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嵯峨天皇(さがてんのう)

作成日:2020/6/8

嵯峨天皇は、日本の第52代天皇。
諱は神野(賀美能・かみの)。
嵯峨源氏の祖に当たる。
桓武天皇の第2皇子で、母は皇后乙牟漏
同母兄に平城天皇。
異母弟に淳和天皇他。
皇后は橘嘉智子(檀林皇后)。

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第52代天皇 嵯峨天皇(さがてんのう)

[在位] 大同4年4月1日(西暦809年5月18日)- 弘仁14年4月16日(西暦823年5月29日)《紀》
[生没] 延暦5年9月7日(西暦786年10月3日)- 承和9年7月15日(西暦842年8月24日)57歳没《紀》
[時代] 平安時代
[先代] 平城天皇   [次代] 淳和天皇
[陵所] 嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)
[追号] 嵯峨天皇(さがてんのう)
    譲位後、洛西の嵯峨院に住み、また嵯峨の山北に葬られたことから嵯峨天皇と追号された。
[] 神野(賀美能・かみの)
[父親] 桓武天皇   [母親] 乙牟漏
[皇后] 橘嘉智子(たちばな の かちこ)
[皇居] 大内裏(だいだいり)。平安京の宮城である。別名平安宮(へいあんきゅう)。

年譜

天皇の系譜(第51代から第59代)
延暦5年(西暦786年)
9月7日(10月3日) 降誕
延暦18年(西暦799年)
2月7日(3月17日) 元服
大同4年(西暦809年)
4月13日(5月30日) 即位礼
弘仁元年(西暦810年)
11月19日(12月19日) 大嘗祭
承和9年(西暦842年)
7月15日(8月24日) 崩御 於:嵯峨院
承和9年(西暦842年)
7月17日(8月26日) 大喪儀
(西暦)
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(西暦)
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略歴

延暦9年(790年)閏3月に、数え年5歳で、生母の乙牟漏を亡くす(『続紀』)[1]。

延暦11年(791年)、嵯峨天皇の諱が乳母である賀美能宿禰の出身地の神野郡より賀美能(神野)親王と名付けられる。(『六国史』)

延暦18年(799年)2月に元服。聡明で読書を好み、君主としての器量を持ち、父の桓武天皇に愛された、とされる(『日本紀略』)[2]。

延暦22年(803年)に三品中務卿となる。延暦25年(806年)5月9日に弾正尹となったが、同月19日に兄・平城天皇の即位に伴って皇太弟に立てられる。だが、平城天皇には既に高岳・阿保の両親王がいたことから、皇太弟擁立の背景には、父帝・桓武天皇の意向が働いたとも云われている[3]。

大同4年(809年)4月1日、平城天皇の譲位を受け、即位(『日本後紀』)。平城天皇の子で甥にあたる高岳親王を皇太子とした(『日本紀略』)。

翌弘仁元年(810年)に平城上皇が復位を試みた「薬子の変」が発生する。この結果、高岳親王は廃されるが、実子を立てる事に気まずさを感じたため[要出典]か、今度は異母弟の大伴親王(のちの淳和天皇)を強引に[要出典]皇太弟に立てた(『日本後紀』)。これが承和の変の遠因となる。なお、平城上皇はこれ以後も太上天皇の尊号と礼遇を受けている(『日本紀略』)[3]。

以後、約40年間にわたり平穏な治世を送り、宮廷の文化が盛んな時期を過ごす。

同弘仁元年(810年)に、蔵人所を設置し、巨勢野足と藤原冬嗣を蔵人頭に任命[4]。弘仁3年(812年)に右大臣となった藤原園人を中心とする官僚に政務を任せ、詩宴を精力的に開催するなど、文治的事業に専念する[5]。弘仁9年(818年)には、平安京の十二門を唐風の名に改め[6]、宮中の儀式も唐制に改めた(『日本後紀』)。

弘仁6年(815年)4月、近江国志賀郡への行幸中に梵釈寺で輿を停めた際、唐から帰国した僧である永忠が自ら点てた茶を飲んだとされる(『日本後紀』)[7]。

弘仁9年(818年)、弘仁格を発布して死刑を廃止した[要出典]。中央政界における死刑の廃止は以後保元の乱まで338年間続く。

この頃、農業生産が極度の不振(『日本後紀』によれば、弘仁8年(817年)より7年連続で干害などの被害を受けたとされている)にあり、その結果として当時財政難は深刻であった。その対策として、墾田永年私財法の改正などを行って大土地所有の制限を緩和して荒田開発を進め、公営田・勅旨田の設置などが行われている。

