メッカ(Mecca) /
マッカ(Makkah)
メッカは、
サウジアラビア王国のマッカ州(歴史的にいえばヒジャーズ地域)の州都である。
正式名は
マッカ・アル=ムカッラマ(Makkah al-Mukarramah 「栄光あるマッカ」)。別名、h(Umm al-Qurā 「町々の母」)。
サウジアラビア王国政府は、
西暦1980年代に同市の名前の公式な英語表記を、
西洋人が以前から一般に用いてきた綴りである
Meccaから
Makkahに改めた。
人口は1,578,722人(2015年国勢調査)。ジェッダから73 km内陸に入った、
狭い砂地のアブラハムの谷にあり、海抜277 mである。
紅海からは80km離れている。
メッカは、イスラーム教最大の聖地であり、
祈りを捧げるところである。
ムスリム(イスラム教徒)は一日に5回決まった時刻になると、
メッカの方向に向かって礼拝を行う。
あらゆる
ムスリムにとって、
同地への巡礼「ハッジ」は体力と財力が許す限り一生に一度は果たすべき義務である。
これは聖典
クルアーンの記述を根拠とするもので、
イスラーム暦の第12月にあたるズー・アル=ヒッジャ月の8日から10日に行われる巡礼である「ハッジ」のことを指し、
この期間には世界中からハッジの行事に参加するため巡礼者が集まる。
その期間以外で随時個々に行われている巡礼「ウムラ」も多くの
ムスリムが財力や体力の許す限り行っているため、
メッカとカアバの周辺には一年を通じて絶えず巡礼者が訪れている。
ムスリムはマスジド・ハラーム(聖なるモスク。カアバを保護する)を地上でもっとも神聖な場所と考えている。
メディナと並んでイスラーム教二大聖域(
メッカ、
メディナを併称する場合、「2つの聖なる禁域」という意味で、アラビア語で「ハラマイン」とも呼ばれる)とされているため、
メディナ同様
ムスリム以外の入場はできず、
通じる道路の手前にある検問所より先に行くことができない。
古くから
ムスリムに変装しメッカを訪れる異教徒がおり、
中には処刑された者もいる。
宗教的意義
メッカは、
イスラーム教の開祖である預言者
ムハンマドの生誕地であり、
クルアーン(コーラン)において預言者イブラーヒーム(アブラハム)とその子のイスマーイール(イシュマエル)が建立したとされる
カアバがある。
メッカへの巡礼が可能な
ムスリムには、
巡礼を行う義務がある。
この義務は信徒が守るべき主要な5つの義務の一つであり、
巡礼を行った
ムスリムは、ハッジと呼ばれ、
人々に敬われる。
メッカへの巡礼にはいくつかの区別があり、
大祭ともいわれるイード・アル・アドハー(犠牲祭)には毎年約300万人が集まる。
一方で
ムスリムでない者には、
メッカと
メディナへの立ち入りは厳しく制限されている。
日本人写真家の野町和嘉が、
メッカの巡礼を撮影した写真集を刊行したことがあったが、
彼でさえもメッカに入るためには、
改宗して
ムスリムにならなくてはいけなかった。
ムスリムには、特別な事情がない限り、
一日に5回メッカの
カアバの方角(キブラ)を向いて祈りを捧げることが義務づけられている(
シーア派は3回)。
このため、
カアバを守護するマスジド・ハラームを除く世界中のすべてのモスクには、
必ずキブラを示す壁のくぼみ(ミフラーブ)が存在する。
歴史
イスラーム以前
メッカの町は古くより存在し、
2世紀に書かれたクラウディオス・プトレマイオスの「地理学」には、
マコラバの名ですでに記載がある。
このマコラバという名称の由来は神殿を意味するミクラーブという語であるとされており、
このころからすでにメッカは
カアバ神殿の置かれた聖域であったと考えられている。
メッカはジュルフム族が聖地の守護者として支配していたが、
4世紀後半には、
イエメンから移住してきたフザーア族がメッカを
侵攻して支配権を奪取した。
5世紀末には、
