小窓
メガロポリスの戦い

作成日:2023/9/10

メガロポリスの戦い(英語:Battle of Megalopolis)  紀元前331年

マケドニア王アレクサンドロス3世がアジアで戦っている間、 スパルタ王アギス3世はその不在に乗じてギリシャのいくつかの都市をマケドニアに対する反乱へと導いた。 彼は軍資金と8,000名のギリシャ人傭兵を援助し、 自ら最高司令官としてマケドニア軍に宣戦を布告した。

ペロポネソスでコラゴス麾下のマケドニア軍を破る。 アテナイは中立だったものの、 エーリス、アカイア、アルカディアの協力を得、 メガロポリスを包囲した。

激戦が続いたものの、アギス軍は敗北し、 アギス3世も戦死した。

背景

紀元前333年の終わり、 アギス3世はエーゲ海にてペルシャの将軍ファルナバゾスとアウトプラダテスと会談し、 彼らにギリシャでの彼の対アレクサンドロス戦争の計画を示した。 当時アレクサンドロス3世と戦っていたペルシャ側は、 共通の敵打倒のためにアギスに対し30タラントンの資金と10隻の艦船を援助することを約束した。 アギスはその金でイッソスの戦いでペルシャ方として戦い、 それから生還したギリシャ人傭兵8000人を雇い、 対マケドニア戦の準備を始めた。 というのも、ガウガメラの戦いでのマケドニア軍の勝利の報を受けたギリシャ人はマケドニアの強大化に警戒心を募らせていたからである。 アギスは同盟国、傭兵を含め歩兵20000、騎兵2000を下らない兵力を集めた。

紀元前331年の夏に戦いの火蓋は切られた。 トラキア総督メムノンの反乱に乗じて挙兵したアギスはマケドニアの将軍コラゴスを破り、 味方に付かなかったメガロポリスを包囲した。

一方、アレクサンドロス3世よりマケドニアとギリシャを任されていたアンティパトロスはトラキアとペロポネソスの二正面作戦を避けるためメムノンを許し、 40000以上の兵力を召集してアギスの許へ進撃した。

戦い

戦いはメガロポリス近郊で行われた。 緒戦はスパルタ軍優位に運び、マケドニア軍を後退させた。 アギスが投槍で腿を負傷して戦闘不能になったものの依然スパルタ軍は奮戦し、 数で勝るマケドニア軍と渡り合った。 しかし、やがて数で劣るスパルタ軍はマケドニア軍に押され始め、敗走した。 アギスは部下たちに生きながらえるよう命じた上で自らは最後まで戦い、 戦死した。

この戦いでディオドロスによればスパルタ側は5300人、 マケドニア側は3500人の戦死者を出した。 クルティウスの記録ではマケドニア軍の戦死者は1000人だったが生存者のほとんどが負傷したという。 この戦いでの敗北が決定的敗北となり、 スパルタのマケドニアへの反乱は失敗に終わった。

アギス3世(エウリュポン朝のスパルタ王)  生没年:?-紀元前331年  在位:紀元前338年-紀元前331年

先王アルキダモス3世の子であり、 次代の王エウダミダス1世の兄である。 彼はカイロネイアの戦いがあった日に王位に就いた。

紀元前333年、 彼はエーゲ海にてアケメネス朝ペルシャの指揮官ファルナバゾス、 アウトプラダテスと会談し、 ギリシャでのマケドニア王国の支配に対するスパルタの反乱への援助を取り付けた。 同年のイッソスの戦いの後、 アギスは計画を実行に移した。 まず弟のアゲシラオスをクレタ島に送り、 紀元前331年にスパルタをはじめとする対マケドニア同盟に参加していたギリシャ諸国はマケドニアに対するトラキアの反乱に乗じて対マケドニア戦争を宣言した(ギリシャ・マケドニア戦争 - Greco-Macedonian War)。 しかし、ギリシャ側は一枚岩だったわけではなく、 アテナイなどが不参加だった。

アギスはスパルタ軍、 イッソスの戦いでペルシャ方として戦ったギリシャ人傭兵8000人、 さらに同盟軍も合わせて歩兵20000、騎兵2000を下らない兵力を集め、 アギスは自ら最高司令官となった。 彼はコラゴス麾下のマケドニア軍を破り、 味方につかなかったメガロポリスを包囲した。 それに対し、 留守のアレクサンドロス3世にギリシャを任されていたマケドニアの将軍アンティパトロスはトラキアでの反乱を片付けると、 すぐに40000以上の大軍を率いてメガロポリス救援にやって来た。 そして、両軍はガウガメラの戦いが起ったのと同じ頃に会戦した(メガロポリスの戦い)。 激戦が続いたが、マケドニア軍の数に押されたアギス軍は敗れた。 アギスは負傷しながらも戦い続け、 討ち死にした。 この敗北が決定的となり、 スパルタのマケドニアに対する反乱はスパルタの敗北という結果に終わった。

アギスは子を残さなかったため、次の王位には弟のエウダミダスが上った。