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古事記(こじき、ふることふみ、ふることぶみ)

作成日:2019/7/13

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古事記(こじき、ふることふみ、ふることぶみ)は、 日本に現存する最古の歴史書、文学書。上・中・下の3巻。

序 (上表文) によれば、 天武天皇 の命によって稗田阿礼誦習していた『帝紀』『旧辞』を、 元明天皇の命によって 太安萬呂が「撰録」し和銅5年(西暦712年)に元明天皇に献上したものである。

しかし、 「誦習」「撰録」の具体的内容については諸家の説が分れ、 また序を疑う説、 ひいては『古事記』そのものを偽書とする説もあるが、 上代特殊仮名づかいの存在により和銅頃の成立であることは確実である。

天地の始りから推古天皇の時代までの皇室を中心とする歴史を記すが、 実質的には神話、伝説、歌謡、系譜が中心で、 そのため史料としてはそのまま用い難い面が多いが、 逆に文学書としては興味深い存在といえる。

概要

『古事記』の原本は現存せず、 幾つかの写本が伝わるのみである。

成立年代は、 写本の序に記された年月日(和銅5年正月28日(ユリウス暦712年3月9日))により、 8世紀初めと推定される。
内容は、 神代における天地の始まりから推古天皇の時代に至るまでの様々な出来事(神話や伝説などを含む)が紀伝体で記載される。
また、 数多くの歌謡を含む。
なお、 『古事記』は「高天原」という語が多用される点でも特徴的な文書である。

『古事記』は『日本書紀』とともに後世では『記紀』と総称される。
内容には一部に違いがあり、『日本書紀』のような勅撰の正史ではないが、『古事記』も序文で天武天皇が、

【原文】
撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉

【読み下し文】
帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り実を定めて、後葉にへむとふ。

したと記載があるため、 勅撰とも考えられる。

史料の上では、 序文に書かれた成立過程や皇室の関与に不明な点や矛盾点が多いとする見解もある。
ただし、 あくまでも神話の世界の話であることや日本における皇室の正統性を想起させる内容であることから、 近現代においてはイデオロギーのための議論のもととして利用されることもあったが、 古事記に記述されていることが真実であっても、 脚色を含んだものであったとしても、 原点をあたる手段もないので証明の手立てがないと言わざるを得ない。

また『日本書紀』における『続日本紀』のような『古事記』の存在を直接証明する物証もないため、 古事記偽書説も唱えられていたが、 現在では「偽書ではない」と捉えるのが主流となっている。

『古事記』は歴史書であるとともに文学的な価値も非常に高く評価され、 また日本神話を伝える神典の一つとして、 神道を中心に日本の宗教文化・精神文化に多大な影響を与えている。
『古事記』に現れる神々は、 現在では多くの神社で祭神として祀られている。

一方文化的な側面は日本書紀よりも強く、 創作物や伝承等で度々引用されるなど、 世間一般への日本神話の浸透に大きな影響を与えている。

編纂の経緯

中大兄皇子天智天皇)らによる蘇我入鹿暗殺事件(乙巳の変)に憤慨した蘇我蝦夷は、 大邸宅に火をかけ自害した。
この時に朝廷の歴史書を保管していた書庫までもが炎上したと言われる。
『天皇記』など数多くの歴史書はこの時に失われ『国記』は難を逃れ天智天皇に献上されたとされるが、 共に現存しない。

天智天皇は白村江の戦いで唐・新羅連合に敗北し、 予想された渡海攻撃への準備のため史書編纂の余裕はなかった。
その時点で既に諸家の『帝紀』及『本辭』(=『旧辞』)は虚実ない交ぜの状態であった。

壬申の乱後、 天智天皇の弟である天武天皇が即位し、 『天皇記』や焼けて欠けてしまった『国記』に代わる国史の編纂を命じた。

その際、 28歳で高い識字能力と記憶力を持つ稗田阿礼に『帝紀』及『本辭』(『旧辞』)などの文献を「誦習」させた。

その後、 元明天皇の命を受け、 太安萬呂稗田阿礼の「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を編纂し、 『古事記』を完成させた。

成立

成立の経緯を記す序によれば『古事記』は、 天武天皇の命で稗田阿礼が「誦習」していた『帝皇日継』(天皇の系譜)と『先代旧辞』(古い伝承)を太安萬呂が書き記し、 編纂したものである。
かつて「誦習」は、 単に「暗誦」することと考えられていたが、 小島憲之(『上代日本文学と中国文学 上』塙書房)や西宮一民(「古事記行文私解」『古事記年報』)らによって、 「文字資料の読み方に習熟する行為」であったことが確かめられている。

書名

書名は『古事記』とされているが、 作成当時においては古い書物を示す一般名詞であったことから、 正式名ではないといわれる。
また、 書名は安萬侶が付けたのか、 後人が付けたのかは定かではない。
読みは「フルコトブミ」との説もあったが、 現在は一般に音読みで「コジキ」と呼ばれる。

帝紀と旧辞

『古事記』は『帝紀』的部分と『旧辞』的部分とから成る。

『帝紀』は初代天皇から第33代天皇までの名、 天皇の后妃・皇子・皇女の名、及びその子孫の氏族など、 このほか皇居の名・治世年数・崩年干支・寿命・陵墓所在地、 及びその治世の主な出来事などを記している。
これらは朝廷の語部などが暗誦して天皇の大葬の祭儀などで誦み上げる慣習であったが、 6世紀半ばになると文字によって書き表されたものである。

