が海洋へ積極的に進出していることが想像され、 この時代がギリシャにおける重要な岐路であったと考えられている。

新石器時代
ギリシャにおける新石器時代区分
分類年代
初期前7000年‐前5800年
中期前5800年‐前5300年
後期前5300年‐前4500年
末期前4500年‐前3200年

前7000年になるとギリシャは新石器時代に入り、 この時代は土器の様式や放射性炭素年代測定法による測定により、 初期、中期、後期、末期の四段階に区分されている。

この新石器時代は過去には無土器時代があり、 農耕も自主的に発生したとする説が唱えられたが、 この説は1980年代に疑義が呈され、 ギリシャの新石器時代は土器などの文化を含めて西アジアより伝播したと考えられる。
この時代に至ると、 大麦、 小麦(アインコルン、エンマー)を基本穀物としてレンズ豆などが栽培されるようになり、 さらには山羊、羊、豚、牛、犬などの家畜も扱われるようになった。

この時代のギリシャは初期農耕文化の広がる北バルカン半島北方の内陸部と密接な関係を持ち、 豊富な水と肥沃な土壌が存在する地域であるギリシャ北方が先進地域で、 テッサリアやマケドニアの平野が初期農耕が行われ、 ギリシャ南部ではさほど集落の数も見られない。
そして、 キクラデス諸島へ新石器文化がこの後、 導入されてゆくが、 これはそれまでの二条大麦から六条大麦への転換から行われたことが想像されている。

初期新石器時代に入ると、 土器に様々なスリップ(釉)が施されたものが見られる。
初期新石器時代には碗の形をしていたものが多いが、 中石器時代に至ると様々な形が現れ、 地域による違いも見られるようになってゆく。
特にセスクロ文化(テッサリアの中期新石器時代の文化)では白色の器面に赤でジグザグ文様を描いたものや「新石器ウアフィルニス」と呼ばれる独特の光沢を持つ淡褐色の地に簡素なパターンを描いたものが同時期のペロポネス半島に存在しており、 この時代の製陶技術が高い水準にあったことが示されている。
また、 土偶も多く発見されており、 エーゲ海では「サリアゴスの豊満な女性」と呼ばれる大理石のものも作成されている。

後期新石器時代の代表的遺跡であるディミニのアクロポリスではその後訪れるミケーネ時代を先取りした独特の構造を構成しており、 周壁が築かれ、 これはメガロン形式の先取りと考えられている。
また、 オッザキ、アルギッサ、アラピなどでは濠の存在も確認されており、 後期新石器時代から末期石器時代に登場した銅製の武器の存在から、 集落間での戦いが行われていたことが想像される。
なお、 この冶金術はブルガリア方面から伝わったと考えられており、 そのほか、 エーゲ海産の貝を利用したブレスレットがポーランドで発見されていることから、 この時代の交易の広さが想像される。

しかし末期新石器時代に至ると、 マグーラを活用せず再び洞窟への回帰が見られる。
ディロスのアレポトリュパ洞窟やナクソス島のザス洞窟などでは後期新石器時代の銅製短剣も見つかっており、 このことが想像される。
そのため、 初期青銅器時代への発展が単純には考えられないが、 上記遺跡の文化から後期新石器時代と初期青銅器時代との関係もあるため、 今後の調査、 研究が進められることが望まれている。

青銅器時代

ギリシャでの青銅器時代は前3200年から3000年頃に始まったと考えられている。 後期新石器時代に登場した青銅器は初期青銅器時代では一般的な遺物として発見されていないが、 新石器時代に中心を成してきたギリシャ北部からギリシャ南部へと文化の中心が移動している。 これは「地中海の三大作物」のオリーブとブドウの栽培が要因と考えられ、 これらの作物はギリシャ南部における丘陵地帯での栽培に適していた。 これらの作物から取れるオリーブオイルとブドウ酒は交易品として高い価値を持っており、 ギリシャがその後地中海の様々な地域と交易を結ぶための重要な資源となった。 そして、この農業が確立したのが初期青銅器時代と想像されており、 それまでの「たくわえる戦略」から「交換する戦略」への転換が見られる。

初期青銅器時代

初期青銅器時代はギリシャ本土、クレタ島、キクラデス諸島の各地域での三時期区分による編年が確立されており、 この時代に「ギリシャらしさ」がそれまでの時代より明確に表れて来る。 特にキクラデス諸島のナクソス島やパロス島、シロス島などを中心に初期青銅器時代の痕跡が見つかっており、 石積みの単葬墓がグループを成しており、 初期のグロッタ・ペロス文化時代には羽状刻文の刻まれたピュクシスやヴァイオリン形の石偶なども含まれ、 これがさらにケロス・シロス文化に進化すると、 渦巻文のある「フライパン」や彩文土器なども存在する。 特に石偶は新石器時代のものとは異なり両手を前で組んだポーズを取って居るものが多く見られる。

ギリシャ本土では初期ヘラディック文化IIが始まり、 レルナの「瓦屋根の館」などを規格化された建物も生まれ、 ソースボートやアスコスのような独特の形態を持つ土器も現れる。 そして「瓦屋根の館」などの建築物で発掘により、 これらの建築物を中心とした再分配システムを含んだ首長制社会がこの時代に生まれつつあったことが想像されている。 一方で、ケロス島、パロス島、ナクソス島などエーゲ海中央部ではケロス=シロス・グループという文化が存在していたと考えられ、 多数の墓地が発見され、大理石石偶も発見されている。 また、カストリ・グループと呼ばれるアナトリアに関係する文化も現れている。 なお、この時代にギリシャ本土とエーゲ海の島々では文化交流があったとみられるが、 同じように青銅器文化が始まっていたクレタ島はこれらとの文化交流はなく、 単独での進化を進めていたと考えられ、 初期青銅器時代の後期にギリシャ本土とエーゲ海に発生した破壊の波をクレタ島は逃れている。

中期青銅器時代

中期青銅器時代に入ると、 初期青銅器時代に発生した破壊の波を受けたギリシャ本土及びエーゲ海の島々とクレタ島とでははっきりと違いが現れる。 すなわち、ギリシャ本土では文化的後退を示し、 集落にも大規模な建築物は存在せず、 また、初期青銅器末期に作成されたミニュアス土器や灰色磨研土器、 中期青銅器時代に作成された鈍彩土器はそれ以前の時代、 およびその後の時代と比べても創意工夫に貧弱である。 そしてエーゲ海の島々ではそれまで独自に文化を進めていたが、 この時代にクレタ島の文化圏に呑み込まれてゆく。

一方でクレタ島ではミノア文明が栄え始めた。 ギリシャ本土でも宮殿は初期青銅器時代に建築されていたが、 クレタ島での宮殿はそれとは比べようもないほど巨大なものが作成される。 また、カマレス土器のようなギリシャ本土のものとは比べようのない土器が作成され、 数々の工芸品も生産され、 ミノア文明はこの時代に繁栄を迎えるが、 中期青銅器時代の後期に地震による被害を受けたと想像されているが、 この時、損傷した宮殿は以前よりも規模を拡大して再建されている。 この地震以前の宮殿を古宮殿、地震後を新宮殿を呼んでいる。

後期青銅器時代

このように中期青銅器時代には低迷を極めたギリシャ本土であるが、 後期青銅器時代に入った前1650年ごろ、 ペロポネソス半島のミケーネに新たな文化が生まれる。 これがいわゆるミケーネ文明で、 その文化はペロポネソス半島にとどまらずギリシャ中部にまで広がりを見せて行く。 それに対してクレタ島におけるミノア文明は独自の発展を続けて、 繁栄を極めていたが突如としてそれは終焉を迎える。 これにはミケーネ文明の侵略が想定されており、 ミケーネ文明はその後、エーゲ海、シチリア島、キプロス島へと広がりを見せて行く。 そして線文字Bも使われ、 ミケーネ文明は発展を続けてゆくかに見えたが、 ここで突如として前1200年のカタストロフに襲われ、 突如終焉を迎える。 が、ミケーネ文明はすぐに死に絶えたわけではなく、 その後の200年ほどその文化要素が残ったと考えられている。

鉄器時代

詳細は「前1200年のカタストロフ」、「暗黒時代 (古代ギリシャ)」、および「幾何学様式」を参照
前1200年のカタストロフの襲来でミケーネにおいて文明は崩壊し、 その後ポリスが成立するまでの時代は文字資料もなく、 また海外との交渉も低調で、 さらには考古学的証拠も乏しいため、 俗に「暗黒時代」と呼ばれる。 しかし、ギリシャで文化がすべて死に絶えたわけではなく、 ミケーネ土器を基にして進化した幾何学文様土器が作成され、 前900年から前700年を俗に「幾何学文様期」と呼ぶ。 そのほか、 後に重要な地位を占めるアテネなどのポリスも元を辿るとミケーネ時代にその端を発したものがあり、 ミケーネ時代から暗黒時代を経ていることも注目されている。

前8世紀になるとギリシャ各地に都市国家であるポリスが徐々に生まれて行く。 ミケーネ時代の叙事詩であるホメロスの作品が流行し、 これはギリシャ人の民族意識と倫理規範のよりどころとなった。 これらの作品はフェニキア人との接触によってアルファベットが成立したことが重要要因であるが、 それ以上にそのアルファベットの起源となったフェニキア文字をもたらしたフェニキア人との接触が重要な意味を持っていた。 すなわち、ギリシャ人としてのアイデンティティを構築したことである。 このホメロスの叙事詩はギリシャ人らが自らの民族的同一性を再確認することを支えたと考えられ、 アルファベットの成立を商業的理由よりもホメロスの叙事詩を文字であらわすことであったとする説も存在する。 このホメロスの叙事詩はギリシャ人らの聖典となり、 行動規範の元となった。 そして、この叙事詩の流行と英雄祭祀が同時に流行したことでギリシャ人らが祖先の偉業をたたえるようになって行った。

