稗田阿礼(ひえだ の あれ)

作成日:2019/8/11

稗田阿礼(生没年不詳)は、 飛鳥時代から奈良時代(7世紀後半から8世紀初頭)にかけての人物。
古事記』の編纂者の1人として知られる。

概要

稗田阿礼については、 「古事記の編纂者の一人」ということ以外はほとんどわかっていない。
同時代の『日本書紀』にもこの時代の事を記した『続日本紀』にも記載はない。
古事記』の序文によれば、 天武天皇に舎人として仕えており、 28歳のとき、 記憶力の良さを見込まれて『帝紀』『旧辞』等の誦習を命ぜられたと記されている。
元明天皇の代、 により太安万侶が稗田阿礼の誦するところを筆録し、 『古事記』を編んだ。

【原文】
時有舎人。姓稗田、名阿礼、年是二十八。為人聡明、度目誦口、払耳勒心。即、勅語阿礼、令誦習帝皇日継及先代旧辞。(『古事記』序)

【現代語訳】
そのとき、 一人の舎人がいた。
姓は稗田、名は阿礼。年は28歳。
聡明な人で、 目に触れたものは即座に言葉にすることができ、 耳に触れたものは心に留めて忘れることはない。
すぐさま(天武)天皇は阿礼に「『帝皇日継』(ていおうのひつぎ。帝紀)と『先代旧辞』(せんだいのくじ。旧辞)を誦習せよ」と命じた。

異説

通常「舎人」といえば男性だが、 江戸時代に「稗田阿礼は女性である」とする説が提起された。
民俗学者の柳田國男、神話学者の西郷信綱らも同説を唱えた。
その根拠として、 稗田氏はアメノウズメを始祖とする猿女君と同族であり、 猿女君は巫女や女孺として朝廷に仕える一族で、 「アレ」は巫女の呼称である、 ということがある。
例として孝霊天皇の妃の一人に意富夜麻登久邇阿礼比売命がいる。

近年、 梅原猛が『古事記』の大胆で無遠慮な書き方や年齢などから、 稗田阿礼は藤原不比等の別名ではないかとの説を唱えている。
また、 稗田阿礼を中臣磐余の孫とする系図もあり、 それによると中臣勝海の兄弟の中臣忍立の子とされる。

実在性

稗田阿礼自身その出自や事績に関しては謎が多く、 実際は架空の人物、 もしくは実在したとしても『古事記』編纂に何の関わりもないとされる。
稗田阿禮は氏が「稗田」で名が「阿禮」であるのならば、 7世紀後半を生きた時代の「舎人」として、 その姓が如何なるものであったかが問題となる。

従って編者の一人である稗田阿礼についてもその実在性を証明し得ない。