メッカ周辺で遊牧生活を行っていたクライシュ族のクサイイがフザーア族首長の娘婿となり、
フザーア族に代わりクライシュ族がメッカの支配権を握るようになった。
その後クライシュ族は、
インド洋航路によってアジアからイエメンへと運ばれる香辛料などをシリア、
地中海地方へと運ぶ交易路を開拓して大規模なキャラバンによる遠隔地交易を始め、
隊商路の安全を保つためにアラビア半島各地の諸勢力との間に盟約を結んでいき、
メッカを中心とした緩やかな部族連合が形成されていった。
ムハンマドが生まれた
西暦570年ごろにはおよそ1万人の定住者人口を持ち、
まだ中東の都市のなかでは小規模であったが、
商業都市として、
また広域信仰圏の中心として急速に発展しつつあった。
その
ムハンマドが生まれたとされる
西暦570年ごろに、
メッカはアクスム王国の属国ヒムヤルによる
侵攻を受けている。
当時、海洋貿易の権益を確保するため紅海からアラビア海にかけての、
沿岸地方への勢力拡大を目指していた東ローマ帝国は、
同じキリスト教国であるエチオピアのアクスム王国を後援してヒムヤルを服属させるなどして、
アラビア半島に勢力を伸ばしていた。
ヒムヤルがメッカに
侵攻した目的は、
サヌアのキリスト教会に対抗する多神教の神殿である
カアバ神殿を破壊して教会を建てるためだったとも、
商業により繁栄していたメッカの資産を奪うためだったともいわれている。
巨大な軍象を率いて
侵攻するヒムヤル軍に対してメッカの人々は恐怖に陥ったが、
ヒムヤル軍はメッカに入ることなく壊走した。
クルアーンでは鳥が運んできた石のつぶてに当たったヒムヤル兵に疱瘡ができ、
疫病が蔓延したとされており、
この描写からヒムヤル軍に天然痘が蔓延したのではないかと推測されている。
このとき、メッカのクライシュ族はフザーア族と同盟を組んでヒムヤル軍に対抗したとされる。
イスラームの誕生
メッカ生まれでクライシュ族に属していた
ムハンマドは、
西暦610年に、
市の北東のヒラー山で神からの啓示を受け
イスラーム教を創始した。
しかしクライシュ族からの迫害を受け、
西暦622年に、
ヤスリブ(現在のマディーナ)へ
ムハンマドは逃れる。
これをヒジュラといい、イスラーム暦はここから起算される。
マディーナ滞在時には、
のちにメッカを聖地とするさまざまな決定が下されている。
西暦624年には、
礼拝の方向がエルサレムからメッカの
カアバ神殿へと変更され、
西暦625年には、
巡礼がイスラーム教徒の義務とされた。
この間、バドルの戦いやウフドの戦いなどを経て、
イスラーム教徒は軍事的に優勢となっていった。
西暦628年には一時休戦協定が結ばれて、
初のメッカ巡礼が行われたものの、
メッカの非イスラーム教徒の攻撃によって完全なものとはならなかった。
しかしその後もイスラームの勢力は成長を続け、
西暦630年にはメッカは
ムハンマドに降伏し、
メッカを支配下におさめた
ムハンマドは
カアバ神殿よりすべての偶像を取り除いた。
これ以降メッカは聖地として尊ばれている。
西暦632年に行われた第4回巡礼のときに、
巡礼の方法や聖域の範囲などが定められ、
現在の巡礼の祖形となった。
聖地
西暦632年の
ムハンマド没後、
メッカは宗教上の聖地ではあり続けたものの、
政治上の実権は失っていった。
ウマルは政治の中枢を
メディナに置き、
さらに第4代正統カリフのアリーが首都をイラクのクーファに移転すると、
メッカやアラビア半島は次第に政治の中枢から離れていき、
10世紀ごろからは、
ムハンマドの子孫であり、
ハサン・イブン・アリーの後裔(シャリーフ)である、
ハーシム家が半ば独立しながら外部の有力国家の保護を受けるようになっていった。
13世紀には、
ハーシム家は外部から総督位を受けることで、
メッカ太守の地位に着くようになった。
アッバース朝中期まではメッカの支配権はカリフが握っていたものの、
10世紀末には、
