古代ギリシャにおいてギリシャ人をどう定義するかという問題がある。 旧石器時代以降、ギリシャに人類が定住していたことは間違いないが、 古代ギリシャ語となる言語を話していた民族は古代ギリシャ語がインド・ヨーロッパ語族に属することから、 前2200年頃にギリシャの方へ移動したと考えられている。 古代ギリシャ語はすくなくともミケーネ時代には使用されており、 この古代ギリシャ語を使用したからこそ古代ギリシャ文化が花開いた。 さらに研究者の間ではギリシャ人としての自己意識が関わるとする。 古代ギリシャにおいてはギリシャ人である要件に言語、出自、そして祭礼などが共通であるとヘロドトスの著した『歴史』には記載されている。
「ギリシャ」と表記するのか「ギリシア」と表記するのかの問題である。
最初に結論を書いておく。特に気にしていないので混在している。
理由は、参考にした(引用した)元ネタに依存している。
なぜ気にしていないのかの理由を、日本を例にして簡単に書いておく。
そもそも、 日本語でギリシャあるいはギリシアとは何なのかを、 順不同で上げてみる。
時代区分 | 大区分 | 小区分 | およその年代 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|
自 | 至 | ||||
先史時代 | 石器時代 | 旧石器時代 | 紀元前40万年-30万年 | 紀元前1万3千年 | |
中石器時代 | 紀元前1万3千年 | 紀元前8000年-紀元前7000年 | |||
新石器時代 | 紀元前8000年-7000年 | 紀元前6000年-紀元前5800年 | 農村への定住の始まり | ||
青銅器時代 | 初期青銅器時代 | 紀元前6000年-紀元前5800年頃 | 紀元前3200年-紀元前3000年 | ||
中期青銅器時代 | 紀元前2000年頃 | 紀元前1650年頃 | ミノア文明 | ||
後期青銅器時代 | 紀元前1650年頃 | 紀元前1200年頃 | ミケーネ文明 | ||
暗黒時代(初期鉄器時代) | 紀元前1200年頃-紀元前1000年頃 | 紀元前800年頃 | 幾何学文様期と呼ばれる時代を含む | ||
古代 | 前古典時代 | 紀元前800年頃 | 紀元前500年末頃 | ポリスの成立 | |
古典時代 | 紀元前500年末頃 | 紀元前350年頃 | ペルシャ戦争、ペロポネソス戦争 | ||
ヘレニズム時代 | 紀元前350年頃 | 紀元前30年 | アレクサンダー大王による王国からローマ帝国による占領まで | ||
ローマ帝国統治下 | 紀元前30年 | 紀元前西暦330年 | 古代ギリシャの範囲には入れていない。 |
ギリシャにおいて発見された最古の人類は、 ハルキディキ半島ペトラロナで発見されたペトラロナ人で、 彼等はホモ・エレクトゥスとネアンデルタール人の形質の特徴を持ち合わせており、 およそ20万年から40万年前までにさかのぼると考えられている。
彼らが活動したこの時代がギリシャにおける前期旧石器時代と推測され、 ギリシャにおいて人類の活動が始まったのはこの時代とほぼ考えられている。
15万年前になると、生活の痕跡が増加し、この時代が中期旧石器時代と考えられている。
およそ6万年前の中期旧石器時代になると化石人類に代わって、
旧人類の活動が確認される。
環東地中海世界によくみられるムスティエ文化の特徴が見られ、
イピルス、テッサリア、エリス、アルゴリス、クレタ島などで剥片が発見されており、
特にアルゴリスにあるフランクティ洞窟ではルヴァロア技法の剥片が発見されている。
5万年ほど前に至ると最終氷期に突入、海面は下降し、 新人の時代に移った。
3万年前になると後期旧石器時代に入るが、
この時代は海面の上昇により痕跡物の数は多くないが、
フランクティ洞窟やセオペトラ洞窟などで狩猟採集民による活動を示唆する文化層の堆積が見られる。
また、
この時代、
狩猟の方法も組織的なものへ変化し、
さらには石器の加工技術も進み、
洞窟絵画や女性彫像もこの時代に見られる。
中石器時代に至ると、温暖化が進んで海岸線も上昇した。
それまでの狩猟生活から蓄える生活への転換が見られ、
フランクティ洞窟でも黒曜石や魚の骨が発見され、
また、
スポラデス諸島のユウラ島のキクロパス洞窟でも魚の骨や釣り針などが発見されており、
これらの遺物から当時ギリシャに住まう人々が海洋へ積極的に進出していることが想像され、
この時代がギリシャにおける重要な岐路であったと考えられている。
分類 | 年代 |
---|---|
初期 | 前7000年‐前5800年 |
中期 | 前5800年‐前5300年 |
後期 | 前5300年‐前4500年 |
末期 | 前4500年‐前3200年 |
前7000年になるとギリシャは新石器時代に入り、 この時代は土器の様式や放射性炭素年代測定法による測定により、 初期、中期、後期、末期の四段階に区分されている。
この新石器時代は過去には無土器時代があり、
農耕も自主的に発生したとする説が唱えられたが、
この説は1980年代に疑義が呈され、
ギリシャの新石器時代は土器などの文化を含めて西アジアより伝播したと考えられる。
この時代に至ると、
大麦、
小麦(アインコルン、エンマー)を基本穀物としてレンズ豆などが栽培されるようになり、
さらには山羊、羊、豚、牛、犬などの家畜も扱われるようになった。