この様々な進化を遂げた前8世紀をルネサンスの時代と呼ぶことがあるが、 これは近世のルネサンスと同じように「過去」の文化を文字通り「再生」したことを意味している。 それまで経済的な利用をしていた線文字Bからアルファベットへ、 支配者の君臨する宮殿から神々の神殿へ、 都市もメガロンのような城塞ではなく広場(アゴラ)を中心としたものへとの進化を遂げ、 その後のポリスの時代へとつながってゆく。

古代ギリシャにおいてはエウボイア島においていち早くポリスが形成された。 エウボイアでは東方と交易をおこなっていたことがエウボイア産の土器の出土で判明しているが、 その経済活動がカルキスとエレトリアというポリスの成立を産み、 両ポリスがレラントス平野で周辺諸ポリスを巻き込んだレラントス戦争はギリシャにおける最初の国際的な陸戦であったと想像されている。 また、サロニア島のポリスでも商業活動を積極に行うことで繁栄し、 ソストラトスという商人がヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)にまで到達するまでの交易をおこなっており、 さらには古代ギリシャにおいてはじめて貨幣を発行したのも同島のアイギナであった。

さらにキクラデス諸島においてはイオニア人がケオス、 シフノス、パロス、ナクソス、ミュコノス、テノスへ移住、 ドーリス人はメロス、シキノス、テラへ移住した。 そのなかでもデロス島のアポロン神殿はナクソスの影響下のもとにあった。 そのナクソスは一時期、 アテネの介入によりリュグダミスによる僭主政が行われるが、 僭主政が終るとナクソスはキクラデス諸島における強国となってゆく。

前古典期

前8世紀以降、神殿を中心とした大規模な建築物が再び建設されるようになり、 いわゆるポリス(都市国家)が形成されてゆく。 そしてそのポリスを中心にして、 地中海や黒海へ植民を行ったことからこの時代を植民時代と呼ぶこともある。 この植民活動はポリスにおける党派争いから破れた人々が行ったことなどもあり、 まだまだ揺籃期にあったポリスにおいて混乱を避けるための安全弁的な意味もあった。 また、有力な市民が独裁者となる僭主政なども発生し、 これの代表者としてはコリントスのキュプセロスやアテナイのペイシストラトスなどが挙げられる。

また、この時代は植民活動の始まった時代でもあった。 植民活動の初期は金属資源を求めるなど交易を求めての活動であったが、 徐々に各地にポリスを形成して行きシチリア、南イタリア、アフリカ北岸、黒海沿岸などへ植民市を形成して行った。 この植民活動によりギリシャ人は地中海全域に渡り交易活動を活発に行うようになり、 各地にそれぞれのポリスを築いてゆき、 それぞれの活動を行うが、文化面では共通のものを育んでいった。 それは共通の神々を崇め、 そしてホメロスの叙事詩を愛することでギリシャ人であることをアイデンティティとして形成していたからであった。 このアイデンティティはヘシオドス作の『仕事と日』や『神統記』にてギリシャ人精神の覚醒が描かれ、 さらにアルキロコス、サッフォー、テオグニス、ピンダロス、ピュタゴラスやクセノファネス、タレース、などが活躍した。 さらにオリエントの影響を受けていた美術では厳格様式と呼ばれる様式が確立し、 アテナイでは黒像様式や赤像式と呼ばれる陶器の生産も始まった。 また、この植民活動の盛んな時代、都市国家の建設があると法律の成文化が進められるようになった。 このように文化的にも政治的にもギリシャが大いに発展した時代でもあった。

アルカイック期
アルカイック期は、 ギリシャの歴史における、 紀元前8世紀からペルシャ戦争中・紀元前480年のクセルクセス1世の侵略までの期間を示す。 暗黒時代と古典時代の間に位置する。
アルカイック期の始まりと共にギリシャの人口は爆発的に増加し、 同時にいくつもの重要な変化が起こった。
慣例的に、 アルカイック期は第1回古代ペルシャが行われた年(紀元前776年)に始まったとされる。

Anthony Snodgrassによれば、 古代ギリシャのアルカイック期はギリシャ世界の2つの変革に関連している。
すなわちこの時代は、 ギリシャ世界の政治的な機構を明確化した「構造改革」、 およびギリシャに特徴的な諸都市、 ポリスの建設に始まり、 古典時代の「知的改革」に終わる。

概要

アルカイック期はギリシャの政治、経済、外交関係、戦争、 そして文化の発展が見られる時代であり、 政治的・文化的に古典時代の基盤となっている。 ギリシャ文字が考案されたのもこの時代であり、 現存する最古のギリシャ文学、 巨大な彫刻や赤絵式の壺などが作られ、 重装歩兵がギリシャの軍隊の中核を為すようになった。 アテナイでは、 民主主義の最初期の制度がソロンの下に整備され、 アルカイック期の終盤にはクレイステネスによって、 古典時代のアテナイ民主主義と同様の制度に改正された。 スパルタでは、 スパルタのリュクルゴスによる様々な制度の改革が行われ、 メッサニアがスパルタの支配下に組み込まれた。 また、ヘイロタイが導入され、 ペロポネソス同盟によってペロポネソス半島内で優位を誇った。

「アルカイック」という言葉はギリシャ語で「古い」を意味するarchaios(アルカイオス)に由来し、 古代ギリシャの歴史において古典時代よりも前の時代を表す。 この時代は一般に紀元前8世紀から紀元前5世紀初頭まで、 具体的な出来事としては、 紀元前776年の古代ペルシャの基礎の成立から、 ペルシャ戦争中・紀元前480年のクセルクセス1世の侵略までとされる。 アルカイック期は長い間、古典時代に比べて重要でなく、 その前兆として研究されてきたが、 近年では、アルカイック期自体について研究されるようになった。 このようなアルカイック期に対する再評価に伴って、 一部の研究者は、「アルカイック」という用語には、 英語において「旧式の」「時代遅れの」という意味が含まれることから異を唱えている。 しかしそれに代わる用語が流布していないため、 未だ「アルカイック」という語が使われ続けている。

古典時代に関する史料はトゥキディデスの『戦史』などの歴史書に記されている。 他方、アルカイック期については、そのような文字の史料は存在せず、 詩の形式で残された人生の記録や、法律、犠牲の奉納に関する碑文、 墓に刻まれた碑文などが手がかりである。 これらの史料の量は、古典期の史料の数に遠く及ばない。 しかし、文字史料に欠如している情報は、 豊富な考古学的資料によって補うことができる。 古典ギリシャ美術に関する知識の多くはローマ時代の模造に頼っているが、 アルカイック期の美術品は実物が現存するのである。

アルカイック期に関する他の情報源としては、 ヘロドトスをはじめとする古代ギリシャの著作家たちによって記録された伝説が挙げられる。 しかし、それらの伝説は現代において認識されている「歴史」の形式とは異なり、 ヘロドトスは、自身がその情報を正確なものであると信じているか否かに拠らず記録を残している。 さらに、ヘロドトス紀元前480年以前について、 一切の日付を記録していない。

古典期

ギリシャがペルシャ戦争に勝利した紀元前479年から、 ギリシャがマケドニア軍に敗北する紀元前338年頃までを古典期という。

古典期に入るとアテネがこの時代の代表的な舞台となる。 紀元前508年クレイステネスアテネにおいて民主制の基盤を整えて以降、 アテネはアケメネス朝ペルシャの二度の侵攻、 いわゆるペルシャ戦争に勝利することでその名声を高めて行く。 そしてアテネデロス同盟を結び、 その盟主となるとエーゲ海を支配して行き、 さらに民主化が進んで行き、 この時代にアテネは全盛期を迎える。 しかし紀元前431年に勃発したペロポネソス戦争が長期化し、 紀元前404年にスパルタに破れたことでアテネ凋落し、 その後、スパルタ、テーバイとその主導権は移ってゆくが、 北方のマケドニア王国の勃興によりポリスは徐々にその支配を受けて行くことになる。

この古典期は後世のヨーロッパ人に影響を与え、 ルネサンス時代にはこの古典期に魅了され、 そのすぐれた美術品や人間中心の考え方を「模範」として見出し、 この時代を「古典期」とした。 そしてこの時代、ギリシャ人としての出現とともに西洋文明が始まったとされ、 ギリシャ人が作り出した無数の価値観がそのまま後世に持ち込まれてゆき西洋文明の中核をなすものとなっていった。

ヘレニズム時代

ヘレニズム時代

ヘレニズム時代は、 アレクサンドロス3世の治世から、 ローマのエジプト征服(プトレマイオス朝エジプト王国の滅亡。紀元前30年)までの約300年間を指す。

始期については、 アレクサンドロス3世の東征出発(紀元前334年)、 あるいはその登位年(紀元前336年)、 あるいはアレクサンドロス3世の没年(紀元前323年)などの説がある。

ギリシャ人を意味するギリシャ語のヘレネス(Hellenes)が語源で、 ドイツの歴史家ドロイゼンの造語。 ギリシャ文化が、 アレクサンドロス3世の東征を機にオリエント文化と融合し、 ポリス中心的なものから、 世界的・普遍的なものとなって展開した。 これがヘレニズムで、ストア哲学・エピクロス派の個人主義的・世界市民主義的哲学などにその特色をみることができる。

ヘレニズム世界はアレクサンドロス3世の征服版図で、 アレクサンドリア・アンティオキア・ペルガモン・ロードス島などが中心であり、 ローマ帝国を通じて西欧に継承された。

