大宝律令の軍防令(西暦701年)、
それを概ね引き継いだとされる養老律令(西暦757年)において、
京の警護にあたる兵を衛士とし、
辺境防備を「防人」とするなど、
律令により規定され運用された。
中国における防人と同様、任期は3年で諸国の軍団から派遣され、
任期は延長される事がよくあり、食料・武器は自弁であった。
大宰府がその指揮に当たり、
壱岐・対馬および筑紫の諸国に配備された。
加えて、出土文字資料においては西暦2004年に佐賀県唐津市の中原遺跡において「防人」の墨跡を持つ木簡が出土しており、
肥前国にも配置されていた可能性がある。
当初は遠江以東の東国から徴兵され、
その間も税は免除される事はないため、
農民にとっては重い負担であり、
兵士の士気は低かったと考えられている。
徴集された防人は、九州まで係の者が同行して連れて行かれたが、
任務が終わって帰郷する際は付き添いも無く、
途中で野垂れ死にする者も少なくなかった。
西暦2005年には、
中原遺跡から甲斐国(山梨県)出身の防人の存在を示す木簡が出土しており、
西暦2007年には「相模型坏」と同型の食器用土器が出土し、
相模出身の防人がこの地域に派遣されていたことをうかがわせる。
西暦757年以降は九州からの徴用となった。
奈良時代末期の西暦792年に桓武天皇が健児の制を成立させて、
軍団・兵士が廃止されても、
国土防衛のため兵士の質よりも数を重視した朝廷は防人廃止を先送りした。
実際に、8世紀の末から10世紀の初めにかけて、
しばしば新羅の海賊が九州を襲った(新羅の入寇)。
弘仁の入寇の後には、
人員が増強されただけではなく一旦廃止されていた弩を復活して、
貞観、寛平の入寇に対応した。
院政期になり北面武士・追捕使・押領使・各地の地方武士団が成立すると、
質を重視する院は次第に防人の規模を縮小し、
10世紀には実質的に消滅した。
西暦1019年に九州を襲った刀伊を撃退したのは、
大宰権帥藤原隆家が率いた九州の武士であった。
防人が東国から徴兵された時期、
その規模は2000人程度を数えた。
西暦738年(天平十年)の「駿河国正税帳」によると、
この年駿河を経て東国に帰る防人の人数は1083人で、
その内訳は伊豆国22人、
甲斐国39人、
相模国230人、
安房国23人、
上総国223人、
下総国270人、
常陸国265人であった。
他に防人を出していた遠江国、駿河国、武蔵国、上野国、下野国からも同規模の防人が出されていたと推測すると、
さらに1000人程度が加算され、合計すると2083人となる。
この防人の規模は同年の「周防国正税帳」によっても裏付けられる、
防人は3班に分かれて帰郷しており、
中班953人、
後班124人が記録に残っている。
前班の人数は残っていないが、
費やした食糧より1000人程度が算出され、
合計すると2077人となる。
西暦738年完成の大唐六典では「辺要置防人為鎮守」(辺地の防衛のために防人を置く)とされている。
防人の数は担当地域の規模によって定められており、
上鎮では500人、
中鎮では300人、
下鎮では300人以下、
上戍は50人、
中戍は30人、
下戍は30人以下とされた。
唐代初期には全国で上鎮が20箇所、
中鎮が90箇所、
下鎮が135箇所、
上戍が30箇所、
中戍が86箇所、
下戍が235箇所との記録があり、
合計すると7-8万人の兵力となる。
兵士は農村から徴兵された他、
犯罪者や無住者など所払いの人達も送られた。
任期は3年だが、延長される事もしばしばあった。
食料・武器は自弁であった。
なお、開元、天宝年間(西暦713年-西暦756年)になると、
募集された職業軍人で構成されるようになった。