この時代のギリシャは初期農耕文化の広がる北バルカン半島北方の内陸部と密接な関係を持ち、
豊富な水と肥沃な土壌が存在する地域であるギリシャ北方が先進地域で、
テッサリアやマケドニアの平野が初期農耕が行われ、
ギリシャ南部ではさほど集落の数も見られない。
そして、
キクラデス諸島へ新石器文化がこの後、
導入されてゆくが、
これはそれまでの二条大麦から六条大麦への転換から行われたことが想像されている。
初期新石器時代に入ると、
土器に様々なスリップ(釉)が施されたものが見られる。
初期新石器時代には碗の形をしていたものが多いが、
中石器時代に至ると様々な形が現れ、
地域による違いも見られるようになってゆく。
特にセスクロ文化(テッサリアの中期新石器時代の文化)では白色の器面に赤でジグザグ文様を描いたものや「新石器ウアフィルニス」と呼ばれる独特の光沢を持つ淡褐色の地に簡素なパターンを描いたものが同時期のペロポネス半島に存在しており、
この時代の製陶技術が高い水準にあったことが示されている。
また、
土偶も多く発見されており、
エーゲ海では「サリアゴスの豊満な女性」と呼ばれる大理石のものも作成されている。
後期新石器時代の代表的遺跡であるディミニのアクロポリスではその後訪れるミケーネ時代を先取りした独特の構造を構成しており、
周壁が築かれ、
これはメガロン形式の先取りと考えられている。
また、
オッザキ、アルギッサ、アラピなどでは濠の存在も確認されており、
後期新石器時代から末期石器時代に登場した銅製の武器の存在から、
集落間での戦いが行われていたことが想像される。
なお、
この冶金術はブルガリア方面から伝わったと考えられており、
そのほか、
エーゲ海産の貝を利用したブレスレットがポーランドで発見されていることから、
この時代の交易の広さが想像される。
しかし末期新石器時代に至ると、
マグーラを活用せず再び洞窟への回帰が見られる。
ディロスのアレポトリュパ洞窟やナクソス島のザス洞窟などでは後期新石器時代の銅製短剣も見つかっており、
このことが想像される。
そのため、
初期青銅器時代への発展が単純には考えられないが、
上記遺跡の文化から後期新石器時代と初期青銅器時代との関係もあるため、
今後の調査、
研究が進められることが望まれている。
ギリシャでの青銅器時代は前3200年から3000年頃に始まったと考えられている。 後期新石器時代に登場した青銅器は初期青銅器時代では一般的な遺物として発見されていないが、 新石器時代に中心を成してきたギリシャ北部からギリシャ南部へと文化の中心が移動している。 これは「地中海の三大作物」のオリーブとブドウの栽培が要因と考えられ、 これらの作物はギリシャ南部における丘陵地帯での栽培に適していた。 これらの作物から取れるオリーブオイルとブドウ酒は交易品として高い価値を持っており、 ギリシャがその後地中海の様々な地域と交易を結ぶための重要な資源となった。 そして、この農業が確立したのが初期青銅器時代と想像されており、 それまでの「たくわえる戦略」から「交換する戦略」への転換が見られる。
初期青銅器時代はギリシャ本土、クレタ島、キクラデス諸島の各地域での三時期区分による編年が確立されており、 この時代に「ギリシャらしさ」がそれまでの時代より明確に表れて来る。 特にキクラデス諸島のナクソス島やパロス島、シロス島などを中心に初期青銅器時代の痕跡が見つかっており、 石積みの単葬墓がグループを成しており、 初期のグロッタ・ペロス文化時代には羽状刻文の刻まれたピュクシスやヴァイオリン形の石偶なども含まれ、 これがさらにケロス・シロス文化に進化すると、 渦巻文のある「フライパン」や彩文土器なども存在する。 特に石偶は新石器時代のものとは異なり両手を前で組んだポーズを取って居るものが多く見られる。
ギリシャ本土では初期ヘラディック文化IIが始まり、 レルナの「瓦屋根の館」などを規格化された建物も生まれ、 ソースボートやアスコスのような独特の形態を持つ土器も現れる。 そして「瓦屋根の館」などの建築物で発掘により、 これらの建築物を中心とした再分配システムを含んだ首長制社会がこの時代に生まれつつあったことが想像されている。 一方で、ケロス島、パロス島、ナクソス島などエーゲ海中央部ではケロス=シロス・グループという文化が存在していたと考えられ、 多数の墓地が発見され、大理石石偶も発見されている。 また、カストリ・グループと呼ばれるアナトリアに関係する文化も現れている。 なお、この時代にギリシャ本土とエーゲ海の島々では文化交流があったとみられるが、 同じように青銅器文化が始まっていたクレタ島はこれらとの文化交流はなく、 単独での進化を進めていたと考えられ、 初期青銅器時代の後期にギリシャ本土とエーゲ海に発生した破壊の波をクレタ島は逃れている。
中期青銅器時代に入ると、 初期青銅器時代に発生した破壊の波を受けたギリシャ本土及びエーゲ海の島々とクレタ島とでははっきりと違いが現れる。 すなわち、ギリシャ本土では文化的後退を示し、 集落にも大規模な建築物は存在せず、 また、初期青銅器末期に作成されたミニュアス土器や灰色磨研土器、 中期青銅器時代に作成された鈍彩土器はそれ以前の時代、 およびその後の時代と比べても創意工夫に貧弱である。 そしてエーゲ海の島々ではそれまで独自に文化を進めていたが、 この時代にクレタ島の文化圏に呑み込まれてゆく。