『旧辞』は、 宮廷内の物語、 皇室や国家の起源に関する話をまとめたもので、 同じ頃書かれたものである。

なお、 笹川尚紀は、 舒明天皇の時代の後半に天皇と蘇我氏の対立が深まり、 舒明天皇が蘇我氏が関わった『天皇記』などに代わる自己の正統性を主張するための『帝記』と『旧辞』を改訂・編纂を行わせ、 後に子である天武天皇に引き継がれて、 それが『古事記』の元になったと推測している。

表記

本文は「変体漢文」を主体とし、 古語や固有名詞のように、 漢文では代用しづらいものは一字一音表記としている。
歌謡はすべて一字一音表記とされており、 本文の一字一音表記部分を含めて上代特殊仮名遣の研究対象となっている。
また一字一音表記のうち、 一部の神の名などの右傍に 上、去 と、中国の文書にみられる漢語の声調である四声のうち上声と去声と同じ文字を配している。

歌謡

『古事記』は物語中心に書かれているが、 それだけでなく多くの歌謡も挿入されている。
これらの歌謡の多くは、 民謡や俗謡であったものが、 物語に合わせて挿入された可能性が高い。

有名な歌として、 須佐之男命櫛名田比売と結婚したときに歌い、 和歌の始まりとされる

八雲たつ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を

や、 倭建命が東征の帰途で故郷を想って歌った
倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる 倭し うるわし

などがある。

構成

  1. 上つ巻(序・神話)
  2. 中つ巻(初代から十五代天皇まで)
  3. 下つ巻(第十六代から三十三代天皇まで)
の3巻より成っている。

写本

現存する『古事記』の写本は、主に「伊勢本系統」と「卜部本系統」に分かれる。
伊勢本系統
現存する『古事記』の写本で最古のものは、 「伊勢本系統」の西暦1371年(南朝:建徳2年/北朝:応安4年)から西暦1372年(南朝:文中元年/北朝:応安5年)にかけて真福寺の僧・賢瑜によって写された真福寺本『古事記』三帖(国宝)である。
奥書によれば、 祖本は上・下巻が大中臣定世本、中巻が藤原通雅本である。
道果本(上巻の前半のみ。南朝:弘和元年/北朝:永徳元年(1381年)写)、 道祥本(上巻のみ。応永31年(1424年)写)、 春瑜本(上巻のみ。応永33年(1426年)写)の道果本系3本は真福寺本に近く、 ともに伊勢本系統をなす。
卜部本系統
伊勢本系統を除く写本はすべて卜部本系統に属する。
祖本は卜部兼永自筆本(上中下3巻。室町時代後期写)である。

研究史

『古事記』の研究は、近世以降、特に盛んとなった。

江戸時代の本居宣長による全44巻の註釈書『古事記傳』は『古事記』研究の古典であり、 厳密かつ実証的な校訂は後世に大きな影響を与えている。

第二次世界大戦後は、 倉野憲司や武田祐吉、西郷信綱、西宮一民、神野志隆光らによる研究や注釈書が発表された。
特に倉野憲司による岩波文庫版は、初版(1963年(昭和38年))刊行以来、 重版の通算は約100万部に達している。

20世紀後半になり、 『古事記』の研究はそれまでの成立論から作品論へとシフトしている。
成立論の代表としては津田左右吉や石母田正があり、 作品論の代表としては、吉井巌・西郷信綱・神野志隆光がいる。

偽書説
『古事記』には、 近世(江戸時代)以降、 偽書の疑いを持つ者があった。
賀茂真淵(宣長宛書翰)や沼田順義、中沢見明、筏勲、松本雅明、大和岩雄、大島隼人、三浦佑之らは、 『古事記』成立が公の史書に記載がないことなどへ疑問を提示し、 偽書説を唱えている。

偽書説には主に二通りあり、 序文のみが偽書とする説と、 本文も偽書とする説に分かれる。以下に概要を記す。
  • 序文偽書説では『古事記』の序文(上表文)において語られる『古事記』の成立事情を証する外部の有力な証拠がないことなどから序文の正当性に疑義を指摘し、偽書の可能性を指摘している。
  • 本文偽書説では、『古事記』には『日本書紀』より新しい神話の内容が含まれているとして、より時代の下る平安時代初期ころの創作とみなす。
偽書説は上代文学界・歴史学界には受け入れられていない。
また、 真書説を決定付ける確実な証拠も存在しない。
上代特殊仮名遣のなかでも、 『万葉集』『日本書紀』ではすでに消失している2種類の「モ」の表記上の区別が、 『古事記』には残存するからで、 このことは偽書説を否定する重要な論拠である。
ただし序文には上代特殊仮名遣は一切使われていない。

なお、 序文偽書説の論拠の一つに、 『古事記』以外の史書(『続日本紀』『弘仁私記』『日本紀竟宴和歌』など)では「太安麻呂」と書かれているのに、 『古事記』序文のみ「太安萬侶」と異なる表記になっていることがあった。
ところが、西暦1979年(昭和54年)1月に奈良市此瀬町より太安萬呂の墓誌銘が出土し、 そこに
左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶
以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳

とあったことが判明し、 漢字表記の異同という論拠に関しては否定されることとなった。

また、 平城京跡から出土した、 太安萬呂の墓誌銘を含む木簡の解析により、 『古事記』成立当時には、 既に『古事記』で使用される書き言葉は一般的に使用されていたと判明した。
それにより序文中の「然れども、上古の時、言意(ことばこころ)並びに朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字におきてすなはち難し。」は序文の作成者が当時の日本語の使用状況を知らずに想像で書いたのではないかと指摘されている。

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