紀元前4世紀前半、 スパルタ、テーバイ、アテネらは勢力争いを繰り広げたがどのポリスも覇権を唱えることができず、 さらにはその力を失墜させて行った。 その中、北方で力を蓄えていたマケドニア王国のピリッポス2世がギリシャ本土へ勢力を伸ばしてゆく。 特に第三次神聖戦争では隣保同盟の主導権を手中に収め、 その後もアテネ・テーバイ連合軍をカイロネイアにおいて撃破、 ギリシャ征服を成し遂げた。 ピリッポス2世コリントス同盟を結びその盟主となってペルシャ遠征を決めたが、 紀元前336年暗殺された。 その後を継いだのがピリッポス2世の子である大王アレクサンドロス3世である。

ギリシャの覇者マケドニア王国の王となったアレクサンドロス3世はトリバッロイ人の反乱、 イリュリア人の大蜂起、 テーバイの反乱などを速やかに鎮圧し、 コリントス同盟の会議を招集、 父王ピリッポス2世の意志を次いでペルシャ遠征を行うことを決定した。 紀元前334年春、 アレクサンドロス3世はギリシャを出発、 大遠征を開始した。 紀元前331年ペルシャを崩壊させるとそのまま東進、 バクトリア、ソグディアナを越え、インドまで到達し、 インダス川を越えたところで兵士たちの拒絶により帰還を開始したが、 紀元前323年アレクサンドロス3世は熱病のため死去したが、 彼の構築した大帝国はその後300年に及ぶヘレニズム時代の始まりを告げるものであった。

アレクサンドロス3世の死後、王位をめぐっての争いが発生し、 遺児アレクサンドロス4世とアッリダイオスが共同統治することが決定されたが、 「ディアドコイ(後継者)」と呼ばれる有力者、 ペルディッカス、アンティゴノス、プトレマイオス、リュシマコス、セレウコス、エウメネスらの間で互いに勢力を広げるための争いが生じ、 ディアドコイ戦争が勃発した。 その中、前310年にアレクサンドロス4世が暗殺され王家の血筋が断絶すると、 勢力争いで生き残ったディアドコイらは王を名乗り、 さらに争った。 前301年、イプソスの戦いが起ると、 プトレマイオス、セレウコス、リュシマコス、カッサンドロスらにより帝国は分断され、 プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、リュシマコス朝、カッサンドロス朝がそれぞれ成立した。

ディアドコイ戦争後、エジプトとシリアはそれぞれ支配が安定したが、 マケドアニアを含むギリシャ本土はその後も争いが続き、 最終的にリュシマコスがマケドニアの支配に成功したが、 リュシマコスもセレウコスとの戦いで戦死した。 リュシマコスの死去により、 ギリシャ北部の防壁がなくなり、ガリア人らの侵入が始まった。 南下したガリア人らはマケドニア、トラキア、テッサリアを攻撃したのち、 デルフォイ、小アジアまで進撃したが、これは撃退された。 紀元前227年トラキアでガリア人らを撃破したアンティゴノス・ゴナタス(2世、アンティゴノスの孫)がマケドニア王となり、 ここにアンティゴノス朝が成立し、 それまで様々な支配者のために混乱していたマケドニアは一旦落ち着きを見せた。
マケドニア戦争」も参照

前3世紀後半に入るとイタリア半島を統一し、 第一次ポエニ戦争に勝利したローマがバルカン半島へ進出し始めた。 紀元前229年に第一次イリュリア戦争に勝利したローマはバルカン半島へ初めて進出した。 第二次イリュリア戦争に勝利したローマはイリュリアに圧力をかけ始めたが、 マケドニアはイリュリアと友好関係にあったため、 間接的ながらローマとの関係を持つようになった。 イリュリアへの圧力を強めていたローマが、 第二次ポエニ戦争の勃発によってカルタゴの将軍ハンニバルの攻撃を受けてカンナエの戦いに敗北すると、 マケドニア王フィリッポス5世はハンニバルと同盟を結んでローマに対抗しようとしたが、 これに反応したローマはこれを攻撃、 ここに第一次マケドニア戦争が勃発したが、 この戦いはフォエニケの和約で終息した。

フィリッポス5世はシリアのアンティオコス3世と同盟するとローマの友好国ロドス、ペルガモンらはこれに脅威を覚え、 ローマに支援を要請した。 第二次ポエニ戦争に勝利したことで東地中海への進出を目論んでいたローマはこれを快諾、 第二次マケドニア戦争が勃発した。 紀元前197年キュノスケファライの戦いでローマが大勝するとマケドニアはギリシャ本土からの撤退を余儀なくされ、 ギリシャ本土はローマの影響下に置かれた。 この時、ローマのフラミニヌスはギリシャ人の自由を宣言、 ギリシャ人らを歓喜させた。 「このギリシャの自由の宣言」によってローマはギリシャの保護者となってギリシャ支配を強めて行った。

第二次マケドニア戦争で敗北したフィリッポス5世は国力の増強に努めたが、 その次の王ペルセウスは先代とは違い積極的な勢力拡大を目論んだ。 そのため紀元前171年第三次マケドニア戦争が勃発、 紀元前168年ピュドナの戦いでマケドニアは敗北、 ローマの保護下に置かれマケドニア王国はここに滅亡した。 そして紀元前149年ペルセウスの子を名乗るアンドリスコスが蜂起、 第四次マケドニア戦争が勃発したが、 ローマはこれを鎮圧、 マケドニアはローマの属州となった。

一方、マケドニアに支配されたポリスはヘレニズム時代を通じて未だ健在であった。 ただし、ポリスという単位はすでに限界に達しており、 複数のポリスで相互に協力し合うようになったことがヘレニズム時代の特徴として挙げられる。 紀元前3世紀にはアイトリア連邦とアカイア連邦という連邦組織が形成され、 すでに限界に達していたポリスを集団化させることでギリシャにおける政治勢力としてマケドニア、シリア、ローマなどに対抗、 時には連携して行った。 アイトリア連邦はギリシャ北西部でガリア人の侵入に対抗するために形勢され、 当初こそ親ローマであったが、 第二次マケドニア戦争以後は反ローマの中心となって戦ったが、 同盟を結んでいたシリアがシリア戦争で敗北するとローマの支配下となった。 アカイア連邦はペロポネソス半島で形勢され、 スパルタを吸収するなどペロポネス半島で勢力を誇ったが、 紀元前146年ローマに敗北したことでアカイア連邦は崩壊、 ギリシャ世界の独立も同時に失われた。

文化

「ギリシャ美術」および「古代ギリシャの音楽」も参照

ギリシャ文字

詳細は「古代ギリシャ語」、「ギリシャ文字」、「線文字A」、「線文字B」、および「ミケーネ・ギリシャ語」を参照

古代ギリシャ語における文字はギリシャと西アジア、エジプトとの通商が行われるようになってから経済的な理由から発展したと考えられる。 BC1700年以降のクレタ島の遺跡やエーゲ海の島嶼部では言語系統は不明で未だに解読されていない線文字Aが発見されており、 さらにはそれを発展させた線文字BがBC1400年以降に使用された形跡が見つかっている。 線文字Bはクレタ島、ギリシャ本土の遺跡で発見されており、 解読された結果、線文字Bはギリシャ語を筆記したものであった、 がこれは経済的管理を行うために使用されたもので宮殿の書記など一部の者しか理解することができなかった。

前8世紀にギリシャ人たちがフェニキア人らと接触すると、 それまでギリシャ人としてのアイデンティティの拠り所であるホメロスの叙事詩などを口承で伝えられて来たものが、 フェニキア人らからフェニキア文字を借用することでギリシャ文字を作成、 文字によって内容を定着させることが可能となった。 そして、このアルファベットは言葉を書き留めることが可能となったことで瞬く間にエーゲ海に広がって行った。

文学

古代ギリシャにおける文学の出発点はホメロスの叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』である。 これはミケーネ時代に口承で伝えられたものがアルファベットの確立によって固定化された。 この叙事詩はヨーロッパにおける最古の文学作品である。 さらにはホメロスと並んで評されるヘシオドスは『仕事と日々』や『神統記』に、前古典期の精神の覚醒を著した。 その他叙事詩では断片ではあるがアルキロコス、サッフォー、テオグニス、ピンダロスなどやピュタゴラスやクセノファネスなども生まれた。

古典期に入ると、 アテナイで多くの文化が生まれた。 アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスなどの三大悲劇詩人や喜劇詩人としてアリストファネスが生まれた。 そのほかにも歴史家トゥキュディデスやヘロドトスが生まれ、 さらに哲学の分野ではソクラテス、 弟子のプラトン、 孫弟子のアリストテレスらも存在を示した。 そのほかに弁論家リュシアスやデモステネスらが生まれ弁論(レトリック)も発達した。

宗教

詳細は「古代ギリシャの宗教」および「ギリシャ神話」を参照

古代ギリシャでは宗教は大きな位置を占めており、 アテナイでは一年の三分の一が宗教儀式に当てられており、 生活の隅々にまでその影響は及んでいた。 特にミケーネ時代後期にはすでに機能していたと考えられているデルフィの神託は紀元前8世紀には各ポリスが認める国際聖域となり、 デルフィでの神託は未来を予知するためのものだと認識されていた。 さらにはデルフィに各ポリスが人を派遣したことから各ポリスの交流の場所としても機能していた。

古代ギリシャにおいては個人のみならず、 ポリス単位までが眼に見える形での神への祭儀を中心に活動しており、 これを行うことで家族やポリスの住民らが集団的にかつ利害関係を明確にし、 さまざまな集団が共に進んで行くということを明確にしていたと考えられる。