一方でクレタ島ではミノア文明が栄え始めた。 ギリシャ本土でも宮殿は初期青銅器時代に建築されていたが、 クレタ島での宮殿はそれとは比べようもないほど巨大なものが作成される。 また、カマレス土器のようなギリシャ本土のものとは比べようのない土器が作成され、 数々の工芸品も生産され、 ミノア文明はこの時代に繁栄を迎えるが、 中期青銅器時代の後期に地震による被害を受けたと想像されているが、 この時、損傷した宮殿は以前よりも規模を拡大して再建されている。 この地震以前の宮殿を古宮殿、地震後を新宮殿を呼んでいる。
このように中期青銅器時代には低迷を極めたギリシャ本土であるが、 後期青銅器時代に入った前1650年ごろ、 ペロポネソス半島のミケーネに新たな文化が生まれる。 これがいわゆるミケーネ文明で、 その文化はペロポネソス半島にとどまらずギリシャ中部にまで広がりを見せて行く。 それに対してクレタ島におけるミノア文明は独自の発展を続けて、 繁栄を極めていたが突如としてそれは終焉を迎える。 これにはミケーネ文明の侵略が想定されており、 ミケーネ文明はその後、エーゲ海、シチリア島、キプロス島へと広がりを見せて行く。 そして線文字Bも使われ、 ミケーネ文明は発展を続けてゆくかに見えたが、 ここで突如として前1200年のカタストロフに襲われ、 突如終焉を迎える。 が、ミケーネ文明はすぐに死に絶えたわけではなく、 その後の200年ほどその文化要素が残ったと考えられている。
詳細は「前1200年のカタストロフ」、「暗黒時代 (古代ギリシャ)」、および「幾何学様式」を参照
前1200年のカタストロフの襲来でミケーネにおいて文明は崩壊し、
その後ポリスが成立するまでの時代は文字資料もなく、
また海外との交渉も低調で、
さらには考古学的証拠も乏しいため、
俗に「暗黒時代」と呼ばれる。
しかし、ギリシャで文化がすべて死に絶えたわけではなく、
ミケーネ土器を基にして進化した幾何学文様土器が作成され、
前900年から前700年を俗に「幾何学文様期」と呼ぶ。
そのほか、
後に重要な地位を占めるアテネなどのポリスも元を辿るとミケーネ時代にその端を発したものがあり、
ミケーネ時代から暗黒時代を経ていることも注目されている。
前8世紀になるとギリシャ各地に都市国家であるポリスが徐々に生まれて行く。 ミケーネ時代の叙事詩であるホメロスの作品が流行し、 これはギリシャ人の民族意識と倫理規範のよりどころとなった。 これらの作品はフェニキア人との接触によってアルファベットが成立したことが重要要因であるが、 それ以上にそのアルファベットの起源となったフェニキア文字をもたらしたフェニキア人との接触が重要な意味を持っていた。 すなわち、ギリシャ人としてのアイデンティティを構築したことである。 このホメロスの叙事詩はギリシャ人らが自らの民族的同一性を再確認することを支えたと考えられ、 アルファベットの成立を商業的理由よりもホメロスの叙事詩を文字であらわすことであったとする説も存在する。 このホメロスの叙事詩はギリシャ人らの聖典となり、 行動規範の元となった。 そして、この叙事詩の流行と英雄祭祀が同時に流行したことでギリシャ人らが祖先の偉業をたたえるようになって行った。
この様々な進化を遂げた前8世紀をルネサンスの時代と呼ぶことがあるが、 これは近世のルネサンスと同じように「過去」の文化を文字通り「再生」したことを意味している。 それまで経済的な利用をしていた線文字Bからアルファベットへ、 支配者の君臨する宮殿から神々の神殿へ、 都市もメガロンのような城塞ではなく広場(アゴラ)を中心としたものへとの進化を遂げ、 その後のポリスの時代へとつながってゆく。
古代ギリシャにおいてはエウボイア島においていち早くポリスが形成された。 エウボイアでは東方と交易をおこなっていたことがエウボイア産の土器の出土で判明しているが、 その経済活動がカルキスとエレトリアというポリスの成立を産み、 両ポリスがレラントス平野で周辺諸ポリスを巻き込んだレラントス戦争はギリシャにおける最初の国際的な陸戦であったと想像されている。 また、サロニア島のポリスでも商業活動を積極に行うことで繁栄し、 ソストラトスという商人がヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)にまで到達するまでの交易をおこなっており、 さらには古代ギリシャにおいてはじめて貨幣を発行したのも同島のアイギナであった。
さらにキクラデス諸島においてはイオニア人がケオス、 シフノス、パロス、ナクソス、ミュコノス、テノスへ移住、 ドーリス人はメロス、シキノス、テラへ移住した。 そのなかでもデロス島のアポロン神殿はナクソスの影響下のもとにあった。 そのナクソスは一時期、 アテネの介入によりリュグダミスによる僭主政が行われるが、 僭主政が終るとナクソスはキクラデス諸島における強国となってゆく。
前8世紀以降、神殿を中心とした大規模な建築物が再び建設されるようになり、 いわゆるポリス(都市国家)が形成されてゆく。 そしてそのポリスを中心にして、 地中海や黒海へ植民を行ったことからこの時代を植民時代と呼ぶこともある。 この植民活動はポリスにおける党派争いから破れた人々が行ったことなどもあり、 まだまだ揺籃期にあったポリスにおいて混乱を避けるための安全弁的な意味もあった。 また、有力な市民が独裁者となる僭主政なども発生し、 これの代表者としてはコリントスのキュプセロスやアテナイのペイシストラトスなどが挙げられる。
