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古代オリエント

作成日:2023/9/12

古代オリエント  紀元前7000年紀 - 紀元前330年

古代オリエントは、 古代エジプト、西アジア、古代ペルシャからインダス川流域に至る地域言う。 広い意味で西洋から見たオリエント(ラテン語で「日の昇るところ」)、 つまり東洋を意味している。 古代オリエント文明はその地域に興った文明を言う。

紀元前7000年紀の「肥沃な三日月地帯」における農耕・牧畜の開始に始まり、 紀元前4000年紀末のシュメール人の都市国家文明の成立から、 バビロニアやエジプト王国の成立、 紀元前2000年紀の民族移動と各国の抗争期をへて、 紀元前9世紀のアッシリア帝国によるオリエントの統一、 四国分裂時代、アケメネス朝ペルシャ帝国の世界帝国に至る。

最後はアケメネス朝がアレクサンドロス3世によって滅ぼされる紀元前330年までをいう。 アレクサンドロスの帝国以降は一般的に、ヘレニズム時代とする。

年表

紀元前6000年代(紀元前7000年紀
  • 紀元前6750年前にジャルモ遺跡などに見られる初期の農耕文明が生まれた。
    • これらの遺跡から、 土器の使用、 ムギの栽培と日干し煉瓦による住居を持ち、 定住生活を開始したことがわかっている。
      この段階の初期農耕は灌漑農業ではなく降水に依存する天水農業であり、 また周辺での羊などの牧畜も行われるようになった。
      この時期のシュメール以前の人種の系統は不明である。
紀元前5000年代(紀元前6000年紀
  • メソポタミア灌漑農業が始まった。
    • 紀元前6000年紀の初め頃、 まずメソポタミアの北部のジャジーラ(島の意味)と言われる比較的降水量の多い地域でも農耕が開始され、 その中頃にさらに両河の下流の沖積平野は定期的な洪水が起こる中で、 灌漑農業が始まったと考えられる。
      その最初はティグリス中流のサマッラ遺跡で、 年間最低降水量が200mm以下の地域であるので、 灌漑に依存したと思われる。
  • さらに紀元前5500年年頃、 メソポタミア南部の乾燥地帯にウバイド文化が登場するが、 これもサマッラ文化の灌漑技術を継承したと考えられる。
  • このころメソポタミア南部に大規模な定住が進んで都市が形成されていった。
紀元前3000年代(紀元前4000年紀
  • 紀元前3000年代の初め頃、最初の都市文明が形成された。
    • その代表がユーフラテス下流の左岸にあるウルク(現在のワルカ)である。
      またウルク遺跡から楔形文字を記した粘土板が大量に見つかっており、 これが最古のまとまった楔形文字資料である。
      このメソポタミア南部の都市文明を成立させたのはシュメール人(民族系統は不明)と言われている。
紀元前2000年代(紀元前3000年紀
  • シュメール初期王朝時代
    • 紀元前2900~2335年頃のシュメール初期王朝時代には、 ウルク、ラガシュ、ウル、ニップルなど20ほどの都市国家が形成された。
      シュメール人は青銅器や楔形文字を用い、 多神教信仰、ギルガメッシュ叙事詩などの文化を産みだした。
  • アッカド王国
    • 紀元前2300年頃、 メソポタミアの都市国家を統一し領域国家を形成したのはのセム系のアッカド人であった。
      アッカド王国(前2334~前2193頃)初代のサルゴン1世は、 シュメールの都市国家を支配下におき、 知事を派遣して、 都市国家の枠を超えた領域支配を行った。
      シュメールの都市は時に反乱を起こしたが、 それを鎮圧した後、 さらに強大となり、 第4代ナムラ=シンは「四方世界の王」(四海の王ともいう)と言う称号を使い南北のメソポタミアとその周辺を支配した。
      しかしアッカド王国は前2193年、 北東の山岳民族の侵入を受けて滅んだと言われている。
  • ウル第3王朝(前2112~前2004)
    • アッカド王国が滅んだ後、 シュメール人の都市国家が復興し、 その中からウル=ナンムが起こしたウル第3王朝(前2112~前2004)がメソポタミアを支配した。