弘仁14年(823年)には、空海に東寺を賜い、その前年には、最澄の悲願であった大乗戒壇の設立を認めている。

弘仁14年(823年)、大伴親王(淳和天皇)に譲位し太上天皇となり、実子の正良親王(後の仁明天皇)を皇太子とした。この時、律令体制維持のための財政緊縮を主張してきた藤原氏[3]の一員であり、嵯峨天皇の腹心であった右大臣藤原冬嗣は、凶作が続く中で、平城上皇の他さらにもう一人上皇を持つのは財政負担が大きいとして、反対した(『日本紀略』)[3]。それでも譲位を実行したのは、天皇の長子が原則として皇位継承していくという習慣[8]に逆らって、桓武天皇の次男であった自分の子供に皇位継承させるためだった可能性が指摘されている[3]。

譲位後は冷然院に住んだ。淳和天皇による国政への関与の例は少ないが、弘仁15年(824年)の平城上皇の崩御の翌月、薬子の変に連坐した流人を召喚する処置をとったのは、嵯峨上皇によるものだった(『日本紀略』)[3][9]。

天長10年(833年)、淳和天皇の譲位により、実子の仁明天皇が即位する。この時、淳和上皇らの反対を押し切って[要出典]自分の外孫でもある淳和上皇の皇子恒貞親王を仁明天皇の皇太子とした。

同年10月、在位中に設営された洛外の離宮・嵯峨院(のちの大覚寺)に御所を新造し(『続日本後紀』)、太皇太后嘉智子と共に移り住んだ[3]。その庭には中国の洞庭湖を模した人工池である大沢池が造られている。

実子である仁明天皇の国政へは、より頻繁に関与し、自らの遊猟に奉仕した者に叙位を行ったり、小野篁を流罪にする(『続日本紀略』)などしている[3][10]。

承和9年(842年)、崩御。宝算57。その後間もなく承和の変が起こっている。

皇子皇女が多数おり[11]、その生活費も財政圧迫の原因となった。そこで皇族の整理を行い、多数に姓を賜り臣籍降下させた(源氏の成立)。嵯峨天皇の子で源姓を賜ったものとその子孫を嵯峨源氏という。河原左大臣源融は嵯峨天皇の皇子の一人。

漢詩、書をよくし、空海、橘逸勢とともに三筆の一人に数えられる。書作品としては延暦寺蔵の「光定戒牒」(国宝)が知られる。また、華道嵯峨御流の開祖とも伝わっている[12]。

后妃・皇子女

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、 宮内庁により京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町にある嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ)に治定されている。 宮内庁上の形式は円丘。

嵯峨天皇は承和9年(842年)7月17日に葬られ、 遺詔によって国忌荷前は置かれず「延喜諸陵式」に登載されなかった。 嘉祥3年に中納言安倍安仁、宮内大輔房世王が嘉瑞を奉告し、 12月30日、 また2人が遣わされ立太子の由を奉告、 元暦元年、即位の奉幣使が発遣された。 のち陵の所在が失われ、 近世、諸陵探査のとき「諸陵周垣成就記」には「山城国葛野郡嵯峨山の北に葬。 葬所は不相知候得共、嵯峨二尊院寺内の山に有る。 同所清涼寺五大堂前両寺に陵有之候、 両寺共に御朱印地」という。 「雍州府志」も「扶桑京華志」も八角堂(のち蓮華峯寺陵に治定)と清涼寺の石塔とを並記、 「山城志」が初めて現在の地を推し、 のちいずれもがこの説に従った。 幕末の修陵のときこの説が採られると修治が加えられ、 竣工にさいして慶応元年5月5日、 山陵修輔竣工巡検使柳原中納言が遣わされて奉幣した。 陵号は嵯峨山陵、嵯峨山上陵が通じて用いられたが、 嵯峨山陵が嵯峨陵と紛らわしいとして嵯峨山上陵に定められた。 現在、大覚寺の西北、 嵯峨野の北にある御廟山の山頂に位置する。

また皇居では、 皇霊殿(宮中三殿の一つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

伝承

『日本霊異記』には嵯峨天皇の前世について次のような話が掲載されている。 伊予国の石鎚山に寂仙という名僧がいた。 天平宝字2年(758年)、 寂仙が亡くなるときに「これから28年後、 国王の御子に生まれ変わり神野と名乗る」と言い遺した。 その28年後の延暦5年(786年)、 桓武天皇に皇子が生まれ神野親王と名附けられた。 すなわち、嵯峨天皇は寂仙の生まれ変わりであるとしている。


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