また、この時代は植民活動の始まった時代でもあった。 植民活動の初期は金属資源を求めるなど交易を求めての活動であったが、 徐々に各地にポリスを形成して行きシチリア、南イタリア、アフリカ北岸、黒海沿岸などへ植民市を形成して行った。 この植民活動によりギリシャ人は地中海全域に渡り交易活動を活発に行うようになり、 各地にそれぞれのポリスを築いてゆき、 それぞれの活動を行うが、文化面では共通のものを育んでいった。 それは共通の神々を崇め、 そしてホメロスの叙事詩を愛することでギリシャ人であることをアイデンティティとして形成していたからであった。 このアイデンティティはヘシオドス作の『仕事と日』や『神統記』にてギリシャ人精神の覚醒が描かれ、 さらにアルキロコス、サッフォー、テオグニス、ピンダロス、ピュタゴラスやクセノファネス、タレース、などが活躍した。 さらにオリエントの影響を受けていた美術では厳格様式と呼ばれる様式が確立し、 アテナイでは黒像様式や赤像式と呼ばれる陶器の生産も始まった。 また、この植民活動の盛んな時代、都市国家の建設があると法律の成文化が進められるようになった。 このように文化的にも政治的にもギリシャが大いに発展した時代でもあった。
アルカイック期はギリシャの政治、経済、外交関係、戦争、 そして文化の発展が見られる時代であり、 政治的・文化的に古典時代の基盤となっている。 ギリシャ文字が考案されたのもこの時代であり、 現存する最古のギリシャ文学、 巨大な彫刻や赤絵式の壺などが作られ、 重装歩兵がギリシャの軍隊の中核を為すようになった。 アテナイでは、 民主主義の最初期の制度がソロンの下に整備され、 アルカイック期の終盤にはクレイステネスによって、 古典時代のアテナイ民主主義と同様の制度に改正された。 スパルタでは、 スパルタのリュクルゴスによる様々な制度の改革が行われ、 メッサニアがスパルタの支配下に組み込まれた。 また、ヘイロタイが導入され、 ペロポネソス同盟によってペロポネソス半島内で優位を誇った。
「アルカイック」という言葉はギリシャ語で「古い」を意味するarchaios(アルカイオス)に由来し、 古代ギリシャの歴史において古典時代よりも前の時代を表す。 この時代は一般に紀元前8世紀から紀元前5世紀初頭まで、 具体的な出来事としては、 紀元前776年の古代ペルシャの基礎の成立から、 ペルシャ戦争中・紀元前480年のクセルクセス1世の侵略までとされる。 アルカイック期は長い間、古典時代に比べて重要でなく、 その前兆として研究されてきたが、 近年では、アルカイック期自体について研究されるようになった。 このようなアルカイック期に対する再評価に伴って、 一部の研究者は、「アルカイック」という用語には、 英語において「旧式の」「時代遅れの」という意味が含まれることから異を唱えている。 しかしそれに代わる用語が流布していないため、 未だ「アルカイック」という語が使われ続けている。
古典時代に関する史料はトゥキディデスの『戦史』などの歴史書に記されている。 他方、アルカイック期については、そのような文字の史料は存在せず、 詩の形式で残された人生の記録や、法律、犠牲の奉納に関する碑文、 墓に刻まれた碑文などが手がかりである。 これらの史料の量は、古典期の史料の数に遠く及ばない。 しかし、文字史料に欠如している情報は、 豊富な考古学的資料によって補うことができる。 古典ギリシャ美術に関する知識の多くはローマ時代の模造に頼っているが、 アルカイック期の美術品は実物が現存するのである。
アルカイック期に関する他の情報源としては、 ヘロドトスをはじめとする古代ギリシャの著作家たちによって記録された伝説が挙げられる。 しかし、それらの伝説は現代において認識されている「歴史」の形式とは異なり、 ヘロドトスは、自身がその情報を正確なものであると信じているか否かに拠らず記録を残している。 さらに、ヘロドトスは紀元前480年以前について、 一切の日付を記録していない。
紀元前4世紀前半、 スパルタ、テーバイ、アテネらは勢力争いを繰り広げたがどのポリスも覇権を唱えることができず、 さらにはその力を失墜させて行った。 その中、北方で力を蓄えていたマケドニア王国のピリッポス2世がギリシャ本土へ勢力を伸ばしてゆく。 特に第三次神聖戦争では隣保同盟の主導権を手中に収め、 その後もアテネ・テーバイ連合軍をカイロネイアにおいて撃破、 ギリシャ征服を成し遂げた。 ピリッポス2世はコリントス同盟を結びその盟主となってペルシャ遠征を決めたが、 紀元前336年暗殺された。 その後を継いだのがピリッポス2世の子である大王アレクサンドロス3世である。
ギリシャの覇者マケドニア王国の王となったアレクサンドロス3世はトリバッロイ人の反乱、 イリュリア人の大蜂起、 テーバイの反乱などを速やかに鎮圧し、 コリントス同盟の会議を招集、 父王ピリッポス2世の意志を次いでペルシャ遠征を行うことを決定した。 紀元前334年春、 アレクサンドロス3世はギリシャを出発、 大遠征を開始した。 紀元前331年ペルシャを崩壊させるとそのまま東進、 バクトリア、ソグディアナを越え、インドまで到達し、 インダス川を越えたところで兵士たちの拒絶により帰還を開始したが、 紀元前323年、アレクサンドロス3世は熱病のため死去したが、 彼の構築した大帝国はその後300年に及ぶヘレニズム時代の始まりを告げるものであった。