エジプトのファーティマ朝がメッカと
メディナの支配権を握った。
さらにその後もアイユーブ朝、
マムルーク朝といったエジプト王朝のメッカ支配は続いた。
西暦1454年、
明の鄭和が遠洋航海した際、
その分隊がメッカ(天方)に寄航している。
西暦1517年、
マムルーク朝を滅ぼしたオスマン帝国がメッカの支配権を握り、
スンナ派イスラーム教徒の盟主となった。
その後はオスマン帝国の支配が続いていたが、
西暦1802年に、
ナジュドの豪族サウード家がワッハーブ派を奉じて建国した第一次サウード王国がメッカとマディーナを占領し、
当時メッカにあった聖者の廟などを破壊した。
第一次サウード王国はまた、
エジプトやシリアからやってくる巡礼団が華美に流れ堕落しているとして攻撃し、
シリアからのものは入域さえさせなかった。
一方、他地域からの巡礼団は歓迎され、
この時期のメッカの厳格な戒律を守る雰囲気に影響されて、
スマトラ島南部のミナンカバウ地方でパドリ戦争と呼ばれる宗教戦争が起きるなど、
イスラーム圏各地に影響を与えた。
しかしイスラームの盟主をもって任じる、
オスマン帝国の命を受けたエジプト総督ムハンマド・アリーは、
西暦1813年にメッカを攻略しヒジャーズをエジプトの治下に置いた。
しかし、
西暦1840年に第二次エジプト・トルコ戦争の敗北によってこれを放棄させられ、
再びメッカはオスマン帝国領となった。
19世紀中期以降は、
鉄道や汽船といった新しい交通機関によって旅行期間が大幅に短縮され、
これによって巡礼者の数は増加した。
サウジアラビア時代
西暦1908年の青年トルコ人革命後、
メッカのシャリーフに任命されたハーシム家のフサイン・イブン・アリーは、
半独立の姿勢をとるようになり、
西暦1916年には、
独立してヒジャーズ王国を建国したものの、
ナジュドのスルタンであるサウード家のイブン・サウードに敗れてメッカは占領され、
ヒジャーズ王国はナジュドに併合されて、
ナジュド及びヒジャーズ王国の一部とされ、
西暦1931年にはこれを改称したサウジアラビア王国の一部となった。
石油の富を得た
西暦1940年代以降、
聖地の守護者としてサウジアラビア政府はメッカの整備を続け、
都市機能は整備され町は拡大を続けた。
西暦1979年11月20日、
マフディー(救世主)を頂く武装グループがマスジド・ハラームを占拠。
サウジ当局により2週間後に鎮圧されたが、
鎮圧部隊側の死者は127人、
武装勢力側の死者は177人という惨事となり、
首謀者らは公開斬首刑に処せられた。(アル=ハラム・モスク占拠事件)
西暦2012年、
7棟の超高層建築物群からなるアブラージュ・アル・ベイト・タワーズが開業した。
ホテル棟はサウジアラビアでは最も高い建築物であり、
尖塔を含めた高さは601mである。
比喩表現
「メッカ」という言葉は、宗教的な意味に限らず、
重要な場所、人を引きつける場所、
あるいはどっと押し寄せた人々を表す言葉として用いられるようになっている。
似たような比喩に「聖地」という表現がある。
ある一定の目的や意思を持った多数の人が集まる場所を「憧れの地」や「中心」とみなし、
イスラーム教徒が集まるメッカに例えて「〇〇のメッカ」と慣用することがある。
たとえば「苗場はスキーヤーのメッカ」「高校球児のメッカ、甲子園」、
あるいは「競艇のメッカ、住之江」などというように使う。
テレビ朝日の番組では、
生放送で「渋滞のメッカ、六本木」という表現をしたこともある。
ただし、サウジアラビア政府や
ムスリムは、
メッカ自体を『不可侵の
イスラーム教の聖地』であるととらえているため、
このような用法を好んでいない。
先述のテレビ朝日の番組ではこの後、
不適切な表現だったと謝罪する一幕もあった。
ちなみに現在の日本のテレビ放送では「〇〇のメッカ」は、
宗教や宗教用語について配慮し、
表現の自主規制のため使用されない。