クセノフォンによれば宗教儀式が最も多かったのはアテネとしており、 アリストファネスも神殿と神像の多さと一年中行われる宗教儀式に驚いている。

オリンピア

詳細は「古代ペルシャ」を参照

全ギリシャの四大神域としてオリュンピア、デルフォイ、ネメア、イストミアがあり、 これらの神域は全ギリシャからの崇拝を集めていた。 デルフォイは神託で有名であったが、 ペロポネソス半島西部にあるオリュンピアは前776年前後に第一回オリュンピア競技会が開かれたことで徐々にギリシャ各地のポリスが参加、 前7世紀には全ギリシャ的(パンヘレニック)的な神域となった。 この四年に一度開かれた競技会はエリス、 ピサの両ポリスがその管理運営権を巡って争ったが、 のちにエリスがそれを手中に収め、 393年、ローマ帝国皇帝テオドシウス1世による廃止まで続いた。

建築

詳細は「ギリシャ建築」を参照

ギリシャ建築はローマ時代を通じて間接的ではあるがヨーロッパの建築物に多大な影響をおよぼして来た。 ミケーネ時代はキュクロプス式の城壁のように壮大なものが多く、 また、クレタのミノア遺跡やサントリーニー島に現在も住居の遺跡が残されている。 そしてミケーネのメガロンは古典時代の神殿に影響を与えている。 また、古典期、ヘレニズム時代では昔から存在した都市は古代からの流れを汲み組織的に発達してきた。 それに対して小アジアではは計画的に建設されており、 この計画はグリディロンと呼ばれる。

ポリス

古代ギリシャにおいて、自立した国家を形成し、市民による民主政が行われていた都市のこと。一般に都市国家と訳される。

ミケーネ文明が崩壊し、 暗黒時代といわれた約400年の間に鉄器の使用などが普及し、 紀元前800年頃からはギリシャ本土に人々の村落集住(シノイキスモス)が進行し、 ポリス(Polis)が形成された。 ポリスは「都市国家」(city-state)と訳されるが、 通常考える現代の都市とも国家とも違ったものである。

都市とは言っても、 商工業者や労働者や官僚たちの居住区ではなく、 原則として土地所有農民を基幹として、 商工業者とともに構成される市民団が居住する市域を中心に、 周辺に彼ら農民のクレーロス(本来は共同体の共有地であったものを「持ち分地」としたもの)が広がっていた。 また、国家とは言っても職業的な官僚や常備軍は存在せず、 市民団が直接に国家の機構を運営し、軍事力を担っていた。

ギリシャ国土は平地も少なく、 オリエントのような統一的な専制国家は出現しなかった。 そのかわり、このようなポリスが発達し、 大小200ほど存在した。 その規模、内容はさまざまであるが、 市民の数も数百から数千が普通で、 アテネとスパルタは例外的な広域ポリスである。

このポリス(Polis)から、 などのことばがうまれた。

アクロポリス

アクロポリスとは、 古代ギリシャのポリスのシンボルとなった小高い丘のこと。

アクロポリスは「高いところ、城市」を意味し、 防壁で固められた自然の丘に神殿や砦が築かれているのが普通である。

歴史王以下の諸王の居城であったと伝えられている。 ポリス成立後は、 神殿や有事の際の避難場としての機能を有する宗教的、 軍事的中核として位置づけられるようになった。 ポリス成立以前の王城は、 都市国家のシンボルとしてのアクロポリスへとその姿を変えたのである。

なかでも有名なのがアテナイのアクロポリスである。 ペルシャ戦争時に木造建築のために全てが灰に帰したと伝えられているが、 その後の石造建築による再建の結果、 ペリクレスの時代に最も輝かしい時代を迎え、 今日の私たちの知るアクロポリスが誕生した。

現在この丘には、 古代ギリシャ美術を代表する4つの傑作、 パルテノン神殿、プロピュライア(神域の入り口の門)、 エレクテイオン、アテナ・ニケ神殿がある。 二千年の歴史を刻んだパルテノン神殿は、 白色とも桃色ともつかない光の加減で変化する大理石の柱46本が青空を背景に荘厳な雰囲気を漂わせている。

これに対してスパルタのアクロポリスは低く目立たない丘で上に神殿が築かれ、 ヘレニズム時代には南部の斜面に大劇場がつくられた。 メガラのアクロポリスは双生児のように並ぶ二つの丘陵で、 アルゴスでも大小二つの丘がアクロポリスとして固められた。 コリントスのアクロポリスは、 市の背後にそびえる「アクロコリントス」と呼ばれた巨大な丘で、 頂上にはアフロディテ神殿などが建てられた。

植民地主義の影響

ミケーネ文明はハインリヒ・シュリーマンによって様々な遺物が発見されたが、 当時、植民地主義の時代であったため意図的に改竄された可能性がある。 クノッソス宮殿はウィンザー城をモデルとして復元され、 ミケーネで発見されたアガメムノンのマスクもカイゼル髭が付け加えられた。

これらの行為は当時、植民地であった西アジアよりもエーゲ海先史文明が高度であり、 植民地の宗主国である国々にとってふさわしい文明である必要があったために行われたもので、 西アジアで発見された高度な文明と専制君主らに対抗するものであった。

しかし、この専制君主のイメージは、 古典古代の文明の基盤が水平的な市民社会であるとしていた古代ギリシャ史研究家の間ではとうてい受け入れられるものではなかった。 そのため、エーゲ海先史文明と古代ギリシャ文明との間に存在していた「暗黒時代」が利用されていった。

この暗黒時代を利用することで、 エーゲ海先史文明は「前1200年のカタストロフ」によって崩壊、 白紙となった上で暗黒時代に古代ギリシャ文明の基礎が新たに築かれたとしてこの矛盾は解消された。 しかし、線文字Bが解読されたことで、その矛盾は再び闇から蘇ることになった。

エーゲ海先史文明が古典期ギリシャの直接祖先ではないという暗黙の了解があったため、 線文字Bはギリシャ語ではないと考える研究者が大半であったが[# 6]、 1952年、マイケル・ヴェントリスによって解読されると線文字Bはギリシャ語を表す文字であったことが判明した。 1956年、ヴェントリスとジョン・チャドウィックらが線文字Bのテキストを集成した出版物を刊行、 1963年にはL・R・パーマーらが新たな粘土板の解釈を提示、 1968年には大田秀通による研究が刊行されるとミケーネ文明の研究は躍進することになった。

色彩豊かな文明

現存する建造物や彫刻などは白一色であるが、 かつては鮮やかな彩色が施されていた。 劣化して色落ちした物もあるが、 西暦1930年頃の大英博物館のスポンサー初代デュヴィーン男爵ジョゼフ・デュヴィーン(美術収集家・画商)の指示で、 大英博物館職員によって色を剥ぎ落とされたものも多い。 近年になってこのことが公表され、調査によって一部の遺物から色素の痕跡が判明し、 CGなどによって再現する試みも行われている。 日本のテレビ番組「日立 世界・ふしぎ発見!」では、 パルテノン神殿にプロジェクションマッピングで色彩を施した。

エルギン・マーブル

エルギン・マーブル(Elgin Marbles、Parthenon Marbles)は、 古代ギリシャ・アテナイのパルテノン神殿を飾った諸彫刻。
19世紀にイギリスの外交官第7代エルギン伯爵トマス・ブルースがパルテノン神殿から削り取ってイギリスに持ち帰り、 現在は大英博物館に展示されている。 エルギン・マーブルズなどとも表記される。

歴史

紀元前5世紀、 古代ギリシャ・アテナイの丘に立つパルテノン神殿が修築された。 エルギン・マーブルは、 この神殿に彫り込まれていた諸彫刻のことを指す。 西暦1800年、 イギリスの外交官であった第7代エルギン伯爵トマス・ブルース(1766-1841)が、 オスマン帝国駐在の特命全権大使としてイスタンブールに赴任すると、 このパルテノン神殿の調査を始めた(当時のギリシャはオスマン帝国領である)。 神殿彫刻に関心を抱いたエルギン伯は、 当時のスルタン・セリム3世から許可を得て、 多くの彫刻を切り取ってイギリスへ持ち帰った。 当時のオスマン帝国はナポレオン率いるフランス軍のエジプト遠征を受けた直後であり、 このフランス軍を撃退したイギリスと良好な関係にあった。

19世紀前半、ロマン主義の風潮が高まる中で、 エルギン・マーブルがイギリスで公開されると、 多くの人々の古代ギリシャへの憧憬を高めさせた。 だが一方エルギン伯の「略奪」行為を非難する声も大きく、 ジョージ・ゴードン・バイロンは「チャイルド・ハロルドの巡礼」第二巻及び「ミネルヴァの呪い The Curse of Minerva」で激しく痛罵した。 これらの批判が激しくなったことと、 長年に渡る彫刻群の輸送で巨額の負債を抱えたため、 エルギン伯は西暦1816年にイギリス政府にエルギン・マーブルを寄贈、 その後大英博物館に展示されて現在に至る。

西暦1970年代になると、 ギリシャ政府はイギリスにエルギン・マーブルの返還要求を強めた(その先頭に立った文化・科学相のメリナ・メルクーリは、映画女優としても有名である)。 しかしながら、両国の見解はすれ違ったままである。 現在、パルテノン神殿に残っていた彫刻の多くを展示しているアクロポリス博物館では、 やむを得ずエルギン・マーブルの精巧な新しいレプリカをオリジナルの彫刻と共に展示している。

21世紀からの研究によって、 エルギン・マーブルを含む古代ギリシャの彫刻はもともと白い大理石の彫刻だったのではなく、 かつては古代エジプトなどの先行する古代文明の影響を受けて極彩色に着色されていたことが判明した。 しかし、 西暦1930年に大英図書館職員らによって無断で行われた「清掃(cleaning)」作業において表面を強く研磨したため、 エルギン・マーブルの大半から当時の色を知る痕跡が失われてしまったことが西暦1999年にBBCによって報道された。 その原因として以下の理由が挙げられる。

