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中東の地名

作成日:2024/2/15

中東
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ダマスカス

ダマスカスはシリア(シリア・アラブ共和国)の首都。 ダマスクスとも表記される。 アラビア語ではディマシュクで、 別名をシャームという。 日本語の聖書翻訳の慣行ではダマスコと表記する。 「世界一古くから人が住み続けている都市」として知られる。 カシオン山の山麓、 バラダ川沿いに城壁で囲まれた古代から続く都市と新市街が広がる。 現在の人口は約200万人といわれるが、 都市圏全体では400万人に迫るといわれる。

ダマスカスの辺縁にあるテル・ラマドの遺跡により、 ダマスカスは紀元前8000年から10000年もの昔から人が定住していたことが分かる。 ダマスカスが人間が連続的に定住した世界で最も古い都市であるといわれるのは、 これによる。 しかし、 アラム人(アラビア半島から来たセム語派系の遊牧民)の登場までは、 ダマスカスは重要な都市として記されることはなかった。 バラダ川の利便性を最大に広げた運河と隧道の建設によってダマスカスに水道システムを初めて構築したのはアラム人であることが知られている。 後にこのネットワークはローマ人とウマイヤ朝によって改良され、 今日のダマスカス旧市街の水道システムの基礎をなしている。 紀元前1100年、 この都市はアラム・ダマスカスと呼ばれる強力なアラム人国家の中心になる。 アラム・ダマスカスの王はこの地域をアッシリア人とイスラエル人とのいくつもの戦争に巻き込んだ。 そうした王の一人、ベン・ハダト2世は、 カルカルの戦いにおいてシャルマネセル3世と戦った。 アラム人の都市の遺構は壁に囲まれた旧市街の東部に埋まっている可能性が最も高い。 紀元前732年にティグラト・ピレセル3世が都市を占領し破壊して後、 数百年間独立を失い、 紀元前572年に始まるネブカドネザル2世による新バビロニア王国の支配下に入る。 バビロニア人の支配は、 紀元前539年キュロス2世率いるペルシア帝国軍が都市を占領し、 ペルシア支配下のシリア州の州都としたときに終わる。

バグダード

バグダード / バグダッド (Baghdad)

イラク共和国の首都。 チグリス川中流の両岸にまたがる。 西アジア隊商貿易路の要地として発達。 アッバース朝によって建設された古都であり、 イスラーム世界における主要都市の1つ。 西暦2020年の人口はおよそ714.4万人。

8世紀アッバース朝の首都となり、 イスラーム帝国の拡大とともに世界一の大都市に発展したが、 13世紀には蒙古軍、 15世紀にはチムール軍に破壊された。 西暦1921年イラク王国の首都となってから近代的新市街が発達。 歴代カリフの建設した大モスクが残る。

日本における学術的な表記はバグダードが標準となっているが、 メディアなどでは英語発音同様長母音を含まず、 かつ外来語への当て字で多い-dad部分への促音「ッ」挿入によりバグダッドとカタカナ表記されることが今でも広く行われている。

肥沃な三日月地帯

紀元前7000年紀に肥沃な三日月地帯で人類最初の農耕・牧畜が始まった。

メソポタミア-シリア-パレスチナを結ぶ三日月形をした地帯は、 最も早く農耕文明が成立した地域であった。 北部の山岳地帯と、南部の砂漠地帯に挟まれ、 オリエント文明の中心となっている。 その西側で地中海に面した地方はレヴァント地方と言われ、 文明形成後はレヴァント貿易(東方貿易)がさかんに行われる地域となる。 その東側はメソポタミア文明を生み出しこととなる。 気候が温暖で、土壌の養分も多く、野生のムギ類が自生し、 山羊などの草食動物が豊富であり、 そのような地域で紀元前7000年紀に、 人類最初の農耕・牧畜が始まったと考えられている。

「肥沃な三日月地帯」という言葉は、 20世紀初頭に、 アメリカのエジプト学者ヘンリー・ブレステッドが刊行した『エジプトの古代記録』という書物で初めて使われた。 この地帯は、砂漠や乾燥したステップ地帯に囲まれてはいるが、 気候は比較的湿潤で、多様な植物の生育に適している。 印象的な命名であったためか、広く取り上げられるようになり、 その後の発掘調査でも多くの農耕遺跡がこの地域から見つかって、 文明の揺籃の地とされるようになった。

しかし現在では、この地帯はイスラエルとパレスチナの紛争、 シリアの内戦、イランとイラクの戦争、そしてクルド人問題など、 世界で最も深刻な対立の地となっている。

地図
ピンクの半透明の地域を「肥沃な三日月地帯」と呼ぶ。

メッカ

メッカ(Mecca) / マッカ(Makkah)