アレクサンドロス3世の死後、王位をめぐっての争いが発生し、 遺児アレクサンドロス4世とアッリダイオスが共同統治することが決定されたが、 「ディアドコイ(後継者)」と呼ばれる有力者、 ペルディッカス、アンティゴノス、プトレマイオス、リュシマコス、セレウコス、エウメネスらの間で互いに勢力を広げるための争いが生じ、 ディアドコイ戦争が勃発した。 その中、前310年にアレクサンドロス4世が暗殺され王家の血筋が断絶すると、 勢力争いで生き残ったディアドコイらは王を名乗り、 さらに争った。 前301年、イプソスの戦いが起ると、 プトレマイオス、セレウコス、リュシマコス、カッサンドロスらにより帝国は分断され、 プトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリア、リュシマコス朝、カッサンドロス朝がそれぞれ成立した。
ディアドコイ戦争後、エジプトとシリアはそれぞれ支配が安定したが、
マケドアニアを含むギリシャ本土はその後も争いが続き、
最終的にリュシマコスがマケドニアの支配に成功したが、
リュシマコスもセレウコスとの戦いで戦死した。
リュシマコスの死去により、
ギリシャ北部の防壁がなくなり、ガリア人らの侵入が始まった。
南下したガリア人らはマケドニア、トラキア、テッサリアを攻撃したのち、
デルフォイ、小アジアまで進撃したが、これは撃退された。
紀元前227年トラキアでガリア人らを撃破したアンティゴノス・ゴナタス(2世、アンティゴノスの孫)がマケドニア王となり、
ここにアンティゴノス朝が成立し、
それまで様々な支配者のために混乱していたマケドニアは一旦落ち着きを見せた。
「マケドニア戦争」も参照
前3世紀後半に入るとイタリア半島を統一し、 第一次ポエニ戦争に勝利したローマがバルカン半島へ進出し始めた。 紀元前229年に第一次イリュリア戦争に勝利したローマはバルカン半島へ初めて進出した。 第二次イリュリア戦争に勝利したローマはイリュリアに圧力をかけ始めたが、 マケドニアはイリュリアと友好関係にあったため、 間接的ながらローマとの関係を持つようになった。 イリュリアへの圧力を強めていたローマが、 第二次ポエニ戦争の勃発によってカルタゴの将軍ハンニバルの攻撃を受けてカンナエの戦いに敗北すると、 マケドニア王フィリッポス5世はハンニバルと同盟を結んでローマに対抗しようとしたが、 これに反応したローマはこれを攻撃、 ここに第一次マケドニア戦争が勃発したが、 この戦いはフォエニケの和約で終息した。
フィリッポス5世はシリアのアンティオコス3世と同盟するとローマの友好国ロドス、ペルガモンらはこれに脅威を覚え、 ローマに支援を要請した。 第二次ポエニ戦争に勝利したことで東地中海への進出を目論んでいたローマはこれを快諾、 第二次マケドニア戦争が勃発した。 紀元前197年キュノスケファライの戦いでローマが大勝するとマケドニアはギリシャ本土からの撤退を余儀なくされ、 ギリシャ本土はローマの影響下に置かれた。 この時、ローマのフラミニヌスはギリシャ人の自由を宣言、 ギリシャ人らを歓喜させた。 「このギリシャの自由の宣言」によってローマはギリシャの保護者となってギリシャ支配を強めて行った。
第二次マケドニア戦争で敗北したフィリッポス5世は国力の増強に努めたが、 その次の王ペルセウスは先代とは違い積極的な勢力拡大を目論んだ。 そのため紀元前171年第三次マケドニア戦争が勃発、 紀元前168年ピュドナの戦いでマケドニアは敗北、 ローマの保護下に置かれマケドニア王国はここに滅亡した。 そして紀元前149年ペルセウスの子を名乗るアンドリスコスが蜂起、 第四次マケドニア戦争が勃発したが、 ローマはこれを鎮圧、 マケドニアはローマの属州となった。
一方、マケドニアに支配されたポリスはヘレニズム時代を通じて未だ健在であった。 ただし、ポリスという単位はすでに限界に達しており、 複数のポリスで相互に協力し合うようになったことがヘレニズム時代の特徴として挙げられる。 紀元前3世紀にはアイトリア連邦とアカイア連邦という連邦組織が形成され、 すでに限界に達していたポリスを集団化させることでギリシャにおける政治勢力としてマケドニア、シリア、ローマなどに対抗、 時には連携して行った。 アイトリア連邦はギリシャ北西部でガリア人の侵入に対抗するために形勢され、 当初こそ親ローマであったが、 第二次マケドニア戦争以後は反ローマの中心となって戦ったが、 同盟を結んでいたシリアがシリア戦争で敗北するとローマの支配下となった。 アカイア連邦はペロポネソス半島で形勢され、 スパルタを吸収するなどペロポネス半島で勢力を誇ったが、 紀元前146年ローマに敗北したことでアカイア連邦は崩壊、 ギリシャ世界の独立も同時に失われた。
詳細は「古代ギリシャ語」、「ギリシャ文字」、「線文字A」、「線文字B」、および「ミケーネ・ギリシャ語」を参照
古代ギリシャ語における文字はギリシャと西アジア、エジプトとの通商が行われるようになってから経済的な理由から発展したと考えられる。 BC1700年以降のクレタ島の遺跡やエーゲ海の島嶼部では言語系統は不明で未だに解読されていない線文字Aが発見されており、 さらにはそれを発展させた線文字BがBC1400年以降に使用された形跡が見つかっている。 線文字Bはクレタ島、ギリシャ本土の遺跡で発見されており、 解読された結果、線文字Bはギリシャ語を筆記したものであった、 がこれは経済的管理を行うために使用されたもので宮殿の書記など一部の者しか理解することができなかった。
