本居宣長(もとおりのりなが)

作成日:2019/8/19

本居宣長(もとおりのりなが)

江戸時代の国学者・文献学者・言語学者・医師。名は栄貞。
本姓は平氏。通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。号は芝蘭、瞬庵、春庵。
自宅の鈴屋(すずのや)にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人(すずのやのうし)と呼ばれた。
また、 荷田春満、 賀茂真淵、 平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人とされる。
伊勢松坂の豪商・小津家の出身である。

著書に、 『古事記伝』、 『玉くしげ別本』、 『源氏物語玉の小櫛』、 『玉勝間』、 『馭戒慨言(ぎょじゅうがいげん)』、 『紫文要領』、 『源氏物語年紀考』、

概要

契沖の文献考証と師・賀茂真淵の古道説を継承し、 国学の発展に多大な貢献をしたことで知られる。 本居宣長は、 賀茂真淵の励ましを受けて『古事記』の研究に取り組み、 約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『古事記伝』を著した。

古事記伝』の成果は、 当時の人々に衝撃的に受け入れられ、 一般には正史である『日本書紀』を講読する際の副読本としての位置づけであった『古事記』が、 独自の価値を持った史書としての評価を獲得していく契機となった。

本居宣長は、 『源氏物語』の中にみられる「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ文学の本質であると提唱し、 大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、 外来的な儒教の教え(「漢意」)を自然に背く考えであると非難し、 中華文明を参考にして取り入れる荻生徂徠を批判したとされる。

また、 本居宣長は、 紀州徳川家に贈られた「玉くしげ別本」の中で, 「定りは宜しくても、其法を守るとして、却て軽々しく人をころす事あり、よくよく慎むべし。たとひ少々法にはづるる事ありとも、ともかく情実をよく勘へて軽むる方は難なかるべし」とその背景事情を勘案して厳しく死刑を適用しないように勧めている。

本居宣長の代表作には、 前述の『古事記伝』のほか、 『源氏物語』の注解『源氏物語玉の小櫛』、 そして『玉勝間』、 『馭戒慨言(ぎょじゅうがいげん)』などがある。

門下生も数多く『授業門人姓名録』には、 本居宣長自筆本に45名、他筆本には489名が記載れている。
主な門人として田中道麿、服部中庸・石塚龍麿・夏目甕麿・長瀬真幸・藤井高尚・高林方朗(みちあきら)・小国重年・竹村尚規・横井千秋・代官の村田七右衛門(橋彦)春門父子・神主の坂倉茂樹・一見直樹・倉田実樹・白子昌平・植松有信・肥後の国、山鹿の天目一神社神官・帆足長秋・帆足京(みさと)父子・飛騨高山の田中大秀・本居春庭(宣長の実子)・本居大平(宣長の養子)などがいる。