メッカは、 サウジアラビア王国のマッカ州(歴史的にいえばヒジャーズ地域)の州都である。 正式名はマッカ・アル=ムカッラマ(Makkah al-Mukarramah 「栄光あるマッカ」)。別名、h(Umm al-Qurā 「町々の母」)。 サウジアラビア王国政府は、 西暦1980年代に同市の名前の公式な英語表記を、 西洋人が以前から一般に用いてきた綴りであるMeccaからMakkahに改めた。

人口は1,578,722人(2015年国勢調査)。ジェッダから73 km内陸に入った、 狭い砂地のアブラハムの谷にあり、海抜277 mである。 紅海からは80km離れている。

メッカは、イスラーム教最大の聖地であり、 祈りを捧げるところである。 ムスリム(イスラム教徒)は一日に5回決まった時刻になると、 メッカの方向に向かって礼拝を行う。 あらゆるムスリムにとって、 同地への巡礼「ハッジ」は体力と財力が許す限り一生に一度は果たすべき義務である。 これは聖典クルアーンの記述を根拠とするもので、 イスラーム暦の第12月にあたるズー・アル=ヒッジャ月の8日から10日に行われる巡礼である「ハッジ」のことを指し、 この期間には世界中からハッジの行事に参加するため巡礼者が集まる。 その期間以外で随時個々に行われている巡礼「ウムラ」も多くのムスリムが財力や体力の許す限り行っているため、 メッカとカアバの周辺には一年を通じて絶えず巡礼者が訪れている。 ムスリムはマスジド・ハラーム(聖なるモスク。カアバを保護する)を地上でもっとも神聖な場所と考えている。 メディナと並んでイスラーム教二大聖域(メッカメディナを併称する場合、「2つの聖なる禁域」という意味で、アラビア語で「ハラマイン」とも呼ばれる)とされているため、 メディナ同様ムスリム以外の入場はできず、 通じる道路の手前にある検問所より先に行くことができない。 古くからムスリムに変装しメッカを訪れる異教徒がおり、 中には処刑された者もいる。

宗教的意義

メッカは、イスラーム教の開祖である預言者ムハンマドの生誕地であり、 クルアーン(コーラン)において預言者イブラーヒーム(アブラハム)とその子のイスマーイール(イシュマエル)が建立したとされるカアバがある。

メッカへの巡礼が可能なムスリムには、 巡礼を行う義務がある。 この義務は信徒が守るべき主要な5つの義務の一つであり、 巡礼を行ったムスリムは、ハッジと呼ばれ、 人々に敬われる。 メッカへの巡礼にはいくつかの区別があり、 大祭ともいわれるイード・アル・アドハー(犠牲祭)には毎年約300万人が集まる。

一方でムスリムでない者には、 メッカとメディナへの立ち入りは厳しく制限されている。 日本人写真家の野町和嘉が、 メッカの巡礼を撮影した写真集を刊行したことがあったが、 彼でさえもメッカに入るためには、 改宗してムスリムにならなくてはいけなかった。

ムスリムには、特別な事情がない限り、 一日に5回メッカのカアバの方角(キブラ)を向いて祈りを捧げることが義務づけられている(シーア派は3回)。 このため、カアバを守護するマスジド・ハラームを除く世界中のすべてのモスクには、 必ずキブラを示す壁のくぼみ(ミフラーブ)が存在する。

歴史

イスラーム以前
メッカの町は古くより存在し、 2世紀に書かれたクラウディオス・プトレマイオスの「地理学」には、 マコラバの名ですでに記載がある。 このマコラバという名称の由来は神殿を意味するミクラーブという語であるとされており、 このころからすでにメッカはカアバ神殿の置かれた聖域であったと考えられている。 メッカはジュルフム族が聖地の守護者として支配していたが、 4世紀後半には、 イエメンから移住してきたフザーア族がメッカを侵攻して支配権を奪取した。 5世紀末には、 メッカ周辺で遊牧生活を行っていたクライシュ族のクサイイがフザーア族首長の娘婿となり、 フザーア族に代わりクライシュ族がメッカの支配権を握るようになった。 その後クライシュ族は、 インド洋航路によってアジアからイエメンへと運ばれる香辛料などをシリア、 地中海地方へと運ぶ交易路を開拓して大規模なキャラバンによる遠隔地交易を始め、 隊商路の安全を保つためにアラビア半島各地の諸勢力との間に盟約を結んでいき、 メッカを中心とした緩やかな部族連合が形成されていった。 ムハンマドが生まれた西暦570年ごろにはおよそ1万人の定住者人口を持ち、 まだ中東の都市のなかでは小規模であったが、 商業都市として、 また広域信仰圏の中心として急速に発展しつつあった。