前8世紀にギリシャ人たちがフェニキア人らと接触すると、 それまでギリシャ人としてのアイデンティティの拠り所であるホメロスの叙事詩などを口承で伝えられて来たものが、 フェニキア人らからフェニキア文字を借用することでギリシャ文字を作成、 文字によって内容を定着させることが可能となった。 そして、このアルファベットは言葉を書き留めることが可能となったことで瞬く間にエーゲ海に広がって行った。
古代ギリシャにおける文学の出発点はホメロスの叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』である。 これはミケーネ時代に口承で伝えられたものがアルファベットの確立によって固定化された。 この叙事詩はヨーロッパにおける最古の文学作品である。 さらにはホメロスと並んで評されるヘシオドスは『仕事と日々』や『神統記』に、前古典期の精神の覚醒を著した。 その他叙事詩では断片ではあるがアルキロコス、サッフォー、テオグニス、ピンダロスなどやピュタゴラスやクセノファネスなども生まれた。
古典期に入ると、 アテナイで多くの文化が生まれた。 アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスなどの三大悲劇詩人や喜劇詩人としてアリストファネスが生まれた。 そのほかにも歴史家トゥキュディデスやヘロドトスが生まれ、 さらに哲学の分野ではソクラテス、 弟子のプラトン、 孫弟子のアリストテレスらも存在を示した。 そのほかに弁論家リュシアスやデモステネスらが生まれ弁論(レトリック)も発達した。
詳細は「古代ギリシャの宗教」および「ギリシャ神話」を参照
古代ギリシャでは宗教は大きな位置を占めており、 アテナイでは一年の三分の一が宗教儀式に当てられており、 生活の隅々にまでその影響は及んでいた。 特にミケーネ時代後期にはすでに機能していたと考えられているデルフィの神託は紀元前8世紀には各ポリスが認める国際聖域となり、 デルフィでの神託は未来を予知するためのものだと認識されていた。 さらにはデルフィに各ポリスが人を派遣したことから各ポリスの交流の場所としても機能していた。
古代ギリシャにおいては個人のみならず、 ポリス単位までが眼に見える形での神への祭儀を中心に活動しており、 これを行うことで家族やポリスの住民らが集団的にかつ利害関係を明確にし、 さまざまな集団が共に進んで行くということを明確にしていたと考えられる。
クセノフォンによれば宗教儀式が最も多かったのはアテネとしており、 アリストファネスも神殿と神像の多さと一年中行われる宗教儀式に驚いている。
詳細は「古代ペルシャ」を参照
全ギリシャの四大神域としてオリュンピア、デルフォイ、ネメア、イストミアがあり、 これらの神域は全ギリシャからの崇拝を集めていた。 デルフォイは神託で有名であったが、 ペロポネソス半島西部にあるオリュンピアは前776年前後に第一回オリュンピア競技会が開かれたことで徐々にギリシャ各地のポリスが参加、 前7世紀には全ギリシャ的(パンヘレニック)的な神域となった。 この四年に一度開かれた競技会はエリス、 ピサの両ポリスがその管理運営権を巡って争ったが、 のちにエリスがそれを手中に収め、 393年、ローマ帝国皇帝テオドシウス1世による廃止まで続いた。
ミケーネ文明はハインリヒ・シュリーマンによって様々な遺物が発見されたが、 当時、植民地主義の時代であったため意図的に改竄された可能性がある。 クノッソス宮殿はウィンザー城をモデルとして復元され、 ミケーネで発見されたアガメムノンのマスクもカイゼル髭が付け加えられた。
これらの行為は当時、植民地であった西アジアよりもエーゲ海先史文明が高度であり、 植民地の宗主国である国々にとってふさわしい文明である必要があったために行われたもので、 西アジアで発見された高度な文明と専制君主らに対抗するものであった。
しかし、この専制君主のイメージは、 古典古代の文明の基盤が水平的な市民社会であるとしていた古代ギリシャ史研究家の間ではとうてい受け入れられるものではなかった。 そのため、エーゲ海先史文明と古代ギリシャ文明との間に存在していた「暗黒時代」が利用されていった。
この暗黒時代を利用することで、 エーゲ海先史文明は「前1200年のカタストロフ」によって崩壊、 白紙となった上で暗黒時代に古代ギリシャ文明の基礎が新たに築かれたとしてこの矛盾は解消された。 しかし、線文字Bが解読されたことで、その矛盾は再び闇から蘇ることになった。
エーゲ海先史文明が古典期ギリシャの直接祖先ではないという暗黙の了解があったため、 線文字Bはギリシャ語ではないと考える研究者が大半であったが[# 6]、 1952年、マイケル・ヴェントリスによって解読されると線文字Bはギリシャ語を表す文字であったことが判明した。 1956年、ヴェントリスとジョン・チャドウィックらが線文字Bのテキストを集成した出版物を刊行、 1963年にはL・R・パーマーらが新たな粘土板の解釈を提示、 1968年には大田秀通による研究が刊行されるとミケーネ文明の研究は躍進することになった。