これら複数の原因が複合して上記の彫刻への洗浄作業も、 博物館に来る大衆に迎合するために「もっと白く(get it whiter)」するように大英博物館のスポンサーで美術収集家・画商の初代デュヴィーン男爵ジョゼフ・デュヴィーンが命じたためだといわれ、 結果として大スキャンダルとなった。 同様の「洗浄」は同時期に世界中の他のギリシャ彫刻に対しても行われたとされる。 この事件はエルギン・マーブル返還を求めるギリシャ側の反発を一層増す要因となっている。

エーゲ文明

エーゲ文明は古代ギリシャにおける最古の文明。 地中海につながるギリシャと小アジアにはさまれたエーゲ海で発展した、 青銅器文化の総称である。 非ギリシャ人およびギリシャ人が文明を築いたと考えられる。

有名なトロイア、ミケーネ、ミノアの三文明のほか、 さらに古い段階のキクラデス文明やヘラディック期ギリシャ本土の文化などがある。 ドイツのシュリーマンのミケーネ遺跡発掘により存在が確認された。

前期エーゲ文明では基本的に戦争もなく比較的平和な時代だったと推測される。 それは発掘された王の宮殿からも推測できる。 城壁もなく開放的な城の姿は海洋民族の特徴と言える。 一方、後期エーゲ文明では城塞がその特徴の1つとなっている。

地中海を通じて古代オリエントと近く、 他地域に先駆け文化が発達。 線文字A、線文字Bなどの高度な文明を残し、 古代エジプト文明の影響を受けたとされ、 また青銅器文化も栄えた(線文字Aは未解読)。 しかし紀元前12世紀頃すべて突然滅亡。 原因は未だ解明されていない。 貢納王政の衰退とも言われているが、 北方ギリシャ系ドーリア人、 もしくは海の民の侵入との説が有力。 三文明滅亡後のギリシャは人口が激減し線文字も人々から忘れ去られていったようである。

エーゲ文明滅亡から古代ギリシャ諸ポリス成立までの約400年間は、 記述による記録も残っていないためこの時期については不明である。 そのためその時期を暗黒時代と呼ぶ。

「前1200年のカタストロフ」も参照

名称 場所 備考
キクラデス文明 紀元前3000年 紀元前2000年 キクラデス諸島
トロイア文明 紀元前2600年 紀元前1200年 アナトリア半島(小アジア)。西部トロイア トロイア戦争で滅亡。
ヘラディック文明 紀元前2500年 紀元前1100年 テッサリアを含むギリシャ本土
クレタ/ミノア/ミノス文明 紀元前2000年 紀元前1400年 クレタ島 ミケーネ(アカイア人)の侵入により滅亡。
ミケーネ/ミュケナイ文明 紀元前1600年 紀元前1200年 アルゴス平野のミケーネを中心 トロイア戦争後突如滅亡した。

エーゲ海は地中海の一部を構成する海域。
地中海の東北部にあたり、 西と北をバルカン半島(ギリシャ共和国)、 東をアナトリア半島トルコ共和国)に囲まれた入り江状の海である。

キクラデス文明

キクラデス文明は、 紀元前3000年頃から紀元前2000年頃にエーゲ海のキクラデス諸島に栄えた文明で、 エーゲ文明に含められる。 これは、新石器時代から青銅器時代初期の時代で、 クレタ島のミノア文明よりも前にあたる。

この文明で最も有名なのは、極度に様式化された大理石製の女性像である。 これらは約1400体知られているが、 20世紀初頭に盗掘され、 出土地がわかっているのはその40%にすぎない。 遺跡はミロス島フュラコペの数層の住居跡およびシロス、パロスの墓域など。

エーゲ海西部ではすでに紀元前4000年より前に、 アナトリアとギリシャ本土の影響が混合した独特の新石器文化が栄えた。 これはエンマ小麦、野生種の大麦、羊、山羊、海で捕れるマグロに依存していた。 サリアゴスSaliagosやケファラKephala(ケア島)の遺跡からは、 銅細工を行った証拠が得られている。

各島は小さくせいぜい人口数千人規模だったが、 キクラデス文明後期の船の模型から、 多数の島から50人ほどの漕ぎ手が集まって航海をしていたと思われる。

紀元前2000年以降、 クレタ島で高度に組織化されたクレタ文明が優勢となるにつれ、 キクラデス文明の独自性はそのなかに包み込まれていくが、 デロス島(ミコノス島の西にある小島)だけは聖地としてギリシャ古典期を通じて名声を保った(デロス同盟も参照)。

キクラデス諸島の地図

東西南北の境界となる島の名称を「文字色赤、背景黄色」で示している。

その島名で囲まれた地域にある島々が「キクラデス諸島」である。

注意
上記、「文字色赤、背景黄色」で島名を示した文字は、 説明のために地図の上に重ねたものである。
地図の移動あるいは縮尺の変更などには同期しないので注意が必要である。

アンドロス島

ケア島

ミロス島

サントリーニ島

アナフィ島

アモルゴス島

ナクソス島

ミコノス島

ティノス島


キクラデス文明の編年は大きく前期・中期・後期の3期に分けられる。 前期は紀元前3000年頃始まり、 紀元前2500年頃に中期(考古学的にはまだ不明の点が多いが)に移行する。 キクラデス文明後期の終わり(紀元前2000年頃)までには基本的にミノア文明に吸収された。 ただキクラデス文明の編年には、 文化史的なものと年代学的なものの間でやや食い違いがあり、 これらを結び付けた編年も一定していないが、 普通には次のようにまとめられる。
キクラデス文明の編年
前期キクラデスI期 (ECI)  - グロッタ・ペロス(Grotta-Pelos)文化
前期キクラデスII期 (ECII) - ケロス・シロス(Keros-Syros)文化
前期キクラデスIII期 (ECIII) - カストリ(Kastri)文化
中期キクラデスI期 (MCI)  - フィラコピ(Phylakopi)文化
中期キクラデスII期 (MCII)
中期キクラデスIII期 (MCIII)
後期キクラデスI期
後期キクラデスII期
後期キクラデスIII期

西暦1880年代に初めて考古学的発掘が行われ、 その後英国系研究機関British School at Athensや考古学者クリストス・ツンタス(ツンダス Christos Tsountas、西暦1857年-西暦1934年)による系統的調査が行われ、 彼はいくつかの島で西暦1898年-西暦1899年に墳墓遺跡を発掘して「キクラデス文明」の名を使った。 その後はしばらく注目されなかったが、 20世紀半ばにコレクターたちがその現代風な彫刻(ジャン・アルプやコンスタンティン・ブランクーシを想わせる)を奪い合うようになったことで再び注目された。 しかし遺跡が掘り荒らされ、偽物も盛んに取引され、 多くのキクラデス彫刻は脈絡が断ち切られてしまった。 これらの彫刻の意味はもはや完全にはわからないであろう。 もう一つの謎に満ちた遺物には、 「キクラデスのフライパン」(用途不明)がある。

考古学的知識が増すにつれ、 紀元前5000年頃に小アジアから渡って来た農耕・海洋文化の大まかな様相がわかってきた。 キクラデス文明は紀元前3300年頃から紀元前2000年頃にかけて3段階で発展し、 ミノア文明の影響をしだいに強めていった。 一方で、クレタ島クノッソスの発掘で発見された土器により、 紀元前3400年から紀元前2000年頃にキクラデスの影響があったことが判明した。 キクラデス文明と同時期のギリシャ本土の文化は、 ヘラディック文化と呼ばれる。


歴史

この文明で最も有名なのは、極度に様式化された大理石製の女性像である。 これらは約1400体知られているが、 20世紀初頭に盗掘され、 出土地がわかっているのはその40%にすぎない。

エーゲ海西部ではすでに紀元前4000年より前に、 アナトリアとギリシャ本土の影響が混合した独特の新石器文化が栄えた。 これはエンマ小麦、野生種の大麦、羊、山羊、海で捕れるマグロに依存していた。 サリアゴスSaliagosやケファラKephala(ケア島)の遺跡からは、 銅細工を行った証拠が得られている。

各島は小さくせいぜい人口数千人規模だったが、 キクラデス文明後期の船の模型から、 多数の島から50人ほどの漕ぎ手が集まって航海をしていたと思われる。

クレタ島で高度に組織化された宮廷文化が発展すると、 キクラデス諸島は重要性を失ったが、 デロス島(ミコノス島の西南)だけは聖地としてギリシャ古典期を通じて名声を保った(デロス同盟も参照)。

キクラデス文明の編年は大きく前期・中期・後期の3期に分けられる。 前期は紀元前3000年頃始まり、 紀元前2500年頃に中期(考古学的にはまだ不明の点が多いが)に移行する。 キクラデス文明後期の終わり(紀元前2000年頃)までには基本的にミノア文明に吸収された。 ただキクラデス文明の編年には、 文化史的なものと年代学的なものの間でやや食い違いがあり、 これらを結び付けた編年も一定していないが、 普通には次のようにまとめられる。

キクラデス文明の編年

考古学

西暦1880年代に初めて考古学的発掘が行われ、 その後英国系研究機関British School at Athensや考古学者クリストス・ツンタス(ツンダス Christos Tsountas、1857-1934)による系統的調査が行われ、 彼はいくつかの島で西暦1898年 - 西暦1899年に墳墓遺跡を発掘して「キクラデス文明」の名を使った。 その後はしばらく注目されなかったが、 20世紀半ばにコレクターたちがその現代風な彫刻(ジャン・アルプやコンスタンティン・ブランクーシを想わせる)を奪い合うようになったことで再び注目された。 しかし遺跡が掘り荒らされ、 偽物も盛んに取引され、 多くのキクラデス彫刻は脈絡が断ち切られてしまった。 これらの彫刻の意味はもはや完全にはわからないであろう。 もう一つの謎に満ちた遺物には、 「キクラデスのフライパン」(用途不明)がある。