生涯

出生
本居宣長は享保15年(西暦1730年)6月伊勢国松坂(現在の三重県松阪市)の木綿仲買商である小津家の次男として生まれる。幼名は富之助。
元文2年(西暦1737年)、 8歳で寺子屋に学ぶ。
元文5年(西暦1740年)、11歳で父を亡くす。
延享2年(西暦1745年)、16歳で江戸大伝馬町にある叔父の店に寄宿し、翌年郷里に帰る。
今井田家の養子となる
寛延元年(西暦1748年)、19歳のとき、伊勢山田の紙商兼御師の今井田家の養子となるが、3年後、寛延3年(西暦1750年)離縁して松坂に帰る。
このころから和歌を詠み始める。
自分の生まれた小津家を継ぐ
宝暦2年22歳のとき義兄が亡くなり、 小津家を継ぐが、 商売に関心はなく、 江戸の店を整理してしまう。
母と相談の上、 医師を志し、 京都へ遊学する。
医学、儒学、関学、国学を学ぶ
医学を堀元厚武川幸順に、 儒学堀景山.htmlに師事し、 寄宿して漢学や国学などを学ぶ。
堀景山は広島藩儒医で朱子学を奉じたが、 反朱子学荻生徂徠の学にも関心を示し、 また契沖の支援者でもあった。
姓を「本居」に戻す
同年???、 姓を先祖の姓である「本居」に戻す。
この頃から日本固有の古典学を熱心に研究するようになり、 堀景山の影響もあって荻生徂徠や契沖に影響を受け、 国学の道に入ることを志す。
また、 京都での生活に感化され、 王朝文化への憧れを強めていく。
医師を開業する
宝暦7年(西暦1758年)京都から松坂に帰った本居宣長は医師を開業する。
そのかたわら自宅で『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。
賀茂真淵に入門する
27歳の時、 『先代旧事本紀』と『古事記』を書店で購入し、 賀茂真淵の書に出会って国学の研究に入ることになる。
その後本居宣長は賀茂真淵と文通による指導を受け始めた。
宝暦13年(西暦1763年)5月25日、 本居宣長は、 伊勢神宮参宮のために松阪を来訪した真淵に初見し、 古事記の注釈について指導を願い、 入門を希望した。
その年の終わり頃に入門を許可され、 翌年の正月に本居宣長が入門誓詞を出している。
賀茂真淵は、 万葉仮名に慣れるため、 『万葉集』の注釈から始めるよう指導した。
以後、 賀茂真淵に触発されて『古事記』の本格的な研究に進む。
この真淵との出会いは、 宣長の随筆『玉勝間(たまがつま)』に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている。
本居宣長の門人たち
本居宣長は、 一時は紀伊藩に仕えたが、 生涯の大半を市井の学者として過ごした。
門人も数多く、 特に、 天明年間 (西暦1781年 - 西暦1789年) の末頃から増加する。
天明8年 (西暦1788年) 末のまでの門人の合計は164人であるが、 その後増加し、 本居宣長が死去したときには487人に達していた。
伊勢国の門人が200人と多く、 尾張国やその他の地方にも存在していた。
職業では町人が約34%、農民約23%、その他となっていた。
次々と書物を刊行する
60歳の時、 名古屋・京都・和歌山・大阪・美濃などの各地に旅行に出かけ、 旅先で多くの人と交流し、 また、 各地にいる門人を激励するなどした。
寛政5年(西暦1793年)64歳の時から散文集『玉勝間』を書き始めている。
その中では、 自らの学問・思想・信念について述べている。
また、 方言や地理的事項について言及し、 地名の考証を行い、 地誌を記述している。
寛政10年(西暦1797年)、 69歳にして『古事記伝』を完成させた。
起稿して34年後のことである。
寛政12年(西暦1800年)、 71歳の時、 『地名字音転用例』を刊行する。
『古事記』『風土記』『和名抄』などから地名の字音の転用例を200近く集め、 それを分類整理している。
死に臨んで
死に臨んでは遺言として、 相続その他の一般的な内容の他、 命日の定め方、供養、墓のデザインまでにも及ぶ詳細で大部の「遺言書」をのこした。
これについては、 やまとごころにおける死生観として以前に述べていることといささかズレがあるとして、 「謎」であるとする評論もある。
旧山室村の本居家の墓から本居宣長の霊魂を殿町の森に運び神仏の聖地が移転した。
大正4年に学問の神様として本居神社が遷座した。
平成七年に社号を本居宣長ノ宮と改称した。
本居宣長の墓
その墓は近世以後、 西暦1959年(昭和34年)に松阪市内を見渡す妙楽寺の小高い山(生前の宣長が好んだ場所とされる)へ移され、 さらに西暦1999年(平成11年)には遺言のデザインに沿った「本居宣長奥津墓(城)」が建造された。

人物

紀州藩に仕官し御針医格十人扶持となる
家業を手伝うも、 読書に熱中し商売に適していないと、 母に相談して医業を学んだ。
地元・松坂では医師として40年以上にわたって活動しており、 かつ、 寛政4年(西暦1792年)紀州藩に仕官し御針医格十人扶持となっていた。
医師としての本居宣長
本居宣長は昼間は医師としての仕事に専念し、 自身の研究や門人への教授は主に夜に行った。
本居宣長は『済世録』と呼ばれる日誌を付けて、 毎日の患者や処方した薬の数、 薬礼の金額などを記しており、 当時の医師の経営の実態を知ることが出来る。
亡くなる10日前まで患者の治療にあたってきたことが記録されている。
内科全般を手がけていたが、 小児科医としても著名であった。
当時の医師は薬(家伝薬)の調剤・販売を手掛けている例も少なくなかったが、 宣長も小児用の薬製造を手掛けて成功し、 家計の足しとした。
また、 乳児の病気の原因は母親にあるとして、 付き添いの母親を必要以上に診察した逸話がある。
本居宣長の意思
しかしながら、 あくまでその意識は「医師は、男子本懐の仕事ではない」と子孫に残した言葉に表れている。
山室町高峰の妙楽寺に葬られた。
本居宣長は鈴の収集家
鈴の収集家で、 駅鈴複製品など珍しいものを多く所有していた。
この駅鈴は、 寛政7年(西暦1795年)8月13日に浜田藩主・松平康定が本居宣長の源氏物語講釈を聴講するのに先立って、 自筆色紙と共に贈ったものである。
また、 自宅に「鈴屋」という屋号もつけている。
19歳の頃には架空都市「端原氏城下絵図」を描いた。
『源氏物語』を好んだ
平安朝の王朝文化に深い憧れを持ち、 中でも『源氏物語』を好んだ。
これは、 万葉の「ますらをぶり」を尊び、 平安文芸を「たをやめぶり」と貶めた賀茂真淵の態度とは対照的である。
読書家であると同時に、 書物の貸し借りや読み方にこだわりがあり、 「借りた本をめるな」、 「借りたらすぐ読んで早く返せ、けれど良い本は多くの人に読んで貰いたい」などの考えを記している。
自身は「水分神の申し子」として生まれたと堅く信じていた
大和国吉野の水分神が子守明神として、 子を与え、 守る神と世間で信じられていたため、 本居宣長の父は男子が得られるよう祈り、 本居宣長が生まれたため、 本居宣長自身は「水分神の申し子」として生まれたと堅く信じていた。
儒仏に対する排除思想
儒仏に対する排除を主張していた宣長だが、 10代頃は浄土教思想の強い影響下にあり、 『直毘霊』成立前後から排除思想が強くなった。