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西アジアの地名

作成日:2024/3/23

よみがな順で記載する。

小アジア / アナトリア / アナトリア半島

小アジア / アナトリア / アナトリア半島

小アジアアナトリアあるいはアナトリア半島とも言う)は、 西アジアの西端に位置する半島。 現在はトルコ共和国が支配するが、 古来、ヒッタイト、ペルシャ帝国、ローマ帝国、ビザンツ帝国、 セルジューク朝、オスマン帝国など大国がこの地で興亡した。

世界史上、小アジアアナトリアとも言われ、 北を黒海、西をエーゲ海、南を地中海にはさまれ、 東にアルメニア、メソポタミア、シリア地方につながる地域を指し、 ほぼ現在のトルコ共和国のアジア側の半島部にあたる。 「アジア」とは本来、 ローマ時代に現在の小アジアアナトリア)西部の属州の名前であったが、 次第にヨーロッパに対して東方世界全体を意味するようになった。 そのため本来のアジアを「小アジア」と言って区別するようになった。

アナトリアは本来半島の中心部の地域名であったが、 現在では半島全域をアナトリアと言うことも多い。 現在はトルコ共和国の主要な国土となっており、 トルコ語では「アナドル」と言っている。

注意:小アジアのトルコ化
小アジアアナトリア)は現在のトルコ共和国であるが、 トルコ人はこの地に最初からいた民族ではないことに十分注意する必要がある。 アナトリアはかつてヒッタイト王国、リディア王国が存在し、 ペルシャ帝国、アレクサンドロス帝国、セレウコス朝、ローマ帝国の支配を受け、 4世紀以降は東ローマ帝国の領土となり、 次いでそれを継承したビザンツ帝国の領土として続いていた。 この間、ヘレニズム期からローマ時代まではほぼギリシャ文化・ローマ文化が支配的であり、 ギリシャ人の他、ユダヤ人も多く、 キリスト教が最初に広まったのもこの地域であった。

地図上に「文字色赤、背景黄色」で表示した丸数字(○で囲まれた数字)の
からそして最後にを結んだ領域の内側が「小アジア(アナトリア)」である。

注意
上記、「文字色赤、背景黄色」の丸数字で示した文字は、 説明のために左の画像に重ねたものである。
地図の移動あるいは縮尺の変更などには同期しないので注意が必要である。


ハットゥシャ / ハットゥシャシュ

ハットゥシャ(ヒッタイト語) / ハットゥシャシュ (トルコ語)

ハットゥシャは、 紀元前17世紀 - 紀元前13世紀に繁栄したヒッタイト王国の都。
現在の、 トルコの首都アンカラより東に145キロメートルにあるボアズカレ(旧・ボアズキョイ)近郊で、 海抜1000メートルほどの丘陵地帯にある遺跡(ボアズキョイ遺跡)。

西暦1906年、 ドイツの考古学者フーゴ・ヴィンクラーによって発見された。 その後、発掘調査がおこなわれ、 大神殿跡、突撃門や上の街神殿群跡、獅子門などが確認されている。 また多数の楔形文字象形文字を記した粘土板も発見され、 ヒッタイト王国の歴史が明らかになってきた。
西暦1986年、 ユネスコの世界遺産に登録された。



ボアズキョイ遺跡
ボアズキョイは、 トルコの首都アンカラから150キロメートル東方の大きな都市遺跡である。 海抜1000メートル前後の丘陵地で、 北方へいくほど低くなっている。 南北約2.3キロメートル、 東西約1.2キロメートル、 周囲約6キロメートルにもなる。
城壁に囲まれ、敵の来襲に備えた大きな山城である。 下地区は北半分の低い地域で、 大神殿やビュックカレ(王宮のあった場所)がある。 上地区は南半分の高台で、 下地区よりも後に開発された。 東側に王門、西側に獅子門があり、 中央のスフィンクス門の地下には戦士らが利用する軍事施設の地下道がほってあった。
ボアズキョイ文書
西暦1906年、 ドイツ隊がボアズキョイの発掘に着手し、 楔形文字を記した粘土版文書「ボアズキョイ文書」が多数出土した。 当時はヒッタイト語は解読されていなかったので、 その内容は判らなかったが、 西暦1915年に解読された。
その内容は王の年代記、条約、勅令、書簡、 宝典など多岐にわたるが経済文書は少ない。 しかし、何よりも研究者を驚かせたのは、 エジプトで発見されていたエジプト新王国のアメンホテプ4世の時代(紀元前14世紀)のアマルナ文書と内容が一致し、 当時のヒッタイトとエジプトのさかんな外交関係が明らかになったことだった。
ボアズキョイ文書にはヒッタイト語だけでなく、 オリエント世界の共通語であったアッカド語語、 メソポタミアのミタンニが使用していたフリ語などが混じっている。 また祭式文書にはヒッタイト語がインド=ヨーロッパ語系の原語であることを示す言語が含まれている。
このように、ボアズキョイ文書はオリエントの国際社会の解明と、 言語系統の研究に資料を提供する極めて貴重な発見であった。