      ウル=ナンムと後継者シュルギは財政基盤を確立し、 常備軍を創設し、 中央集権体制をとり、 シュメール法典といわれる法律を制定した。
      シュルギも「四方世界の王」を称しみずからを神格化した。
      しかし次第に他の都市も力をつけて独立し、 ウル第3王朝は分裂状態となり、 東方はエラム人に侵攻され、 また西方ではアムル人の領内への移住が激しくなった。
      その結果、 紀元前2004年にエラム人によってウル第3王朝は滅ぼされ、 その後南部メソポタミアにはシュメール人の残存勢力のイシン王国、 アムル人のラルサ王国が現れた。
      またそのころバビロンにアムル人のバビロニア王国が成立した。
      この三国は抗争を続け、 イシンがラルサに滅ぼされた後、 紀元前1763年にバビロニア王国のハンムラビ王に倒された。
紀元前1000年代(紀元前2000年紀
  • 古バビロニア王国
    • アムル人がバビロニアのバビロンを都にして建てた国がバビロン第1王朝で、 後の新バビロニアと区別するため、 古バビロニア王国という。
      紀元前18世紀の後半、 その第6代の王ハンムラビ王は、 ラルサ王国など周辺の諸国を倒してメソポタミア全域を統一した。
      ハンムラビ王は交通網を整備し、 また有名なハンムラビ法典を制定して国家の形態をととのえた。
      しかしハンムラビ王死後は東方山岳民族のカッシートの侵攻を受けるなどして衰退に向かい、 紀元前1595年、 小アジアに興ったヒッタイトの攻撃を受けて滅亡した。
  • 民族移動期
    • 紀元前2000年ごろから紀元前1500年ごろまでは、 西アジアに大きな民族移動の波が押し寄せた時代であった。
      インド=ヨーロッパ語族のヒッタイト人や、 カッシート、 ミタンニなどが西アジアに侵入し、 メソポタミアにもカッシート王国やミタンニ王国が生まれた。
      彼らは西アジアに鉄器文化をもたらし、 この動きはオリエントに世界帝国を出現させる前提となった。
  • アッシリア帝国
    • メソポタミア北部にすでに活動していたアッシリアは、 この間、 鉄器文化を受容して強大な軍事力を有するようになり、 紀元前9世紀には西アジアで最有力となり、 前7世紀にエジプトを征服してオリエントを統一し、 アッシリア帝国は西アジア最初の世界帝国となった。
      これによって、 メソポタミア文明とエジプト文明は一体化し、 オリエント文明に統合されたと言える。
4国分立時代
アッシリア帝国は紀元前612年に滅亡して、 4国分立時代となり、 メソポタミアにはバビロンを都にしてカルデア人が自立して新バビロニア王国(カルデア王国)が成立し、 有力となった。
新バビロニアのネブカドネザル王は前6世紀前半にパレスチナのユダ王国を滅ぼし、 ユダヤ人をバビロンに連行してバビロン捕囚を行った。
その他、小アジア西部にはリディア王国、イラン高原にはメディア王国それぞれ成立し、エジプトも独立を回復した。
ペルシャ帝国
しかしイランでメディアに代わってアケメネス朝が起こると、 紀元前6世紀中頃、 その勢力が西アジア全体に及びメソポタミアもその支配を受ける。
アケメネス朝ペルシャは、 楔形文字に代表されるメソポタミア文明を継承し、 オリエント文明を開花させたが、 前4世紀になるとギリシャ人であるマケドニアのアレクサンドロス大王の東方遠征によって滅ぼされた。
メソポタミア文明の継承と忘却
アレクサンドロス大王の帝国の成立によって、 メソポタミア文明とエジプト文明をあわせたオリエント文明がさらにギリシャ文明と融合してあらたなヘレニズム文明を形成することとなる。
アレクサンドロス大王の帝国が崩壊した後には、 メソポタミアの地はギリシャ系国家のセレウコス朝シリアに支配されるが、 オリエント的要素はギリシャ軽文化と融合しながら継承され、 その後のパルティアとササン朝ペルシャへと続くが、 ペルシャ帝国から始まったイラン人の文化的要素(その中心がゾロアスター教)が次第に強くなる。
そして7世紀にアラビア半島の興ったイスラム教とその文明が、 一気に西アジアを席巻し、 オリエント的・メソポタミア的文化要素は忘れ去られていく。