そのムハンマドが生まれたとされる西暦570年ごろに、 メッカはアクスム王国の属国ヒムヤルによる侵攻を受けている。 当時、海洋貿易の権益を確保するため紅海からアラビア海にかけての、 沿岸地方への勢力拡大を目指していた東ローマ帝国は、 同じキリスト教国であるエチオピアのアクスム王国を後援してヒムヤルを服属させるなどして、 アラビア半島に勢力を伸ばしていた。 ヒムヤルがメッカに侵攻した目的は、 サヌアのキリスト教会に対抗する多神教の神殿であるカアバ神殿を破壊して教会を建てるためだったとも、 商業により繁栄していたメッカの資産を奪うためだったともいわれている。 巨大な軍象を率いて侵攻するヒムヤル軍に対してメッカの人々は恐怖に陥ったが、 ヒムヤル軍はメッカに入ることなく壊走した。 クルアーンでは鳥が運んできた石のつぶてに当たったヒムヤル兵に疱瘡ができ、 疫病が蔓延したとされており、 この描写からヒムヤル軍に天然痘が蔓延したのではないかと推測されている。 このとき、メッカのクライシュ族はフザーア族と同盟を組んでヒムヤル軍に対抗したとされる。
イスラームの誕生
メッカ生まれでクライシュ族に属していたムハンマドは、 西暦610年に、 市の北東のヒラー山で神からの啓示を受けイスラーム教を創始した。 しかしクライシュ族からの迫害を受け、 西暦622年に、 ヤスリブ(現在のマディーナ)へムハンマドは逃れる。 これをヒジュラといい、イスラーム暦はここから起算される。 マディーナ滞在時には、 のちにメッカを聖地とするさまざまな決定が下されている。 西暦624年には、 礼拝の方向がエルサレムからメッカのカアバ神殿へと変更され、 西暦625年には、 巡礼がイスラーム教徒の義務とされた。 この間、バドルの戦いやウフドの戦いなどを経て、 イスラーム教徒は軍事的に優勢となっていった。 西暦628年には一時休戦協定が結ばれて、 初のメッカ巡礼が行われたものの、 メッカの非イスラーム教徒の攻撃によって完全なものとはならなかった。 しかしその後もイスラームの勢力は成長を続け、 西暦630年にはメッカはムハンマドに降伏し、 メッカを支配下におさめたムハンマドカアバ神殿よりすべての偶像を取り除いた。 これ以降メッカは聖地として尊ばれている。 西暦632年に行われた第4回巡礼のときに、 巡礼の方法や聖域の範囲などが定められ、 現在の巡礼の祖形となった。
聖地
西暦632年ムハンマド没後、 メッカは宗教上の聖地ではあり続けたものの、 政治上の実権は失っていった。 ウマルは政治の中枢をメディナに置き、 さらに第4代正統カリフのアリーが首都をイラクのクーファに移転すると、 メッカやアラビア半島は次第に政治の中枢から離れていき、 10世紀ごろからは、 ムハンマドの子孫であり、 ハサン・イブン・アリーの後裔(シャリーフ)である、 ハーシム家が半ば独立しながら外部の有力国家の保護を受けるようになっていった。 13世紀には、 ハーシム家は外部から総督位を受けることで、 メッカ太守の地位に着くようになった。 アッバース朝中期まではメッカの支配権はカリフが握っていたものの、 10世紀末には、 エジプトのファーティマ朝がメッカとメディナの支配権を握った。 さらにその後もアイユーブ朝、 マムルーク朝といったエジプト王朝のメッカ支配は続いた。 西暦1454年、 明の鄭和が遠洋航海した際、 その分隊がメッカ(天方)に寄航している。