考古学的知識が増すにつれ、 紀元前5000年頃に小アジアから渡って来た農耕・海洋文化の大まかな様相がわかってきた。 キクラデス文明は紀元前3300年頃から紀元前2000年頃にかけて3段階で発展し、 ミノア文明の影響をしだいに強めていった。 一方で、クレタ島クノッソスの発掘で発見された土器により、 紀元前3400年から紀元前2000年頃にキクラデスの影響があったことが判明した 。 キクラデス文明と同時期のギリシャ本土の文化は、 ヘラディック文化と呼ばれる。

トロイア文明

トロイア文明は、 紀元前2600年頃から栄え、 紀元前1200年頃のトロイア戦争によって滅亡した文明である。

ホメロスの叙事詩にある神話であると考えられていたが、 西暦1870年にシュリーマンがヒッサリクの丘で遺跡を発見し、 その後の発掘調査でトロイアの遺跡であるとされた。

トロイア遺跡は現在のトルコ北西部ダーダネルス海峡の南、 アナトリア半島(小アジア半島)の北西端にあるエーゲ海沿岸のヒッサリクの丘に位置する。 このことから、トロイア文明は海上交易によって栄えたと推測されている。

ホメロスの叙事詩「イリアス」に描かれたトロイア戦争の10年間と、 「オデュッセイア」に描かれたトロイア戦争後のオデュッセウスの物語は神話的要素が多いことから、 歴史家たちの間では事実とみなされていなかった。
しかしシュリーマンは幼い頃に読んだ物語が忘れられず、 トロイアの遺跡発掘の夢を叶えたと言われている。 シュリーマンはギリシャ本土においてもミケーネ遺跡の発掘を行っている。

トロイア遺跡は紀元前3000年頃から紀元前350年頃まで、 9層に積み重なっており、 シュリーマンの発見したプリアモスの財宝は、 トロイア戦争より1000年以上も前のものだと判明している。 しかしシュリーマンの発掘によって遺構が大きく損なわれ、 トロイアの遺跡がイリアスに描かれているものかどうか考証できなくなっている。


トロイの遺跡を赤いピンで示している。


ヘラディック文明

ヘラディック文明は、 紀元前2500~紀元前1100年にギリシャ本土に興ったエーゲ海先史文明。

ミノア、キクラデス、ヘラディック、トロイの4青銅器文明の一つ。
テッサリアを含むギリシャ本土に興ったもので、 クレタのクレタ文明と対応する。
ミケーネ文明はその後期のもので、 ミノア文明の影響を受けて成立したが、 紀元前1100年頃のミケーネの崩壊により終わりを告げた。

クレタ文明

クレタ文明/ミノア文明/ミノス文明

ミノア文明(ミノアぶんめい)は、エーゲ文明のうち、 クレタ島で栄えた青銅器文明のことである。 伝説上のミノス王にちなみ、ミノス文明とも呼ばれるが、 クレタ文明と呼ばれることもある。
紀元前2000年頃の中期ミノア期に、地中海交易によって発展し、 クノッソス、マリア、ファイストスなど、 島内各地に地域ごとの物資の貯蔵・再分配を行う宮殿が建てられた。 宮殿以外にもコモスやパレカストロのような港湾都市が繁栄。 また、貿易を通じてエジプトやフェニキアの芸術も流入し、 高度な工芸品を生み出した。 紀元前18世紀ごろには、線文字Aを使用している。 紀元前1600年頃の後期ミノア期には、 各都市国家の中央集権化、階層化が進み、 クノッソス、ファイストスが島中央部を、 マリアが島東部をそれぞれ支配するに至ったが木材の大量伐採による自然環境の破壊が文明そのものの衰退を招き、 紀元前1400年ごろにミュケナイのアカイア人がクレタ島に侵入、 略奪されミノア文明は崩壊した。

クレタの宮殿建築は非対称性、有機的、機能的な構成で、 中庭は外部から直接に進入することができ、 かつ建物の各部分への動線の起点となっている。 建物は常に外部に対して開放されており、 当時のクレタが非常に平和であったことが推察される。 初期の宮殿建築では、宮殿に接して市民の公共空間が設けられていたが、 後期ミノア時代に社会体制が中央集権化、 階層化するとともに次第に公共空間は廃れ、 他の建築物が建てられた。 祭政を一体として行っていたために、独立した祭儀場を持たない。

ミノア文明は、紀元前15世紀半ばに突然崩壊した。 イギリスの考古学者アーサー・エバンスらは、 サントリーニ島の巨大爆発(ミノア噴火)が原因とする説を唱えた。 しかし、アクロティリ遺跡の調査によってミノア文明が滅んだのは、 ミノア噴火より50年後ほど経た後であり、 サントリーニ島の噴火が直接の原因ではないことがほぼ確定している。


クレタ島を赤いピンで示している。


ミノア文明以前
ミノア文化における編年
年代 土器による編年 文化推移による区分
前3650年-3000年 EMI 前宮殿時代
前2900年-2300年 EMII
前2300年-2160年 EMIII
前2160年-1900年 MMIA
前1900年-1800年 MMIB 古宮殿時代
(第1宮殿時代)
前1800年-1700年 MMII
前1700年-1640年 MMIIIA 新宮殿時代
(第2宮殿時代)
前1640年-1600年 MMIIIB
前1600年-1480年 LMIA
前1480年-1425年 LMIB
前1425年-1390年 LMII 諸宮殿崩壊後の時代
(最終宮殿時代)
前1390年-1370年 LMIIIA1
前1370年-1340年 LMIIIA2
前1340年-1190年 LMIIIB
前1190年-1170年 LMIIIC
前1100年 亜ミノア文化

クレタ島では文化がギリシャ本土やキクラデス諸島と並行しながら独自の進化を遂げていた。 そのため、 本土や島嶼部で発掘されるソースボートはクレタ島では稀にしか発見されず、 その逆にクレタ島で発掘されるヴァシリキ様式(de)ティーポットは本土や島嶼部で発見されることは稀である。

そのため、 初期青銅器時代にキクラデス諸島での文化断絶が発生したにもかかわらず、 クレタ島ではその傾向は見られず、 中期青銅器時代に至ると宮殿が築かれるようになった。 この青銅器時代の文化推移についてクレタ島ではエーゲ海で見られる初期、 中期、後期と並行した形で前宮殿時代、 古宮殿(第1宮殿)時代、新宮殿(第2宮殿)時代、 諸宮殿崩壊後(最終宮殿、もしくはクレタのミケーネ)時代という区分が用いられることが多い。

ミノア文化の盛衰については研究者のあいだでも議論が続いており、 高編年を取る者、低編年を取る者の間で100年ほどの差が出ている。 ミノア文化について明らかにするには線文字Aの解読、 宮殿から得られる情報の整理、 宮殿周囲の都市やヴィラ、 聖域なども考慮して研究することが必要であるとされており、 研究が続いている。

前宮殿時代
土器様式
この細分化された編年で前宮殿時代に属するEMI、EMII、EMIII(初期青銅器時代)、 MMIA(中期青銅器時代初期)のにおいて、 EMIはピュルゴス土器と呼ばれる部分的に磨かれた装飾が見られる灰黒色の土器、 または水差しが発見されることの多い白色に赤線が描かれたアイオス・オヌフリオス土器が代表となる。

EMIIはさらにAとBに細分化されており、 Aの方ではクウマサ土器と呼ばれるアイオス・オヌフリオス土器が発展した彩文土器や刻文が彫られた灰色土器が見られる。 それに対してBではヴァシリキ土器が多く見られる。 このヴァシリキ土器はクレタ東部に多く分布しており、 器の外面が磨かれ黒や赤の光沢がある斑が見られるのが特徴である。

EMIIIでは黒地に白で文様が描かれているが、 この特徴はMMIAにも受け継がれており、 MMIAでは赤色がこれに加わっている。
特徴
前宮殿時代の代表的遺跡としてミルトスのフルヌウ・コリフィ遺跡が上げられるが、 この遺跡はEMIIに所属する。 この遺跡はEMII末期に焼壊した後、 定住者が現れなかったために当時の様相を残している。

この遺跡は計画的に建てられた物ではなく、 家々も小さな部屋で構成されているが、 その後の時代に形成された宮殿のような大型の貯蔵庫と思しきものが発見されている。 また、遺跡周辺には膨大な数の石皿が発見されており、 当時、 この遺跡で穀物が粉にされていたことが想像されている。

埋葬については共同墓地に何世代もの人々が葬られており、 クレタ中部のメサラ平野で見られるトロス墓、 クレタ島部のモクロス島で見られる長方形の施設が存在する。 ただし、このトロス墓はミケーネ時代のように地下ではなく地上に作られている。 また、アルハネスのトロスCではキクラデス文化の石偶が発見されており、 クレタ島とエーゲ海島嶼部が交流していたことが窺える。

その後、 紀元前2000年頃になると、 クレタ島におけるミノア文化を特徴づける宮殿が成立することになる。 これらの宮殿は計画的に建設されており、 また、規格化もなされている。 そのため、フルヌウ・コリフィの集落のように自然発生したものではなく、 クノッソス、マリア、フェストス、ザクロスで発見されたそれぞれの宮殿は基本的に同一な構造である。 これらの宮殿の規格、構造が同一であることは何らかの人物が主導したと想像されており、 この宮殿の成立によってミノア文化の人々が支配する側と支配される側と二分化が始まっていたと思われる。

