西暦1921年にスウェーデンの地質学者 ユハン・アンデショーンとオットー・ズダンスキーが人類のものと思われる歯の化石を発見した。
さらに、
その後の調査で西暦1929年12月2日、
中国の考古学者 裴文中が完全な頭蓋骨を発見した。
結果的に合計十数人分の原人の骨が発掘された。
しかし、
日中戦争の激化により、
化石は調査のためにアメリカへ輸送する途中に紛失した。
紛失の前に協和医学院の客員解剖学教授であったドイツ出身の学者F・ワイデンライヒがすでに詳細な記録や研究を残しており、
レプリカが現存しているので、
これが今日の北京原人の研究資料となっている(西暦1966年に頭蓋骨破片2個と歯1本が発掘されている)。
彼を含め、
北京原人を現生人類(アジア人)の祖先とする考えがあった。
西暦2012年現在では、
現代人のミトコンドリアDNAの系統解析により否定されている。
北京原人はアフリカ大陸に起源を持つ原人のひとつであるが、
現生人類の祖先ではなく、
何らかの理由で絶滅したと考えられている。
石器や炉の跡が同時に発見されていることから、
石器や火を利用していたとも考えられている。
また、
動物の骨が近くに見つかったことから、
それらを焼いて食べていたという説もある。
さらに、
原人の骨自体が粉々にされていたので、
北京原人の間では食人の風習もあったという説もまた有力であった。
しかし、
レプリカに残っていた食痕からハイエナ類によるものであるという見解が提出された。
額が現代人に比べ、
なだらかに傾斜し、
後頭部の骨は突き出していた。
類人猿でも現代の人間でもない、その進化の過程の原人だとされた。
ネアンデルタール人は毛皮をまとい、
洞窟に住み、
石器を使い、
狩猟採集生活を行っていた。
石器は打製石器である剥片石器の技術を使っている。
これは、
ルヴァロワ式石器ともいわれる旧石器文化が最も発達した形式である。
ネアンデルタール人の遺跡からは、
石器で肉を引き剥がされ、
骨がたたき割られた人骨が出土する。
これは彼らが食人を行っていた証拠とされる。
一方で、
明らかに埋葬された人骨が見つかっており、
家族や部落の仲間の死を悼む心を持っていた。
頭蓋骨の内側の形で大脳皮質がどの程度発達しているかが判り、
前頭葉が一定の大きさに達していたこと、
喉や胸骨の構造も現代人とほとんど同じであることなどから、
複雑な石器の製造や、
狩猟での集団作業で言葉を使ったことは十分考えられる。
しかし、
抽象的、
象徴的言語を用いることはなかっただろう。
ネアンデルタール人は3万年前頃までに絶滅し、
現生人類(ホモ=サピエンス)への置換が行われたと考えられているが、
最近の研究では両者はかなり長い時期にわたり併存関係にあったとされる。
しかし両者の間に敵対関係や、
逆に混血などの関係があったのかどうかについては諸説あるが、
いまのところ不明である。
(ネアンデルタール人がどこかに生存していると真面目に考えている学者もいる。)
ネアンデルタール人が洪積世の人類化石であると認められるのには45年かかった。
西暦1856年、
ドイツの高校教師フールロットは、
デュッセルドルフの近くのネアンデル渓谷で掘り出されたという古い人骨を、
頭骨の形や脳の容積から見て原始時代の人類の骨であると確信し、
「ノアの洪水で溺れ死んだ人」の骨だと学会で発表した。
しかし大学教授たちは、
「絶滅した特殊な人類の一種」であるとか、
「ナポレオン戦争で戦死したコサック兵の遺骨」、
「クル病にかかって変形した老人の骨」などとしてフールロットの説を認めなかった。
ダーウィンの進化論が発表される西暦1858年よりも前のことだった。
フールロットは自説が認められないままこの世を去り、 ようやく死後24年経った西暦1901年、 ドイツの解剖学者シュワルベによってネアンデルタール人が化石人骨であることが認められた。
その後、 同じような化石が多数発見された。 「進化」の概念も導入されたからだった。
現在知られている人類進化の過程に関する学説で最も一般的なのは、
アフリカに生まれたホモ=エレクトゥス(原人)が約60万年前に枝分かれしてハイデルベルク人が現れ、
その一部が中東・ヨーロッパに広がってネアンデルタール人となった、