現存する建造物や彫刻などは白一色であるが、 かつては鮮やかな彩色が施されていた。 劣化して色落ちした物もあるが、 西暦1930年頃の大英博物館のスポンサー初代デュヴィーン男爵ジョゼフ・デュヴィーン(美術収集家・画商)の指示で、 大英博物館職員によって色を剥ぎ落とされたものも多い。 近年になってこのことが公表され、調査によって一部の遺物から色素の痕跡が判明し、 CGなどによって再現する試みも行われている。 日本のテレビ番組「日立 世界・ふしぎ発見!」では、 パルテノン神殿にプロジェクションマッピングで色彩を施した。
エルギン・マーブル(Elgin Marbles、Parthenon Marbles)は、
古代ギリシャ・アテナイのパルテノン神殿を飾った諸彫刻。
19世紀にイギリスの外交官第7代エルギン伯爵トマス・ブルースがパルテノン神殿から削り取ってイギリスに持ち帰り、
現在は大英博物館に展示されている。
エルギン・マーブルズなどとも表記される。
紀元前5世紀、 古代ギリシャ・アテナイの丘に立つパルテノン神殿が修築された。 エルギン・マーブルは、 この神殿に彫り込まれていた諸彫刻のことを指す。 西暦1800年、 イギリスの外交官であった第7代エルギン伯爵トマス・ブルース(1766-1841)が、 オスマン帝国駐在の特命全権大使としてイスタンブールに赴任すると、 このパルテノン神殿の調査を始めた(当時のギリシャはオスマン帝国領である)。 神殿彫刻に関心を抱いたエルギン伯は、 当時のスルタン・セリム3世から許可を得て、 多くの彫刻を切り取ってイギリスへ持ち帰った。 当時のオスマン帝国はナポレオン率いるフランス軍のエジプト遠征を受けた直後であり、 このフランス軍を撃退したイギリスと良好な関係にあった。
19世紀前半、ロマン主義の風潮が高まる中で、 エルギン・マーブルがイギリスで公開されると、 多くの人々の古代ギリシャへの憧憬を高めさせた。 だが一方エルギン伯の「略奪」行為を非難する声も大きく、 ジョージ・ゴードン・バイロンは「チャイルド・ハロルドの巡礼」第二巻及び「ミネルヴァの呪い The Curse of Minerva」で激しく痛罵した。 これらの批判が激しくなったことと、 長年に渡る彫刻群の輸送で巨額の負債を抱えたため、 エルギン伯は西暦1816年にイギリス政府にエルギン・マーブルを寄贈、 その後大英博物館に展示されて現在に至る。
西暦1970年代になると、 ギリシャ政府はイギリスにエルギン・マーブルの返還要求を強めた(その先頭に立った文化・科学相のメリナ・メルクーリは、映画女優としても有名である)。 しかしながら、両国の見解はすれ違ったままである。 現在、パルテノン神殿に残っていた彫刻の多くを展示しているアクロポリス博物館では、 やむを得ずエルギン・マーブルの精巧な新しいレプリカをオリジナルの彫刻と共に展示している。
21世紀からの研究によって、 エルギン・マーブルを含む古代ギリシャの彫刻はもともと白い大理石の彫刻だったのではなく、 かつては古代エジプトなどの先行する古代文明の影響を受けて極彩色に着色されていたことが判明した。 しかし、 西暦1930年に大英図書館職員らによって無断で行われた「清掃(cleaning)」作業において表面を強く研磨したため、 エルギン・マーブルの大半から当時の色を知る痕跡が失われてしまったことが西暦1999年にBBCによって報道された。 その原因として以下の理由が挙げられる。
名称 | 自 | 至 | 場所 | 備考 |
---|---|---|---|---|
キクラデス文明 | 紀元前3000年 | 紀元前2000年 | キクラデス諸島 | |
トロイア文明 | 紀元前2600年 | 紀元前1200年 | アナトリア半島(小アジア)。西部トロイア | トロイア戦争で滅亡。 |
ヘラディック文明 | 紀元前2500年 | 紀元前1100年 | テッサリアを含むギリシャ本土 | |
クレタ/ミノア/ミノス文明 | 紀元前2000年 | 紀元前1400年 | クレタ島 | ミケーネ(アカイア人)の侵入により滅亡。 |
ミケーネ/ミュケナイ文明 | 紀元前1600年 | 紀元前1200年 | アルゴス平野のミケーネを中心 | トロイア戦争後突如滅亡した。 |
キクラデス諸島の地図
東西南北の境界となる島の名称を「文字色赤、背景黄色」で示している。 その島名で囲まれた地域にある島々が「キクラデス諸島」である。
注意
上記、「文字色赤、背景黄色」で島名を示した文字は、
説明のために地図の上に重ねたものである。
地図の移動あるいは縮尺の変更などには同期しないので注意が必要である。
アンドロス島
ケア島
ミロス島
サントリーニ島
アナフィ島
アモルゴス島
ナクソス島
ミコノス島
ティノス島
この文明で最も有名なのは、極度に様式化された大理石製の女性像である。 これらは約1400体知られているが、 20世紀初頭に盗掘され、 出土地がわかっているのはその40%にすぎない。
エーゲ海西部ではすでに紀元前4000年より前に、 アナトリアとギリシャ本土の影響が混合した独特の新石器文化が栄えた。 これはエンマ小麦、野生種の大麦、羊、山羊、海で捕れるマグロに依存していた。 サリアゴスSaliagosやケファラKephala(ケア島)の遺跡からは、 銅細工を行った証拠が得られている。
各島は小さくせいぜい人口数千人規模だったが、 キクラデス文明後期の船の模型から、 多数の島から50人ほどの漕ぎ手が集まって航海をしていたと思われる。
クレタ島で高度に組織化された宮廷文化が発展すると、 キクラデス諸島は重要性を失ったが、 デロス島(ミコノス島の西南)だけは聖地としてギリシャ古典期を通じて名声を保った(デロス同盟も参照)。