また、宮殿は中央に長方形の広場が形成され、 その周囲に各種機能を担うブロックが配置されているが、 この西側にはさらに広場が構築されている。 この西側の広場から宮殿を見たときに宮殿が最も威容を持つようにされており、 ここにも二分化の傾向が暗示されている。

古宮殿時代
土器様式
この時代、カマレス土器と呼ばれる白、クリーム色、赤、オレンジ色で大胆に抽象的文様が描かれた土器が生まれる。 また、MMIB期に入るとろくろが導入されたと想像されており、 その技術はかなり向上している。 これらの高い技術は宮殿の成立に伴って製陶が専門化されたことにより生まれたと考えられている。
特徴
クノッソスの宮殿の最古部はMMIBに属しているが、 この時期に宮殿が完成されたわけではなく、 北西部と西側の貯蔵庫が最初に構築され、 その後、東側の建物が構築されたと考えられている。 西側の広場ではクールーレスと呼ばれる円形のピットが3つ掘られており、 これらは穀物を地下に貯蔵していたとされている。 また、最西部ではオリーブ油やワインなどが貯蔵されており、 宮殿が構築当初から農産物の貯蔵に使用されていたことが窺える。 また、中央広場東部では土器の補完や紡績の作業場として使用されていたことが推測されており、 これらの発展はメサラ平野のフェストス宮殿でも見ることができ、 フェストスでは古宮殿時代はフェイズ1、フェイズ2、フェイズ3の三段階に分けられているが、 それぞれのフェイズで貯蔵庫、加工の場としての性格が進行している。

クノッソスの宮殿における祭祀、行政の中核は宮殿西翼の東部で行われており、 この中でも重要な箇所である「玉座の間」は過去にミケーネ時代(LMII)に至ってから構築されていたと思われていたが、 その後の研究の結果、 この時代に構築されたことが明らかになっている[# 1]。 このようにクノッソスでは祭祀施設が宮殿内部に構築されていたが、 マリアの宮殿では宮殿外のMu地区(Quartier Mu)と呼ばれる複合施設に構築されている[# 2]。

これら古宮殿時代の宮殿は高編年では前1780年に地震で全て崩壊したと考えられている。 しかし、その後、 崩壊した宮殿の上に同様の計画をもってより規模を拡大したうえで再建されている。
新宮殿時代
土器
新宮殿時代に至ると土器フェイズではMMIIIからLMIBに分類されるが、 この時代にミノア文化は最盛期を迎える。 MMIII期に入るとカマレス土器はあまり見られなくなり、 その代わりに亀甲波状文が施されたものが現れはじめる。 さらに土器の形状も様々なものが生まれ始め、 後期青銅器時代に見られる土器で導入された技術が生まれ始めているのがMMIIIの特徴でもある。

LMIA期に入ると明色地に暗色(赤、茶)で水平方向に渦巻や草花を描くことが普及しはじめる。 草花文はカマレス土器にも描かれることがあったが、 LMIA期はそれとちがい柔軟で自然主義的な文様が多く、 これはフレスコ画にも共通している。

LMIBに入ると新たに「宮殿伝統」として高度な芸術性を持った精製土器群が現れる。 この土器には海洋文様式、草花文様式、抽象文様式、交互様式の4様式が見られる。
特徴
古宮殿時代に一度は崩壊したクノッソスの宮殿もその上に新たに宮殿が再建された。 この再建は同時に行われたものではなく、 徐々に造営されたと考えられている。 この再建時に「玉座の間」も玉座が作られ、 それを取り巻くベンチも作られたと考えられるが、 この玉座が作られた経緯、 その機能については現在も議論が続いている。

ただし、玉座背後の壁には一対のグリフォンが描かれているが、 この一対のグリフォンが印章などに描かれていた場合、 女性を守る図で描かれることが多いことからこの玉座に座って宗教的、 もしくは世俗的な行為を行ったのが女性であった可能性が高い。 また、「玉座の間」の南側には宮殿における信仰の中心地であったと考えられている神聖な円柱を含む祭祀施設が構築されており、 さらにその奥側には神聖な供物を保管する地下格納庫が構築されていた。

この地下格納庫では陶製の蛇を持つ女神像や線文字Aが刻まれた粘土板が出土しているが、 これらのものが同じ場所で出土したことは祭祀と行政が堅く結ばれていたことを示していたと思われる。

新宮殿でも中央広場が構築されており、 この広場では牛飛びの儀式が行われた場所とされているが、 これには異論も存在しており、 西側広場で行われていたものを描いたと思われるフレスコ画と中央広場で行われていたものを描いたフレスコ画では描かれた若者の服装や髪型に違いが見られるが、 これはこの広場が運動場であったわけではなく、 集会場、 いわゆる古代ギリシャにおいて行われたアゴラを暗示するものと考えられている。
宮殿
ミノア文化の宮殿は各地から集まる物資の貯蔵、加工を行い、 それを再分配するシステムの中心地であった。 マリアやザクロスでは宮殿を中心に町が形成されている。 ただし、ザクロスの場合は海に面した地域で港湾都市が形成され、 その後、宮殿が形成されたと推測されている。 グルニア、コモス、パレカストロでは宮殿とは別の箇所で町が形成されている。 特にパレカストロでは町の規模が宮殿を上回っており、 街道を中心に形成されている。 また、発掘が進められているコモスも港湾都市であり、 宮殿と同規模の町が発見されている。

新宮殿時代に至ると都市とは別にヴィラと呼ばれる孤立家屋が普及し始める。 ヴィラは複数の部屋で構成される一軒屋、 もしくは複数の家屋群で構築されていることがあるが、 これらは宮殿と同じように物資の貯蔵施設があり、 アルハネス南のヴァシペトロのヴィラではワイン、 オリーブ油を製造する遺構が発見されており、 さらにこのヴィラは円柱をめぐらした吹き抜けの2階部分にバルコニーがついたものが発掘されており、 これは当時の姿をよく伝えている。

ミノア文化は多神教であったが、宮殿は信仰の中心地でもあった。 各地の宮殿は祭祀に関わる施設が作られ、 多くの宮殿には聖域が構築されており、 そこには『聖別の角』が飾られていた[# 4]。
発掘

ミノア文明発掘は1884年、 クレタ島を訪れたイタリアの研究家ハルブヘルによる、 前5世紀に著されたとされるゴルテュン法典の発見が嚆矢となった。

その後、イギリスの考古学者であるアーサー・エヴァンズは、 エジプトやメソポタミアの例を見る限り、 ハインリヒ・シュリーマンが発見したトロイアとミュケナイにおける高度な文明は文字なしには成立し得ないと考え、 アテネの店先で見たクレタ島起源の護符のような印章に象形文字と思われる記号があったことからクレタ島へ向かった[19]。

エヴァンスはクレタ全域を踏破した後、 ギリシャ人ミノス・カロケリノスが1878年に発見したケファラの丘を発掘地に定めた。 エヴァンスにとって幸運なことに1900年にクレタ島がオスマン帝国からギリシャ領となっていたことやミロス島のフィラコピ遺跡に携わっていたマッケンジーの協力を得たことにより発掘は順調に進んだ。

1900年、クノッソス宮殿が発掘されギリシャ本土より200年以上前にギリシャを彩った文明の痕跡が発見された。 エヴァンスはこれをミノア文明(Minoan)と名付けた。

ミケーネ文明

ミケーネ文明はミュケナイ文明ともいい、 紀元前1600年頃から紀元前1200年頃にかけて、 ギリシャ本土ミケーネを中心に栄えた文明。

古代ギリシャの青銅器文明であるエーゲ文明は、 前半をクレタ文明が、 後半をミケーネ文明が担っている。
紀元前1200年頃に鉄器が使用されるようになったことにより、 消滅したと考えられる。

およそ紀元前1600年頃から紀元前1200年頃、 北方からギリシャ本土とエーゲ海域に南下してきたギリシャ人の第一波とされるアカイア人が、 ペロポネソス半島のミケーネなどを中心に高度な青銅器文明を築き、 次第に先行のクレタ文明を征服しながら古代文明を形成していった。 これがエーゲ文明の後段にあたるミケーネ文明である。 その成立時期は、 紀元前1400年頃とする説もある。



概要
歴史
ミケーネ文明は紀元前1600年頃、 南下したギリシャ人の第一波とされるアカイア人によってアルゴリス地方で興り、 ミノア文明と同じく地中海交易によって発展した。 ミノア文明との貿易を通じて芸術などを流入し、 ついにはクレタ島に侵攻、征服したと考えられる。 このころ、ミケーネはトローアスのイリオスを滅ぼし(トロイア戦争)、 後にこれをホメーロスが叙事詩『イーリアス』の題材としたが、 イリオスで大規模な破壊があったことは認められるものの、 これが事実かどうかは推察の域を出ない。 紀元前1200年頃、突如勃興した海の民、 もしくはドーリア人によって、 ミケーネ、ティリンスが破壊され、 ミケーネ文明は崩壊したと思われる。 また、内部崩壊説や気候変動説も存在するが、 はっきりとした事情は不明である。 この後、ギリシャは暗黒時代と呼ばれる混乱時代に突入し、 線文字Bが使われることも無くなった。
特徴
ミノア文明(クレタ文明)の建築が開放的であったのに対し、 ミケーネ文明の建築は模倣的で巨石を用い、 円頂墓を作る等、堅牢な城壁で囲まれ閉鎖的なものとなっているが、 これはミノア文明とは異なり外敵の脅威にさらされる可能性があった為と考えられている。 中庭はミノア文明のそれとは異なり、 動線の基軸として機能していない。 中庭に代わる動線の基軸はメガロンと呼ばれる室内空間で、 記念性を持った特権的な空間を構成し、 中庭はその付属物である。 建物は対称性が重視されている。 その他、戦士や狩猟などの壁画、 幾何学的文様・抽象的文様の陶器、金銀杯が特徴である。 アガメムノンの黄金のマスクは、 シュリーマンが1876年のミケーネ遺跡発掘の際に発見し、 現在はアテネの国立考古博物館に所蔵されている。 尚武的なミケーネ文明は、 剣や甲冑の製作に秀でていたほか、 貴金属細工にも優れた作品を残している。

