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ギリシャの地名

作成日:2024/3/21

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アテーナイ

アテーナイアテナイ)は、ギリシャ共和国の首都アテネの古名。 古代ギリシャの代表的なポリス。 中心部にパルテノン神殿がそびえるイオニア人の古代ギリシャの都市国家。 名はギリシャ神話の女神アテーナーに由来する。 アッティカ半島の西サロニコス湾に面し外港ペイライエウスを有していた。

典型的な民主政治が展開され、 紀元前5世紀にペルシャ戦争に勝利、 デロス同盟の盟主として全盛期となる。 紀元前5世紀末、 スパルタとのペロポネソス戦争で敗れ、 ギリシャの覇権を失ったが、 その後もギリシャ文明の中心都市として存続した。 紀元前338年、 カイロネイアの戦いで敗れてマケドニアの支配下に入り、 ヘレニズム時代を経て、 紀元前2世紀にはローマ領となる。 ローマ帝国分裂後はビザンツ帝国の支配を受け、 15世紀にオスマン帝国に征服された。 西暦1830年にギリシャ王国が独立、 西暦1834年にその首都となり、 現在もギリシャ共和国の首都である。

ギリシャ語表記ではアテナイ。 古代ギリシャの代表的なポリスであり、 ギリシャ南部のアッティカ地方にあり、 アクロポリスの丘を中心にした市域は城壁に囲まれ、 その周辺地域を領有し市民の耕作地が広がっていた。 またサラミス湾に外港を持ち、 海外貿易でも大きな富を築いた。 領内にはラウレイオン銀山があり、 貨幣を発行し、経済的にも他を圧していた。 アテネが支配したアッティカ地方は、 広さは佐賀県ぐらい、 人口は最盛期で市民は家族を含み12万人(そのうち、市民権を持つ成年男子は3万)。 さらにメトイコイといわれた在留外人が3万、 奴隷が8万人、 合計で23万(紀元前432年の推計)とされる。

アルゴス

アルゴスは、 ギリシャ共和国ペロポネソス地方東北部にある人口約2万5000人の都市。 古代ギリシャの都市国家であり、 古代アルゴリスの中心地であった。 現在はアルゴリダ県アルゴス=ミキネス市に属し、 同市の中心地区である。

アルゴスのある地方は、 アルゴリス(Argolis)、 アルゴリダ、 アルゲイアなどの名で知られる。

伝統的な俗説においては、 この名前はギリシャ神話の百眼巨人アルゴスに由来するとされている。 比較言語学的にはインド・ヨーロッパ祖語のarg-(光る・輝くの意、argyros「銀」はその派生語)を語源とする形容詞のargos(ちらちら光る、動きの速い)で、 「明るく輝く」またはそれに類似する意味を持ち、 地名と伝承上の巨人アルゴスの関係は二次的にこじつけられたものに過ぎないという推論がもっとも有力である。

古代
アルゴスからミケーネに向かって45スタディア(約8.3km)のところに、 新石器時代の居住区があり、 その近くにアルゴリア地方の中央聖域がある。 この聖域はヘーラー(Argivian Hera)を祀ったもので、 この神殿(寺院)の主な祭はヘカトンベー(en:Hecatomb。100匹の牛を生贄に捧げること)だった。 ヴァルター・ブルケルトはその著書Homo Necansの中で、 この祭をヘルメースによる百眼の巨人アルゴス暗殺の神話と結びつけている。
ミケーネ文明の時代、 アルゴスは重要な集落であったことが考古学的に判明している。 ミケーネやティリンスといった近隣の都市国家の中で、 肥沃なアルゴス平野の中央の見晴らしの良い場所にあったため、 かなり早い時期から居住区になった。 Argolid(アルゴス人)のことは、 ローマでもアルゲイア(Argeia)として知られていた。 しかし、アルゴスの重要性は紀元前6世紀以降、 近隣のスパルタによって影が薄くなってしまった。
さらに、ペルシャ戦争への参加を拒否したことで、 アルゴスはギリシャの他のほとんどの都市国家から孤立してしまった。 それでもアルゴスは中立を貫いた。 紀元前5世紀のスパルタとアテナイの争いでは、 アテナイと同盟を結んだが、何の役にも立たなかった。
中世
12世紀、ラリッサの丘の、 古代都市があったところに、 ラリッサ城(Kastro Larissa)が建てられた。 アルゴスは十字軍、続いてヴェネツィア共和国の手に落ち、 1643年にはオスマン帝国に占領された。 1686年、ヴェネツィアのフランチェスコ・モロジーニがいったん攻略したが、 1716年にオスマン帝国に奪還された。
近現代
西暦1821年にギリシャ独立戦争が始まると、 ギリシャ各地に多くの小さな共和政体が生まれた。 ペロポネソスには独立派の臨時政府として「ペロポネソス議会」が生まれ、 その下にアルゴスでも西暦1821年5月26日に「アルゴス執政政府」(Consulate of Argos)の設立が宣言された。 スタマテロス・アントノプロスという人物が執政官に就任(在位:西暦1821年3月28日 - 5月26日)したが、 短命なこの地方政府のただ一人の元首となった。 アルゴスの政府は、 エピダウロスの第一国民会議 (First National Assembly at Epidaurus) で成立した統一暫定政府の権威を認め、 最終的にはギリシャ王国に合流していく。