概要

地域的には、 古代オリエントは、 古代エジプト古代メソポタミア、 古代ペルシャ含む地域をいう。
現在のイランイラクシリアトルコレバノンヨルダンイスラエルサウジアラビアエジプトなどの国々にまたがる地域をいう。

この地で興った文明をオリエント文明と呼ぶ。
オリエント文明は、 メソポタミア文明、エジプト文明を主軸として、 アッシリア帝国、ペルシャ帝国を含む。
紀元前7000年紀の「肥沃な三日月地帯における農耕・牧畜の開始」に始まり、

人類最古の文明であるオリエント文明の発祥地であるのみならず、 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教がこの地で生まれた。 また東西文明の交流の場として東西の諸文明に大きな影響を及ぼし、 かつ近年の中東地域の緊張は全世界に強い影響を与えている。

オリエント
オリエント (Orient) は、ある地域から見て東方にある世界のことをいう。 狭義では、古代ローマから見て東方にある世界のこと。 日本で「オリエント」というときは、 特に中近東の「古代オリエント」を指すことが多い。

欧米では東西の世界にそれぞれオリエントとオクシデント (Occident) の表現を用いることがある。 イースト (east) とウエスト (west)、オリエントとオクシデントはいずれも方向を指し示すもので、 ラテン語であり、 「日が昇る方角(=東)」を意味する。 広義の「東方」という意味の「オリエント」には、 「ウルグアイ東方共和国」 (Republica Oriental del Uruguay) の地名などにもみられる。

ヨーロッパではイースト、 オリエント、 アジアといった概念が「ヨーロッパ以外のもの」に対する概念として形成されるなど、 これらの内容は千差万別で何に焦点を当てた議論かによって一律ではない。 オックスフォード大学では、 オリエント研究が学部名称となっているが、 その研究対象には中近東から日本まで全アジア地域を含む。 一方香港で西暦1954年に創刊された雑誌『ジャーナル・オブ・オリエンタル・スタディーズ(ノルウェー語版)』の研究対象は東アジアと東南アジアでもっぱらユーラシア大陸の東端地域である。

歴史的にはユーラシア大陸の西端と東端に数千年にわたるふたつの文化圏が存在し、 現代日本語では二つの文化圏を西洋と東洋という概念で表現する。 一方、中国では歴史学の東西比較研究がテーマとなる場合、 西洋と東洋という表現の代わりに西方と東方と表現する。 オリエントとオクシデントはヨーロッパで、 東洋と西洋は日本で形成され、 本来は全く関係ない独立した思考概念であるが、 東洋はオリエントに相当する語として捉えられている。

様々な概念が混ざって複雑な欧米語とは違って、 日本語で「オリエント」というときは、 歴史的用語で古代エジプト、 古代メソポタミアを含み、 さらにトルコやパレスチナ、 ペルシャ(イラン)まで広がる「古代オリエント」を指すのが普通である。 いまの「中近東」の領域ともだいぶ重なる。 ここは、世界最古の文明が起こった歴史的にも重要な地域である。

シュメール文明

揺籃(ようらん)

ゆりかご。
比喩的に、物事の発展の初期の段階。