ミケーネ文明はミケーネ、ティリンス、ピュロスなどに巨石でできた城塞王宮とそれを中心とする小王国の分立という政治体制だった。 のちのポリス社会と異なり、 これらの小王国では専制的な権力を持った王が君臨し、 統治下の村々から農作物、家畜、武器などを貢納として取り立て、 それによって王宮で働く多数の職人や奴隷を養う貢納王政の仕組みをとっていた。 貢納を受ける役人が存在していたが、 エジプトやメソポタミアほど統治機構の整備は進まなかった。
文字
線文字Bが使われていた。 これはイギリスの考古学者、マイケル・ヴェントリスによって解読された。

なおイギリスの考古学者アーサー・エヴァンズは、 自身の考察から、1900年にクレタ島のクノッソスを発掘し、 そこで発見した線文字Bをミノア文明(クレタ文明)発祥のものと考えた(誤ってそう考えてしまった)が、 1939年にピュロス王宮で線文字Bの刻まれた粘土版が発見され、 実際にはこれはミケーネ文明で用いられたものと判明した。 1952年にはミケーネ王宮、 1971年にはティリンスでも、線文字Bを記した粘土版が発掘されている。 ミケーネやチリンスの遺跡などは1876年以降からシュリーマンによって発掘された。
中石器時代(ちゅうせっきじだい、Mesolithic)/ 亜旧石器時代(英語: Epipaleolithic)

石器時代の旧石器時代と新石器時代との中間の期間にあたる。

「中石器時代」という名称の語源は、ギリシャ語で(Meso, 中間)+ (lithos, 石)である。

社会の形態は狩猟採集社会であった。 この時代の遺跡は極めてまれであり、 ほぼ貝塚に限られている。 ほとんどの地域の中石器時代は、 小型複合燧石(細石器と細刻器)によって特徴付けられる。 漁労具、石製手斧、カヌーや弓矢のような木製品が、 いくつかの遺跡で見つかっている。 世界の森林地帯では、最初の伐採の痕跡が見つけられているが、 伐採の本格的な開始は、 農耕のための特別な土地が必要となった新石器時代初期であったと考えられている。
クレイステネス  紀元前6世紀後半 - 紀元前5世紀前半

名門アルクメオン家出身の貴族で、古代アテナイの民主主義者。

クレイステネスアテナイの貴族メガクレスと、 シキュオンの僭主クレイステネスの娘アガリステとの間の息子である (古代ギリシャでは祖父の名を孫に付けることがしばしばなされていた)。

アルクメオン家は紀元前510年に僭主ヒッピアスをスパルタと組んで追放すると、 その後の政治的混乱を収拾してアテナイの実権を握り、 民主主義的な改革を推進した。

クレイステネスは新たなる行政・軍事上の区分単位として、 旧来の血縁による4部族制を廃止し、 地縁に基づく10部族制のデーモス(区)制定及び10部族制デーモスを基礎とした五百人評議会の設置を行い、 将軍職(ストラテゴス)を定めるなどアテナイ民主政の基礎を確立した。

また、僭主の出現を阻むためにオストラシズム(陶片追放:日本語で表現すると「村八分」か?)の制度も創設した。

ペロポネソス戦争(英:Peloponnesian War)  紀元前431年 - 紀元前404年

アテナイを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟(注)との間に発生した、 古代ギリシャ世界全域を巻き込んだ戦争である。

(注)ペロポネソス同盟
ペロポネソス同盟(ペロポネソスどうめい)は、 紀元前6世紀末にスパルタ王クレオメネス1世によって結成された、 スパルタを盟主とするペロポネソス半島の諸ポリスからなる同盟。

ペロポネソス同盟とデロス同盟の対立は、 やがてペロポネソス戦争へと発展した。

紀元前371年にスパルタはレウクトラの戦いでテーバイに敗れ、 ギリシャの覇権を失った。 そして紀元前366年にテーバイの指導者エパメイノンダスによって同盟は解散させられた。 しかし紀元前272年、 ラコニアに攻め込んだエピロス王ピュロスをアレウス1世が撃退し、 ペロポネソス同盟を再結成した。

神聖戦争(しんせいせんそう)  英:Sacred War

古代ギリシャの隣保同盟において聖域の権益(特にその莫大な奉納品)をめぐって戦われた戦争である。

隣保同盟(りんぽどうめい)  英語:Amphictyonic League

古代ギリシャにおいて、 ある特定の神殿もしくは聖域を共同で維持管理するために、 近隣のポリスや部族間で結ばれた同盟である。 アンピクティオン同盟、アンピクティオニア、アンフィクティオニア、アンフィクチオニア、神事同盟とも呼ばれる。 デルポイのアポロン神殿の隣保同盟が最もよく知られている。

2世紀のギリシャの地理学者パウサニアスは、 デルポイの隣保同盟の起源について、 デウカリオンの子アンピクテュオンによって創設され、 この王の名がアンピクティオニアの語源となったというものと、 「隣人」を意味するアンピクティオネスが語源となったという2つの説を紹介している。

隣保同盟にはヘレネス(ギリシャ人)の諸部族が参加した。 デルポイの隣保同盟の場合は、 まずテルモピュレ近郊のアンテラのデメテル神殿、 次いでデルポイのアポロン神殿を管理し、 アポロンの聖域で行われたピューティア大祭の開催運営も行なった。

全ギリシャ的規模で崇敬を集めた神殿は、 その聖域内に奉納による莫大な財産を蓄えていた。 そのため、聖域の権益をめぐる争いが、 同盟内部において戦争に発展することもあり、 それらの戦争は聖戦(神聖戦争)と呼ばれた。 ピリッポス2世(紀元前382年 - 紀元前336年)はこのような同盟内部の争いに介入することにより、 ギリシャ本土におけるマケドニアの覇権を確立した。 マケドニアは、アンティパトロスが王の代理としてデルポイに赴いた。

古代ギリシャの同盟の類型としては、 ペロポネソス同盟(紀元前6世紀末に成立)やデロス同盟(紀元前478年 - 477年の冬に成立)といった軍事同盟も知られる。

イッソスの戦い  紀元前333年11月5日開戦

アルゲアス朝(マケドニア王国)およびコリントス同盟の連合軍とアケメネス朝(ペルシャ)の戦いである。 この戦いはアレクサンドロス3世の東方遠征中に生じた戦いの中で2番目に大きな戦いであり、 ペルシャのダリウス3世と初めて直接相まみえた。

古代の歴史家はペルシャ軍は総勢60万であると推測したが、 これはいかにも多すぎ、 2万5千から、 多く見積もっても10万であったようだ。 一方、マケドニア軍は、 ギリシャの同盟軍を加えても4万に満たなかったとされる。

この戦いは騎兵部隊の活躍によってマケドニア・ギリシャ同盟軍が全面的な勝利を収める事ができた。 マケドニアの騎兵がペルシャの右翼を突破して、 中央の側面を攻撃することができた事がこの戦いの勝因であり、 騎兵が戦闘における決定的な意義を持った戦いは、 カンナエの戦い以外に見られないものであった。

ダリウスは敗走し、 マケドニア軍はペルシャ軍に同行していたダレイオスの妻、 スタテイラ1世と娘のスタテイラ2世とダレイオスの母、シ シュガンビスを捕らえた。 アレクサンダーは捕らえた婦人は丁寧に扱い、 後にスタテイラ2世と結婚した。 ダリウスは和議を提案したが、アレクサンドロスにより一蹴(いっしゅう)された。

イッソス(Issos)は小アジアの南東付け根の位置にあった古地名。
ナポリ博物館蔵の有名なモザイク大壁画(西暦1831年ポンペイ出土)は、 この戦闘の光景を描いたものといわれる。
また、ドイツの画家アルトドルファーの同名の作品も有名。

サトラップ

古代メディア王国・アケメネス朝ペルシャ王国及び、その政治体制を受け継ぐ諸国で用いられた州の行政官を指す称号である。サーサーン朝やヘレニズム要素の強い帝国でも用いられた。太守、総督とも訳される。

サトラップは古代ペルシャ語のフシャスラバーワン(州の守護者)から来ている。 この語をギリシャ語に借用したサトラペースから語尾を抜いてサトラップという言葉になった。 現代ペルシャ語でもサートラープと表記される。

現在では、超大国・覇権国の動向に極めて強い影響を受ける指導者のことを比喩的に「サトラップ」と呼ぶことがある。

この制度を最初に採用したのはペルシャのメディア王国においてであり、 遅くとも紀元前648年には使用されていた。 当時は「フシャスラバーワン」と呼ばれていたと推定されている。 そしてアケメネス朝のキュロス2世の代、 紀元前530年頃に至って大々的に施行されることとなった。

ネアルコス  紀元前360年頃 - 紀元前300年

アレクサンドロス3世に仕えたマケドニア王国の将軍である。

アンティゴノス1世  紀元前382年 - 紀元前301年

古代マケドニアのアレクサンドロス3世(大王)に仕えた将軍。 その死後は後継者(ディアドコイ)の一人となり、 アンティゴノス朝を開き初代の王となった(在位:紀元前306年 - 同301年)。 また隻眼であった(戦傷によるものといわれている)ため、 モノフタルモス(隻眼の意)とあだ名された。 コインの肖像が右向きのことなどから、 左目を失っていたと推測されている。