エーリス(エリス)

エーリス / エリス(英: Elis または Eleia)(地名)

エリスは、 古代ギリシャの地方で、 現在のイリア県に該当する。 ギリシャ南部のペロポネソス半島にあり、 北をアカイア、東をアルカディア、 南をメッセニア、 西をイオニア海とそれぞれ接している。

第1回古代オリンピックは紀元前8世紀(伝えられるところでは紀元前776年)、 エリス当局によって、エリスのオリンピアで催された。 競技の審判ヘラノディカイはエリス出身者だった。

地元の呼び名「ワリス」はおそらく「低地」という意味だと思われ、 実際にエリスは、アカイア、アルカディアともどもそうである。 山々はアルカディアの高地の続きであり、 主要な河川もアルカディアの泉が源である。

エーリスは次の3つの地区に分かれている。
コイレ(「窪地」)
低地エーリス。最も北の地域で、最も面積が広い。ペネウス川(Peneus)とその支流ラドン川が流れている。
この支流と同じ名前の川がアルカディアを流れている。
古代には、牛や馬で有名だった。
ピサティス
ピサの領域。コイレから南のアルペイオス川の右岸に広がり、オリンピアを含む。
トリピュリア
3つの部族の土地。アルペイオス川の南からネダ川まで広がる。

エリスは、 古代ギリシャの地方で、 現在のイリア県に該当する。

オリンピア(オリュンピア)

オリンピア(地名)は、 ギリシャのペロポネソス半島西部に位置する古代ギリシャの都市。 古代オリンピックが行われた場所であり、 現在も数多くの遺跡が存在する。 西暦1989年世界遺産に登録された。
古代ギリシャ語の発音に沿い「オリュンピア」とも転記される。

古代オリンピア
古代オリンピックの始まりは紀元前8世紀にまでさかのぼる。 伝染病の蔓延に困ったエリス王イフィトスが争いをやめ競技会を復活せよと言うアポロンの啓示を受けた事に由来すると伝えられている。 これがゼウスへの奉納競技の始まりで1000年以上、 293回に渡って行われたが、 西暦394年にローマ帝国皇帝テオドシウス1世の異教神殿破壊令により廃止された。 競技会の発端となる「競技会を復活」と言う啓示のくだりは過去にも競技が存在したそれを示唆するものと考えられ、 実際の競技の開始はもっと早かったのではと見られている。
フィロンによる世界の七不思議の一つであるゼウス像が存在したことでも知られる。 西暦1950年代に作者のペイディアスの工房とされる遺跡がゼウス神殿付近で発見され、 ゼウス像が実際に存在した可能性が強まっている。
オリンピア周辺の遺跡の発掘は西暦1829年フランス人考古学者により始められた。 19世紀にはドイツの発掘隊も加わり、 プラクシテレスによるヘルメス像などが発見された。 20世紀半ばには競技場跡が発掘されている。
近代オリンピックにおける聖火はオリンピアのヘラ神殿において凹面鏡を用いて太陽から採火されている。 西暦2004年のアテネオリンピックでは男女砲丸投の競技がこの競技場跡で行われた。

現在のオリンピア
遺跡の西側に、 アルヘア・オリンビア(古代オリンピア)という名の人口1,400人ほどの町があり、 アルヘア・オリンビア市の中心地である。 町にはピルゴスとを結ぶ鉄道駅などがある。 20世紀にはいり観光が町の重要な産業となった。

オリンポス山

オリンポス山は、 ギリシャのテッサリア地方にある標高2,917.727[1]m の山。 ギリシャの最高峰。 現代ギリシャ語に基く日本語表記ではオリンボス山とも。 古典ギリシャ語ではオリュンポス山という。