というものである。
また長い間、
ネアンデルタール人はヨーロッパにおいてクロマニヨン人に進化したと考えられてきたが、
人類学の進歩によってその見方は現在では否定されている。
また西暦1940年代にはネアンデルタール人を独立した種ではなく、
ホモ=サピエンスの亜種であるとして、
ホモ=サピエンス=ネアンデルターレンシスという学名が与えられたが、
それも現在は否定されており使われなくなっている。
現在では、
現生人類つまりホモ=サピエンス(新人)もハイデルベルク人から枝分かれした系統から生まれ、
ユーラシア各地に拡散し、
その中から生まれたクロマニヨン人がネアンデルタール人と共存しながら次第にそれを駆逐し、
ネアンデルタール人は3万年前ごろに滅亡した、
と考えられている。
ネアンデルタール人とクロマニヨン人が共存していたという興味深い遺跡が、
イスラエルのカルメル山周辺でいくつも見つかっている(そのうちの一つのアムッド遺跡は日本隊が発掘した)。
<奈良貴史『ネアンデルタール人類のなぞ』2003 岩波ジュニア新書/内村直之『われら以外の人類』2005 朝日選書 などによる>
ネアンデルタール人には凶暴な野人というイメージがつきまとっていた。
最近になってそのような思いこみは訂正されつつある。
イラクのシャニダール洞窟では家族生活を営み、
仲間を手厚く葬っていたり、
病人を介護していた様子がうかがわれる。
また日本の人類学者赤澤威はシリアのデデリエ洞窟で発掘した子どもの人骨をもとに全身を復元し、
彼らの心性に迫っている。
アメリカのある学者は、
「もしネアンデルタール人がわれわれと同じ格好をして隣に座っていても気がつかないだろう」といっているという。
そんな考えで復元された人物が最初の化石の発見地に建てられたネアンデルタール博物館に展示されている。
<赤澤威編著『ネアンデルタール人の正体』朝日選書 2005 p.29-54>
ネアンデルタール人は原人段階の資質を多く引継ぎながら新たな特徴を身につけ、
ヨーロッパを中心とした寒冷な気候に適応して生きてきた。
しかし、
われわれ現代人の先祖でありアフリカに生まれたホモ=サピエンスの一派であるクロマニヨン人が、
後期旧石器の技術を身につけてヨーロッパにやってきた。
ネアンデルタール人はクロマニヨン人とどのような交流があったか不明だが、
次第にその居住地域を譲っていき、
遅くとも2万7000年頃には地球上から姿を消した。
現在のところ、
最も新しいネアンデルタール人類の人骨はイベリア半島のサファイラ洞窟から見つかっているが、
ジブラルタル海峡を越えた気配はない。
一方、
ヨーロッパの主役となったクロマニヨン人は狩猟技術を向上させ、
洞窟絵画などの芸術性を伴う新たな文化を身につけて、
人類の文明を形成していく。
なぜこのような違いがでたのか? ネアンデルタール人はなぜ消滅したのか? これは現在でも大きな謎であり、
さまざまな仮説が立てられている。
クロマニヨン人と混血して吸収されたという説、
クロマニヨン人との闘争で滅ぼされたとする説などがあるがいずれも証明されていない。
結局、
ネアンデルタール人の絶滅した理由は謎であるが、
大筋は長い時間の中で「食料を手に入れる技術の差などがちょっとした生存率の差を生み、
それが次第に彼らの人口を減らしていったのではないか」<内村前掲書p.242>、
あるいは寒冷条件に極限まで適応してきわめて小さな人口集団で暮らしていた彼らが、
パワフルな現代人のパワーに呑み見込まれて消滅した<赤澤前掲書 p.85-86 第2章地球から消えた人々(片山一道)>、
といったところであろう。
また、
「ある時期を境にして、持ち続けてきた古い形質と自分たちの形質とで飽和状態になり、新たに適応するのが困難になってしまったのではないか」<奈良 前掲書 p.162>という指摘もある。
それではわれわれ現代人はどうだろうか?
文明を極端に発達させたわれわれは、
さて電気が使えない、
携帯が使えないとなったとき、
果たして生き延びることができる力を持っているのだろうか。
西暦2011年の東日本大震災での津波、
原発事故、
停電という事態の中で、
かつて地球上から姿を消した「人類」がいたことは何らかの示唆になると思われる。