西暦1517年、 マムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国がメッカの支配権を握り、 スンナ派イスラーム教徒の盟主となった。 その後はオスマン帝国の支配が続いていたが、 西暦1802年に、 ナジュドの豪族サウード家がワッハーブ派を奉じて建国した第一次サウード王国がメッカとマディーナを占領し、 当時メッカにあった聖者の廟などを破壊した。 第一次サウード王国はまた、 エジプトやシリアからやってくる巡礼団が華美に流れ堕落しているとして攻撃し、 シリアからのものは入域さえさせなかった。 一方、他地域からの巡礼団は歓迎され、 この時期のメッカの厳格な戒律を守る雰囲気に影響されて、 スマトラ島南部のミナンカバウ地方でパドリ戦争と呼ばれる宗教戦争が起きるなど、 イスラーム圏各地に影響を与えた。 しかしイスラームの盟主をもって任じる、 オスマン帝国の命を受けたエジプト総督ムハンマド・アリーは、 西暦1813年にメッカを攻略しヒジャーズをエジプトの治下に置いた。 しかし、 西暦1840年に第二次エジプト・トルコ戦争の敗北によってこれを放棄させられ、 再びメッカはオスマン帝国領となった。 19世紀中期以降は、 鉄道や汽船といった新しい交通機関によって旅行期間が大幅に短縮され、 これによって巡礼者の数は増加した。
サウジアラビア時代

西暦1908年の青年トルコ人革命後、 メッカのシャリーフに任命されたハーシム家のフサイン・イブン・アリーは、 半独立の姿勢をとるようになり、 西暦1916年には、 独立してヒジャーズ王国を建国したものの、 ナジュドのスルタンであるサウード家のイブン・サウードに敗れてメッカは占領され、 ヒジャーズ王国はナジュドに併合されて、 ナジュド及びヒジャーズ王国の一部とされ、 西暦1931年にはこれを改称したサウジアラビア王国の一部となった。 石油の富を得た西暦1940年代以降、 聖地の守護者としてサウジアラビア政府はメッカの整備を続け、 都市機能は整備され町は拡大を続けた。

西暦1979年11月20日、 マフディー(救世主)を頂く武装グループがマスジド・ハラームを占拠。 サウジ当局により2週間後に鎮圧されたが、 鎮圧部隊側の死者は127人、 武装勢力側の死者は177人という惨事となり、 首謀者らは公開斬首刑に処せられた。(アル=ハラム・モスク占拠事件)

西暦2012年、 7棟の超高層建築物群からなるアブラージュ・アル・ベイト・タワーズが開業した。 ホテル棟はサウジアラビアでは最も高い建築物であり、 尖塔を含めた高さは601mである。

比喩表現

「メッカ」という言葉は、宗教的な意味に限らず、 重要な場所、人を引きつける場所、 あるいはどっと押し寄せた人々を表す言葉として用いられるようになっている。 似たような比喩に「聖地」という表現がある。

ある一定の目的や意思を持った多数の人が集まる場所を「憧れの地」や「中心」とみなし、 イスラーム教徒が集まるメッカに例えて「〇〇のメッカ」と慣用することがある。 たとえば「苗場はスキーヤーのメッカ」「高校球児のメッカ、甲子園」、 あるいは「競艇のメッカ、住之江」などというように使う。 テレビ朝日の番組では、 生放送で「渋滞のメッカ、六本木」という表現をしたこともある。

ただし、サウジアラビア政府やムスリムは、 メッカ自体を『不可侵のイスラーム教の聖地』であるととらえているため、 このような用法を好んでいない。 先述のテレビ朝日の番組ではこの後、 不適切な表現だったと謝罪する一幕もあった。

ちなみに現在の日本のテレビ放送では「〇〇のメッカ」は、 宗教や宗教用語について配慮し、 表現の自主規制のため使用されない。

メディナ

メディナ / マディナ / ヤスリブ

メディナは、 メッカ北方のオアシス都市。 メディーナマディーナとも表記する(アラビア語でマディーナとは、 普通名詞の「都市」の意味でもある)。 ムハンマドが西暦622年にメッカからこの地に移りヒジュラ(聖遷)、 最初の布教の拠点としたところ。 ヤスリブが本来の地名だが、 後にアラビア語で「預言者の町」を意味するマディーナ・アン=ナビーの略でマディーナ(メディナ)と呼ばれるようになった。。 預言者ムハンマドの墓を有する預言者のモスクが町の中心にあり、 メッカとあわせて「二聖都(アル・ハラマイン)」と称される。

レバント

レバント / レヴァント(Levant)

レバントは、 東部地中海沿岸地方の歴史的な名称。
(広義にはトルコ、シリア、レバノン、イスラエル、エジプトを含む地域。)

現代ではやや狭く、シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエル(およびパレスチナ自治区)を含む地域(歴史的シリア)を指すことが多い。
歴史学では、先史時代・古代・中世にかけてのこれらの地域を指す。

レヴァントは英語の発音だが、 もとはフランス語のルヴァン (Levant) で、 「(太陽が)上る」を意味する動詞「lever」の現在分詞「levant」の固有名詞化である。

揺籃(ようらん)

ゆりかご。
比喩的に、物事の発展の初期の段階。