山麓が海面近くのため、 プロミネンス(山麓からの比高)が2,355 mと、 ヨーロッパで最も高い山の一つである。 ギリシャ第二の都市テッサロニキからテルマイコス湾をはさんで南西80kmのところにある。 一帯に石灰岩の丘陵地が広がっており、 北部と東部の山麓には沖積平野と深い渓谷がある。

オリンポス山は植物相がとても豊かであり、 植生はマッキア、 地中海地方の硬葉低木林、 ブナ属とオークの樹林、 ヨーロッパクロマツの針葉樹林、 山地草原と高山帯がある。 23種の固有種を含む約1700種の植物、 7種のキツツキを含む104種の鳥類と32種の哺乳類が生息しており、 絶滅危惧種のジョフロワホオヒゲコウモリ、 シャモア、ヒゲワシ、イヌワシも見られる。 西暦1981年にユネスコの生物圏保護区に指定された。

最も高いピークはギリシャ語で「鼻」を意味するミティカス(MitikasまたはMytikas)と呼ばれる。 次に高いピークはスコリオ(Skolio、標高2,912m)である。 オリンポス山に登るには東側の山麓の町リトホロ(標高293m)から登る。 リトホロはこの山に登るルート上にあることから、 「神の街」と呼ばれている。

オリンポス山は、 ギリシャ神話ではオリュンポス十二神の居所とされる山である。

ペラ(ペッラ)

ペラ / ペッラ(地名)

マケドニアの都。ペッラとも表記する。
現在のギリシャの北部の都市テッサロニケの北方にあり、 マケドニア王国の首都だった都市遺跡。 西暦1957年に遺跡が発見され、 マケドニアの都跡だと判明した。

紀元前5世紀末、 アルゲアス朝のバシレウス(王)であったアルケラオス1世によって建てられ、 旧都アイガイ(ヴェルギナ)から遷都された。 三大悲劇詩人のエウリピデスもこの地で晩年を送ったように、 古代ギリシャの文化を積極的に吸収した。

紀元前4世紀アルゲアス朝のバシレウスであったピリッポス2世やアレクサンドロス3世もペラで生まれた。 ディアドコイの一人カッサンドロスにより大規模なインフラの建設が行われ、 ペラはマケドニア王国で最も豊かな都市として繁栄を享受することになる。 現在発見されているペラの遺構は大半がカッサンドロスおよびその後のアンティゴノス朝時代に建設されたものである。

紀元前2世紀共和政ローマによって征服され、 さらに地震の被害を受けてその繁栄を失った。 古代ギリシャの歴史家ヘロドトスやトゥキディデスの著作にもペラについて記述が残されている。

赤の破線で囲まれ、中に「文字色赤、背景黄色」で「ペラ」と書かれているのがペラの位置である。

注意
上記で説明した、「ペラ」の文字は、 説明のために左の画像に重ねたものである。
地図の移動あるいは縮尺の変更などには同期しないので注意が必要である。

ペラ

ミュケーナイ

ミケーネ(古代ギリシャ語:ミュケーナイ、現代ギリシャ語:ミキネス)は、 ギリシャ・ペロポネソス地方アルゴリダ県アルゴス=ミキネス市の古代都市。 ペロポネソス半島東部に位置し、 ミキネスの2km西に位置する。 西暦1872年に、 ハインリヒ・シュリーマンによって遺跡が発掘され、 古代ギリシャ以前の文明が発見された。 これは、この地の名をとってミケーネ文明と呼ばれる。

近隣の都市としては、 約30キロ北東にコリント、10キロ南にアルゴスが位置している。

ミケーネの遺跡は、獅子門、円形墳墓A、王室、アトレウスの墳墓が有名で、 そのいずれも巨大な切り石を用いた建築である。 ミノア文明のものに比べ、 これらは非開放的で求心的、 かつ重装備である。

サロニコス湾から19km内陸に位置する海抜900フィート(274メートル)の丘の上に建てられている。 120キロ北東にアテネ、 11キロ南にアルゴス、 48キロ北にコリントが位置する。 紀元前2千年紀、 この場所はギリシャ世界の中心地の1つであり、 その影響範囲はギリシャ南部、 クレタ島、 キクラデス諸島、 アナトリア南西部の一部にまで及んだ。 ギリシャの時代区分における紀元前1600年頃から紀元前1100年頃までの期間は、 同地にちなんでミケーネ時代と呼ばれている。 紀元前1350年頃の全盛期、 城塞と城下町を合わせた都市域の総面積は約30ヘクタールで、 その中におよそ3万人の人口が暮らしていた。