キクラデス文明の編年は大きく前期・中期・後期の3期に分けられる。 前期は紀元前3000年頃始まり、 紀元前2500年頃に中期(考古学的にはまだ不明の点が多いが)に移行する。 キクラデス文明後期の終わり(紀元前2000年頃)までには基本的にミノア文明に吸収された。 ただキクラデス文明の編年には、 文化史的なものと年代学的なものの間でやや食い違いがあり、 これらを結び付けた編年も一定していないが、 普通には次のようにまとめられる。
キクラデス文明の編年
西暦1880年代に初めて考古学的発掘が行われ、 その後英国系研究機関British School at Athensや考古学者クリストス・ツンタス(ツンダス Christos Tsountas、1857-1934)による系統的調査が行われ、 彼はいくつかの島で西暦1898年 - 西暦1899年に墳墓遺跡を発掘して「キクラデス文明」の名を使った。 その後はしばらく注目されなかったが、 20世紀半ばにコレクターたちがその現代風な彫刻(ジャン・アルプやコンスタンティン・ブランクーシを想わせる)を奪い合うようになったことで再び注目された。 しかし遺跡が掘り荒らされ、 偽物も盛んに取引され、 多くのキクラデス彫刻は脈絡が断ち切られてしまった。 これらの彫刻の意味はもはや完全にはわからないであろう。 もう一つの謎に満ちた遺物には、 「キクラデスのフライパン」(用途不明)がある。
考古学的知識が増すにつれ、 紀元前5000年頃に小アジアから渡って来た農耕・海洋文化の大まかな様相がわかってきた。 キクラデス文明は紀元前3300年頃から紀元前2000年頃にかけて3段階で発展し、 ミノア文明の影響をしだいに強めていった。 一方で、クレタ島クノッソスの発掘で発見された土器により、 紀元前3400年から紀元前2000年頃にキクラデスの影響があったことが判明した 。 キクラデス文明と同時期のギリシャ本土の文化は、 ヘラディック文化と呼ばれる。
年代 | 土器による編年 | 文化推移による区分 |
---|---|---|
前3650年-3000年 | EMI | 前宮殿時代 |
前2900年-2300年 | EMII | |
前2300年-2160年 | EMIII | |
前2160年-1900年 | MMIA | |
前1900年-1800年 | MMIB | 古宮殿時代 (第1宮殿時代) |
前1800年-1700年 | MMII | |
前1700年-1640年 | MMIIIA | 新宮殿時代 (第2宮殿時代) |
前1640年-1600年 | MMIIIB | |
前1600年-1480年 | LMIA | |
前1480年-1425年 | LMIB | |
前1425年-1390年 | LMII | 諸宮殿崩壊後の時代 (最終宮殿時代) |
前1390年-1370年 | LMIIIA1 | |
前1370年-1340年 | LMIIIA2 | |
前1340年-1190年 | LMIIIB | |
前1190年-1170年 | LMIIIC | |
前1100年 | 亜ミノア文化 |
クレタ島では文化がギリシャ本土やキクラデス諸島と並行しながら独自の進化を遂げていた。 そのため、 本土や島嶼部で発掘されるソースボートはクレタ島では稀にしか発見されず、 その逆にクレタ島で発掘されるヴァシリキ様式(de)ティーポットは本土や島嶼部で発見されることは稀である。
そのため、 初期青銅器時代にキクラデス諸島での文化断絶が発生したにもかかわらず、 クレタ島ではその傾向は見られず、 中期青銅器時代に至ると宮殿が築かれるようになった。 この青銅器時代の文化推移についてクレタ島ではエーゲ海で見られる初期、 中期、後期と並行した形で前宮殿時代、 古宮殿(第1宮殿)時代、新宮殿(第2宮殿)時代、 諸宮殿崩壊後(最終宮殿、もしくはクレタのミケーネ)時代という区分が用いられることが多い。
ミノア文化の盛衰については研究者のあいだでも議論が続いており、 高編年を取る者、低編年を取る者の間で100年ほどの差が出ている。 ミノア文化について明らかにするには線文字Aの解読、 宮殿から得られる情報の整理、 宮殿周囲の都市やヴィラ、 聖域なども考慮して研究することが必要であるとされており、 研究が続いている。
ミノア文明発掘は1884年、 クレタ島を訪れたイタリアの研究家ハルブヘルによる、 前5世紀に著されたとされるゴルテュン法典の発見が嚆矢となった。
その後、イギリスの考古学者であるアーサー・エヴァンズは、 エジプトやメソポタミアの例を見る限り、 ハインリヒ・シュリーマンが発見したトロイアとミュケナイにおける高度な文明は文字なしには成立し得ないと考え、 アテネの店先で見たクレタ島起源の護符のような印章に象形文字と思われる記号があったことからクレタ島へ向かった[19]。
エヴァンスはクレタ全域を踏破した後、 ギリシャ人ミノス・カロケリノスが1878年に発見したケファラの丘を発掘地に定めた。 エヴァンスにとって幸運なことに1900年にクレタ島がオスマン帝国からギリシャ領となっていたことやミロス島のフィラコピ遺跡に携わっていたマッケンジーの協力を得たことにより発掘は順調に進んだ。
1900年、クノッソス宮殿が発掘されギリシャ本土より200年以上前にギリシャを彩った文明の痕跡が発見された。 エヴァンスはこれをミノア文明(Minoan)と名付けた。